曖昧な知識ですがキリスト教には三位一体の概念があります。何故に、この概念を導入したのか承知しませんが、多分、これによって聖書と教会を絶対化しようとしたのだと思います。
・ 聖書は人間が記述したものではあっても聖霊のなせる業であるから、つまりは神が記したものである。よって、聖書は絶対である。
・聖職者は人間であっても、その言動は聖霊のなせる業であるから、つまりは神の言動である。よって、教会は絶対である。
こういう論法が成立します。聖霊の導入は全ての疑問を封じて上意下達を図る特効薬なのだと思います。本当のことは知りません。
さて、翻って仏教です。
仏教徒たらんとする者にも、
・「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか、
・僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか、
こういう疑問は当然あったし今もあるのだと思います。
仏教の場合、こういう疑問は如何なる論理によって封じているのですか。キリスト教でいう聖霊と三位一体に該当する考え方が何か用意してあるのだと推測します。信徒であるなしは問いませんが、仏教界の見解を代弁できる方のご回答を期待します。仏教界全体の見解ではなく、ある特定の宗派の見解でもよいものとします。
よろしくお願いします。
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
公同(カトリック)とは、全時代の全人類が生きるべき規範とされ、正当性の根拠は「主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト記20.5)という排他的な神の命令に求められるように見えます。
この考え方がワーバートン司教の「正統は私の意見であり、異端は他人の意見だ」に繋がるのでしょう。公同は近代でも普遍妥当性やコミンテルンなどという名前の基に思想を再現しているように見えます。質問もです。
一方、仏教の考え方は縁起という一語に集約できるように思えます。これは「〈依存性〉は, 実体と実体とのあいだでは決して成立せず, 実体のないもののあいだにのみ成立する原理として捉えられる。これこそが, 道徳や宗教を成り立たせる真理でもある」( 生井智紹『輪廻の論証』)ということです。
全ては〈依存性〉によって知覚・認識されるだけであるから、釈尊はご自身が体得したことを求めに応じて教えるのであって、命令するのではありません。教えも相手に依存し、相手の理解に応じて様々な段階・様々な説き方をされます。相手が理解しなければ沈黙します。
これは釈尊を慕って修行しているが目の前の釈尊を釈尊と知らずに対等な態度で臨む修行者に自分こそが釈尊と明かさずに教えを説いたこと(MN140)や僧団に分裂騒動が起きた時もどういう罪なのかと説いて諫め自覚を促すだけだったこと(律『大品』コーサンビー事)釈尊の部族が滅ぼされる時や、子供を失うなどして狂乱して救いを求める者にも、教えによって自覚を促したことにも繋がります。このことは釈尊の教えが命令でなく忠告であることを示しているように思われます。
以上は前提となるキリスト教と仏教の性格の違いです。
もちろん、仏教にも普遍妥当性に相当する縁起の理法や空・無我・無常などがあることはいうまでもありません。
以上の基本的相違点を前提として以下の問いにお答えしたいと思います。
>>・「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか、
自分次第です。信じられればやってみればいいし、信じられなければやらなければいいだけです。
これも縁起です。各自の様々な過去の経験や習慣、縁によってどう縁起するかは、それぞれです。
ただし、仏法は本来、教えを実践して悟った聖者によって伝えられてきたものです。
つまり、教えを自分で修行することによって検証し悟りなどという結果を出すことで実証してきたものです。
聖者によって伝承されてきた教えなら信用できると私は考えます。
逆に聖者でないものが形だけ伝承してきた教えは、もはや仏教として信用できないものと考えます。
これとは別にインド仏教では正当性の基準や釈尊が一切智である論証がたくさん作られました。
URL始めを読めばその一端が分かると思います。
>>・ 僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか、
経典では僧団(サンガ)を次のように言っています。
