牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

こんにちは。

「クレヨンしんちゃん」の作者、臼井さんの死が確認されました。

一部ネットでは、遺体発見の際「人違いであって欲しい」という意見ありました。
そうした意見について「不謹慎」という批判もあります。
そして、こんな意見もあります。

「人間は自分の愛する人の死だけ悼むのが、あるべき姿」

これって本当でしょうか?

例えばアメリカで起きた911の同時多発テロ。
この事件を世界中の人たちは犠牲者を悼んだはずです。
日航機墜落でも、知らない人の死を多くの人が悼みました。
阪神淡路大震災でもそうでした。

そこで質問です。

他人の死を悼むことは不自然なことなのでしょうか?
「人間は自分の愛する人の死だけ悼むのが、あるべき姿」
というのは真実なのでしょうか?

どうかご意見をお聞かせください。

※どうかここでの議論は控えてください。
質問自体が削除されかねません。
いろいろな人の意見を求めるのが今回の質問の意味ですので。

A 回答 (5件)

補足がありましたので、お答えいたします。


この辺になると、自分の死生観なども入ってきますので、一般論を模索する当質問にはそぐわないかもしれません。

私は「霊魂」「死後の世界」などを否定的にみていますので、「黙祷」に意味はないと考えております。
もし自分の「黙祷」で救われる御霊が存在するのであれば、幾らでもしようという気になりますが、今現在自身ではその存在を確信できていませんので、もう存在しないもの(無)に関して何を語りかければよいのかわからないからです。真摯に語りかけるべき対象が見当たらないのです。

もし戦争を体験した方が目の前にいれば、私はその方のために、その方が望むことを自分のできる範囲で叶えてあげたいと思います。二度と戦争の悲劇を繰り返さないよう、未来を担うものとして誓いたいと思います。その方が「祈ってほしい」と願うならば、私はその方の平穏のために祈ります。

霊界を知らない私にとって「死を悼む」「黙祷」という行為は、死者のためではなく、自分のためのもの(エゴ)なのです。エゴが許されるのは、心の底から悲しみ、願っている時だけであると私は感じております。

昔、近しい友人が亡くなったとき、私は心から「悲しい」「淋しい」「生き返ってほしい」「輪廻があるのならば、次は幸せになってほしい」と思いました。霊否定派の理屈をエゴ(感情)が上回ったのです。

このように、エゴが上回った時だけ、私は「自分が死を悲しむこと」を容認しています。

「人間は自分の愛する人の死だけ悼むのが、あるべき姿」のではなく「人間は自分の愛する人の死だけ本気で悼むことができる。それ以外は自己満足であり偽善的」というほうが近いかもしれません(偽善の否定はしません。偽善があるからこそコミュニケーションは円滑に回っているとおもいます)

私は恐らく少数派だとおもいます。
とりとめのない文章ですが、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

再びの回答、ありがとうございました。
私にも同じような考えをしていた部分があり、くどいようでしたが再回答をお願いしてよかったと思います。

少数派であるかどうかは別として、何度か読んでみたい回答です。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/09/22 16:51

「『人間は自分の愛する人の死だけ悼むのが、あるべき姿』という意見の人もいる」が、たぶん真実かと。


まあ、私から見たら冷たい人だなあ、とは思いますが、私の意見が正しいという保証もありません。中には愛する人の死にも慎まない人もいるかもしれませんし。
また、他人にもいろいろあります。
誰の目にも残虐非道な大量殺人を行った死刑囚の死刑執行に慎むことは自然か、不自然か?という問題もあります。これは怖くて答えられませんね(^^;どっちに答えても非難されるでしょうから。

まあ、ある「べき」姿、というのは理想であって、事実とは限らないわけですから、真実の理想と真実でない理想があるかどうか、という問題になります。その問題に関しては「知りません」としか言えません。すみません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

「という意見の人もいる」なら、私も理解できます。
「あるべき姿」で終わったら、「そうでないと異端」ということになってしまうでしょうから。

「あるべき姿」というのは理想だということも理解できます。
個人で自分を律するのはその方の自由です。
しかし、一般論として「あるべき姿」と書いてあったので疑問が残りました。

お礼日時:2009/09/22 13:49

>「人間は自分の愛する人の死だけ悼むのが、あるべき姿」というのは真実なのでしょうか?



