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 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。

 《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。
 抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。

 ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~
 1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、

 【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、

 【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

 2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は

 【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。
 「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。

    ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて
    いると思われます。

 【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

 3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。
   ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)

 (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。
   ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)

 (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
   ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)

 この三縁の慈悲とは、
 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。
 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。
 あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。
 ずばりおしえてください。

A 回答 (37件中11~20件)

「この回答へのお礼」をいただけて嬉しいです。

貴方は「 無意識界という分析的認識は要らないのだと。意識していなかったことは意識していなかったことだ。こう知るのみ。そう知ればよい。
 というのですが どうでしょう?」こう述べていますが、私にはそう出来ません。

精神疾患、神経症、自律神経失調症、或いは難事性の原因が特定できていない、検査しても異常が無くても異常を訴えて本当に症状を作っている病態等や、広い意味では悩みや苦悩というものまでもが、全て同じ事が原因で起きています。

昔で云うところのノイローゼ等でも、今の医学では原因を特定出来てはいませんが、それは難しいことでは有りません。真に簡単な原理で人間は古今から苦しんできました。その結果が『宗教分化』の発展を促進してきたと思っています。

仏教では悟りです。見性ということです。自分で自分の性を見る(知る)キリスト教では、神に会って、神と和解する事で人間の苦悩が消滅する。という事になります。

自我意識が自分自身の『実存』と出会うという意味ですが、是は脳科学でも証明済みです。右脳に一人の人格が存在している。左脳にも一人の人格が存在している。是はアメリカのスペリー博士の分離脳の研究で導き出された成果の一つです。そうしてその人格はまったく別で、その機能は全く違っている、という研究成果です。

思春期頃から悩みが始まる、という事に符合しています。知恵が付いた事によって天国から追い出される、という事は左右の脳の機能分化が完成に近くなるという意味になります。

この事を研究する事によって、精神疾患というものを『寛快』というものから『完治』に持ってゆく事ができると思っています。この事をライフワークとしてゆきたいと思っています。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ずいぶんやわらかい温かなことばで述べられている――まづは こう(遠慮もなく上から目線で)感じましたことをお伝えします。
 ご回答をありがとうございます。

 ううーん。中身としましては――中身としましては 残念ながら―― 前回のお応えと同じくとなると思うのですが どうでしょう?
 失礼になるかと思いますが 掲げます。
 ☆☆ (No.27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 でもですね。即身成仏という命題もわたしたちはここで持ちつつあります。すでに持っています。完璧な状態になるのでなくても すでに 潜在的にでも 目覚めています。すでにブッダである。すでに我れはブッダなりと宣言してもよいのだし すでに宣言している。
 あとは 自己表現あるのみだと。

 たぶん 無意識の意識ですとか あるいは仏性との矛盾対立ですとか それらすらも へのかっぱなのだと。なぜなら すでにブッダであるのですから。
 どうでしょう? このように次元と舞台とが一段と揚棄されているでしょうか われわれは?

 無意識界という分析的認識は要らないのだと。意識していなかったことは意識していなかったことだ。こう知るのみ。そう知ればよい。
 というのですが どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なぜならば。なぜならばです。なぜかと言えば 《わたしたちはそれぞれ すでにブッダである》からです。
 むろん 相対的な経験世界での出来事ですから 未完成ですよ。しかもつねに 道を逸れたら 軌道修正をすればよいという状態にあるということです。

 ですから この未完成だがすでにブッダであるという境地は 《寛快》ではないのです。理屈を言えば《完治》とも違います。
 すでに初めに自然本性としてひとはブッダであり その人生において道を迷いさまよい逸脱したこともあるが すでにすぐさま ブッダであることを回復するという寸法です。ビルトインスタビライザーがつねにはたらいている。それが 仏性です。言うとすればです。
 かのゴータマ・ブッダは 控え目で引っ込み思案だったのではないでしょうか? それとも経典によっては 飛びきりのすっ飛び野郎で 冗談ぢゃないが自由自在に時と空を翔ける男として描かれています。その中道がのぞましい。こうではないですか?
 このゴータマくんをも 成仏させてやらねばなりません。われわれの祈りによって。かれに恩恵を受けたのなら 恩返しとしてわれらのちからによっても かれをブッダとして生きさせてやらねばなりません。
 卵を割らねばオムレツは出来ません。

 たぶんわたしのこの乱雑極まりないほら吹きぶりを解きほぐして行ってくださるでしょうと思いつつ。

お礼日時:2010/03/30 12:10

大変無責任な回答をした事を、お詫びいたします。

社会とどう向き合ってゆくのか、或いは社会の中でどう自分が働いてゆくのかと言うことでしたら、書きやすいと思います。

今は62歳になります、14歳の時に、『人生とは何だろう?或いは死にたくない、永遠の命が欲しい』という訳の分からない事で、大変に生き難い想いで過ごした経験が有ります。ノイローゼになった経験です、27歳になって結婚をして28歳で長男が生まれた頃に、生活が変わったせいか、生き難い想いが強くなって、どうしょううも無く、入院森田療法をした者です。