仏の弟子サンガは、妙行をそなえ、質実行をそなえ、如理行をそなえ、正行をそなえている。
すなわちそれは四双八輩である。
四双八輩というのは悟った聖者で、解脱者やそれに準ずる方をいいます。
つまり、僧団は聖者のみを指す言葉なのです。もちろん、釈尊の時代から非聖者も僧団に多かったのです。
上に述べたように聖者によって伝えられてきたものです。
これが聖者でないものが伝承して来たらどうなるでしょう。教えは異なるものに解釈されます。
悟ってない、体験してないからです。酷い場合は、自分の都合に合わせて解釈します。
これでは教えは伝わらず、言葉だけが残ります。
この本物と偽物をどう見分けるかも縁起にかかっているように思います。
普遍妥当性を持った判断基準はないように思います。
以上、不十分ですが、『箭毛経』やURL二番目の『梵網経』などで補ってくださると理解が深まると思います。
参考URL:http://ci.nii.ac.jp/naid/110006996863, http://www.kokon.asia/religions/buddism/62ken_01 …
この回答への補足
返信の要求はありません。字数制限によりお礼欄には記せないので、こちらを拝借します。
初めに、ご回答の一部と、その後に私が出合った資料の組み合わせによって、只今現在の私流の納得の仕方を記してお礼とします。
1 その後、次の資料に出合いました。
河出書房 世界の大思想 II・2 の巻末の解説記事 渡辺照宏記
~。
経典はむろん誰かが作製したに違いないが、その作者は決して姿を現さない。どんな経典でも必ず仏陀の真説を忠実に記述することを標榜する。どのように超自然な場面を描写するときでも、創作とは決して言わない。
“律”にしても同じであって、仏陀以外の作者はいないことになっている。
それに対して”論”には作者の名が記してある。~
此処には「どんな経典でも必ず仏陀の真説を忠実に記述することを標榜する。」とあります。渡辺説からは「仏教を信仰する時点で仏陀が絶対の存在となり、よってまた経典が絶対となる」ことが窺えます。経典は絶対であって、これへの疑いは封じるのが当然なのだと思います。多分、これは全ての宗教に共通しているのだと推測します。
渡辺説には「経典が何故に仏陀の真説であるといえるのか」の記載がありません。何故かが証明それているが氏が記さなかっただけなのか、証明されていないから記さなかっただけなのかは判りません。仮に証明されていないのだとすると、聖霊と三位一体説によって聖書を絶対視化できるキリスト教の方が論理の緻密さに於いて優れていることになりそうです。しかし、矢鱈なことは言えませんが、過去に頂いた回答へのお礼を記す必要から維摩経だの法華経だのを拾い読みした印象から言うと、どうも「仏」は何処へでも何度でも現れ得るようです。だとすれば「実は仏陀が現れて経典を記した」、こういう見解で統一したらどうでしょう。これだと仏陀を信ずる者は自動的に経典も信ぜざるを得なくなり、経典への疑問を完璧に封じられます。「仏」が何時でも何処へでも現れ得るとすれば、これがキリスト教でいう聖霊の機能に該当しているのだと思います。作者が知られていないが権威をもたせたい経典は仏陀が現れて記したことにしておいても矛盾がないのだと思います。
三位一体が非キリスト教徒に通用しないのと同様に、上述の論理が非仏教徒に通用しないのは当たり前で已むを得ません。余談ですが私自身は昭和の子、科学の子ですから神仏の存在は信じていません。人間に軽い関心があるだけです。
2 >>経典では僧団(サンガ)を次のように言っています。
仏の弟子サンガは、妙行をそなえ、質実行をそなえ、如理行をそなえ、正行をそなえている。
すなわちそれは四双八輩である。<<
こういう事実があるのであれば、経典を1によって絶対化した後は教団への疑問は自動的に封じられます。何故なら「経典は仏陀が記し、その経典に僧団は四双八輩である」とあるのですから。
1によって経典への疑問も教団への疑問も封じられます。但し、これは本日現在の私流の理論です。
以下、ご回答への直接のお礼または関連した話題です。
3 ワーバートン司教は今のところ、書籍類に名前を発見できていません。三位一体説登場以前であれば出エジプト記20.5も根拠となるのかもしれません。しかし、三位一体の威力には到底及ばないと思います。
4 MNとは中部経典のことかと思いますが、私の生活環境では経文を手にすることができないかもしれません。今のところの見通しでは中部経典の一部の解説記事を目にするのが精一杯かもしれません。
