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1995年の阪神淡路大震災について、経験談などがありましたら聞かせてください。あの日起きたこと、その後の経過やこの八年間であったことなど、不安や怒りは言葉では表せないようなことませんが、さまざまな視点から震災について知りたいのでお願いします。

A 回答 (8件)

あれは、僕がアフガン取材から帰ってptsdからカメラマンとしてほとんど開店休業状態になって3年後のこと、東京でニュースを聞き、丸1日半の後には、六甲山への山道を西宮からたどっていました。


 山頂に近づいた夜、はっきりと区切ったように、ブラックアウトしてる夜景が目にはいりました。山道が段差1.5メートル程の隆起断層でちぎられてました。
 土嚢と板を渡して通れるようにしてあり、近くに自衛隊のジープが停車して盛んに、無線連絡を各所と取り合ってた様子もみました。
 AMラジオでは、「どこそこのだれそれさんから、無事ですどこそこにいますとのおたよりです」というようなメッセージが延々と何十何百件と放送されてました。

明石出身のマック鈴木投手が「ボランティアに行きたいが、行くことで却って迷惑をかけるかもしれないので、野球に専念するとコメントしてました。
 それは正しい判断だったと思います。

2ヶ月後、再び、被災地に入りました。
 大阪府が被災者に無料開放したと報じられた公共宿舎についての詳細が報道されないのにごうをにやして、電話取材だけで、恨ミシュラン的変更報道かもしれないけど、ガイドブックレットを作って被災地のいろんなところで配り歩きました。
 しかし、飲食店などに、置いてもらおうと思って、暖簾をくぐっても、あの、ボランティアでっというだに、塩撒かれるような扱いで、「うちはほかでやっとんねん」と、いわれました。悪いのは彼らではありません。ボランティアと名乗って、被災者である彼らから金をせびりまわってたグループがいたらしいのです。
 「あの、無料のガイドブックを作ったんですけど」そう言ってきりだすようにしました。

話はかわりますが、その10年ほど前には一緒に、韓国の被差別農村の農道工事ボランティアに行ったあるグループが、その時してたことを知り、悲しい思いをしました。
 彼らの報告会では、彼らが被災地の中の避難所に入り、教室をあてがってもらって、被災者の自治組織の指導下で手伝えることを手伝っているという報告でしたが、報告写真の一番に出てたのが、「教室に入りきれず、廊下で眠る被災者たち」という写真でした。
 君らが教室譲って廊下に寝るべきじゃないのか??

前述の一人ボランティア「ブックレット配り」を始めたのは、彼らと合流することを、良心が拒んだからです。

しかし、憤ってばかりいたのではありません。
 「あいよ」っと言って、ブックレットをおいてくれたおすし屋さんらのキップのよさに感動しましたし、ネットの存在を知ったのもその活動がきっかけです。
 特にニフティで釣り関係や料理関係の掲示板をやっておられた方々にはすごく助けてもらいました。

あの体験がなかったら、僕は今、パソコンの前に座っていなかったかもしれない。

必ずしも良い結果を残してるとは言えないものですけど、「僕の人生」をある意味、強く、方向付けた、事件でした。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。一人ボランティア・・・すごいですね!行動力見習いたいです。中学生ながらテレビにかじりつき一つ一つの出来事を親に聞きながら見ていました。何かできるのではないかなんて。結局行動には結びつくようなことはありませんでしたが、今でもできることがあると思います。それを見つけるために質問させていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 18:48

淡路島の見える神戸の西の端垂水区です。


布団の上に座ってちょっとメモを取っているとき庭に隕石が落ちたように10センチほど飛び上がって、夜が明けたら見に行こうと思いました。立て続けにゆさゆさして、地震だと気づき、電気ストーブを消そうとしたら勝手に消えてました。次に停電になって、寒いので布団にもぐろうとしたら布団の上が物だらけで私の体に何も当たらなかったのが不思議でした。震度5以上だと思いました。

手探りで服を掘り出して羽織り、10分以上ゆれがきつくて立とうとしては立てずにいました。ちょっと余震の頻度が落ちてきたので雨戸を開けて外を見ると淡路島に灯が点ってなくて紀伊半島に灯が見えました。

