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皆さんにお聞きしたいのですが、中島就、正岡子規、宮沢賢治の考え方にもある、「私」が「同じ一つの私」であるということは、謎であるとあります。この「私という謎」について皆さんはどう考えるますでしょうか?

感想、各著者の考え方などなんでもよろしいのでよろしくお願いします

A 回答 (7件)

確かに謎かもしれません。


例えば一つのことを考えるのに、正反対の答えが出てくる。
ではその片方を考えている自分、もう片方を考えている自分、そしてその二つを考えられている自分は果たして同じなのかと。
更にそういったことを考えている自分もいるし、それを傍観している自分もいる。
しかもそれは友人と会話する時の自分とも違うし、恋人、家族についてもそうです。
ではどれが本当の自分なのか、いや本当の自分とは存在するものなのか、それとも全て同じ自分であるか、全てが自分ではないのか。

人によっては「ペルソナ(仮面)」とも言いますよね。
状況に応じて様々なペルソナを使い分けているのだと。

私自身はこのペルソナがイメージしやすいので暫定的な考え方として利用しています。
生まれた時に持っているペルソナは皆同じで、それぞれ経験によって数を増やしたり修飾したりしている、と。
つまりその仮面のセットが「私」です。
全ては仮面でしか無いのでそれは「同じ一つの私」ですが、同時にそれぞれが違うものなので「ばらばらの私」であるからこそ彼らにとって謎なのです。
私はこの二つは同一であると同時に異なるものだと認識していますので、これは謎であると同時にもはや謎では無くなっています。

とまぁ面倒な回帰やら相対的な考えぐらいしか出てきませんが。
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私の本質がわからないから混乱するのですね。


2面鏡で観れば2人の私、6面鏡で観れば6人の私、10面鏡で観れば10人の私・・・1000面鏡で観れば1000人の私ですね。鏡にとっての私は鏡に映った私と同じですね。同時に1000人と個別にお話できれば神の領域ですが、普通の人でも2人ぐらいは可能でしょう。
つまり、私という存在は例えば手のようなものですね。5本の指はそれ自体独立しているようで手という1つの統合体ですね。親指という私、小指という私もいるのですね。それぞれ違う役割をしてますが全部私ですね。手の代わりに花びらと花の関係でもいいですね。
思考主体としての私も同じなのですね。いくつにも分かれることができるし、それでいて1つなんですね。それが私の本質ですね。
霊的には6つに分かれていてその一つが現在の私ということなんですが、理解できますかね。
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人の心が混乱する原因は、人の心の中に、対立する異質の、ふたつの世界があるからです。

つまり調和世界の神の自然の心と、不調和世界の脳が、合体したのが人の心です。だから無我と自我で出来ています。脳が思考してる時は、自我の心になり、心にストレスが発生します。脳が休んだ時は、無我の心になり、心が癒されます。
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 極く常識的な思いの書き込みでしか参加できないのですが、このことではむしろ質問者のte_002さんのお話も伺いたいものです。



 そのことなんですが、いろいろ扱われ、いわゆる知覚経験、行動していくに従い、それとともに、主格であるかのように思い込んでいくある心があるようですね。自分だと思うような意識が醸成されてくるのではないでしょうか。
 これは自己と世界の出現とともにあるのでしょうね。
 これをヒンドゥ的思想(生半可ですが)では英語のエゴという呼称をしております。
 実在の意識の魂(アートマ soul)ではなく、これも多くの経験されているものと同じに、自己だと経験されているいすぎない対象なのだと存じます。
 私たちの教え(Self-Realization Fellowship Paramahansa Yogananda)ではこれを象徴しているのがビシューマとなっています。
 これは他や、全体、或いは外界から、“私”として扱われ、一貫していると扱われることと、そうやって経験、判断、知覚、行動を一つの肉体で行うことを重ねることで更に、仮想のにもかかわらず、幹を成長させ、枝葉を繁茂させ、確固となってくるのでしょうね。
 私たちの勉強している教えと、私自身の考えで紡いだ内容を書きました。
 どうかみなさまのお教えをお待ちしたいと存じます。
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ドイツのカントという哲学者が「統覚」という言葉を使って、


同じ一つの私ということが要請されている、と言っていたような?

それは、さておき、私は軽い統合失調症患者なのですが、
この私が統一されることは、実に驚くべき事実であると感じます。

なぜ驚くべきかといえば、もっと、筋のない世界もありえたからです。
尤も、昨今は、筋のない世界になりつつあるかもしれません。
通り魔殺人などは、その代表例でしょう。

昔は、物語という舞台装置があったのです。
その中で、拘束されながら、生活できていたのです。
しかし、今は、どんどん断片化され、筋が通らなくなっています。

さて、私の一貫性は、要するに、周りの人間の存在によって、
支えられていると思います。
周囲の環境が全く変わってしまうことを想像してください。
きっと、同じ一つの私ではいられなくなるでしょう。
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 回答番号:No.4


 統合失調症患者という言葉と症状がいわれますね。
 二重人格とか、ジギル・ハイドとか。或いは多重人格とか。
 心理学や精神保健の知識はなくて、単なる自己反省と自己気づきなんですが、いろんな面いろんな人格って、誰しも多少は、みんな自分の中に一緒にともに生活していることに気づきませんか?
 それでも表層生活意識の人格がそれを見つめることもあり、その後ろのあるものが気づいていることもある。
 カント,イマニュエル先生(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3% …)のアプリオリ・カテゴリと先験的統覚がどこらの層の自分かは、50年前もそして今も、私は充分には理解できません。
 むしろインドや中国、いえ日本の人が前置(論文や著述は空しいいけれど)している私ということが決して孤立の個人でない事に気づいて、素晴らしい日本の民族意識だなぁと感じています。
 欧米では複数、単数って拘るけれども、東洋の人は文章でも意識でも、そしてその文章主語でも、単複にこだわることは、あまり日常では多くはなさそうですね。
 これは示唆的だなぁと存じます。
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このあいだからこのご質問が気になっていました。


これは課題ですよね?
おそらく授業で宮沢賢治と中島敦と正岡子規を扱って、そこから「自我同一性」の「謎」を導いていくという脈絡の講義があったのだと思うんです。

宮沢賢治は『春と修羅』を扱ったはずです。特に序の「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」という文章を読解することから始まったはずだ。

で、正岡子規。これはきっと写生文ですね?
子規の写生文は、のちの高浜虚子なんかの言った「写生文」というのはおよそちがうものだった、というところから話は主観と客観に話は向かっていったはずです。

ここまではわかるんです。だけど、ここからどうして中島敦になるのか。なんで中島敦なんだろう。どうもよくわからなくて、ものすごく興味深い。わたしもその授業を受けてみたかったくらいです。

授業では何を扱いました? このご質問を拝見したときから、ずっと考えてるんですが、どうもよくわからない。なんだろう、『狼疾記』か『光と風と夢』か『悟浄出世』か、意外なところで『弟子』なんていうのもありうるぞ、と考え出したらどうしても知りたくなりました。

授業では中島敦の何を扱いました?
それを教えてくださったら、レポートを書く助けになる回答もできるかもしれません。どうか中島敦では何を取り上げたか、教えてください。
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