遅刻の「言い訳」選手権

 
意識と無意識の関係を表した図を、見かける事があります。

それは、頂点が上の正三角形の上部1/3ぐらいの三角形が、意識であるとし、
残りの下の部分が無意識である。とした図です。

または、次の様な図も見かけます。
氷山の、水の表面に飛び出した部分が意識で、水の中に隠れている部分が無意識という図です。

しかし、自己の意識(無意識)を観察し、本を読んだり、考察した結果とてもそうとは思えません。

まず、
意識と無意識の境界ははっきりした物なのか?
ぼやけてはいないか?
境界は、一定の位置ではなく、揺れ動いてはいないか?
という疑問です。

さらに、意識と無意識の位置関係です。
本当に三角形の様な形で示されるのか?
無意識に底はあるのか?
その関係は、卵の白身と黄身の関係の様に、意識が、無意識に包まれている関係ではないか?
と言う疑問です。

問いが唐突なので、自分が疑問に思った点を、考える素材として提示したいと思います。

一つには、修行僧の瞑想の体験談の話です。
体験談によると、徐々に、心の深い所に降りている様な印象を受けます。
本当に、意識と無意識の境界をはっきりした物としていいのでしょうか?

一つには、サブミリナル効果です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96% …
これを考えると、無意識は、意識以上に現実を、認識している様に感じます。
無意識が意識の下にあるという認識は正しいのでしょうか?

一つには、意識を失うほど酔っぱらった場合の行動です。
酒場から、自分の家までどう帰ってきたか分からないのに、財布にはタクシーの領収書が入っていたりします。
無意識は、意識が眠っている場合に、自動的に前面に出るのでしょうか?

一つには、意識の発生起源です。
意識より、無意識の方が先に発生したと考えられます。
意識は、何のために発生したのでしょうか?

等々・・・

自由に、意見、感想等、お書き下さい。
 

A 回答 (13件中11~13件)

No.1です



意識については、二通りの考え方が可能です。

トップダウンとしての意識 --- 意識を能動的側面から捉える(普段、感じている意識の側面、意識が先にあり、無意識の側を「知的に」統合しようとする)

ボトムアップとしての意識 --- 前野氏の受動意識仮説(無意識が先にあり、意識は受動的・アトヅケ的)

これらの「どちらか一方」のみが正解ということではなく、(すなわち「どちらか一方」から成り立っているのではなく、)同時成立的に(すなわち、能動的と受動的が同時に)相互作用し合うところ(すなわち、揺れ動く境界概念)に、意識(の狭間)が生まれるのではないか?と思っています。

「両手を打ち鳴らしたとき、右手が鳴ったのか、左手が鳴ったのか」という禅問答(?)があるそうですが、まさに、両者が存在することで、その狭間に生まれいずるのだと思います。
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素人ですが、自分の自我意識が自分の「無意識の意識」に会った事が在ります。

その経験から書いてみます。人間には二つの人格が同時に存在しています。その二つの人格は相談しながらどちらが出るかを決めています。そうしてどちらも今の現実を見ています。

道に至ると言う言葉がありますが、超一流の歌手としておきますが、ちゃんと歌いながら、歩いたり、握手をしたりしています。そうして会った人の顔も覚えています。

方や素人の未だ出来ていない人です。人の前で歌を歌います。観客のほうは見ています。それなりに一生懸命に歌っています。歌はまだましかもしれませんが、声は上ずっています。後になって聞くと何も見ていなかったような印象を受けます、覚えていない瞬間が多すぎます。

車の運転をしています。急カーブになったらスピードを落とします。落とさない場合には「恐怖が」走ります。その恐怖は誰が教えていますか?急ブレーキを踏んでいます。思わずに踏んででいます。自我意識が思わないのに足が勝手に動いています。誰が足に命令を出していますか?

人間は自我意識という人格と、命そのものを働かせている「実存」と言う人格が二つ存在しています。この二つの人格の出会いが「悟り」と言う事になります。

一つの人格は顕在意識として計算や論理を担当しています。分別と言う言い方が適当と思います。分別の強みは物事を論理的に割り切ってゆくところにあります。ですが弱みも在ります。論理的に出来ない事柄が人生には付きまとっている事です。割り切ってゆく考え方には短所があります。割り切れる事しか理解できないと言うところです。割り切れる事を「有限」と言う名前にしています。自我意識は有限なものしか理解できないと言う意味になります。

もう一つの人格は、割り切れないものを専門としています。言葉を持っていません。体中の筋肉も、感情も、血の流れも、ホルモンの流れも、脈拍でさえ環境に合わせてくれています。環境と一緒に働いています。しかし分かりにくい事に、自我意識には認識できにくく出来ています。二つの意識、或いは人格は、交代制になっているために、常に一人しか自覚できにくくなっています。そうして割り切れない事を専門の機能としています。この機能、割り切れないと言う事を「無限」と言っています。言い方を替えたなら「永遠」と言う事を知っている存在、或いは人格ともいえます。

現代の医療での限界はこの二つの意識の係わり合いのなぞが解けていない事に原因があります。精神疾患、神経症、自律神経失調症。他にも今の医学では治療の方法が分かっていない分野でもかなり、今言った事が関係してきます。つまり人間の心と精神の関係、心と身体の関係性や、或いは統一体としての精神や心や体の関係と言う事になります。

二つの意識は交代制としての関係と、他にお互いに補い合うと言う関係です。例えば自我意識の命令では間に合わない場合です。先の急ブレーキ等です。ハンドルを握っていて絶えず細にハンドルを左右に動かしている場合などです。いくら動かしていても「自我意識」には動かしている事さえ気が付かないくらいです。

自我意識が知らないでいる、或いは、切り替わっている状態が、疲れないで仕事がで来ている状態と言えます。少し動いただけで疲れる時は「自我意識」がやっている状態と言えます。

書きながら、何を言いたいかわから無くなりました。具体的に何が聞きたいか教えてください。答えたいと思います。
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「何のために」といった概念で捉えようとするのもいいでしょうが、(揺れ動く)境界概念で捉える方がいいように思われます。



たとえば、多重人格の場合、意識主体が複数並列しているでしょうが、外界とのコミュニケート手段と繋がった主体(A)のみ顕在化しているように見えます。外界とのコミュニケート手段と繋がっていない主体(B)は、「無意識下」のごとく「思われて」いますが、(B)からすれば(A)が「無意識下」のごとく捉えられているかも知れません。

「何のために」を強いて言うならば、「統制・統合化するため」でしょうね。。。複数の人格に分かれうるかもしれない(A)と(B)とが、反発し合いながらも一つの生命として生きていくには、内部で妥協せざるを得ないということになるでしょうか?

そういった事だと思います。
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