鈴木知準先生という方でした。講話と言う形でいろいろな話を聞かせてくださいました。その話の内容は、悟りを開いた人の話や、弓道の話や
剣道の話などでした。今に思えば全てが『悟り』に関係していました。

あの頃には何のことやら、さっぱり判らなくて、ちんぷんかんぷんでした。『今は分からないだろうが、聞いておくように』というで出しから始まっていました。そうして『分かる時が来たら、ぴたりと分かるから』と言っていました。

時折いう言葉に『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』或いは『ノイローゼの一年は、座禅を十年した事と同じ』と言うものが有りました。2ヶ月の入院治療の後退院しました。それから、4年後の、或る日、『無意識の意識』に出会うと言う体験をしました。

その日限りでノイローゼが『完治しました』それから、ノイローゼになった事も、治った事も忘れ果てていました。59歳になった時に近所の若い者がうつになったということを聞いたもので、興味を持って精神科医の講演が有ると言う事で、聞く機会が有りました。話を聞いた時に『心に対して、余りに無知な事をしている』と感じて、インターネットなどで調べるようになりました。

神経症の中に書けいと言うものが有ります。その専門医のホームページに書いてありました。『書けいの原因は分かりませんが、治療をすれば治ります』或いは精神医療関係の本を読んでいる時に『、『精神疾患の原因を解明できていない事は、精神医療の恥』と言う言葉に出会いました。

今の精神科医達でさえも、世界の精神科医たちの間でも、原因を特定できていない事には、驚いています。『無意識の意識』に会った経験から精神疾患の原因がはっきりと分かります。それは『心の矛盾』からです。自我意識がもう一つの『無意識界や潜在意識界の人格(仏性)』と矛盾や対立や、ひどい時は分裂をした事が原因と分かります。

もうすぐ65歳になります。その時になって今の仕事のけりをつけて、息子に譲って、是からの苦しんでいる人達に出来る事はないだろうかと模索中です。もうホームページを立ち上げて3年ほど経とうとしています。今も苦しんでいる人たちが大勢居ることが分かって、人知れず、涙がこぼれる時が有ります。『あの苦しい想いを、今もしている人達がいる』この事に悔しい想いで、います。

人間は如何して苦しまなければならないのかが、分かった今でも、他の人に教えてあげるのがとてつもなく困難な道と言う事も分かっている事から『涙が勝手に流れ落ちてきます』
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この回答へのお礼

 つまりとうさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 分かりました。社会性を閉じておられるわけでなく 社会的交通の用意はつねにあると言っておられる。(ちなみに わたしは 1946年生まれです)。

 そうですね。たしかに この質問も 対話や意志疎通あるいは 昔のことばで 対人関係でしょうか そういった人間関係の問題にどう対処するかというふうに具体的な実践として取り扱うなら さらにそれとして現実的であるかとも考えられます。
 思わずわたくしもその昔 いわゆる赤面症で悩んだことがあったことを思い出しました。いまもその傾向は変わっていませんが・つまりですから 現象は同じようですが おかげで 面の皮が厚くなっていますので 別にどうというふうにも思わなくなっています。

 さて 拝読した文面に反応すれば まづ以上のようなことになりますが――ちょうど 直前のご回答とのやり取りでも 何だか・どこかこの質問は 行き詰まりになるような感覚を覚えましたが―― 果てさて ここからどういう方向へ話を持っていけばよいのでしょう? と問わざるを得ない状態ではあります。

 ここまでの時点では こういう解が得られています。中核は個人のさとりである。この基本は外せない。慈悲心は 存在論であり 《わたし》の自己到来の問題なのだと。そこから 交通ないし共生へと 少しなりと 手を差し出す。人びととまじわる。

 でもですね。即身成仏という命題もわたしたちはここで持ちつつあります。すでに持っています。完璧な状態になるのでなくても すでに 潜在的にでも 目覚めています。すでにブッダである。すでに我れはブッダなりと宣言してもよいのだし すでに宣言している。
 あとは 自己表現あるのみだと。

 たぶん 無意識の意識ですとか あるいは仏性との矛盾対立ですとか それらすらも へのかっぱなのだと。なぜなら すでにブッダであるのですから。
 どうでしょう? このように次元と舞台とが一段と揚棄されているでしょうか われわれは?

 無意識界という分析的認識は要らないのだと。意識していなかったことは意識していなかったことだ。こう知るのみ。そう知ればよい。
 というのですが どうでしょう?

お礼日時:2010/03/30 00:12

 続きからでございます。



> ○ ブディズムでは 対話・意志疎通つまりコミュニケーションについて 基本的にどういう考え方をするのか?
 ☆ 社会的交通における《ことばの位置づけ》ということにもなるでしょうか?
 ☆☆ 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか?

