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第一の死は経験的な通常の死のことでしょう。この通常の第一の死からは誰しも逃れようがないことは明らかです。では、それに続く、第二の死とはなんでしょうか?
第二の死の意味がわからなければ逃れようがないのか、あるのかもわかりません。
第二の死とはどういうことあるいは意味でしょうか? 回答お待ちしています。

A 回答 (21件中1~10件)

No.12です



他の方々の回答を読んでみて

特殊死として、生活史全健忘(記憶喪失)がありそうですね。
経験の積み重ねで出来た今の自分が失われ、思考のパターンや知識 性格も失ったら、それは前の自分とは違う 今思考している私とは別物のような気がするので。

これはどうやったら逃れられるのか判りませんね。


宗教的?な考えでは 魂(意識?)が虚無に還ってもう二度と同じ構成で出来なくなった時 とも思ってます。
あ、記憶喪失と矛盾してる。でも宗教的な考えだからいいのか?
これは逃れられるものなんでしょうか?無理な気が・・・


他にも、別パターンで 魂が人である必要が無くなった時も宗教的には第二の死かも。
ただ与えるだけの愛情になったなら、人という枷は要らず 人格も必要ない ただそれだけのエネルギーになるんだから。
いや、どっちかというと世界に溶けたか、高位の存在になったと捉えるのかな?

あ、逆に人格が無い悪意や執着 絶望の塊になっても人でいる必要が無い状態か、これなら第二の死でしょうね。

逃れるのには・・・生き方ですね・・・
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとう。

<いや、どっちかというと世界に溶けたか、高位の存在になったと捉えるのかな?
あ、逆に人格が無い悪意や執着 絶望の塊になっても人でいる必要が無い状態か、これなら第二の死でしょうね。> 
そうなんです。この設問の皆様の回答の全てに一片の真理が含まれていると信じて考えると、
精神性が向上した状態(アッセションの状態)あるいは精神性が後退した状態(リッセションの状態)のどちらかを第二の死と言っているように思えます。これは見方が相対的だけのことですからどちらでもいいことですね。つまり、「第二の死」とは単に「精神性の状態」を表す言葉(標語)として使用されているだけであるように捉えるものかなと。そうであれば「死」に意味はなくなりますね。
黙示録のヨハネはかなりネクラの人物のようですからあえて言葉として、「第二の死」を使っただけではないかと思うに至りました。
日本では、「善人は死後、天国に行く、あるいは天国に生まれる。」「悪人は死後、地獄に行く、あるいは地獄に落ちる。」といいますね。このうち。「地獄に落ちる。」の標語が「第二の死」となっているだけなら納得はできますね。死後のことですから、「天国に生まれる。」「地獄に生まれる。」そのどちらでもない「彷徨える」状態がありますね。まあ、なんにもなくなる状態があってもいいですね。
そうであれば、当然「善人としての生き方が逃れる方法ですね。」
これは、中国の鳥か禅師が白楽天の質問に答えた天国に生まれる方法と同じ答えになりますね。

お礼日時:2014/03/05 08:59

キリストはラザロの復活のように、人を生き返らせる奇跡を行ったり、


自身が復活したことになっている。

つまり、聖書的世界観では、通常の死は、死ではなかった。
それで魂の死のほうが問題ということになった。

肉体の死より怖れるものがあった。

それが第二の死である。

これはバガヴァッド・ギーターで
クリシュナがアルジュナを説得する話に似ている。

基本的に、魂があることが前提になっているのだろう。
だからそんなもの無いという仏教とはここらへんが違ってくる。

仏教にとっての問題は第一の死であるが、
キリスト教にとっての問題は第二の死である。

たいていの人は、死んだらそれまでなら、もしくは肉体の苦痛から逃れるなら
死んだほうがいいとか、とか考える。

ところが、魂の存続を考える人々は、
死んだところで、魂をどうにかしなければと考えた。

これは絶望でもあり、希望でもある。
なにはともあれ、さらなる精神性をキリスト教は探求することになった。

ところがそのうち復活なんてのは信じられなくなった。
それで、精神性の回復だとかそういう話になった。

人間性の回復とか、そういうの。

それは戦争で疲れた人々にそれなりに役に立ったのかもしれない。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。

