プロが教えるわが家の防犯対策術!

な~~~~がい不況が、続きますが、
年も変わるし、久々に、輪行をしなけりゃぁ、と。
冬は、東に向って、自転車漕いで、電車で帰るのが一番ですが、
東海道は、ほとんど行ったし、おっと、鎌倉があった。

さて、私は、以前に二度ほど鎌倉を訪れているはずですが、
ふと、私は、なにを頼りに鎌倉にたどり着くことが出来るのだろう、と考え込んでしまいました。

普段、駅までの道のりは、迷うことなくたどり着けますが、その際、私は、周りの景色を覚えているからたどり着けると、単純に考えていました。では、私が鎌倉にたどり着くためには、その経路をすべて覚えていなければ、いけないのでしょうか、ばかばかしい、鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。

しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに、普段駅に通う延長として、鎌倉にたどり着くことが出来るのか、そして、仮にたどり着いたとしても、そこが鎌倉であると、言語抜きに確信することは出来るのだろうか。

二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。
どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。
記憶力の衰えを痛感しつつ、お馬鹿な質問でした。

A 回答 (34件中21~30件)

>例えば、本棚の本の背に、赤い帯が付いているのですが、これを見て赤いと思う記憶、



ここが謎の部分だと思うんですが、古典的分析では知覚は感覚と追憶で成り立っていると考えます。しかし、メルロ・ポンティは次のようにそれを批判します。

「追憶が知覚を補うためには、まず現に与えられているものの表情によって、追憶が可能にされている必要がある。すなわちこの考え方は、追憶によって説明されるはずの所与形態化を実は前提している」

ここがいわゆる知覚における換喩的構成と言われる問題だと思うんですが。

中山元さんの思考の用語辞典から引用します。

「鉛筆はながいものである」といったとたん「鉛筆」という概念と、鉛筆という「事物」が混同されるとニーチェなんか言うんだ。でも総合的な判断は人間の経験的な認識そのものだから、ニーチェはぼくたちの認識が根本的に換喩と誤謬推理でなりたっていると主張していることになる。
「総合判断はひとつの事物をその結果にしたがって記述する、これは本質と結果を同じものと見ることだ。これはいいかえれば、ひとつの換喩に他ならない。
だから総合判断の本質のうちに、ひとつの換喩がある。要するにこの判断はひとつの誤った同等化なのだ。すなわち総合的な推論は非論理的である。わたしたちが総合的な推論を用いるときは、通俗的な形而上学、結果を原因とみなす形而上学を前提としている」(ニーチェ・生成の無垢)

もうひとつ。

認識において言語より前に比喩や象徴がはたらいていることは、カッシーラも「シンボル形式の哲学」で言っている。知覚はたんに受身で事物を知覚するんじゃなくて、すでに事物に意味を与えるはたらきだというんだ。もし「言語はこの最初の意味作用を引き継ぎ、それを全面的に展開し、完成するだけ」(シンボル形式の哲学)だとすると知覚がシンボルによって認識したもののなかで、もう意味と判断がそだっていることになる。

過去の想起についてはまた書き込みます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
ちょっと複雑になってきましたね、メルロ・ポンティも大森もベルクソンの影響が結構ありますから、ベルクソンと言えば、『物質はイマージュの総体である』ですから、大雑把に言えば、知覚と物質の混合物としてのイマージュでしょうか。

ただ、私としては、もう少し単純に、私たちが直接経験する事実に基づいて、それこそ、あまり新しい言葉や新しい概念を導入することなく、ふつうの日常語で語れる範囲で考察を続けたいと思うのですが。

例えば、今、赤いものが見えるのですが、この赤いものが見える、と言う事柄は、私が、頭の中で声を出さずに「赤いものが見える」と言うのと、別の事柄なのか、単に、何も考えずに、そこに赤いものが見えている、と言う事は、そこに私をして赤く見させる何かがあるわけです(例えば本の帯)。しかし、眼を閉じてしまって、いくら頑張っても目の前に赤い色は出てきません、そうすると、赤い色を見て、赤いと言う言葉につながる通路が見つからないのです。つまり、色とかイメージの記憶とか、ですから、赤いと言うのは、思い出して再現できる記憶ではなく、単に照合・検証するだけなのか、しかし、照合・検証する根拠とはどこにあるのか、と言った堂々巡りですね。結局、残るのは、痛いと言う事は、子供の頃から、怪我をしたりした時、これを痛いと言う言葉で表わすのだなと、何度も何度も繰り返した結果であると同様に、色についても、同じことなのかもしれません。でも、じゃあ顔は、道順は、これも繰り返しで説明できたとすると、今度は記憶自体の居場所がなくなりはしないか。