 慈悲は、“衆生縁”のみならず、“法縁”を説く場合にも用いられ、つまり、世界中の人たち全員をブッダ(苦から開放されたもの)に導くものかと思われます。では、そこでのコミュニティーでは、どういった“社会的交通”がなされているのか? でございますが、以下にスッタニパータから引用させていただきます。種々の”戒め”の形で述べられておりますが、かような実践がなされるかと推察しております。

8章 慈しみ からでございます。
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 つづきます。

 社会的交通論
 そうですね。特徴として捉えられるところは
 (1) 《崇高な境地》が述べられること。
 (2) 個人の存在論であり その自律の方程式を模索するものであるようだ。
 (3) 《戒》という要素も見られる。
 (4) 《150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし》から行けば いわゆる広義の博愛主義と相い容れないものではなかった。
 (5) 《149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように》というところからは 《もののあはれ》に通じるところもあるようだ。


 ただですね。どうも 申し訳ないですが ピンと来ていません。
 (6) いわゆる宗教でなくても あるいはまた特定の思想を掲げなくても 一般のひとがふつうに生活する上で持つ生活態度であるように思われるのです。
  互いに対する思いやりをかけるとか 助け合いをこころがけるといった生活の知恵に還元されると思われるほどでもあります。

 三人寄れば文殊の知恵と言いますが 万機公論に決すべしといった民主主義のひとつの考えなどは 掲げられていないのでしょうか?


 どうも こうなりますと あれですね つまり よほど個人の個人による個人のさとりが 根本であって そこに慈しみのことが付け足されているだけだと 意地悪く見たくもなって来ましたが 収拾のつくことでしたら きっぱりと結論を明らかにしてくださいませんか?


 つまり たとえ敵を愛せと言ったとしてもですね けっきょく ほかの人間を自分よりはほんの一秒だけ先に思えといったおしえになるのではないかと思うのです。思うのですが そういうふうに社会性ということ自体は けっこう現実の問題として受け止められているのではないでしょうか? 聖書の系譜としてはです。隣りびとの話もありますし 社会的な関係性については つねに目がそちらに向いていると言いますか 開かれているように感じます。
 どうなのでしょう 個人という中核をどこまでも大事にするという方針こそが 社会的な交通の要諦に 周りまわって 成ると考えるのがよいでしょうか? そこらへんは どのようにお考えになりますか?

お礼日時:2010/03/29 23:46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> 《言葉では表現できない》という帰結になるときの問題なのです。

 愚生は、言語学には疎いため、なんとも申し上げられないのですが、確かに、言語だけでなく、手本(実技・実践)を通して、釈尊が教義を説いていたかもしれません。ですが、経験世界のことであったことは確かだと考えております。

> たしかに 信仰ないし神はそうなのですが それでも仮りの表現として 互いの対話をすすめると思うのです クリスチアニズムの場合はです。ブディズムの場合には 対話を避けているとさえ感じられる部分があるわけです。

 元来は、釈尊がそうであったように、対話は必要であったかと考えております。ですが、仰られますように、今日では、“対話を避けている”という感覚は愚生も感じております。おそらく修行の一環としてなのでしょうけれど、この修行は、超越論的なブッダ像を追い求めて、厳しさを極めたもののようにも感ぜられます。確か釈尊は、厳しいだけの修行には、否定的だったかと記憶しているのですが…….

> ほかの思想の人間とは《地続きではない》と思っているのではないか? こういう意味のことを 《外道という呼び方が いまでも通用しているのではないか》と表現したものです。

http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/vinay … 
[二人の大天]
「説一切有部は、この大天の説を悪見つまり邪説であるとし、大天に反する立場を採っていた事が知られますので、大天の説を支持した比丘達が、大衆部を形成したということになります。また『異部宗輪論』では、仏滅後二百年が過ぎた頃、同じく大天という名の“外道”を信奉していた者が、大衆部にて出家受戒し、制多山(Caitya?aila[チャイトヤシャイラ])にあって修行に励んでいたが、やがて先の大天と同じく「五事」を提唱。これによって、大衆部からさらに三つの部派が形成されたとも伝えています。」

 ここでは、
正論者:説一切有部
外道:分裂した大衆部
 となっております。おそらく、仏教内での分裂過程におきまして、他派を貶める言葉だったかと思われます(逆に申しますと、自派の優越を謳うもの?)。つまり、仏教“外”の人たちに向けられた言葉ではないと推察しております。従いまして、少なくとも愚生は、少なくとも仏教“外”の方たちまでをも、“外道”扱いはしていないと考えております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 次に続きます!?
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この回答へのお礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   正論者:説一切有部
   外道:分裂した大衆部
  
