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私は(というか人は誰でも)「食べる」という行為を通して、間接的に他の生物を殺生してきました。これは自然の摂理だとか食物連鎖だとかの一部だと言ってしまえばそれで済むかもしれません。でも家畜とか養殖の魚とかってやはり不自然ではないでしょうか?当たり前のことですが、人間が食べる作物を育てるために罪もない雑草の命を奪うという行為も、やはり人間の知により為せるものでしょうが、この1ヵ月半、農家民泊で農作業をしながら違和感を覚え続けました。

お聞きしたいことが2つあります。
(1)自然の一部でありながら、上のように自然を操作できてしまう生物として、どのように割り切って生きていったらいいのでしょうか?皆さんのご意見をお聞かせください。また、そういうことについて書かれた読みやすい書籍などがあれば教えてください。

(2)そして、今までこうした間接的・直接的(虫を殺すetc)な殺生をしてきたことに対して償いをしたいのですが、どのような行為が考えられますか?「植林」というのを思いついたのですが、あまり償いになっていないような気がして・・・

というかこの質問そもそもこのカテでいいんですかね?笑

A 回答 (16件中1~10件)

ここは一つ仏門にお入り頂くのがよろしいかと。



煩悩と殺生三昧の私にはそれしか・・・

「植林」だって、そもそも近隣の樹木の子孫が育とうとしていたかもしれない場所の雑草や幼木をはらって、害虫を駆除して育成した苗木を植え、下草を刈るのですね。
嗚呼なんと罪作りな生き物なのでしょう人間は(o^^o)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
植林がそういうことだというのは薄々わかってました(笑
砂漠に植林だったらまだいいかもしれませんね。

お礼日時:2009/10/10 23:28

ほとけに目覚めるというかようやく自分も自然の一部だと気づかれたようです。

ぜひ、仏教を勉強してください。釈迦尼仏の言われたことがわかれば悩みは消えると思います。興味を持ちたければ歌舞伎役者の中村勘太郎主演の「禅」をDVDで見てください。西洋流の自然を克服し、従えるという考えではなく、自然と共に生きる東洋の知恵を学んでください。仏教の十戒では最初に不殺生戒があり、西洋の神様と違うことも面白いと思います。私は殺生するなは自然の輝きを見よと言われたと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実は「禅」は劇場で観ました。仏教の入門書などにも手をつけてみたことがあったのですが、あまり気が乗りませんで・・・。

お礼日時:2009/10/10 23:44

(1)世の中には、答えのない疑問がたくさんあります。


   これもそのひとつでしょう。どうやっても割り切れない
   と割り切って、後ろめたさをもったまま生きていくと
   覚悟を決めましょう。

(2)これまで殺生をして生きてきたという罪の意識が
   あるなら、生き方を変えるのがいいです。
   これまでどおり罪を犯しながら、同時に償いを
   するのは矛盾しています。とりあえず殺生をやめるか
   減らす必要があります。
   まず肉食をやめてベジタリアンになりませんか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>後ろめたさをもったまま生きていくと覚悟を決めましょう。
その覚悟が決まらないんですよね。

>まず肉食をやめてベジタリアンになりませんか。
質問文に書きましたように、家畜も野菜も一緒に思えます。殺生をやめるには食べることをやめるしかないのでは?それはつまり死を意味します。正直申しますと、現在私の心はそちらに傾いています。

お礼日時:2009/10/10 23:51

「雑草」という言葉を使う時点で、殺生への償いという言葉は不似合いな気もするのですが。

「罪」とは、相手があって成り立つ考え方です。その相手に対してもし仮に敬意があるのなら「雑草」とは呼ばないはず。博物学者さんが一番嫌う言葉の一つです。

ということはさておき、2つの回答をします。
ひとつは、手塚治虫の「ブッタ」を読まれたことがないなら、倫理についての入門書として一度、読んで見られることをお勧めします。多くの人は、一度、思春期で迷い、答えを出してきたことが、いままで伸びてきてしまった部分があるのかもしれません。死生観について、見直すのは、自我の確立のためのひとつの行為だと思います。
行動の前に、内面で結論を出す必要があるのは、ご質問者のお考えの通りだと思います。

ひとつは歴史を紐解くと、人が殺生をすること以上の力で、自然は人を殺そうとしてきました。現代人は、すでに過去の人たちの業績で守られた環境で過ごしています。殺生について考えることができるのも、その余裕のひとつともいえるかもしれません。郷土や住まわれている土地の民俗史を調べてみられるのも答えに近づくひとつかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
おっしゃる通りですね。口だけで、草花のことを本気で考えられていないのかもしれません。

実は「ブッダ」はついこの前読みました。むしろ読んでからこういうことを考えるようになった、と言えます。自分の身近な人の死というものをまだ体験していないというのも大きいかもしれません。

民俗史も調べてみようかと思います。

お礼日時:2009/10/11 00:03

養殖を否定して植林というのもおかしく感じますけど。


特定の答えはないので考えてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
そうですよね。だから何か違うなと思ってまして・・・

お礼日時:2009/10/11 11:12

(1)


養殖について不自然と言われていますが、何か問題があるでしょうか?
正直食べられる側からすると、自然の中で暮らして狩られ食べられるのも、
養殖されて食べられるのも大差はないかと思います。
無論、養殖される側がその目的を明確に理解しているなら話は別ですが
その辺は牛や魚に聞かないと分かりませんし、植物に関してはそもそも
意識があるのかどうかから考えなくてはいけませんし…。
また、「罪もない雑草の命を奪う」という内容についてですが…、
そもそも罪とはどういったものでしょうか?
個人的には「人間社会で生きていく上で、不都合な行為を行った事実」
と考えているのですが、質問者様の場合「生き物を殺す事=悪い事」
という考えが行き過ぎており、「罪と言う名前の存在しない何か」を
作ってしまっているように思えます。

