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 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。

 《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。
 抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。

 ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~
 1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、

 【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、

 【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

 2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は

 【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。
 「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。

    ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて
    いると思われます。

 【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

 3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。
   ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)

 (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。
   ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)

 (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
   ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)

 この三縁の慈悲とは、
 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。
 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。
 あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。
 ずばりおしえてください。

A 回答 (37件中21~30件)

 字数制限のため、続きを以下に記載させてもらっております。



 ▲ 勝手な要求
 ☆ とは いったい誰が判断するのか? その判断の妥当性は どのように誰が判断するのか? どこかに勝手な判断は入って来ていないか? うんぬんうんぬん。しかじかかくかく。

 まず、釈尊やナーガルジュナの時代とは、かなり異なった社会形態になってしまったかと思われます(ここまで、資本主義化・個人主義化した世界は予想していなかったと思われます)。従いまして、新たな“思想家・解釈者”が、今日、望まれているものと考えております。日本にも、優れた仏教思想家、例えば、道元、親鸞らがいましたが、また、彼らの時代とも、現代社会は、異なったものかと思われます。従いまして、愚生には荷が重過ぎるのですが、少しばかりの戯言をお許しくださいませ。

“民主主義”、かつては、今もそうでございますが、“衆愚政治(Ochlocracy)”という言葉もございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E6%84%9A% …

 ですが、現実的には、この“民主主義”以外に、他に政を治める方法はないとも考えております。実際のところは、その是非等(「単なる勝手・わがままであった」 or 「全うな正論であった」)かは、後世の歴史家なりに委ねることになろうかと思われます。では、今現在、“勝手な要求”と判断しているのは、今日いる多数派の意見かと思っております(“民主主義”である以上は、その正誤は分かりませんが、多数決に従わざるをえないと考えています)。
では、“民主主義”なるものを支えているのは と申しますと、その根底には、人には(ほぼ)平等に、判断力があり、それらを尊重しようではないか というものであろうかと考えております。つまり、ブディズムも、“民主主義”とは、矛盾するものではないものと解しております。

> ブディズムとは いったいどういう人間のいとなみとして成ったものなのでしょうか?

 残念ながら、愚生には分かりません。ですが、次に、ブディズムとは反する例を述べさせていただきたく存じます。

・教義の習得・修行はしたものの、それのみによって、“賢しら”を振り舞うようなひと(?)

 お役に立つところがございましたら、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 途中での考えを述べてひとまづのお応えとさせてください。

 たとえば《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という方針を持ちつつ 個人の個人としての人間の確立 これを基本とすると考えます。しかも この聖書の思想としては そこに社会思想や社会科学が確固としたものとしてはないと思うのですが 社会とのかかわりは ふつうのこととして捉えられているように思うのです。
 すんなりと 社会性あるいはつまり具体的な人間関係をとおして社会の単位体(国家でしょうか)とのかかわりにまで 生活態度として ふつうに及ぶようになると思うのです。
 このようなことが ブディズムには 稀薄なのでしょうか? 

 友がらの問題として 慈悲心を立てつつ 問題は 個人のさとりになっている。つまり そうなっていて いいわけですが そのとき 社会性もついて来ている。はずですよね?
 たしかに まじわりをも受け止めるようになるとおっしゃっているわけですが 何だかいまひとつ かゆいところには届いていないように感じるのですが どこで理解においてつまづいているのでしょうか?
 民主主義とも けっきょくのところ 通じている。つまり同じ土俵であり舞台であるとも うかがいましたし・・・。《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?

 澄みません。まとまっていません。経過報告のようなかたちです。

お礼日時:2010/03/27 01:18

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

Hidocchiです。

 愚生の今までの意見は確かに抽象的すぎたかと反省しております。以下、具体的に述べてみたいと思います。

> そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか? 

1.ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?

 “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。

2.すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?

 上述の通り、存在論かと考えてはおります。ただ、特殊な“境地”なるものはないものと考えております。《いっさいの人々に対する平等の友情》とは、その周囲の紡ぎあいのようなもの(“縁起”)から自然と(本人の意思とは関係せずに)導かれるものと考えております。

3.縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?

 “空観の目覚め” → “縁起による(偶発的)関係性” → 《共生》の意義の把握

 という経路で営まれるものと考えてございます。従いまして、どちらが重いか? というよりも、(ほぼ)同時なるものかと考えております。

4.アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?

 ブッダとして体得した《わたし》も存在していると思われます。確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。釈尊ご自信が、出家した理由は(少なくともその一つは)、“苦からの開放・解脱”だったかと記憶しております。つまり、“諸法無我”を通して、この《わたし》に執着しすぎるところから生じる“苦”、これからの開放・解脱を説きたかったのではないか とそう推察しております。

5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?

