No.10
- 回答日時:
>現象と仮象ってどう違うの?
もともと完全なる現象は存在し得ないという意味で全てが仮象となります。
前回答の通り、仮象たる自己が、仮象たる実態を理解しつつも、あたかも自己が厳然と存在する感覚を獲得しているということであって、それだけが、唯一確実だと思っている仮象である「現象」です。
>また理性における仮象と感性における仮象はどう違うのでしょうか?
理性は、あらゆるものごとが仮象であることを理解しているにもかかわらず、感性は、この痛々しいまでに鮮烈な現実が仮象であることを受け入れられません。感性は、種明かしをされてもなお、明らかな違和感がないと仮象を感じ取ることができません。
No.9
- 回答日時:
No.2です。
★ 現象と仮象ってどう違うの?
☆ 自然の現象も そしてその自然環界にあって人間が為すもろもろの行為の錯綜して関係し合う社会現象も 《現象》は 時空間のあり方とその動きです。そのすべてのことです。
この現象を《わたし》が捉えるとき 《現実》となります。
一般に《現実》においては ひとは その《現象》――つまり特にはおのれの発言や行動としての現象――について 一方でその自由を確保すると同時に 他方でそれに対する答責性を持ちます。説明責任ですね。
ところがこの《現象》が 仮りにそう見えたり感じられたりするだけの《仮象》であったらどうなるか?
どうもなりません。というのは いまはすでにこの仮象であったとしてもその仮象をも引っくるめて《わたし》が現実として捉えている段階であるからです。この《わたし》は 社会関係にあって それぞれの《わたし》であり 言おうと思えば《わたしたち》です。
言いかえると もしそう見えただけの仮象であったとすれば つまりその場の人びとがそのように同意しつつ認識したならば ああそうだったかと互いに合意しておけば済むことだからです。
仮象であったと思ったことが じつは 現象であり現実だったと捉えねばならなくなったというふうに二転して認識が変わったとすれば どうなのか? そのように対処すればよいでしょう。
自己同一性として《わたしがわたしである》ひとが それぞれ《わたしがわたししている》ならば 仮象を含めた現象を現実としての取扱うに当たって 差し障りはないと思われます。
思われますというのは へそ曲がりや天の邪鬼が たいていは 現われるからです。これは 現象学ないし現実学の理論としての差し障りにはならないでしょう。たえず実践をつづけるということになります。
★ また理性における仮象と感性における仮象はどう違うのでしょうか ?
☆ 《理性における仮象》の場合 困ります。感性における仮象の場合は たとえその仮象にあざむかれたとしても ああ仮象だったとすぐ分かりますし 尾を引きません。幽霊と見たり枯れ尾花のたぐいだと思われます。
理性における仮象 つまりは 観念によって仮りの表象を頭のなかにまづ一人のわたしが持つ場合ですが これは 観念の偶像ということです。神でもブッダでも 英雄でもアイドルでも あるいは愛でも慈悲でも起きるようです。
つまりは この観念の偶像を後生大事に抱いてその繭の中に閉じこもる場合に 困ります。もっとも それでも けっきょくほかの《わたし》たちと対話・交通を欠かさなければ よいとせざるを得ないでしょう。一般にはです。
親しい間柄であったり信頼関係が築けたと思われるかたちになったりすれば 大いにその仮象人間に対して そういうことではないかと指摘するでしょう。
もしくは この《理性における仮象》の場合で困るのは ぎゃくに《ふつうの現象であることをわざと仮象であると言い張る》場合です。別の意味の《仮象人間》の状態に陥ったばあいです。
不倫(つまり信頼関係の裏切り)の現象を誰もが現実として認めなければならなくなった場合にも それは《おまえの目にまぼろしとして見えている仮象に過ぎないんだ》と言って開き直ります。
あるいは 《記憶にございません》を繰り返す場合です。あるいは《人生いろいろ 会社もいろいろ》と言ったり 《ちょっとした公約違反くらいは 何でもない》と言ったりなどではないでしょうか?
