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秀吉は毛利をどう傘下にしたんですか?
本能寺の変で明智を討つため、合戦中も毛利と和睦しますが、そのあとそれで勝てないとわかって毛利が降伏したんでしょうか?
それとも攻めて降伏したんですか?

A 回答 (5件)

確か、秀吉得意の兵糧攻め(水攻めだと思ったけど)の最中に本能寺の変があり、秀吉があわてて和睦の条件を出し(主人の切腹)て、毛利が、降伏という流れになったと思います。

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>本能寺の変で明智を討つため、合戦中も毛利と和睦



旗色の悪い毛利軍の”清水宗治”の首と引き換えの和睦のことでしょうか?

>勝てないとわかって毛利が降伏したんでしょうか?
>それとも攻めて降伏したんですか?

形としては降伏しましたが、攻められた訳ではありません。また、降伏の見返りとして”毛利輝元”が五大老になったはずです。
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織田信長が本能寺で斃れたのを先に知った秀吉は


それを隠し、毛利と一時的に和睦して、歴史上有名な
「中国大返し」によって、天下を取る階段を駆け上った
のでした。
和睦直後に信長が死んだ事をしった毛利は、直ちに秀吉
の後を追い、背後から攻められた筈です。
しかし、あえてそれをしなかった。
それは、ここで秀吉に恩を売っておくのも悪くないという
判断と、毛利氏には天下を狙うべからずとの家訓があり
また当主も天下人の器では無かったことが挙げられると
思います。
天下を狙うつもりがないのに、秀吉と争う事は愚かな
事です。

見方によっては降伏でしょうが、本能寺の変後は秀吉を
立てた、あるいは争わなかったという事かと思います。
その見返りとして、大領を安堵され五大老の1人として
の栄誉も得ました。

双方の利害が一致したということではないでしょうか?

以上、つたない講釈でした。
(^^)/~~~
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そう言われてみると、「中国大返し」から山崎の合戦以後


毛利家はあまり歴史の表舞台に出てきませんね。

秀吉と毛利家の外交交渉は「安国寺恵瓊」が取り仕切っていたそうです。
彼は、後に秀吉によって大名として取り立てられたぐらいですから
秀吉に対してシンパシーを感じていたのでしょう。

また、毛利家の基本方針として、天下を狙わずに家名存続を優先していましたので
秀吉と雌雄を決するような事はせずに、中国地方のリーダーとして
秀吉政権に参画する事を目指したのかも知れません
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たしかに興味深いテーマですね。


多くの歴史小説では「勝者」となった秀吉側にスポットライトがあたっており、毛利側の状況についてはあまり確かな認識はないようですね。

定かではありませんが、確か秀吉との和睦のとき、すぐさま毛利方にも「本能寺の変」についての情報は入ったようです。もし、毛利方が後を追いかけようとすればできる状況であり、実際、当主の毛利輝元のおじであり、毛利全体の意思決定をしていた、「吉川元春」などは主戦論を主張していたようです。しかしながらここでもう一人、元就の子供で輝元のおじである「小早川隆景」という人が慎重論を展開し、彼の主張が通ったようです。

その根拠としては先に述べた方のとおり、「これからは秀吉の時代になるだろう。」という推測があり、今のうちにはっきりと秀吉支持の姿勢を見せておくべきだ、ということであったようです。おそらく、実際に剣を交えてみて、感じるところがあったのではないでしょうか。それは推測するしかありません。結果論になるかもしれませんが、その読みどおりになりましたし、その判断は正解だったといえます。

しかし、実際にその場にいて、慎重になれるかといえばなかなか難しいものがあると思います。そうした意味では「奇跡的」といってもよい判断だと思います。
この人は後に四国征伐、朝鮮出兵でも活躍をし、秀吉の大きな信任を得て「五大老」にまで取り立てられます。なかなかの知恵者で、多くの大名にも慕われたようです。自分はこのことを主として司馬遼太郎の小説で知りました。

名前しか知られていないのですが、もっと研究されてもよい人物だと思います。
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