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よく「努力しなければ云々」と言われますが、努力できるひととできないひとがいるのではないでしょうか。つまり努力もある種の先天的な才能と考えるべきではないでしょうか。運やコネも実力のうちですし...。

A 回答 (10件)

努力は誰でもできるものだと思います。

向上心や好奇心があればの話ですが。
後は価値観の違いでしょうか。勉強とか仕事だけが努力の対象ではないはずです。
極端な例では、徹夜をしてゲームをしてもそれも一種の努力でしょうし、真剣に競馬の予想をしてもそれも努力したといえるでしょう。
結局その人が何に対して一番興味があるかと言うことではないでしょうか。
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 忍耐力とか、我慢とか、持続力と表現できるものが無いと努力できないと思います。

そう考えると、努力できる才能というのは、後天的なもののように思います。子どもの頃から、どういう環境に育ったかで決まってくるのではないでしょうか。
運やコネは、努力の後からついてくるものと私は考えています。
 人間は、「よりよく生きる」ことや「好奇心」が原動力となって、努力するのではないかと考えています。
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 環境や体調、目的に対する自分の動機付けなどによっても変わってくると思います。


 今にも死にそうなのに、何かに向かって努力しろというほうが無理ですし、
目的も見えないのに、ただ闇雲に頑張れ頑張れといわれても頑張れるわけは無いと思います。

 まず、自分が何をやりたいのか、また、やるべきなのかをじっくりとお考えになって見られてはいかがでしょう?
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「努力がなぜ自分はできないんだろう」もしくは「僕なりに努力してるのに」という悩みのようにも聞こえますが如何でしょう?


わたしが嫌いな言葉は「頑張る」です。でも「一生懸命or一所懸命」は大好きです。例えば、勉強にしてもスポーツにしても、自分の許容量以上のことをすると必ずといって良いほど精神や肉体に損傷が生じますよね。自分の許容量以上に努力することが「頑張る」で、できる限りの努力をするのが「一生懸命or一所懸命」だと私は解釈しています。頑張るのは精神的・肉体的に良くないです。社会的からドロップアウトしたり燃え尽きたりする可能性がグーンとあがります。
では一所懸命レベルの努力すらなぜできないか?ということですがそれは「やりたくない」からです。才能?うーんそういう言い方もあるのかなあ、もっと単純ではないでしょうか?
成し遂げようということに対する気持ちと、それに必要とする努力に対する嫌さ加減を天秤にかけてみて、明らかに後者のほうが重いのです。ただそれだけ。
ようは、その目標に対しての思い入れの大小が人それぞれなのですから、努力できるできないに差がつくのは当たり前なのではないでしょうか。
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ことわざに「神は、自ら助くる者を助く」と、ありますよね。

皆さんの詳しい、説明があるので、これだけにしときます。
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努力を才能と言う考え方であれば、すべて才能のなせる技だという解釈が成り立つと思われます。

努力できる才能、字を綺麗に書ける才能、朝早く起きれる才能、速く食事ができる才能、長風呂できる才能・・・キリがありません。
ところがそれらは「才能」だとは言われませんよね?、つまり意識しなくともできるものだからですよね。そう考えると「努力」も意識しなくともできれば良いだけです。つまり端から見ると努力に見えても本人にとっては決して努力だと感じていない事の方が多いものです。
そういう意味では「努力」=辛いけれども頑張る・・という図式は必要のないものだと思ってます。努力すべき対象が本当に自分が欲しているものならば辛いと感じることもないでしょうからね。

なんか・・長く書くと何を言ってるのかわからなくなりそうだから簡単に言います(^_^;)
前述のような解釈であれば努力も立派な「才能」だと言えますが、やはり誰しもができる(程度の差こそあれ)ことを考えると才能とは言い難いものだと思えます。
それこそ先天的なものだというものではないでしょうね。
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まず、「運も実力のうち」という言葉はありますが、運そのものは運でしかないと思います。

実力があるからと言って、宝くじが毎回当たるなんてことはないわけですし。
努力できるできないはある程度才能なのかもしれませんが、あらゆることに努力ができないというのはただの怠け者か病気かのどちらか何じゃないかなと思います。
ですから、どんな人でも一生懸命努力ができる何かはあるんじゃ無かろうか。と僕は思っています。

とはいえ、努力したから必ず良い結果になるとは限りませんけどね。「99%の努力と1%のひらめき」とエジソンはいったそうですが、これは「ひらめきより努力が大事」と言ったのではなく、「いくら努力したって、ひらめきがなければダメ」という意味です。間違って解釈されているケースが多いのですが……。

……何かいているんだかわからなくなってきた。
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 努力とは違うかも知れませんが、あることを続ける「根気」は才能のうち


だと思います。
 自分は絵が好きでしたが、夜通し描いていると疲れるので、先生からは
勧められましたが芸美系には進みませんでした。一方才能のある人は、幾晩も
作品のためには徹夜できるのではないでしょうか。

 別の仕事をしているのですが、マイナーチェンジしつつも
続いているのは、・・・別に才能があるわけではないと思います・・。
つぶしがききそうだから、色々行きたい方面があったけど、まずこっちに
進学しようか、と思ったのが運の尽き・・・・。
 もう方向転換はムリかしらん。余談でした。
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私は哲学者でもなければ先生と呼ばれる立場の人間では無いので参考までに。


現在社会人としている私の認識は努力のタイプは3つあると思ってます。

(1)その努力の先に自分の目的(夢)がある場合
(目的が明確であり、それが本当に自分の望むものであれば努力するでしょう)
(2)それが好きでたまらないから努力する
(本人はそんなつもりは無いが、傍から見ると努力している様に見える)
(3)自分にはそれしかないから努力する
(ある程度の我慢が必要ですがそれしかないのだから仕方ないです)

私も似たようなことで悩んだ時期がありました。
それは、学生の頃、自分は好きでもない勉強はガリガリやってる人間がいて何が彼をそうさせるんだろうと不思議でした。
もちろん、それができない自分がそこにはいたのですが。

でも、例えばテレビゲームが好きだと、何十時間もやってられるし、好きな女性ができれば自分に何とか振り向かせようとしませんか?
でも、これらのことも、できない人間が傍からみれば物凄い努力なんですね。
ちなみに、先ほど例に挙げたガリ勉君は学生の時は女性に全く興味を示しませんでしたが、社会人になった途端にプレイボーイに突然変身しました。

結論を言いますと、誰でも努力する素質はあるし、それがいつ、何に向けて発揮されるかが人によって違うので他人がとても奇異に映ることがあるのです。

ですから、「自分の興味を持てること」、「なりたい自分」を一度じっくり考えてみれば自ずと行動力が出てくるでしょうし、既にそれが努力だと思います。
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才能ともいえますが、でも努力って、嫌がってやらない人もいるけど実は誰でもできるものだと思いますし、誰にでもできるってことは才能とはいえないし、どうなんでしょうねぇ。

努力嫌いの私にとっては耳の痛い話です。ていうか、コネまで実力といってしまっては、もう実力ってなんだかなって感じですよね。すいません答えになってなくて。
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