  ・・・つまり、仏教“外”の人たちに向けられた言葉ではないと推察しております。従いまして、少なくとも愚生は、少なくとも仏教“外”の方たちまでをも、“外道”扱いはしていないと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。ただ もうこの用語は使わないとして 《仏教》と《それ以外の思想ないしいわゆる宗教》 とで区分することは どうなんでしょう? 
 ここで質問したとき 真っ先に指摘されたことは クリスチアニズムとの対比として (1) 《何ものにも依存せずみづから自存してしる存在》は認めない。つまり ブラフマンや創造主としての神を認めないのが仏教である。(2) 因果関係もしくは 縁起のことでしょうから相互の依存関係や作用関係を説くという特徴がある。これは ほかにないと。この二点だったかと思います。
 ですから わたしは 《絶対》の概念についてどう捉えているのか? また ブッダは絶対者であるか? などと問うていました。
 言ってはなんですが ブッダが人間であってふつうの人間と同じく修行の段階があると明らかにしたのは ひどっちさんが初めてだったのです。ほかは超越論的な話が 大なり小なりついて来ます。


 どう治めていいのか分からなくなりましたが 分裂などの話を聞きますと 竜樹は優れたひとだったのですね。
 とりあえずこのまま次のご投稿に移ります。

お礼日時:2010/03/29 23:23

No20で書いた者です。

” 《これこれの暁には 分かるはずだ》という論法は ただの論法であって 問い求めに対して まじめに向き合っていないことを物語る。こう わたしは思います。いかがでしょう?”

という事を受けて書いてみます。貴方の学問の邪魔をするかもしれませんが、書いてみます。

仏教のの極意、或いは宗教の極意は、『体得』するところに在ると思います。日本語でも500年前、1,000年前の言葉は今の時代の人には分かりません。ましてインドの言葉を中国に伝え、中国の言葉がもう一度翻訳されています。『分かるはずが無い』と言っては、いい過ぎでしょうか?。

そうであるならば、お釈迦の心を直に伝えていると言う『禅』と言うものを学ぶ事をお勧めしたいと思います。禅の門を通らないで、在家で、14歳から32歳までの、18年間の悪戦苦闘の末に、自分の命の働きと出会うと言う体験をしました。

それは、或るきっかけから知った『鈴木大拙』博士の著作集からです。
言葉から入るのでしたら、まだその方が分かりやすいと思うからです。禅の中には『教えてもらわなくても、誰にも、大悲、と言うものが在ることが分かります。』

それは言葉では伝えられないものの、一つと思うからです。
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この回答へのお礼

 一夜あけました。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ご説明を読みまして たぶんこの質問としての問題もあると思うのです。
 《さとりとは何か》ではなく ――そのさとりをも含めて表わせば――《さとりを得た者は ひと(他人)とどうまじわるか? あるいは言いかえて どういう社会観を持って実践しているか?》 こうなっています。
 さらに言いかえると こうです。もし慈悲心が
 ★ それは言葉では伝えられないものの、一つと思うからです。
 ☆ という見方が定まったものだとすればです そうするのならば それはそれで 《個人の主観内面におけるさとり》の問題として 必ずしも触れないでおくとまづします。その上で この《さとりを得たひとは 果たしてどういう社会観を持つのか? どういう基本的な考え方で ひととまじわるのか?》 こういう問いになると思うのです。

 もしこの問いにも言葉による表現としての説明や見解がないということでしたら その《さとり》はきわめて独り善がりのものなのではないですか? もし好意的に見るとしても この世のものとも思われない極めて神秘的な思想であるということになると思うのです。
 つまり早い話が 社会やまわりの人びとに何ら貢献しないものである。こうなると考えられませんか?

 わたしに ではどういう考えがあるのかともし問われたとするなら たしかに はいこれですと言って指し示すものがあるのかと自問しますが ひとつには 何の無理もなく わたしが考えるには ひとは社会に向けて開かれていると思っていることがそれです。そういう感覚が むしろブディズムにあっては 押さえつけられているのではないかとさえ思われて来ているわけです。
 もうひとつには たしかに 個人の存在論 という領域において 社会観への踏み出しをするといった程度ではあります。これは たとえば次のわたしの投稿を参照していただくとさいわいですが。 
 【Q:魂の存在について】その回答No.5です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html

 いづれにしましても こういう問い方もできるのではないでしょうか?
 ★ 禅の中には『教えてもらわなくても、誰にも、大悲、と言うものが在ることが分かります。』
 ☆ この《分かっている慈悲心》について それ自体は言葉による表現がむつかしいとしても それを会得した場合 ではどういう社会観が得られているのか? と問う場合です。
 言いかえると 元に戻って たしかに誰にでも《分かっている》というその《慈悲心》について では この慈悲心は 人間が行為しうる経験現実であるか? これです。

 tumaritou1 さんからは いやいや それこそ いまこうして投稿しているその姿こそが 実践ですというお答えをいただくものであるのかも知れません。
 そしてそのこちら側の反応としては 言葉による説明は不可能という内容として受け取らざるを得ないということになっています。堂々巡りです。
 ですから 下種の勘繰りで それは ひょっとしたら 外道だと思っているから もはや言葉による対話は避けているのだろうかという反応にもなるということなのです。