 繰り返しとなってしまいますが、《共生》を通して、ひとは、自分に可能な(偶発的要素も多少はあろうかと存じますが)“慈悲”(=”衆生縁“)も、重要視しているかと考えております。従いまして、”慈悲“を通した、共存関係を主張していると考えております。

☆考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?

 出家者のみならず、在家者も含まれると解しております。“空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。

 王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?

 釈尊も一人で《目覚め》たかと思われます。そして、秘密にはせず(出し惜しみをせず)、旧友や、弟子たちに説いていったとされております。これは愚見でございますが、“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。

 以降は次回に記載させていただきます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?
 ★ ・・・“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。

 ☆ ここら辺に 核心があるように思うのですが どうなんでしょう。
 復唱・整理も端折らせてもらって このあたりに対して反応を持つのですが まづは 屁理屈ないし揚げ足取りとしまして
 (1) 《おのれひとりの成仏にすべて帰着する》ゆえにこそ その《わたし》に関係性や――ヘンな日本語ですが――ともがら性やあるいは共生の素(もと)のような力も香りも出てくるのではないでしょうか? どうでしょう?

 ☆ たしかに 《言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある》(箴言 10・29)と聞きますが 《ときを得ても得なくても〔伝える〕》(これは テモテへの第二の手紙4:2でした。パウロ本人の文章ではないようですが)とも聞きます。
 (2) 受け身でいるというのは ほんとうだと思いますが 受け身でいるかたちで積極的にまじわりを志向している――というような格好にはならないでしょうか?

 ★ “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。
 ☆ (3) 《無縁》つまり赤の他人ですよね? 赤の他人であるゆえに まじわりに関して積極的に 受け身の姿勢でいる。こうなりませんか?

 ★ 確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。
 ☆ (4) 《われはブッダなり》と宣言する場合には 潜在力としてであっても あらゆる《戒め》から自由であるという存在が想定されていませんか?
 (5) 悩みや苦しみもあるのですが・つまり 永遠の現在なる過程にも つねにというほどに起こるわけですが その苦悩をも含めてそれぞれの人生としての縁起の過程があたかも空観においてつつまれている。つまりは この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?

 ☆ つぎのご指摘について了解しました。ありがとうございます。
 ★ “空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。

 ☆ 乱雑になりましたが 考えをぶつけさせていただきました。偽らぬ問いになりました。いかがでしょう?

お礼日時:2010/03/27 00:42

文章の訂正です。



もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。
あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。
それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。

 ↓

もし迷妄が無いのであるならば、人は正法あるいは理法を語る存在であるということになります。
よく気をつけている人々が法について言葉を交わす事は、即ち観です。
観は思索を超えた思索であり、気をつけて歩いていることその人の有り様でもあるとも言い得ます。
観は静けさと明るさをともなっていて、たとえるならば月のようであるというのもOKですし、仏のそれは太陽のようであるとも聞きます。
とまれ、観を完成させて、人は真実を見知るのだといっても過言ではないでしょう。
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この回答へのお礼

 直前のお礼欄にて 述べております。

お礼日時:2011/03/24 16:51

おそらく仏道の起源は、人は皆独りであるというところから来ているのではないかと思います。


いつかは一人発ちせねばならぬ、それも本当なのですが、いやおうなく独りになってしまう、そういう境遇で生きてきた我々であるから、故に、今ここでは、仏国土が完成するのであるということが、永遠の真理なのではないかと思うのです。

ところで、人は時に迷妄の林に絡め摂られてしまうことがあります。それはくもの巣のようでもあります。
迷妄とは、言葉によって生じた恐ろしい林の名前であり、ここに落ちると、夢を見たまま死に至るという恐怖の林です。このために、仏になった人は、理法を説いてその呪縛を解くのであるとも言えるのです。
もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。
あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。
それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。


林には、毒の実もあれば爽やかな実もあります。爽やかな実を食べて、力をつけることはよいことです。ですから、人は口にしてさとしい言葉を語るべきです。
林には、ぬかるんだ沼地もあれば、清涼な泉やせせらぎも存在します。清涼な飲料水を得て、元気を取り戻すのはよいことです。ですから人は、やさしい言葉を語るべきです。
 