「ところが、魂の存続を考える人々は、死んだところで、魂をどうにかしなければと考えた。
これは絶望でもあり、希望でもある。なにはともあれ、さらなる精神性をキリスト教は探求することになった。」
キリスト教徒もそうあるべきですね。イエスがラザロを生き返らせたということがネックになって有物論的ゾンビ思想に成り下がっていますが、異端に近いヨハネの黙示録も、暗い表現(ヨハネの問題)とはいえ死後のイエスのメッセージですからもっと参考にすべきですね。
インドのクリシュナは釈尊よりも古い時代の人物ですから、「バガヴァッド・ギーター」にある
「アルジュナから助けを求められたクリシュナは、この肉体は滅びても永遠の自己は死ぬことはない
と諭す。」の話は、釈尊も学んでいたでしょうね。インドでは転生輪廻は常識ですから釈尊が特に強調することはなかったと思います。でもジャータカ物語の中に転生輪廻にまつわる話がたくさんありますね。

お礼日時:2014/03/07 10:24

すみません、せっかくのお言葉に甘えてご教示お願いします。


「善く生きる」ということについて伺えたら嬉しいです。
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この回答へのお礼

コメントありがとう。
「善く生きる」ということについて伺えたら嬉しいです。

○「善く生きる」とは、
この世を「生老病死」のある苦しい世界と見抜いて、その上で努力を忘れずに生きなさいということだと思います。
つまり、この世にとらわれず、かつ、あの世にとらわれない生き方ですね。
これは簡単に言えば、一人ではなく、いつも誰かがあなたを見守っていると思って生きればいいんですよ。
見える世界からも見えない世界からもいつもあなたを見守っているのですね。あなたが辛い時期は見守っている者も涙を流しているのですよ。あなたが嬉しい時は見守っている者も嬉しいのです。ただ、あなたがこの世を去る時まで声をかけられないのです。それが人に与えられた人生舞台という経験の時期なのです。
そういうことを信じて生きようとすればおのずと自らを律して生きることになりますね。そういかないときもありますが、そのときは反省すればいいだけですね。「善く生きる」とは決して難しいことではないですね。
中国のチョウカ禅師は、「心の」悪を押しとどめ善を押し進めよ。と言ってますね。それを聞いた白楽天はそんなこと子供でもわかる。と言いましたが、それに答えて、チョウカ禅師は三歳の子供でも分かることが、大人になるとわからなくなるんだ。と答えています。その通りだと思いますね。
いつもあなたを見守っている存在があるということを信じて生きれば、年老いても感謝の思いを忘れないですみます。どのような苦難困難があろうとも、感謝が「善く生きる」方向を必ず指してくれますから。

お礼日時:2014/03/07 09:48

No.18です。


このたびは親身にご教示下さり有難うございました。

>精神的なリセッションの状態をヨハネ風に「第二の死」とするのなら、リセッションの状態も段階がありますので、第二の死、第三の死・・とたくさんでてきますね。これを日本流に言えば、地獄の1丁目、2丁目・・と最新部までとなりますね。「第二の死」の標語が、天国にも無数の段階があり、地獄にも無数の段階があるというヒントにはなりますね。

mmkyさんが「地獄の1丁目…」と日本流に仰って下さったことがとても良かったです。
「地獄に落ちる。(生まれる。)」。「第二の死」。
遥か遠いことのように感じられる聖書の記述がとても身近に感じられます。
愚かというか浅はかというか、
いかに自分が字面の上っ面だけを追い独善的に思い込んでいるかということに気付かされます。

このような良き機会を与えていただき嬉しかったです。
そしてまた次回もご教示願います。
春は名のみの 風の寒さや
mmkyさんにおかれましてもどうぞご自愛ください。
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No.13です。