 でも もし tumaritou1 さんのご見解に従うとすると ほかの回答者の方々は 言葉で言い表わせないことを言い表わそうとしていることになります。たしかに おひとりのかたは そういう表明をなさいましたが でもこの慈悲心が 信仰つまり非思考の出来ごとだというところまでは 明らかにされています。
 わたしには 表現力の問題だと思われます。その余地がないとは言えないのではないでしょうか?
 お答えがいただけるかどうか分かりませんが こういった交通整理がいまは精一杯のところです。どうでしょう?

お礼日時:2010/03/29 14:44

追加文



・〔空〕の箇所6行目中ごろから

(大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れている。)
 
 ↓

(大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れています。しかし仏は、大人たちが綿飴やりんご飴を子供達に買ってやるように、人々には善を惜しまない。人は善を喜ぶからです。しかしながら、仏が子供達に教えたいことは、善の味の他にあるはずなのです。それは、人々が善を惜しまないことです。人々は人々のうちにあって善を廻向し、しかも共々安らぎの境地へ至るからです。それは喩えば、子供同士の行き違いが、お菓子のやり取りで仲直りできるのではなく、子供が大人になることによって仲直りできるようなものです。人は善を知り、しかも仏になることによって自分達自身の関係を超越するのです。)
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この回答へのお礼

 了解です。ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/24 17:14

死せるはずのものでありしかも、正しく生きようという決意、これは、他の誰かにさとられる事は終にない。


我らは、ここにあって、死ぬはずのものである。そうであるから、正しく生きる念いが、喩えば泉の溢れるように起こる。そうであるから喩えば、水面に広がったのは波紋であると知って、鳥が水中を見通すように、一切の濁りなくものが見える。そうであるからいける一切のものどもを正しく摂さんとせん心が起こる。正しく摂さんという心で生きているので、一切のいけるものどもに差別ないことが明々白々となり、一切の生けるものどもに差別ないことが真実と知られる故に、一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。

即身成仏と、死せるはずのこの身で死せるはずのこの人生を正しく生きることの真実については、このように覚悟されるとよいでしょう。


〔空〕

雲を観れば、空には微細な気流が渦巻いているのが分かる。もし空に身を投げ放ったならば、羽の弱い虫が風に巻かれるように、こころある人も妄執の網にかかる。真っ直ぐな割り箸にも、べたついた糖(情)が巻きつくように、直ぐなる心の持ち主であっても、水気(=愛執)のある間に、空に身をなげうてば、善を生じて妄執に巻かれる。しかし善を生じようがいまいが、善にこだわらないならば、ついに善の元のものをも超えるのである。(大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れている。)

空とはつまり、こだわりを離れることの知見です。空に止まろうとするなら鳥でも落ちるように、空は執着の対象にはならないものなのであると知って、賢者は空に囚わるべきではないでしょう。

賢者は空に対する想いさえも正しく制して、健き歩みを事ある毎に為すべきです。山の人が山の危険を知っているので、潜む生き物や崖下などの危険な場所を回避しつつ、自由自在に歩けるように、あるいは渡り鳥達が風の危険と便の双方を熟知しているように、賢者は世には妄執の網とこだわりを離れることの功徳があることを知っていて、世の中を自由自在に歩む。

賢い人は、危険を熟知して、空よりも高い気高さによって、地に勝れ。そこは本来誰にでも備わっている力とは言わない力(腎力)だからである。

〔無縁について〕

仏は、誰に対してもやさしい。
仏の無縁の慈悲とはこのようなものであると理解されるとよいでしょう。
仏は誰をも損なわず、ただ一切の世、人類から真実だけを得るからです。

この回答への補足

 てるてるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 長考一番(かな?) なかなか読ませますね。こう言っては何ですが さらに一段おもしろくなってまいりました。あたらしい方の――むろん前から存じあげていますが――参加も得て 最初の心つもりからすれば思わぬ領域へも広く展開されてきているように思います。

 《即身成仏》論ですが なるほどと思うところはもう端折ってしまいますが その後半つまり次の箇所は 希望つまり将来への希望として述べられているのでしょうか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (α) 正しく摂さんという心で生きているので、 (β) 一切のいけるものどもに差別ないことが明々白々となり、(γ) 一切の生けるものどもに差別ないことが真実と知られる故に、(δ) 一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。(ε)一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前半は 相対的な・限りのある存在としての条件に立って 自然かつ人為なる《生きる》を示しています。自然本性にもとづく自由意志による《生きる》です。ここには むしろ根拠を知り得なくても 身が動くとさえ言いうる《無根拠のなぞの息吹き》が感じられます。それゆえ
 ★ そうであるからいける一切のものどもを正しく摂さんとせん心が起こる。

 ☆ 去る者を追うことはないが 来るものを拒むこともない。無条件に――無条件に――すべてを受け容れるということであり それは 《無根拠 ないし 非思考》の主題にかかわっていると思います。これを承けて (α)⇒(β)が来ます。すなわち (β=γ)⇒(δ)が来ます。そうしますと
 ★(δ) 一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。
 ☆ というのは 《国土》と言っていますがそれは わが心の中の世界を言っているのでしょうか? つまりやはり慈悲心は おのれひとりの世界におけるあり方としてやはり《存在論》になるでしょうか? それとも きちんとした社会観であるでしょうか? 