しんがりになろうという心構えは、まったく仏になる人(何びとであっても)に相応しい心構えであり、そうであってこそ、その人は智慧豊かな人になりえるのです。迷いにあって覚悟の決まる人、かれこそ大乗の人であると言われるでしょう。見る人は、彼を先であると見るからです。仏弟子が仏弟子を教化するということの真実は、こういうことなのです。しんがりから見れば他のしんがりは先であり、先を行く人から見てもしんがりは先であり、ひとりも置いていかないということが仏乗に他なりません。そしてこのような法縁こそが、一人残らず解脱せしめるダルマの普遍的真実であるといってもよいのです。

この世はすべてが妄執です。しかし心構え正しく、真実に浄らかなるものを求めて精進し、人々にはやさしさと智慧を施して、自らもまたそのよう(=無住心)であるならば、それが即ち直き道に他なりません。
無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。

地球に端っこがないように、この道は円なる道であるというのです。

合掌
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この回答へのお礼

 てるてるさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 次のご投稿での訂正を合わせて――そう言えば 書き直された文章は すっきりしたというふうに感じました―― 今回のご文章は この質問を訪れる人たちが読んでひとつのおみやげにするものと思います。
 わたしの考えをも採り入れてくださって ありがたいと思います。
 今回の文章は ここをこう捉え そこをどう捉えるという性格のものではないようです。

 
 そこで なお残る違いについて取り上げます。
 推測で述べますので 間違いについてははっきり指摘してください。とおことわりしてですが これは ひどっちさんとのやり取りでも出ましたが 
 ○ 即身成仏について どうお考えになるか?
 ☆ お訊きしたいと考えます。わたしの言葉では 《いま・ここ》が《永遠の現在》だという命題です。あるいは別様に言いかえれば 《ひとは 終わりから始める》という立ち場です。

 ★ 無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。
 ☆ すでに《わたしは ブッダである》から始める――となります。《潜在性として 清浄心はすでにめぐみとして与えられた》ところから始めるです。《その道を浄めつくして》からにするとは思わないわけです。あとで《不滅の安らぎを体解する》のではなく 想定として・自然本性として すでに得ている――ここから始めるとなります。
 どうでしょう?

お礼日時:2010/03/26 23:36

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。
 たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。

 実を申しまして、愚生は、少なくとも敬虔なブッディストという訳ではないのですが(自称、仏教研究家です(笑))、どうしても、仏教におきましても、“なぞ”の部分が内包されているように思われるのです。従いまして、キリスト教信仰とは、全く別物とは考えてはいない次第でございます。

> ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。

 《S or A語のどちらに相当するか》につきましては、自らquestionを挙げてはいたのですが、これまでの種々の資料から、答えを出すのにとても悩んだというのが実情でございます。愚生のとりあえずのご返答と致しましては、仰られますように、場合によっては、どちらにもとりうることができ、また活用・発展も可能ではないかと思った次第でございます。明確なご返答をできずに、申し訳ない限りでございます。

 そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。

 はい。仰られますように、ケースバイケースにより、考えをめぐらし、ときには“対話”を通しながら、交通整理をしていくものかと考えております。

> ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~? 『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に?
   「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を
   摂(せつ)す」

 と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。
 鈴木大拙師は

   「慈悲の究極は存在にあり」

 と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?

 以下に、愚見を述べさせていただきます。

 “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、

「仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。」

「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」
 
 と訳したいと考えております。

 つきましては、“縁起”=人々の中での関係性=「なぞ」ではありますが、何らかの契機により、結ばれた関係 とでございます。

 お役に立つことがございましたら、幸甚でございます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか? 
 (極論しています。そのほうが 問答として話がすすむでしょう)。

 1. ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?
 2. すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?
 3. 縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?
 4. アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?
 5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?

 ☆ 考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?
 王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?

 ▲▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  鈴木大拙師は

   「慈悲の究極は存在にあり」

 と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、

   「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、
   衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」
 
 と訳したいと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 普天間基地は 町の真ん中にあるから 引っ越せというのは 衆生の勝手な要求です。県内に基地は置きたいというのも 勝手な要求です。他国だが他国でも条約として守ってくれというのも しかりです。外国よ 攻めてくるなも そうです。攻めるのも ミサイルを作るのも しかり・しかりです。
 ▲ 勝手な要求
 ☆ とは いったい誰が判断するのか? その判断の妥当性は どのように誰が判断するのか? どこかに勝手な判断は入って来ていないか? うんぬんうんぬん。しかじかかくかく。

 ブディズムとは いったいどういう人間のいとなみとして成ったものなのでしょうか?