お礼を拝読しました。どうも有難うございます。

>火の池では厳しいので「彷徨う」としたのかもしれませんね。

はい、たしかにとても厳しいですね。火の池というものは。
そもそもどうして「《火》の《池》」なのだろうと思ってしまいます。
堕ちたら最期、出られそうもないような。。怖いですね。

ダンテが敬愛したヴェルギリウスの「アエネイス」や更に時代が遡るホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」には、死者が蠢く冥界の様子が詳しく記されています。

古えの先人たちは、その風土に即した形で、また個々の運命との抱き合わせで、様々に思い巡らしてきたのではないでしょうか。
現世の延長線上に来世があったり、現世との往来が可能なもの、はたまた二度と戻り得ない諦観らしきもの等々。
大河オケアノスの先には火の河や苦しみの河、悲しみの河、そして忘却の河が在るようですね。
(三途の川という考えも含め、河(川)には深い意味が込められているのでしょうか。或いは橋とか。)

>では第一の死後、何故さまよい続けることになったのかという別の設問がでますね。

はい、皆様がご存じのように古代ギリシアの冥界のありようは総じて暗いものだったようです。
それはやはり、死に対する恐怖と自らの死後に真摯に対峙していたからではないでしょうか。
時の流れは非情なもので、愛する人に対する途方もない悲しみを、(遺体を蝕む様子を通じて)jとんでもない恐怖心に変質させてしまうものでしょうから。

そして当時は「第一の死後」に関し、色とりどり豊かに百花繚乱だったであろうと察せられます。
人の身体や魂は元素から成立し死後分解され大気中に放たれるとか、天の絶え間ない動きと等しく魂も不滅だ不死だとか。

昔も今も根本的な人の営みにそんなに変わりはないのでしょう、けれども、死に向き合いそれを通じ自らの生を省みることに関して言えば、今の時代は希薄と言えますし、昔の考えをナンセンスと決めつけるのは不遜だと思います。
(その良し悪しというのはまた別の質疑になってしまうのかもしれませんが。)

また、死後冥界に留まる、あるいは彷徨い続けるという当時の素朴な考えに恐怖と虚無感を底無しに感じたからこそ、他方では魂の不滅や不死についての考えが人々の心に発露したのではないでしょうか。
時代背景に相応しく、またのちには終末的な救済論としての。

「第二の死」という言葉が「ヨハネの黙示録」に記され聖書として編纂されていることをふまえ、そのいずれの信徒の方々のお考えこそが、やはりこのご質問の回答として最もふさわしいもののように思われます。
(「死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」のくだりを読めど、私には神が癇癪をおこして何もかも投げ込んでいる、でも、天国はそのかぎりではない、ということ位しか想像がつきません。ノアの洪水の火バージョンと思いきや、「死も黄泉も」ですから、まさにジ・エンドで天国以外は「皆無」ということなのでしょうか。まったくわかりません。)

No.1さんのご回答にもあるように、信徒の方々は(逃れる術があるならそれも含めて)その解釈をご存じなのでしょう、きっと。

ロクな回答になっておらず、すみません。。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとう。
No.12のお礼に、質問者の理解を書いておきましたが、「地獄に落ちる。(生まれる。)」という意味をヨハネが「第二の死」と表現しているのかなと思うに至りました。暗い預言者ですから表現も暗いということですね。
一般的には、死後、「天国に生まれる。」、「地獄に生まれる。」、そのどちらでもないのが「彷徨う。」ということですね。霊界にある法則の一つに、「地獄からは人間として生まれることができない。」があるんですね。
地獄に生まれると、地獄から反省して天国に再度生まれないと人間として生まれることはできないのですね。段階が一つ増えるので、「死」を使ったのかもしれませんが、決してなくなることではないですね。
天国に生まれるためには善人の生き方をすればいいだけですから、それがヨハネの「第二の死」から逃れる方法ですね。
精神的なリセッションの状態をヨハネ風に「第二の死」とするのなら、リセッションの状態も段階がありますので、第二の死、第三の死・・とたくさんでてきますね。これを日本流に言えば、地獄の1丁目、2丁目・・と最新部までとなりますね。「第二の死」の標語が、天国にも無数の段階があり、地獄にも無数の段階があるというヒントにはなりますね。
みなさんの回答でなにかスッキリしたものを得たように思います。ありがとうございました。
今しばらく設問は締めずにおいておきますので何かあれば気軽に書き込んでください。