 社会観だとすると 初めに述べたように《将来に向けての希望》の問題になるように思いました。
 むろん 存在論だとしても その基礎から社会思想というものを開いていくはずのものではないかと いまやり取りをしています。
 (ε)は おそらく基本として存在論であり しかもその存在論の余力を駆って 社会性へとおのれを開く。その過程および実践のあとのあたらしい世界を――希望としてであると同時に むしろいま――あたかも《永遠の現在》として 見通しており見据えている。

 ★ (ε)一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。

 ☆ おおむねこのひとつの命題に そのあとのご文章も通じるようであると受けとめ復唱・整理を割愛しますが そうですね どうなんでしょう? 即身成仏の自覚を得たそれぞれのブッダは なおその《目覚め》を深めつつ では ひと(他者・他人)とどうまじわるのか?
 ★ (No.23) それは、人々が善を惜しまないことです。人々は人々のうちにあって善を廻向し、しかも共々安らぎの境地へ至るからです。
 ☆ かつ
 ★ (同上=No.23) 仏は善に対する執着を離れています。
 ☆ ううーん。そうしますとですね いま問い求めようとしている社会観というのは 善とは何か悪とは何か? 善悪の彼岸とはどうなのか? こういった主題を一つひとつ明らかにしていくという道がやはり基礎なのでしょうか? あるいは執着とそれからの自由も問題なのでしょうね。あるいはまた 基本的な主題だとも思われることとして
 ★ 廻向とは何か?
 ☆ にもなるでしょうか? これが社会性・開かれた交通を問い求める道ではないかとも思われて来ます。

 なおわたしの――信仰つまり個人の存在論にもとづく――社会観の基礎をお伝えしておきます。長いので参照してもらえるとさいわいです。
 【Q:魂の存在について】その回答No.5です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html
  
 さらになお 短く個人の空観――《愛》という主題で表現しますが――についてたたき台としていただければと思います。そういった課題もまだ残っていました。
  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   愛には恐れがない。
   完全な愛は 恐れを締め出します。
    (ヨハネの第一の手紙4:18)

 けれども 愛には きよらかな恐れがある。
 わたしの愛は全きものか とおそれる清らかなおそれがある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2010/03/29 12:59
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この回答へのお礼

 (これは アウグスティヌスのことばをもとにしてわたしが表わしたものです)。

 ☆ そういう過程だと思うのです。未完成の完成でしょうか? 脱線したらただちに中道に戻ることのできる不完全な完全なのだと思います。
 その意味でも この個人ないし《わたし》が 社会についてどう考えどう振る舞っているかは とうぜん主題になるはずです。たしかに存在論じたいに社会思想はないのですが――あっても あくまで《わたしがわたしである》ことの確立に主眼がおかれているはずです―― とは言うものの この《わたし》が《〈わたし〉たち》として社会的にまじわるのは しごく当然だという感覚がわたしにはあるのですが どうもブディズムは そこのところが複雑です。
 だから それはひょっとしたら 《外道》だという見方があるからではないかとさえ疑ったのですが そのあたりを解きほぐして行っていただくと たぶんこの質問はそこで満足すると思うのですが いかがでしょう?

お礼日時:2010/03/29 13:06

 ご返答賜り、厚くお礼申しあげます。

Hidocchiです。

> こう言っては何ですが どうもブディズムは いまだに《外道》という区別を持っているのではないか? ふとこう思われたのですが 

外道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%81%93 からでございます。

「元来外道とは、仏教以外の教え、またそれを信奉する人びとを総称した呼称である。もともとインドに仏教が興った紀元前5~6世紀ごろ、マガダ国に存在した六師外道という自由思想家たちや異教の思想一般を指して言った。これから転じて、正論者から異論邪説を唱える人たちを貶めていうようになった。”これがまた転じて日常用語となり、人を罵って使われる言葉となった”」

 転々として、日常語化し、今の意味となったようでございます。また、他派・他宗教に対する批判的な意味での言葉は、他宗教にも見られますので、この個所は余り追及致しましても、詮無きことかと考えております。

> 向こうでは曲りなりにも 民主制を志向して来ましたが だとするとブディズムの側は こう言っては何ですが 遅れてるーっですね。
何だか ニルワ゛ーナという言葉が入り込んで来て どうも消極的な態度に映るのですが どうなのでしょう? へりくだりと言いますか 基本的に言って 控え目なのでしょうか?