5 律蔵「大品」、箭毛経、梵網経なども私の生活環境では経文を手にすることができないかもしれません。昨日の調べでは律蔵「大品」の一部の解説記事を目にするのが精一杯かもしれません。しかし、重要な手がかりを与えて頂いたという意味でとても有り難いです。これらの経典は頭の隅に置いておきます。
6 岩田 孝氏の「世尊は如何にして公準となったのか」は、ざっと読んでおきました。読み間違いがなければ今回の主要な質問である「経典の権威付け」にまでは話が及んでいるようには思えませんでした。非仏教徒を意識した「世尊絶対化の理論」らしいと読みました。
信徒から出る経典への疑問、教団への疑問を封じる理論があるのであれば「畜生っ!」、「餓鬼っ!」、「外道っ!」、「亡者っ!」、「地獄へ堕ちろっ!」、こういうエゲツナイ言葉を吐く必要はなく、何々を学びなさいと静に諭せる理屈です。こういうエゲツナイ言葉を吐くのは、つまりは理論をもっていない証左なのだと思いました。
有り難うございました。
補足欄に続いて以下を追加します。補足欄に記した何日か後に書き足しています。
その後、さらに次の資料に出合いました。経典絶対化の第2の考え方です。
筑摩書房 世界古典文学全集 月報 (6) 昭和56年9月第6巻附録所収 高橋直道著 「如是我聞」
~、お経は「如是我聞」――このように私はきいておりますーーではじまり、「歓喜奉行」――きくものみな、この教えを喜んでうけ入れ、その旨を実践しましたーーで終わることになっている。お経は「仏説」で著作者はブッダであるが、それは口述筆記で文責は記者(聞者)にあるというのが、「如是我聞」の意味するところ。だから、たとえ多少矛盾があっても、おしゃかさまはご存じないこと、とはいっても、聞者の名は書いてないから、結局、責任の所在は不明ということになるであろうか。しかし、おしゃかさまがうそをおっしゃるはずはないから、くいちがいは対機説法の結果であるということに落ちついてしまったようである。とにかく、昔から仏教徒はすべてこれ仏説と信じ、疑うことなく奉行してきたわけである。
~
この高橋説により「如是我聞」とは言っても単なる「伝聞や噂話ではなく、釈尊からの直々の聞き書き」と解釈し、これが経典絶対視の一つの理論であることが判りました。
このご回答はNo.2と並んで経典を絶対視している点では渡辺説、高橋説と同方向にあります。しかし、その理論的裏付けとしての根拠は説得力に欠けるというのが素直な感想です(ましてやmedetashiさんは専門家を自認して居られることでもありますし)。ポイントは律『大品』、『箭毛経』、『梵網経』が私にとって初耳で、新しい知識を授けてくださったことに対するものです。
お世話になりました。
No.10
- 回答日時:
これによって聖書と教会を絶対化しようとしたのだと思います。
いいえ関係ありません。こうしないと聖書が正しくないと言う事になります。
もし神とキリストが同じなら十字架につけられたとき祈る必要はない。
キリストと聖霊が同じならキリストが天において右の座して私が去った後助け人を送りましょう。このように別でかつ独立していると言う事になります。
だから三位一体でないなら聖書が間違いで信じているキリストも間違いなのか?と言う疑問の上に立ち信仰している間はないですね~
No.8
- 回答日時:
<<肯けないのは「宇宙の探求」が無駄な人生の代表例に挙がっていることくらいです。
芸術を初めとして如何に多くの無駄な時間を費やせるか、ここにこそ人生の充実度があると考えているので、この点まで含めてご回答に肯いている訳ではありません。>>もちろん。
我々は凡夫ですので当然ですよ。
ここは確か有意義なことに専念すると誓願した比丘たちに語ったところでしょう。神通で確かめられることがあるが、確かめ終わる前に寿命が来てしまいますよと。もっと観るべきことがあるでしょうと。
在家にしても、自他に役に立つこと有意義なことに時間を尽くしたほうがイイのは当然なこと。
しかしながら比丘戒を受けるだけの覚悟が無いなら、個人個人が自他に迷惑がかからない程度に楽しむのは問題の無いことでしょう。
迷惑かけてでもというなら「道の外」ということでしょう。
<<万が一、このご回答が現代の日本の仏教界を念頭においたものである場合は、ご一報下さると有り難いです。この場合には、このご回答からは大量の疑問が生じます。>>
日本仏教界…ですか。
初期経典(パーリ語の経典)は仏教界全体と絡んでるでしょうねw
大元ですから(反論を持つ人もいるのかな?)