ということは このように《仮象》を問題にするときにも けっきょくは広く現象ないしその現実としての認容のもとに わたしたち一人ひとりの発言や行動に対する《答責性》の問題に帰着するようです。何でもない勘違いだったという場合をも含んで 広く答責性の問題に入ります。
つまりは 一人ひとりがそれぞれ自己の自由と責任において《わたしがわたしする》という動態とその継続のもんだいでもあるようです。自由と答責性が 動態過程にあるということであり 自由と答責性には 民主主義がよく似合うと思います。
No.8
- 回答日時:
今、我々がいるこの世界、私やgottabさんに、見えたり、触れたり、匂いを感じたり、温度を感じたり、重さを感じたり、大きさを感じたりする目の前の世界。
これを現象と表現してみます。
この場合‘感覚で現象を確認している’といえます。
また、その感覚を通して‘理性が納得している’と言ってみるのはどうでしょうか。
そして私や、bottabさんが見たり触ったりして確認できない世界も、常識的には一応‘在る’と受け止めていると言ってよいかと思いますが、この場合は‘理解’といえるのかもしれません。
こうした世界は‘人間が受け止めている現象’と、とらえてみます。
色盲の犬は人間が受け止めている‘現象’を白黒で(正確に白黒かどうかは知りませんが)見ているということなので、犬に、本当はこの世界には色が付いていてとてもきれいなんだよと、教えてやりたくなります。
また、犬の受け止めている世界と、人間の受け止めている世界が違うように、人知を超えた神や仏には、人間とはまた違った世界が見えるのかもしれません。
こうして考えてみると、‘現象’はそれを受け止める‘能力’の有る、無し、が関係しているようです。
その‘現象’を感覚などを通して受け止めているのが‘心’であると決めつけて。
目を閉じて見るという能力をふさげば、目の前の現象に触れたりして‘在る’を感じないことには、‘無い’に等しいといえるで‘能力’のある、なし、で世界が違って捉えられる、ということなのでしょうか?
そうすると、人知を超えた能力を持っているとされる神やほとけには、(ダブっちゃいますが)人間とは違う世界が見えるのかも知れません。
でも、だから人間にとっての現実の世界は、‘仮の象である’なんて結論を出してしまったら、飛躍しすぎていますよね。
ここから先は一緒に考えて見ませんか。適当な考えが浮かんだらまた回答?するかもしれません。
でも誰かにバトンを渡したい気もします。(自信が無いので)
中途半端でごめんなさい。
No.7
- 回答日時:
他者からの反応に対して画一的に反応するということが自己の同一性そのものではないでしょうか。
このように外界の変化に逆らって守られている自己は仮象だと思います。自己の同一性というのは自己の不変性ではないはずです。つまり時々刻々変化する外界に対して自己を成立させるためには自己そのものが変化する必要があります。この変化する自己こそ本当の自己であって、実はこの意味では自己の同一性というのは不変なる自己というものが仮象であることを証明していると思います。x/yで自己をあらわせばxが外界からの反応、yが自分からの反応というような感じではないでしょうか。No.6
- 回答日時:
回答No.2bragelonneさんの回答を翻訳します。
正確ではありませんが。
植物の大本は‘種’
我々が思う‘自己’、これが我々の‘核’
‘核’は主体性とも。
我々‘自己’は今現在確実に存在します。
これを‘仮の姿’といってしまったら、我々の‘今’の、この現実をどう受け止めたらよいのでしょう。
シャトルは宇宙空間へ飛び立ち、地球へ戻ってきました。
科学がこの世界の‘存在’を、証明しています。
もし、あえて‘仮象’といいたいのであれば、それは‘心’のことではないでしょうか。
存在する(仮でない)核に宿る‘心’が仮の象であると言っているように思います。
犬は色盲とのこと。この世は白黒の世界。
でも、人間から見れば色のある世界。
神や仏がこの世を見れば、また別の世界に見えるのかも。
ひとの心が捉える世界が‘仮の姿’と言えるのかもしれません。
人の心は常に‘変化’しているから。
いまいちの回答で、満足してはいませんが、とりあえずこんなことを考えてみました。
回答No.2さんの意見の、正確とはいえない翻訳でした。
言い換えると、刺激を受けての回答です。
No.3
- 回答日時:
自己は、自己の同一性を決して否定できないにもかかわらず、それが仮象であることを理解しているということでしょう。
つまり、仮象たる自己が、仮象たる実態を理解しつつも、あたかも自己が厳然と存在する感覚を獲得しているということですね。
なんせ、同一性を作り上げているのは仮象たる自己ですもんね。
その仮象の中では仮象たる自己は仮象に成り得ないということでしょうかね。
大笑いですね。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
仮象であってもなくても わたしという存在の動態として捉えてください。
《わたしがわたしである》というのが 自己の同一性のことですが これは取りも直さず 《わたしがわたしする》と捉えてください。
あるいはほかの見方からすれば 《わたし》の存在をそれ自身だけで捉えないでください。ほかにも《わたし》と自称する人びとがいますし こうしてわたしたちが形づくる社会は その人間関係ないし行為関係は互いに影響を及ぼし合っています。
ですから 何が《仮象》でかにが《仮象》でないかは それほど――と言いますか それ自体の問題としてはそれほど――そこに焦点は当たらないし 当てなくてもよいと考えますが いかがでしょう?
仮象であるなら仮象として現実ですし 仮象でなければやはりそれとして現実です。
No.1
- 回答日時:
名称(意義)と内容(指示対象)に関わるものですね。
例えば、「ト○タ」というグループの名称と活動内容で言えば
組織の名称としては過去から現在まで同一性はあるのだが
活動内容は変化している。
しかし、短い時間単位では、名称と活動内容はほぼ一致している。
よって、長い時間単位で観るか、「同一性」を厳格に考えるかしたとき「仮象」と言えると思います。
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