真実だと誰が証明するのでしょうか?気持ちというのは見えないので、証拠もなく、証明しようがないと思いますが・・・。
なりふりかまわず悲しみ嘆く人もいれば、心の中で静かに悲しみをこらえる人もいます。見た目では「悲しみ」の度合いは計り知れませんので、すべて個人の取り方次第だと思います。

自分自身、他人の死を悼むことは「気持ちのひとつ」なので不自然とは思いませんが、気持ちの「重さ(同調度合い?)」は身近な人間か否かで全く違うと思います。

身近な人の死=深みのある、直接的な思いがある。悲しみが言葉では表現出来ない・言葉が出ない。かなりの精神的ダメージを受ける。

悲劇的事件などでの人々の死=ご冥福を願う(祈る)。悲劇に対し当事者またはご遺族に同情はするが、自分自身に精神的ダメージはない。だから、どうか成仏されますようにという「願い」や「祈り」となる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

「真実だと誰が証明するのでしょうか?」というのはその通りかもしれません。
だからこそここで質問したかったのです。
いろいろな意見があるでしょうから。

お礼日時:2009/09/22 13:45

私は、友達の大事な人が死んで(家族でも仲間でもペットでも)悲しんでいるときにかけるべき言葉が出て来きません。



私は亡くなった人に(交流があったわけでもないのだから)思い入れはなく、悲しんでる友達を見るのが悲しいというのは友達の悲しみとは外れたところにあるものだし、心配してることを伝えたくても本来の悲しみを理解してあげられない私の言葉は単なるエゴだと思ってしまい(エゴはエゴであるという自覚の元であれば決して否定されるべきものではないとはおもいますが)世の中そんなに穿ってないし、私がもし同じ立場にいてそうやって心配されたら感謝すれど不快に思うことはきっとないのだけれど、やっぱり出て来きません。言いたくない訳じゃなく、むしろ何か言いたいのだけどどうしても言葉にできない。というようなことにここ数ヶ月で何度か遭遇して、無力感を噛み締めております。

911テロでは、私の身近な人は亡くなりませんでした。
事件は悲惨だと思いました。事故に巻き込まれた人の家族や身近な人の気持ちを思えば、さぞ悲しく、無念だろうという気持ちにもなりました。けれど私はその日、普通にご飯を食べ、夜は寝ました。当事者だったらそんなこと、できないとおもいます。

第三者の死に対し「悲しいです」「心が痛いです」と安易に言う資格はないとの思いを、私は強く抱いております。言えば誰かの心が休まるというなら、もちろん言葉にしますが。

ただ、これは私個人の感覚であり、他の人の悼む気持ちを否定するものではないことを最後に添えております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

ひとつ伺っていいですか?
広島や長崎の原爆投下の日。
そして終戦記念日。

whitecomさんは黙祷なさったことはありませんか?
あるとすれば、それは「知らない死者を悼む」ということなのでしょうか。

お礼日時:2009/09/22 13:43

>いろいろな人の意見を求めるのが今回の質問の意味ですので。



いろんな意見があるもんだなあ…… で済む話ではないでしょうか?

どちらが正しいなんて決める必要はないんじゃないでしょうか?

まあ、「あるべき姿」なんて表現はこういう場所に合っていないってことが判っていないことが問題なだけで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

「いろんな意見があるもんだなあ」

確かにそうですが、みんながどう考えているのか。
それをもう少し回答を待ってみたいと思います。

お礼日時:2009/09/21 16:28

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