ともあれ仏教を名乗るなら皆仲良くしたらいい。
~一切生命、幸福であれ~
この回答への補足
締め切るに当たって
No.4、No.8の趣旨はNo.11の補足欄とお礼欄にある渡辺説とも高橋説とも対立します。私に行事役は務まりませんが、本日のところは渡辺説、高橋説を信じておくことにします。
お世話になりました。
No.4のお礼欄の記載は「パーリ語の経典を学んでます。」の意味を正確に掴めないまま記したため、混乱していました。
封じている代表例として「宇宙の探求」を挙げているのがブッタであれば然もありなんと納得できます。相手が誰であれBC500年の人物の宇宙観とあっては無理ありません。
こいうことだとNo.4のご回答には全面的に肯けます。
有り難うございました。
No.7
- 回答日時:
#1です。
sono-higurashiさんは、どういう意図でこの質問をしたのでしょう?
何か絶対的なものが欲しいのでしょうか?
仏教の経典に関してどの程度学習していらっしゃるのでしょうか?
#4の回答者はパーリ語の経典を学んでいるそうです。
パーリ語というのはお釈迦様の時代に口語であったと考えられている言語です。
そして仏教の経典というのは、お釈迦様が書いたものではなく、「御釈迦様がこう言ったんだってさ。」ということを弟子がまとめた言行録です。
パーリ語の経典というのは御釈迦様が
「なぁ、スブーティ爺っつぁまよぉ。」
とか
「カショーちゃん、ちょっとちょっと」
とか、語りかけた言葉をそのまま書き留め残したものなのです。
これを研究しているということは、
パーリ語を誰かがサンスクリット語に翻訳し(そのときに翻訳者の解釈が加わり)
それをさらに誰かが中国語に翻訳し(翻訳者の解釈がさらに加わり)
そこにさらに日本人が解釈を加え・・・
というものではなく、お釈迦様が語った言葉そのままを研究している、という意味なのです。
「なぁ、この石をな、池にチャポンと落とすべぇ。これをよ、バラモンの人らが拝んだら、浮いてくると思うか?思わねべぇ。
人もおんなじだぁ。拝んだからったってぇ、えぇとこさぁ生まれ変わってくるとはかぎんねんだぁ。そん人がよぉ、生きてっときにどんなことしてたかによるんだぁ。」
東北弁風にしてみましたが、こんな風にお釈迦様が言った言葉がそのまま残されているのがアーガマなのです。
これを絶対正しい真実として信奉する?
理論として体系的にまとめた講義録ではありませんから、ちょっと違うような気もしますが・・・
>>みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。<<
そんなオソロシイことを昼日中に言うものではありません。袋叩きに遭っても私は知りません。
老子の冒頭の
道の道とすべきは真の道にあらず
というのは正に「みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。」
ということを言っているのですよ。
ダライ・ラマは常日頃から『自分は真実を求める一介の修行者に過ぎない』と言っているそうです。
ダライ・ラマですら修行中なのです。
真実の教えを知っていて体現している人がいたら弟子入りしたいと思っているのです。
教団が絶対正しいなどということはありえないのです。
キリスト教においても教会は絶対ではないと思います。
マルチン・ルターは教会のありかたがおかしい、間違っていると主張して宗教改革を行なったと世界史で習いました。マルチン・ルターの新教もさらに分裂しています。
小説「赤毛のアン」の中でアンが「○○さんの家は長老派(ルターの直系らしい)だからあれをやっちゃいけないとかこれはダメとか厳しいけれど、私たちの教会(ルターから分かれた分派)はとっても自由でよかったわ」
という記載があります。
キリスト教でもおかしいと思った人が上に反論し、聞き入れられないので分派を作る、ということが現実に起きているのです。
英国国教会は、ローマ法王に支配されることを嫌って別れてできた教会です。
ローマ法王庁といえども絶対ではないのです。
>疑問をもたない。もっても発言しない。発言されても論理で応じる準備がない。準備がなくても困らない。こういうことでしょうか。