与太話は、此れ位にしておきます。色々お付き合い頂き有難うございました。

お礼日時:2009/12/06 17:20

 我々(鼠)は、記憶する事柄を一々言葉に置き換えて、してはいません。



 人間が必要とする「学校」なんてないのです。

 そんなもの(学校)なくてもちゃんと学習します。

 我々は、“動物”ですから。
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この回答へのお礼

いざ鎌倉!の号令に、鼠さんも参戦ですか。

鼠さん、教えてよ。人間が迷路実験で遊んでいるけど、どこを走り回ったのか、例えば臭いとかで覚えているんじゃないの、ほんとのこと言ってよ。鼠さん(笑。

有難うございました。

お礼日時:2009/12/05 10:24

補足を拝見いたしました。



現実の知覚というのは実際には非現実のイメージによってその枠組みあたえられて知覚として成りたっているわけですね。
だから毎日通う駅は半分目を瞑っいてもたどり着くことができます(笑。

仮に想起を概念的、反省的、分析的認識であるとしてもやっぱり直観的、感性的イメージがないと「ここは鎌倉だ!」という確信は生まれないような気がします。
つまりイメージによる認識と概念的認識は分離しているのではなくて混在しているのではないか?

また書き込みます。
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この回答へのお礼

再度のご回答、有難うございます。お手数をお掛けして、申し訳ないです。

偶然ですね、私も同じようなことを考えていました。
鼠と遊んだり、他のご回答者様の回答を読んでいるうちに、記憶に関して、変なことを見つけたんですね。記憶を言語的過程と言う立場で画像記憶とかイメージ記憶を攻撃するためには、不利な材料なのですが、色の記憶とか、顔の記憶とか。
例えば、本棚の本の背に、赤い帯が付いているのですが、これを見て赤いと思う記憶、つまり、知覚に付随しているような記憶と、下のほうで、物理学者さんが、山登りの記憶を思い出しているような場合の記憶が(もちろん山を降りた下界での方ですが)ずいぶん違った記憶のような気がします。前者の赤いと言う記憶は、現在の知覚と照合している記憶で、後者の記憶は、過去想起と言われるものです。この二つの違った記憶の混同が、大森の言う「知覚未練」にふと繋がる様な気がしました。

ご回答者様と、言葉の表現が少し違いますし、また二分法の罠にかかっているのかもしれません、もう少し検証してみる必要がありそうです。例えば、違うものが混ざり合うと言うことは、論理的におかしくないのか、とか。或いは、混同と混在では、意味が正反対なのか、とか。

とはいえ、面白い収穫ですね。

お礼日時:2009/12/05 10:16

話が関係するかどうか、心許ないのですが、「流れを渡った向こう岸」という概念を重ねて読んでしまいます。



「三途の川」でも、「春の小川」でもいいのですが、「向こう岸(彼岸)」というものを未だかつて見たことがない状態で、「どこか」に辿り着いたとき、そこが彼岸であると確信することができるのかどうか?
特に地球のような球体の表面を流れるような川の場合、地球をぐるりと反対側から一周してくると、「川を渡ることなく」向こう岸に着いてしまう。もし、そういったことができるのなら、そんな反則技をしてまで、過程よりも目的地への到着を優先するのか?などと、考えてしまいます。

さて、地球を逆方向に回るといった反則技は別として、「川を渡る」といった概念で彼岸に辿り着こうとするならば、こちらの岸からあちらの岸といった方向のみに頼らざるを得ない。。。