電気の復旧は夕方、水道は1週間、ガスは1ヶ月。水運びが疲れました。通勤もずいぶん歩いてちょっと後遺症らしきものが残っています。お風呂屋さんめぐりしました。どこも混んでいました。当日から近所のコンビニも営業してくれてうれしかったです。ほとんど歩いていける範囲で買い物しました。

家屋に損傷がなかったので経済的な損害は少々でしたが、近所でも地盤のゆるいところに立っている建物にはひびが入りました。
垂水区では死者や全壊はなかったと思います。断層の走っている東のほうがすさまじかったです。東から西から物資が届くので中央の長田区あたりが品薄でおむすびの取り合いも生じたとか、気の毒な限りでした。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。被災時はご苦労様でした。こんな言葉で済ましてはいけないかもしれませんが、そのときの苦労は大変なものだったと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 19:00

神戸生まれ・神戸育ちで、震災当時も神戸に住んでいました。

震源地の真北・垂水に住んでいたのですが、断層が東にそれて行ったので、長田や灘・東灘といった地域よりは被害は大きくありませんでした。

当日の話をしますと…
その日、大学の学期末試験初日にもかかわらず前日に風邪を引いてしまい寝ていたのですが、揺れる数分前になぜか目が覚めてました。最初「カクン」っていうような感触があって、「ん?」と思った次の瞬間、大きな縦揺れと横揺れ。
何がなんだか分からず、揺れが治まってからそばに置いてあったケイタイラジオから情報収集してましたが、直後のニュースで神戸がまったく出てこなかったことに、(これはえらいことになってるな…)と察知しました。
2~3時間後に電気が復旧してテレビをつけた時、声が出ませんでした。見慣れた風景の見るも無残な光景に。これが今の自分の住んでる街なのかと…。
10数キロ東の須磨区に(母方の)祖父母の家があったのですが、午前2時頃まで電話が繋がらず、火の手が100~200m手前まで迫ってたと話してました。

大学の期末試験は翌週から再開となり(その週の試験は4週後に順延)、試験の間は帰れないので大学のセミナーハウスで寝泊りさせてもらえました。
大学からの帰り、JR神戸線は断線してるので、大阪から福知山線で谷川へ行き、そこから加古川線で加古川へ、そして山陽線で垂水へと帰りましたが、その時の混雑ぶりは、大変なものでした。「終戦後の買出し列車」と表現すれば想像に難くないと思います。

ちょっとうれしかったのは、その年のGW、高校の演劇部に所属していた妹が中心メンバーとなって高校演劇を自力で主催し、関西ニュースはもとより、NHK朝のニュースの特集にもなりました。
さらに、文通していた鹿児島の女の子からも電話を安否のもらったのはうれしかったですね。
怒りはなんといってもワイドショー取材陣。これにつきます、ヤツらは何なんだ、報道の大切さと謳ってるけど、ただ単なネタ作りでしかないのか、このヤロー!って叫びたかったですね。

あれから8年経ちますが、1月17日の5:46頃になると、勝手に目が覚めてしまうようになり、ちょっとの小さな地震でも思いっきり身構えるようになりました。
この経験は絶対風化させたくないですね。

ここからは震災とは直接関係ないですが、(父方の)祖母が亡くなり、須磨の祖父母の無事を聞いた母も病気で亡くなり、私はと言うと大学卒業・就職、妹は結婚・出産、父は定年退職と家族はそれぞれバラけましたが、先のGWでいとこの結婚式に顔を会わせました。みんな元気でした。地震でも家族の絆は崩せなかったといっても過言ではなかったと思います(最後はカッコつけた言葉になってしまいましたが)。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。大学試験のときに大変でしたね。そのときの神戸市の交通状況はほとんど機能していなかったと記憶しています。そんな中垂水に帰って行けたんですね。必ずしも良い経験と言ってはいけないことですが、家族の絆が再確認されたというプラスの面もあるのですね。参考にさしていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 19:11