 仏教国と申しますと、日本、タイ等の東南アジア諸国の国々を想起させます。「遅れている」という観もございますが、(感情表現等が)控え目な国々とも思われます。
 
 ”涅槃”と申しますと、字義が「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義だそうです。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。 とのことだそうです。つまり、どうしても、静寂感・静的・控え目等の香りが残っているものと思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 からでございます。

> 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか? こういう課題に移ったでしょうか?

 誠に申し訳ございません。明日にでも、ご返答させていただきたく存じます。

 それでは、また明日よろしくお願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 〔《外道》にかんして〕他派・他宗教に対する批判的な意味での言葉は、他宗教にも見られますので、この個所は余り追及致しましても、詮無きことかと考えております。
 ☆ いえ ひとえにそういう事情でしたら 何の問題もないと思います。ちょうどいま 《拈華微笑》なり《教外別伝》なりにかかわる問題が ほかの回答者の方から――こちら側から見たかたちとしては――提起されたかたちだと思うのです。
 《言葉では表現できない》という帰結になるときの問題なのです。

 たしかに 信仰ないし神はそうなのですが それでも仮りの表現として 互いの対話をすすめると思うのです クリスチアニズムの場合はです。ブディズムの場合には 対話を避けているとさえ感じられる部分があるわけです。

 非思考の領域であるという説明すら 一般にはしないと思われます。ニルワ゛ーナを掲げ あとは修行であり体得の問題だと言い続けているように思います。
 人間として地続きではないのか? それは地続きだが 教義としては・あるいはその体得としては 別だと言うと思いますが そのときその《別だ》というのは ほかの思想の人間とは《地続きではない》と思っているのではないか? こういう意味のことを 《外道という呼び方が いまでも通用しているのではないか》と表現したものです。
 今ほかのお二人の方がたからも回答を得て 返答をしていて この主題にかかわっていますので どうかそのところをも読んでくださるとありがたいと存じます。

 ★ 〔《ニルワ゛ーナ》にかんしましては〕つまり、どうしても、静寂感・静的・控え目等の香りが残っているものと思われます。
 ☆ ということだとわたしも思うのですが 焦点は微妙に違っていますので 次のように問うのがよいと思うのです。
 ○ ブディズムでは 対話・意志疎通つまりコミュニケーションについて 基本的にどういう考え方をするのか?
 ☆ 社会的交通における《ことばの位置づけ》ということにもなるでしょうか?
 ☆☆ 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか?
 ☆ につながりましたので この質疑応答はかなり長いものと成って来ましたが どうかよろしくお願いいたしたいと思います。

お礼日時:2010/03/29 15:15

この大悲と言う意味を習得するためには、心を究極の意味において「一切皆苦」と言う所に置かないと出来ないかも知れません。



それは『人間と言うものは如何して苦しい想いをしなくてはならないのか?』と言う事が分かった後の心の状態であって、そこまでに至らないものがいかに学問から学ぼうとしても出来ない事と言えるはずです。

一切皆苦の反対語が『涅槃』です。この意味が判ったときには自動的に分かるはずです。悟りを開く事が先に必要と言う意味です。
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この回答へのお礼

 たぶん そうであると言える部分もあるでしょう。
 そうではないと言わなければならない立ち場もあることでしょう。

 問題は 生身の人間にとっては ニルワ゛ーナが 〔修行の程度として〕どこまで行っても 完全な状態ではないということにあります。ですから 《これこれの暁には 分かるはずだ》という論法は ただの論法であって 問い求めに対して まじめに向き合っていないことを物語る。こう わたしは思います。いかがでしょう?

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2010/03/28 16:43

 こんばんは、Hidocchiです。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ☆ ここら辺に 核心があるように思うのですが どうなんでしょう。
 復唱・整理も端折らせてもらって このあたりに対して反応を持つのですが まづは 屁理屈ないし揚げ足取りとしまして
 (1) 《おのれひとりの成仏にすべて帰着する》ゆえにこそ その《わたし》に関係性や――ヘンな日本語ですが――ともがら性やあるいは共生の素(もと)のような力も香りも出てくるのではないでしょうか? どうでしょう?

 確かに、共生の素(もと)のような”力”、”エネルギー”が出てくるかと考えられます。

 (2) 受け身でいるというのは ほんとうだと思いますが 受け身でいるかたちで積極的にまじわりを志向している――というような格好にはならないでしょうか?
 ★ “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。
 ☆ (3) 《無縁》つまり赤の他人ですよね? 赤の他人であるゆえに まじわりに関して積極的に 受け身の姿勢でいる。こうなりませんか?