即ち、「向こう岸へ」という「方向性」と「川を渡る」といった「手段・方法・状態」とが組み合わさって、はじめて彼岸への可能性が生み出されうる。。。

彼岸があるにせよ、ないにせよ、小川が大海であるにせよ、ないにせよ。。。

言葉の指し示す先の在・不在に関わりなく、そこに川があり、此岸がある限り、此岸を離れなければならないなら、その方向へと向かうのでしょう。。。
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この回答へのお礼

含蓄のあるお話を、有難うございます。
私の場合は、川よりは、
「山のあなたの空遠く・・・」でしょうか、
確かに、反則技を使うよりは、山を越すという過程に魅力を感じますね。

しかし、山の中で道に迷うと怖いですね、視界が狭いですし。
そういう意味でも、どの様に道順を覚えているのか、本当の所、どうなんでしょうね。
但し、目的地を無視して、道順だけ考えても、しょうがない訳ですね。
さて決まり文句です。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:50

訂正:



誤:そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。

  言語抜きであれば 確信できるかもしれません。


正:そういう意味で 言語で確信することは出来るでしょう。
  というより、言語では確信することしか出来ないと言えるかもしれません。

  言語抜きであれば 認識できると言えます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
やや、判り難いですが・・・
あれですかね、確かこの間読んだ本にも載っていたのですが、ラッセルが「かりに、この全世界が二十年前(何年前でも何秒前でもいいけど)今と全く同じ状態になるように創造されたとすると、それが正しいか誤っているかを調べる手段は論理的にはありえない」と言ったことと関係があるのかしら。

お礼日時:2009/12/05 09:25

 そこに「鎌倉」という標識が立っていたとしても それがマチガイであるかも知れず



 そして皆が「ここは鎌倉です」と言ったとしても、皆が勘違いしているか あるいは 皆がだまそうとして嘘を言っているかもしれません。

 そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。

 言語抜きであれば 確信できるかもしれません。


 もし 的確な回答でないと感じられるなら、
 もっと率直に質問していただければ もっと的確な回答ができるかもしれません。
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この回答へのお礼

では、決まり文句です。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:27

人は、鎌倉に行きたくて鎌倉に行くわけではなく、鎌倉に行けば、いい余暇が過ごせるから、あるいは住みたくなるような場所であるから、あるいは昔の思い出が、あるいは友人が、あるいは・・・そのように思って、鎌倉(=地名)を目指すことによって、命題(=目的)を果たしているのではないでしょうか。



そしてその命題が真であるかどうかを問える(知ることができる)のは、その人自身ということではないでしょうか。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

し、し、しまった。
うっかり、鎌倉大仏を検索したら、いきなり大仏様の画像を見てしまった。
下で書いた、中へ入れる話、ひょっとして勘違いだと恥ずかしいなと。

鎌倉での知人・知り合いと言えば、鎌倉大仏さんだけだったのに・・・これでは記憶の正しさを確認する目的の実験に、余計なバイアスがかかってしまう。しまった。
それはさておき、ご回答有難うございました。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:24

 言語活動に頼らなくても“鎌倉”へ行けるのは、“既知の世界”だから。



 未知の世界なら、そこが目的地であると、どうしたら分かるのでしょう。

 以下は連想です。今回の質問に関連するかどうか。

 ☆「砂漠のど真ん中に一人立ったならば、ここは“砂漠だ”と思うばかりです。」
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この回答へのお礼

成る程、鎌倉へは行けそうもないですね。
問題は、既知の世界にも、ありそうですが。

砂漠のど真ん中に、突然現れるわけではなく、何処かからやってくるのだと思います。
何処かからか来た記憶があっても、砂漠の中では、どこから来たのか分からなくなって立ち往生でしょうか。
有難うございました。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:23

>鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。


>しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに

空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

この回答への補足

色々な誤解を解く為に、他の回答者様のお礼よりも優先して、こちらの補足要求に、お答えしたほうが良さそうな気がします、皆様のご理解が頂ければ幸いですが。

さて、今回の「いざ鎌倉」を「いざ記憶」と読み替えていただいても結構です、では、なぜ「いざ記憶」ではいけないのかというと、同じ質問を過去にしているからです。ではなぜ同じ質問をするのか、と言えば、当時、鉄壁の主観の壁の前で、立ち往生した時より、新しい新兵器が見つかったからです。