お礼日時:2014/03/05 09:36

解脱の話、勉強になりました。

維摩経にある菩薩の話にもあるように、輪廻から自由であるということなのでしょう。
ところで、人生を虚しく過ごさないためには、精神生活を豊かにする、ということを思いつきました。よしなしごとに翻弄されず、心の自由を保てたならば、充実した人生が送れるのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
解脱の件、余計なこと書いてしまいましたね。ごめんなさいね。
<ところで、人生を虚しく過ごさないためには、精神生活を豊かにする、ということを思いつきました。>
これは道徳的にも正しいことだと思います。でもまだ曖昧なのです。
例えば、この世を生きるにはこの世のルールに従います。第一の死を迎えるまでの法律や道徳観のことです。
第二の死というのはどうもこの世のルールに従うものではないように思うのです。では第一の死のあと、つまり肉体のない世界のルールはということなのではという考えに至っています。そこで定義されるのが第二の死ではないかと、他の回答のお礼にも書きましたが、例えば「死後、何故、彷徨っているの?」に通じるものです。それは他の回答のように「我ある」ことにこだわっているからなどなど、ヒントはあれど難しいですね。

お礼日時:2014/03/04 09:40

「第一の死は経験的な通常の死のことでしょう」と言いますが、私は他人の死ならばいくらでも見たり経験できるけど、自分の死は見たり、経験できないから、あるかどうか分かりません。


私たちはたいてい他人が死ぬのを見て、自分もあのように死ぬのだろうな、と考えているけど、つまり他人の死と自分の死を同一視しているけど、他人の死は生物としての死で、自分の死は意識としての死で、両者は異なります。
他人の死と自分の死が非・対称であることを知ること、そこから哲学が始まります。
私は自分が意識を持っていることを直接的に知ることができますが、他人が意識や心を持っているかどうかは分かりません。
たいてい、私が意識を持っているから、その意識を他人に「投影」して他人も意識を持っているのだろうと想像しているだけです。
しかし、私の意識や心を他人に「投げ入れて」いるだけだから、もしかしたら他人の意識とか心は私の意識の「変奏」かもしれず、他人の意識なんかなくて意識は私だけにしかないかもしれません。
だとすると私にとっての意識の死はただ一つ私にしかなく、他人にはない独特なものだと考えざるを得ません。
そして私が生きている限りは、まだ死んでいないし、私が本当に死んだならば、意識が消滅するのだから、私が死んだことを振り返って確かめようとしても肝心の私が゛いませんから、私が死んだことを意識しえません。
他人の死には、ここまでが生で、ここから先は死だという明確な境界線がありますが、私の死にはそのような明確な境界線がありません。
いいかえると、私にとって死は生の事実ではなく、見ることも体験することもできないから、あるかどうか分からないということです。
「第一の死は経験的な通常の死のことでしょう」という言い方が成り立たないということです。
経験できないのに、どうしてそれが「通常」と言えるでしょうか?
「この通常の第一の死からは誰しも逃れようがないことは明らかです」と言われますが、唯一その例外があり、それは私の死です。
だから「明らか」とは言えません。
どうして見たり、経験もできない私の死に対して「誰しも」という不特定多数の言葉が適用出来るでしょうか?
おそらく他人の死も自分の死も同じもの、同じ生物としての死と考えているからだと思います。
しかし、私の存在は他人とは代替できない固有のもの、単独者です。
他人に適用できるからと言って、その原則が自分にも適用できるかどうか分かりません。
他人が死ぬのを経験できるのは第三者の観点からです。
第三者の観点から見た人間は生物としての人間です。
生物としての死ならば、人類の歴史が始まってよりずっと何億人、何十億人の人間が戦乱や災害で死んだかしれません。
しかし、単独者としての自分は自分が生まれる前は自分は存在しなかったし、自分が死んだらもう二度とこの地上に現れることもない唯一のもの、固有のものです。
「私」と言えるものは、これまでどこにもなかったし、もしそれが消滅したら、もう二度と存在することもないでしょう。
その意味でいえば、私は「天上天下唯我独尊」です。
そしてこの私にとって死は意識の死で、意識は己の終わりを意識しえませんから、私にとって死というのは存在しないかもしれないし、あるかどうかは分かりません。
第一の死さえも、在るかどうか分からなければ、ましてや第二の死があるかどうかなんて、それ以上に分かりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
<そしてこの私にとって死は意識の死で、意識は己の終わりを意識しえませんから、私にとって死というのは存在しないかもしれないし、あるかどうかは分かりません。
第一の死さえも、在るかどうか分からなければ、ましてや第二の死があるかどうかなんて、それ以上に分かりません。>
そうですね。誰しもそうなんでしょうが、物理的な死は必ずありますよ。その時になって、この質問を思い出して考えて見てくださいね。