当時私は大阪の生野区と言う場所でワンルームに住んでたんですが細長いマンションの5階だったんでかなり揺れて、地震直後TVを見ようと思ったのですが


部屋の中は散乱してTVも落ちて配線が外れてました。

すぐ友達と彼氏と連絡があり、安心しましたが
大阪市内に関わらず部屋の中に4本も亀裂が入ってました。1週間後位に不動産屋に電話して伝えて業者の方が点検しに来てくれたのですが うちの部屋はまだ(亀裂だけで壁と壁は数ミリの隙間)いい方で3Fの人は壁の中が覗けるくらいだったらしいです。
それでも「補修が必要」だったのですが 建築業界が
ほとんどボランティア状態で神戸に飛んだって事で
その後私が引っ越す5年間手付かずでした。

一番嫌だったのは余震がいつ来るかわからないから
お風呂に入るのが嫌だったです(>_<)
一応実家が東海地方だったので震災後一週間は実家に帰って実家から大阪の職場に通ってました。
不眠症も余震がなくなるまで続きましたよ。

兵庫に住んでた祖母のマンションは部屋の中の壁から外が見えるほどで、祖母もとりあえずの着替えとご先祖様のお位牌だけ持って自分の娘の家に、建て直しが終わる1年半後までいてました。

震災より前になくなっていた祖父の甥っ子が震災でなくなったと言う知らせや、六甲のホテルに勤めてた友人の同僚5人も犠牲となったらしいです。

今は東京に住んでますが 昨日の地震は揺れが長かったので、念のため逃げ道確保(揺れで玄関のドアが歪んで開かなくなる場合があるので玄関の扉を開ける)をしたのですが、マンションで玄関のドアを開けたのはうちだけでした。。。
主人と、「やっぱり阪神の震災を体験してない人には地震も他人事なのかな」て。

今でも揺れるたびに阪神の揺れを思い出すので
心臓がバクバクします。
阪神の震災ではマンションが揺れやすく高層階だったため揺れもひどく、初めて死ぬと思いました。
揺れもですが音もすごかったんです(>_<)
建物の揺れる音と地鳴りのような音で・・・

怒り・・・は、友達の職場のお局さんが震災翌日
「私も神戸に行こうかしら」と、友人は「ボランティアですか?偉いですね」って言った所「違うわよー。
炊き出しのお味噌汁がTVに映ってたけど すっごく美味しそうだから食べに行きたいの!」ってほざいたらしいです(-_-# 無神経な発言ー(-_-#

けど、非常識かもしれませんが一つうれしかった事がありました。
震災4日後位にやっと電話がつながるようになって、公衆電話から家の留守電チェックしたら「34件です」と。全員違う友達からで しょっちゅう会う友人から「疎遠になっちゃった・・」って感じてた友人まで、心配してメッセージ入れてくれててみんな「なんかあったら力になるからね」と。
みんなの心使いが暖かく、とてもうれしくて思わず涙、涙です。
友達の暖かさをとても感じた時でもあり
震災で思い出すのは恐怖と不安と暖かさです。

震源地近くの被災された方がこれを読んで、もし「何が暖かさだ!」と思われたらお詫び申し上げますm(__)m
私もあの日の事は一生心に残る悲しい出来事だったのでそれは勘違いなさらないで下さいm(__)m
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。経験談、参考にさしていただきます。一つ気になった点ですが、震災から8年が経ち、関西では1月17日は毎年震災についての催しや新聞にも大きく取り上げられますが、東京では1月17日でも地震の話題が少なくなった聞きます。本当なのでしょうか?本当だったら防災を考える面でも避けなければならないことですよね。

お礼日時:2003/05/30 19:33

あの日の事は今でも覚えています。

神戸じゃないんですが、滋賀県の大津に住んでいたのですが、ドンと縦揺れがきたかと思うと、今度は横にガタガタと揺れ、食器棚の扉が開いて、食器が割れる音が響いて、床はワインでビショビショでした。まだ子どもが1歳だったので、危ないので子どもと寝室にいて、主人が片付けてから出勤してくれました。テレビは朝からその話題ばっかりで、神戸のすさまじさに驚かされました。神戸から離れた滋賀県ですが怖かったです。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。滋賀県でもすごかったんですね。南海・東南海・東海と地震が予測されています。神戸から少し離れると揺れを経験しているけど防災準備をしている家庭が少ないと言われます。地震の対策はしっかりしてくださいね。余計なお世話かもしれませんが・・・ ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 19:47