当時同様、今回の問題も、「記憶とは何か」と言った一般的な問題ではありません、このような難問に真正面から突っ込むほど、私も無謀ではありません。漠然と記憶云々と言っても、埒が明かないのです。この質問での目標は、前回同様、イメージは記憶されるのか?つまり、「記憶とは何か」と言った漠然としたことではなく、なにが記憶でき、何が出来ないのか、と言うことを、少しでも明確に知りたいのです。
例えば、私たちの常識では、イメージと言うものは記憶しているはずです、でなければ、他人の顔をどうして覚えることが出来るのでしょう。
しかし、一方に、記憶を言語的なものと捉える見方も出ているようです。その一つが、大森の「想起」つまり過去を思い起こすことです。さらに「知覚未練」イメージを記憶していると思いたがる傾向、とでも言いましょうか。そして、新兵器として、「見つめることが出来るか」と言う問いかけです。現実の知覚は、ぼんやりしていた部分に注意を払うことによって、詳細に見つめなおすことが出来る、と言う事です。それに対して、想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。

そこで第一に、皆様方が、イメージを記憶していると言って、それは一体なにを言っているのか。

恐らく、現実の知覚のように、見つめれば新たな発見ができる、と言ったような、記憶の想起は、論理的に言っても矛盾します、皆さんはイメージを記憶している、と認めるとき、それが本当に、イメージなのか、イメージを装った、言語記号の一種ではないのか、と、疑ってみていただきたいのです。

イメージと図式の区別と言った、難しい問題もあります。不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、イメージとなると、個人差がありそうなのです。

記憶は、他に、運動記憶とか無意識・暗黙知と言った難しい問題もありますが、取り敢えず、意識に昇る部分だけでもはっきりさせられないのか、と。

>空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

以上が、貴殿の補足要求から得た収穫です、今回の質問時では、イメージと図式の区分という問題が欠落していて、イメージと言語過程の二分論的意識が質問者に「未練」として残っていたのかもしれません。

そこで、
補足要求に対して、
もし仮に、記憶が言語的な過程であるならば、ご質問者と同じ立場に立てるわけです。

イメージが記憶できずに、記憶は言語的過程であるとすると
>空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

但し、カントの言うように、空間を「先験的形式」と言ってしまっては、そもそも経験、つまり、記憶に関しては、知りえない、と言う事に成ってしまうのではないでしょうか。

私は難しいことを聞いてはいません。
「あなたは何を憶えていますか」
それを説明することが難しいと気が付いた上で、教えて欲しいのです。

さて、それでは、私は週末に、鼠退治ですが、どうなる事やら、困った事です。

補足日時:2009/12/02 18:56
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脱記号の冒険は徹底的にやりぬくことで、世界の良識を敵に回して快哉とされたい。



卵を潰し気味にすっくと立てて出発の合図、一夜明けると蒙古船が消失たる勢いで道中の万難をやすやすと繰り抜け、
こんなに日数がかかるはずがないと思いながら、名にし負う山海の風光明媚と八幡宮の屋根が見えたなら、
そこはもう何があっても鎌倉でよろしかろう。
ごっそり地上げして鎌倉海岸や鎌倉山と称し、宅地開発して鎌倉ヒルズ鎌倉レジデンスと銘打ち、
後世の人々を、めくるめく「あれ、鎌倉が二つあるよ」とか「鎌倉論争」だとか中世史の綻び戦乱史の矛盾へ誘ってください。
ヴィトゲンシュタインと体系的歴史学は融合しうるか。。。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

過日、東海道を、自転車で走った折も、湘南海岸のマンション群にどきもを抜かれて、藤沢方面、箱根駅伝のコースへと舵を切ったため、鎌倉へは行けなかったのです。最初は中学の修学旅行、その後は、あれ、二回だっけ、大仏の中に入ったのは、むにゅむにゆ、あぁ分からなくなってきてしまった。それこそいざ鎌倉!でしょうか。

ところで、脱記号の冒険って、もぅ一つぴんと来ないのですが。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 05:50

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