 《無縁》つまり赤の他人ですよね? → 仰る通りかと存じます。《法縁》もそうかと考えられます。
 受け身の姿勢 → 少なくとも能動的・自発的要素は存在しないと思っております。

> ☆ (4) 《われはブッダなり》と宣言する場合には 潜在力としてであっても あらゆる《戒め》から自由であるという存在が想定されていませんか?
 (5) 悩みや苦しみもあるのですが・つまり 永遠の現在なる過程にも つねにというほどに起こるわけですが その苦悩をも含めてそれぞれの人生としての縁起の過程があたかも空観においてつつまれている。つまりは この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?

 愚生には気づきませんでした。初期仏教の頃、もしくは有部の頃では、《戒め》があったかと思われます。特に後者におかれましては、種々の詳細な《戒め》があったかと思われます。ですが、この有部に対しまして、一矢を放った竜樹では、”空”にとって代わったことは十分に肯けます。

> たとえば《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という方針を持ちつつ 個人の個人としての人間の確立 これを基本とすると考えます。しかも この聖書の思想としては そこに社会思想や社会科学が確固としたものとしてはないと思うのですが 社会とのかかわりは ふつうのこととして捉えられているように思うのです。
 すんなりと 社会性あるいはつまり具体的な人間関係をとおして社会の単位体(国家でしょうか)とのかかわりにまで 生活態度として ふつうに及ぶようになると思うのです。
 このようなことが ブディズムには 稀薄なのでしょうか? 

 はい、残念ながら、新たな仏教思想家が待ち望まれている状況かと思われます(希薄かと考えられます)。

> 友がらの問題として 慈悲心を立てつつ 問題は 個人のさとりになっている。つまり そうなっていて いいわけですが そのとき 社会性もついて来ている。はずですよね?
 たしかに まじわりをも受け止めるようになるとおっしゃっているわけですが 何だかいまひとつ かゆいところには届いていないように感じるのですが どこで理解においてつまづいているのでしょうか。

 社会性の観点というのが、ブティズムの弱点かと考えております。これが原因なのでしょうか。もう少し考えさせていただければ幸いでございます。

> 民主主義とも けっきょくのところ 通じている。つまり同じ土俵であり舞台であるとも うかがいましたし・・・。《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?

 いえ、その単純なことでございます(笑)。最近、福山哲郎著「民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)」という本が売れているようでございますが、選管は以前も健全に機能していたと思うのです。ではいったい、「一度もなかった」とは? と思ってしまうのです。やはり、「その国民の身の丈にあった政治家しか選ばれない」と言われますが、ある意味あたっているのではないかとも考えております。ですが、民主主義を推し進めていく以上は、”個の確立”のようなものも必要なのでは? と思った次第でございます。

 駄文、ご一読いただきましてどうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 今晩は ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ・・・《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?
 ★ いえ、その単純なことでございます(笑)。・・・
 ☆ そうなんですか。ううーん。徹底的に個人の個人における個人および共生のための修行といったところでしょうか。その昔 サンガと聞いたときには 共和国と思って それはそれは 共生の原理が展望されていると思ったことが想い出されます。
 こう言っては何ですが どうもブディズムは いまだに《外道》という区別を持っているのではないか? ふとこう思われたのですが どうかきちんと否定してくださいませ。世界宗教会議とかいった交流があるのですよね?

 ☆☆ ・・・この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?
 ★ ・・・ですが、この有部に対しまして、一矢を放った竜樹では、”空”にとって代わったことは十分に肯けます。
 ☆ こうお聞きしてまことにうれしい限りです。
 ★ 確かに、共生の素(もと)のような”力”、”エネルギー”が出てくるかと考えられます。
 ☆ このご指摘も うれしいです。

 かくなる上は 個人と社会性とを一たん分けて捉える必要があるのかも知れません。
 縁起すなわち空観があくまで個人において確立されることを 中核とする。そこから縁起共生の側面――すなわち おそらく民主主義と言いかえてよいと思うのですが この民主主義のあり方―― これがあたかも第二段階として 実践されていく。
 強いて分けて考えるなら 個人の中核は 慈悲心であり 社会的共生の側面は 自由・平等そして 友愛としての・人間関係としての慈悲心が来る。でしょうか? あるいは 友愛の次元は もう慈悲心とは言わないでしょうか?

 向こうでは曲りなりにも 民主制を志向して来ましたが だとするとブディズムの側は こう言っては何ですが 遅れてるーっですね。でも
 ★ 受け身の姿勢 → 少なくとも能動的・自発的要素は存在しないと思っております。
 ☆ なんでしょ? あぁ つまりこのご指摘は 個人の中核の次元でした。そのあと共生の次元で どうなのか? になりますね?

 何だか ニルワ゛ーナという言葉が入り込んで来て どうも消極的な態度に映るのですが どうなのでしょう? へりくだりと言いますか 基本的に言って 控え目なのでしょうか?
 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか? こういう課題に移ったでしょうか?

お礼日時:2010/03/28 00:25

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