違います。疑問を持った人がいて、その疑問を発言した人がいて、その発言にきちんと反論した人もいるし、反論するだけのものがなくて反論できなかった人もいます。その結果教団を割って出た人達がいたし、「お前らは邪教だ」と言って戦争を仕掛けた人たちもいました。
信徒の疑問を封じる論理などと言うものはないのです。
この回答への補足
これはただのお礼です。長すぎるそうなので、こちらに記します。
1 >>どういう意図でこの質問をしたのでしょう?<<
この質問は単純明快で質問文によく意図が表れていると思います。実際、aokisikaさんに正しく伝わっているからこそ質疑のかっちり噛み合ったNo.1のお答えを頂けた訳です。
2>>何か絶対的なものが欲しいのでしょうか?<<
特にといって欲しいものがあるわけではありません。無い物ねだりが出来る年齢でもありません。
3>>仏教の経典に関してどの程度学習していらっしゃるのでしょうか?<<
何も学習していません。お礼文を書く必要から先日、「法華経如来寿量品第十六」と「維摩経、法供養」を読みました。
4 >>#4の回答者はパーリ語の経典を学んでいるそうです。……東北弁風にしてみましたが、こんな風にお釈迦様が言った言葉がそのまま残されているのがアーガマなのです。
これを絶対正しい真実として信奉する?
理論として体系的にまとめた講義録ではありませんから、ちょっと違うような気もしますが・・・<<
この部分の論旨が掴めませんでした。何を読み取ればよいのか判りませんでした。
4老子、ダライ・ラマ、マルチン・ルターの話はNo.1の補強と読みました。aokisikaさんの見解はNo.1の時点で私に十分伝わっています。
万が一、aokisikaさんにaokisikaさんの見解は正しいから信じろという気分があるのであれば、それは無理です。私がこういう質問をしなくてもよいだけ仏教界に精通していればaokisikaさんの見解は100点だとか30点だとか評価できるかもしれません。私には知識がないからこそ質問をしているのです。こういう人間にはaokisikaさんの見解が正しいとか誤っているとか評価は下せません。No.1のお礼欄で記したとおり、aokisikaさんから「たぶん封じていないのではないでしょうか。」、こういう見解を頂いたことを有り難く思うのが精一杯です。
5>>>疑問をもたない。もっても発言しない。発言されても論理で応じる準備がない。準備がなくても困らない。こういうことでしょうか。
違います。疑問を持った人がいて、その疑問を発言した人がいて、その発言にきちんと反論した人もいるし、反論するだけのものがなくて反論できなかった人もいます。その結果教団を割って出た人達がいたし、「お前らは邪教だ」と言って戦争を仕掛けた人たちもいました。
信徒の疑問を封じる論理などと言うものはないのです。<<
最終段落のここは分かりませんでした。違っているようには読めませんでした。
疑問をもつ者、もたない者、発言する者、しない者、反論できた人、出来なかった人、様々な人がいて、その結果、教団を出るの自由、留まるのも自由、戦争を仕掛けるのも自由だった訳ですね。これは正に「疑問をもたない。もっても発言しない。発言されても論理で応じる準備がない。準備がなくても困らない。」、こういう状態そのものです。
もしも理論で絶対化してあれば、「反論できなかった人」はいない筈です。「教理に反するぞよ」の一言で終わりです。
もしも理論で絶対化してあれば、「教団を割って出る」のではなく「破門されて追い出される」のです。「割って出る」のと「破門される」のは大違いです。
もしも理論で絶対化してあれば、「戦争を仕掛ける」のではなく「襲撃」です。「戦争は立場が五分五分」ですが「襲撃は加害者と被害者の関係」です。
秩序が乱れても困らなければ自由度は大きくてよいので絶対化の程度は低くて済むし、秩序が乱れては困る場合は自由度が小さくなり絶対化の程度も進みます。
自由度が大きかったということは困らなかったということです。
再度のご回答有り難うございました。
締め切るに当たって
No.1とNo.7の趣旨はNo.11の補足欄とお礼欄にある渡辺説とも高橋説とも対立します。私に行事役は務まりませんが、本日のところは渡辺説、高橋説を信じておくことにします。
お世話になりました。
No.6
- 回答日時:
回答番号:No.5
私が大学でしたが、現職のとき、学生に日暮さんて女性がいました。なんと作陶の若者と一緒になりましたがね。