(2)
この場合の償いの対象というのは何になるのでしょうか?
殺してきた動植物そのものであれば、償いのしようなど無い様に思えます。
なにせ対象は既に死んでいる訳ですから…。

また、不自然な行為による環境破壊等の歪み、と考えるのであれば
植林でも構いませんし、何かしらの環境活動などへの参加も良いかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私には差があるように思えます。
植物にも意識があるという話も最近聞きました。

>なにせ対象は既に死んでいる訳ですから…。
そうなんですよね。結局・・・

お礼日時:2009/10/11 11:18

殺生という言葉は現在死語に近いと思います。

またこの殺生という概念が重要な位置を占める仏教の教えの中にも植物に対しては直接殺生という概念は適用されていないと想像します。近頃の分子生物学では動物の植物も生物であることには違いがないということになりますから殺生という概念はいったんとりつかれると仏教よりももっと厳しい状況になると思います。唐突ですが、殺生というのは金のためなら何でも殺すというのが現代的殺生ではないでしょうか。カネにならないからと言って食べられる弁当や栽培作物をごみ箱に放り込むようなことも殺生ですが、返せない金を貸し付けて借りたひとを自殺に追い込むのも殺生ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教でも解決できませんか・・・。
お金で回っている今の社会は嫌いです。

お礼日時:2009/10/11 11:22

たぶん、葛藤があるのは西洋の考え方と東洋の考え方の両方を満たさなければと思われているかもしれません。

償いという思想は西洋的ですし、不殺生戒は東洋的です。私は不殺生戒は微生物まで含んでいると思います。病原菌に殺菌剤を用いるのも殺生です。植物や微生物も生き物です。西洋では黒人が神の使わしたけだもので人間が楽になるために人間の格好をした生物を神が遣わせたと考えて奴隷制度がありました。人間のためなら殺生はおろかレイプでも殺人でも許される西洋の神様は我々にとって理解不可能です。命が循環しているので命を絶つと人間の命にも影響しますよとフッダは教えられました。西洋の考えでは地球環境がダメになる現在、正しい教えと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
不殺生戒を突き詰めていったら手も洗えなくなりそうですね。

お礼日時:2009/10/11 11:28


自然の摂理ですが人間の場合草食でも生きていける。
現在の食生活・文化は贅沢に間違いない。
疑問を感じるなら草食にすればいい。

無駄な公共工事等、自然破壊反対運動に参加することですな。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですよね。というかジャングルで暮らすのが一番でしょうね。

お礼日時:2009/10/11 11:30

No.6です。



前回の回答ですが、言葉が足りない部分があったので補足をいれます。

飼育されている動物が自分の立場を正確に理解し、重度のストレスを受けているかもしれない。
栽培されている植物や間引かれる雑草が明確な意識を持っており、且つ人間と同じような精神構造を持ち、現状を認識しており、その上で現状を悪いものと考えているかもしれない。
質問者様の罪の意識には、このような悲観的な多くの「かもしれない」の上に成り立っているものと思われます。

しかし、「かもしれない」と言うのであれば、逆に
外敵に襲われる心配の無い状況で飼育されている動物たちは、最終的に殺されるとしても、その現状を認識しておらず、外敵に狩られたり、飢えて死んだりする野生動物より案外平穏な生涯であったかもしれない。
植物についても、そもそも意識がないかもしれない。
また、あったとしても人間とは違う構造であり、食べられる事・死ぬ事に対して人間ほど強い忌避感を持っていないかもしれない。
栽培される植物に関してはむしろ生息域を大幅に広げているものもあり、現状を良しとしているかもしれない。
等など、人間に都合の良いかもしれないもあるかもしれません。

しかし、これらの「かもしれない」はあくまで可能性に過ぎず、その実態を正確に把握できない我々にとっては手に余る領分であり、手を出す必要のない事柄ではないかと思われます。


また、前の回答でもお話しましたが、お話を読んでいると「不自然」という言葉に些か過剰に反応しているような気がします。
これは質問者様だけでなく世間一般にも言えることですが、どうにも不自然という言葉に対して反射的に悪いものというイメージが浮かんでいるような気がします。

個人的には、不自然に対するデメリットとして考えられるのは、
これまで自然界で絶妙なバランスを保ってきたものについて、人工的な手を入れることでそのバランスが崩れる危険性がある事。
(例:特定の人口甘味料など自然界に存在しなかった物質を口にする事により人体に予期しない影響が出る、等。)

くらいしか思いつかないのです。
しかし、殺す事に関して言うのであれば、自然環境の中で生きたままハラワタを食べられるのと、炭酸ガスで気絶させられされるのとでは、どれほどの違いがあるでしょうか?
それに不自然な殺し方に罪があるのであれば、自然な殺し方なら罪は無いのでしょうか?

質問者様がどのように認識しておられるかは分かりませんが、もし不自然という言葉に対して曖昧な部分があるとするのであれば、まずは不自然とはどういったもので、不自然の「何」が「どのように」悪いのかを考えてみてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
私の考えの曖昧さを丁寧にご指摘くださり、ありがとうございます。
考え方によっては、今の人間の過剰な開発・環境破壊も自然のなりゆきとも言えますものね。
「手に余る領分」であることがようやくわかってきました。

お礼日時:2009/10/11 20:06

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