お礼日時:2014/03/04 09:21

 こんにちは。



 いろんな思想があるように見受けられますが ひとつの決まった主題として議論が成されて来た筋の捉え方もあります。それを 紹介します。

 ○ 【Q:《第二の死》とは?】 ~~~~~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html

 《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

 死〔に到る病い〕は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして立ち還るとき 死ぬものである。 
 ふつうの死つまりは第一の死は 死ぬものである。 



 たしかに わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに立ち還るとき 死なしめられる。

 つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。
 《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。




 あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 
 それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に限られて来るからである。物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として限られて来ることは 死〔という行き着く先〕によって限られることだからである。

 あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。



 われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。
 ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?

 かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
 あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。
 われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。

 心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。
 そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。

 
 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?
 ほんとうにそうか?
 それだけで 第二の死が起こるものか?
 果たして 第二の死は あるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
<われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。>
明快な回答ですね。ただ、そんな状態が起こりうるか、ありえるかについての疑問は同様にありますね。

お礼日時:2014/03/04 09:16

こんにちは。


ダンテの神曲や能などを思い浮かべ、第二の死とは死後も彷徨い続けることかしらと思いました。
これから花見の季節に向かいますが、今も昔も愛でる気持ちに変わりはないのかもしれません。
でも、かつては花見までの道すがらに殺風景で冥途に続く恐ろしげな場所が点在しました(「熊野」)。
信心深い昔の人びとにとっては、折につけ、今とは比にならぬほど死というものが身近なものだったに違いなく、彷徨うことや逃れる術について真摯に考え続けたのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
<第二の死とは死後も彷徨い続けることかしらと思いました。>
とても宗教的な回答ですね。そうかもしれません。第二の死という言葉はヨハネの黙示録20章にあるのですが、そこでは  「それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
「20:14 Death and Hades {or, Hell} were thrown into the lake of fire. This is the second death, the lake of fire.」」と書かれています。「火の池」をダンテがどのように解釈したかはわかりませんが、火の池では厳しいので「彷徨う」としたのかもしれませんね。
では第一の死後、何故さまよい続けることになったのかという別の設問がでますね。

お礼日時:2014/03/04 09:03

第二の死ですか?



自分が生きた記憶・記録、自身が他に与えた影響がすべて失われた時ではないでしょうか?
覚えている人がいなくなるだけじゃなくて、だれかに影響を与えたならその影響から生まれた波紋が消え去る時。

記憶があるうちは記憶のある人に影響を、記憶が残っていればそれを知った人に影響を与える事もあるかもしれない。この時はまだその人は世界に働きかけている。
誰かに与えた影響から何かが生まれたなら、それがある限りまた、世界に働きかけていると思うから。

人類が絶滅したら逃れられないし、大きな戦争があっても多くが失われるでしょうね。焚書とか起きると記録が失われるしね。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
<だれかに影響を与えたならその影響から生まれた波紋が消え去る時。> 完全に忘れ去られるということですね。同じような捉え方の回答は多いですね。

お礼日時:2014/03/04 08:53

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