その日暮らしさん、ちょいとことばが不足していて、悩ましてしまいました。
【絶対なる至高の意識である、その日暮らしさんって存在者が、いつ俺は絶対だといいましたか。】
ここでの日暮さんという存在者、意識とは普遍なる意識、一人子なるお方という意味で、日暮さんに内在し、日暮さんになっている根本的存在者、意識そのもの。っていう意味でしたが。
やぁどうもすみませんでしたね。
この回答への補足
締め切るに当たって
No.3、No.5、No.6の趣旨はNo.11の補足欄とお礼欄にある渡辺説とも高橋説とも対立します。私に行事役は務まりませんが、本日のところは渡辺説、高橋説を信じておくことにします。
お世話になりました。
済まないのはこちらです。Kryaさんの意図は多分、正確に伝わっています。
No.3とNo.5のお礼欄を読み直してみました。私にポカがありました。No.3のお礼欄の冒頭にNo.1のお礼欄と同趣旨のお礼文があるものと思って下さいませ。
No.3を拝見してNo.1と同趣旨だなと読み取りました。こういう質問が恰も多数決で決まるみたいな雰囲気になると困るなと思いつつNo.1のお礼文をコピペしようかと考えたのですが、そうもいくまいと思案しているうちにNo.3のお礼文になってしまいました。つまり、私の頭の中ではKryaさんへのお礼にはNo.1のお礼文も含まれていたのです。
念のために確認します。No.1のお礼欄の記述はKryaさんへのお礼でもあります。今から考えると「No.1のお礼欄をご覧下さいませ」とだけにしておけばよかったと反省しています。
私は己に対して己が絶対者だとは思っています。よって、自分のことは自分で決めます。他人に対して己は完全なヘナチョコ人間です。右を見て左を見て大概のことは世間に調子を合わせて暮らしています。へっぴり腰でオドオド、ヘナヘナ手探りで暮らしています。
私は相手がどんな宗派であろうと、信徒の前で「みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。」なんて到底いえません。これより遥か手前の段階で「可哀想に」と同情されたり、「地獄を彷徨うぞ」とかの捨て台詞を浴びると予想します。この予想が取り越し苦労ばかりではないことはNo.2によっても推測がつくと思います。
ヘっぴり腰人間としては同情も罵声も御免です。この私の感覚によって記してしまったのがNo.5のお礼欄です。しっかりした自己が確立している方は誰を前にしても「みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。」くらいのことは言えるのかもしれません。悶着は嫌ですから私は言えません。
No.3、No.5のお礼欄には、こういう背景がありました。有り難うございました。
No.5
- 回答日時:
回答番号:No.3 sono-higurashi さん
六車って女性、まだ若い私の娘より若い。体格のいいまぁ健康と丈夫の人でしょう。
二、三度会合であっただけで、どんな思想やお人柄かは存じませんが。
>>疑問などを封じる論理はありませんでしょう。<<
そうなのでしょうか。経典を絶対化しないままに宗教活動が行えるという説は意外です。そんなことが可能とは思えません。
絶対なる存在は自己を絶対なるものとする論理など無用であります。
そういうものが教えや、【にょぜ がもん】を頭にしてあれば、それはその人が作っているものです。
もうそれは人の世界のなせることですから、絶対では在りません。
みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。
わたしゃ浅草生まれ浅草育ちでね、あのきんどんとかいうのもそうらしいが。名誉でも不名誉でもない、ぜんぜん違う。
観音さんの後ろの奥山などに、香具師が口上していた。下手な高座の落語なんかはだしで逃げ出す、名口調でね。
さぁてお立会い。ちょいとその前にいっとくことある。傍にすりがいるよ。わしゃ知っている奴じゃ。
そら今傍を離れる奴。そいつだ。ほっとくんじゃあんなや奴ぁ。
ってね、それに似たものが【にょ・ぜ・がもん】って前置き。
絶対化を言う必要があるからいっているだけ。
絶対なる至高の意識である、その日暮らしさんって存在者が、いつ俺は絶対だといいましたか。
そういう絶対の事をいっています。それは創造界に唯一存在者です。