阪神大震災を神戸で経験しました。


うちは、被害が大きかった長田から、
15分ほどの所でしたが、比較的
被害の少ない所でした。

うちの近所では、2時間ほど停電になり
情報をたたれてしまいました。
しかし電話はつながりましたので、
親戚の安否の確認等をしました。

もう少し経つと全然電話はつながらない状態
になってしまいました。

ガスは止まらなかったので、母はのんきに
弁当を作り学校行きやーって感じでした。
しかし、テレビを見ると凄いことに
なっていて、ビックリ。

友達が陥没した駅の近所のマンション
の13階に住んでいたのですが、唯一連絡が
つかず1週間位分からなかったのですが、
避難場所で非難してたみたいです。

その子に聞いたのですが、免許不携帯で
運転が出来たり、有料道路が無料になったり、
火事場泥棒?ドサクサ紛れの窃盗が多かった
らしいです。おまけに遺体を普通の車で
運んだり、とても考えられないことが
起きてたそうです。

避難所は体育館で卓球の防護壁を境に安置所に
してあったり、すごい状態でした。
建物も焼け落ちて、まるで戦争?って
思うほどのすごい状態です。

8年も経ってほとんど、戻っているような気がしますが
そごうが縮小した建物のままです。

地震は恐ろしい経験でした。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。やっぱり治安は悪くなっていたんですね。大きな問題だと思います。参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2003/05/30 19:52

私は大学生で、一人大阪に住んでいましたが、


実家が阪神地区でした。
地震発生直後、テレビをつけると各地、震度は
大変なことになっていました。(その時、洲本や
その周辺は震度がまだ公表されてなかった)
いそいで実家に電話すると、直後だったせいか
すぐつながりましたが、家の中はめちゃくちゃに
なっていたとのことでした。
ただ、停電してしまっているので、事態の重大さに
気付いていなかったらしく、「元気かー?」なんて
笑っていました。こっちはテレビから続々と情報が
入りはじめていて青ざめているのにです。

とにかくまあ、家族や友人が無事である事を知ったものの
やはり顔が見たく、テスト勉強そっちのけで
原付で約100キロの道のりを帰りました。
家族に何か食料を、と思いましたが、すでに
高槻や茨木辺りのコンビニには一切食料はなく、
カロリーメイトを購入するのがやっとでした。
伊丹市や尼崎市ではほとんどの自動販売機が
倒れていました。西宮市ではそれに加えて地面があちこち
で割れていて、さらに新幹線の線路が目の前にありまし
た。幸い、一切の家族や友人に何も問題がありません
でしたが、もう2度とあんな経験はしたくないです。

ちなみに、3次災害(ぐらい?)として、テスト勉強
をほったらかしにして実家に飛んでいった私は、
大事な単位を1つ落としてしまい、教職の免許を
取得することができなくなってしまいました。
いえ、すみません、自業自得なのはわかってるんです
けど・・・。休みにならなかった学校も学校ですよね。

よくわからない文章をタラタラとすみません。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。事の大きさに気づかなかった人が多かったみたいですね。災害に強いネットワーク作りが注目されます。ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 19:58

同じ兵庫で、震災がひどいとこから約150キロ離れたところに住んでましたが、やはり揺れは、すさまじかった


です。縦揺れ、横揺れ、朝早くの時間でしたから、
パニックでしたよ。テレビで見た神戸などは、信じられなかったです。こんなに酷いとは。とりあえず、中学生だったので、あんまり関心は当時には無かったです。学校が
休みになり、ラッキーだったかな。でも、高校生になり、
担任だった先生が、いつぞや話が変わり、阪神大震災
の話になり、改めて、大変さや恐ろしさがわかりました。
被害にあったかたしかわからない苦しみが、もし自分だったらと考えるとおそろしかったです。昨日の地震は、
かなり大きいみたいでしたが、被害が少なくてよかったと
思います。
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この回答へのお礼

返事ありがとうございます。

お礼日時:2003/05/30 20:02

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