自らを絶対という教えは、人間のエゴの産物でしかありません。
ということであります。
>>みずから絶対などいうものが絶対なんぞであるはずがない。<<
そんなオソロシイことを昼日中に言うものではありません。袋叩きに遭っても私は知りません。
「哀れ」、「気の毒」、「可哀想」……、こう言って同情されてしまいますよ。同情は何とかして精神的に優位に立とうとする人間の常套手段です。
「畜生っ!」、「餓鬼っ!」、「外道っ!」、「亡者っ!」、「地獄へ堕ちろっ!」……、こういう最大級の罵声を浴びても私は弁護できません。
有り難うございました。
No.4
- 回答日時:
パーリ語の経典を学んでます。
<<「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか>>
信じることは勧められているように思いません。
納得することを勧められているように思います。
納得とはなかなか厄介なものです。疑問解消のため、検証・実験の末にしか納得はありませんから。科学的な論理的な運用方法によって、探求することが必要になりますね。
お釈迦様は「私の言葉とて信じるものではない」といってますしw
仏教は常に「オープンチャレンジ」。疑問があればどうぞという立場と理解してます。
<<僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか>>
もちろんですね。
比丘サンガになったからって出家になれるわけではないですからね。ここでの「出家」は不還果(悟りの三段階目)です。在家だろうと比丘サンガだろうと「出家」を目指す仲間でサンガです。
なので比丘サンガを絶対視して、言うことをそのまま鵜呑みにする必要は無いでしょう。そもそもお釈迦様自体が上記のような態度ですので。。。
<<仏教の場合、こういう疑問は如何なる論理によって封じているのですか。>>
仏教といっても現代ではいろいろな思想のグループネームのように…
そもそも最初のお釈迦様の教えは「信仰」よりも「納得」。最終的には「ありのままに知ること」だと思います。
封じていることといえば、答えの出ないこと・妄信。無駄に人生を消費すること(宇宙の探求とか)。があるかと思います。
現代の多くの宗教を「宗教」というなら、これはかなり異質なものと思います。個人的には仏教は宗教でないと捉えてます。ほとんどの宗教は「信仰」ありきのきがしますからね。。
>>パーリ語の経典を学んでます。<<
これが何を伝えようとしているのか、分かりませんでした。しかし、
>>現代の多くの宗教を「宗教」というなら、これはかなり異質なものと思います。個人的には仏教は宗教でないと捉えてます。<<
これと併せて考えると、大乗仏教ではない仏教を意味するのかな、と考えます。この場合、ご回答の大部分に肯けます。肯けないのは「宇宙の探求」が無駄な人生の代表例に挙がっていることくらいです。芸術を初めとして如何に多くの無駄な時間を費やせるか、ここにこそ人生の充実度があると考えているので、この点まで含めてご回答に肯いている訳ではありません。
万が一、このご回答が現代の日本の仏教界を念頭においたものである場合は、ご一報下さると有り難いです。この場合には、このご回答からは大量の疑問が生じます。
有り難うございました。
No.3
- 回答日時:
sono-higurashiさん
仏教界ですか、そのご見解を代弁できる方のご回答があるといいですね。
疑問などを封じる論理はありませんでしょう。
疑問が生じたら、自己と信仰そして行、勤行に聞くのでしょうね。
それでもやはりおかしければ、出て行くのでしょう。
導きの僧たる専門家として立つ、ということの現実はご疑問を払拭してあまりあると存じます。
どこかで芥川とかの蜘蛛の糸の質問が在りましたが、釈尊は極楽(そんなところはないのですがね、不労所得のただ居るだけの意識界などありませんが)の蓮池上(ほとり、辺)にいて蜘蛛の糸を下ろす。
蜘蛛と蜘蛛の糸自身が実は釈尊で、上に居てしかも目線、同じ人間にならないと、導きなどは出来ませんよ。
『そうではないかえ?』という、同じ人間としてともに苦しみ、迷い、そして影響していく、これしか導きはできません。
上に居てしかも同じ人間でなければダメです。
これが導きの僧としての立場です。
民衆の哲学、地上に生き、天卯上を示す。これが真の仏陀の世界です。
一度道にともに歩んだカンダッタですか、蜘蛛の糸は切れても、蜘蛛ととともにカンダッタについていて、ともに歩んでいる、これが仏陀だと存じます。
ともに悩み、苦しみ、やがて勝つであろう(ロマン・ロラン)お互いとして、仏陀は折られます。
不信、捨信、疑問。結構ではないですか。
そうやって、迷い、苦しみ、悩み、闘い。歩いていくのが私たちだと存じます。
そういうことがなくなった、つまり、迷いも疑問も生じないのは死んでいるか、最上の意識に到達しているかのどちらかですものね。
いいじゃないですか、裏切りも、悪党も。間違いも。
>>疑問などを封じる論理はありませんでしょう。<<
そうなのでしょうか。経典を絶対化しないままに宗教活動が行えるという説は意外です。そんなことが可能とは思えません。この世には絶対でないものを絶対化してしまう世界がいくらもあります。ましてや宗教界に於いておや。こういう先入観がありますが、はて?。もう少し様子を見ることにします。
有り難うございました。
No.2
- 回答日時:
日蓮宗派の日蓮正宗の者です。
御経は、法華経です。私の宗派では、封じていると感じることはあります。
「正しい教えを修業しないことは、地獄へ落ちると」
仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。
お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。
お釈迦様と同じ境地、境涯に至っていない人は、お釈迦様の境地や境涯、教え、真意、あり方などが当然解っていません。私もそうです。
また、人間は、業があり、業がある故に悪い行いもするともされています。
人はみな、仏性を持っているとされて、正しい修業をするなら、その仏性が現れてきます。現れるというのは、人は、業や罪障をたくさん持っており、そのが仏性を覆い隠しているのです。その業や罪障を1つ1つずつ消滅していけば、仏性が現れてくるのですが、業や罪障は、量ははかりしれません。
この意味を真に理解する者なら、「封じる」という目的で、「正しい教えを修業しないことは、地獄へ落ちると」を捉えはしません。
業があり、悟ることもなく、信ずることもできない。むしろ、否定し、批判する、それが人間というものです。
しかし、そうしていても、救われない、幸せにはなれない、一時の幸せや救いがあったとしても、先の未来では、結果的に苦しむことになる。そして、その苦しみは、成長のための苦しみではなく、苦しみを呼ぶ苦しみとなる。
心が安定し、もし、戒めを守ることができるなら、守りなさい。もし、がんばれるなら守りなさいと言っている訳です。
しかし、守れないのであれば、とにかく修業をしなさいと言われているのです。業を消滅するところに守ろうとする意識も、守れる力も備わってくるから。
もし、修業もできないのであれば、他の人の救いを求めるしかありません。
先祖供養というものは、その意味は、先祖の業を消滅し、仏様に近づけさせることです。それと同じように、救いたいという者がいれば、その人に対し、供養(業を消滅すること)していかなければなりません。
また、仏教は道理であると言われています。
道理に基づいて戒めなければ、苦しむことになります。この道理を曲げても苦しむことになるので、どうすることもできません。
ですので、救いの教えであり、救われるため戒めであって、畏怖ではありません。
しかし、業の深い者は、脅しや畏怖に捉えがちになり、他に対してもそう接してしまいます。
この回答への補足
締め切るに当たって
経典絶対視の理論として本日現在ではNo.11の補足欄とお礼欄にある渡辺説、高橋説を信じておくことにします。
お世話になりました。
どうやら、日蓮宗派の日蓮正宗の場合もキリスト教に於けるような絶対化の理論を用意していないらしいと受け取りました。
絶対化の理論がないのであれば、
>>「正しい教えを修業しないことは、地獄へ落ちる」<<
こうとでも言うしかないのはよく分かります。経典を絶対化しないままに宗教活動が無事に行えていることに関心をもちますが、ここでの話題ではないので触れません。
有り難うございました。
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