お礼日時:2010/03/26 11:29

そうですよね、大人になったら悪い道に入ってええんかってことになったら、それは言うまでもないことですからね。

日々これ清浄ってことかもしれないですね。
修行が終わってたら、清浄といわなくてもそうあれるのでしょうね。

最近爽やかな話が多いんです。

実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^)


ここらで初心にかえります。
一つ質問を良いですか?

・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか
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この回答へのお礼

 てるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^)
 ☆ とびきり若いということではないでしょうのに なんで今頃? と思ってしまいましたが こだわることもないですよね。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一つ質問を良いですか?

 ・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《本来清浄心の人》と言えば みなそうですよ。
 ま 屁理屈はやめにしまして わたしに答えられるかぎりでですが。
 ★ どのような場所に到達するのでしょうか
 ☆ これは はっきりしています。と言っても キリスト信仰者としてのわたしの考えです。(その立ち場で 親鸞とは相い通じるものを感じますので ブディズムにも関心があります。ブディストか? と訊かれれば 積極的にそうだとは言えません)。
 清浄心を与えられたと確信したそのとき・その場で《わたしがわたしである》存在を――潜在的にせよ――確立したと捉えます。

 すでにそのとき 《永遠の現在》という過程にあります。永遠の現在がそのまま過程して行くかたちです。(海面上にさまざまな心理的な悩みなどの風雨が起こることも 実際です)。
 つまり 《わたし》に到来します。到来し続けます。
 
 そして 《わたしがわたしする》過程をあゆみます。わたしの自己表現の道です。表現はあらゆるかたちにおいてありうるでしょう。
 たぶんすべてと言っていいほど その時には受け身ですすむというふうにも言えるかと思います。あるいは つねに後ろ向きに前へすすむというかたち。これは 《九十九匹よりも一匹を〔大事にしよう〕》という考え方です。先頭のほうに身をおいている場合もあるのですが 気持ちはしんがりで進むということになるかも知れません。

 そんなふうに思います。
 

お礼日時:2010/03/25 22:40

ずばり行きますよ。

OKすか?

三縁の慈悲とはつまり、

第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。

第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。

第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。
ずばり行きますよ。OKすか?

三縁の慈悲とはつまり、

第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。

第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。

第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。
別のパターンもありますよ。大打者デキスギスネオを打ち取るパターンです。
こっちはねぇ、やる気がない。勝負するんだったら、超高校級と勝負したい。だろ?


もう一つたとえ話をしましょう。縁起についてです。なぜ見えないように見えるのか?

高校球児の話です。
さて、熱闘甲子園といわれるように、高校野球の頂点ではあつい試合が繰り広げられます。
互いに健闘をたたえる高校球児の姿には、誰もが爽やかな余韻を授かることでしょう。
そのような闘いの中では、一生に一度の悔し涙や、その時にしか現れ得ないファインプレーというものが存在しますでしょう。いわばそれが縁起なのです。

高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。
そのような球児たちが、マウンドに立つ、グラウンドに出る、BOXにはいる、するとね、わかるわけじゃないですか。お互いが、お互いに、どんな高校生活を送ってきたのかが。
だから、一投一投が、一振り一振りが、一球一球が、彼らの青春のすべてなんですよ。わかりますか。
勝ちへの途中、それは事実、しかし真実は、勝ちへは途中、中身が本当なんですよ。
だから高校球児は、常に敗者と勝者が存在する世界においてもさえも、いやだからこそというべきか、希望を持って精進できるんです。
このような勝負には、敵味方というものを超えた、真剣勝負が現れます。それが、いわば道場です。
そしてそのような場においては、これはっという瞬間が時として現れる。これこそが、縁起なのです。

縁起は、互いが全力を出し切るという直ぐなる心の持ち主であって、しかも互いに譲らず、対等でね、只、一献一献に力をこめて投打に没頭する故に、決定的な瞬間、ね、勝負どころが存在するわけですよ。勝敗を決するときが来たと。皆、後悔はないかと、あるわけねぇよと。やるぜと、ね、そんな世界に、どこのだれがうらみなんか持ち込むの、慌しさなんか持ち込むの、ありえないでしょ、だってそこは、球児の聖地、甲子園のマウンドなんだぜ。
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この回答へのお礼

 てるてるさん お早うございます。(遅くなりましたが)。ご回答をありがとうございます。

 
 そうですね。《稀有》説を或る意味で貫かれた――こういう受け取りですけれど まづは 見解の相違は何ら問題にはなりません。
 問題は 慈悲心もしくは縁起共生の実現する現場ということについて 《稀有》というよりは《日常から離れた特殊な場合》について捉えようとしておられるのではないか。ここにとりあえず 注意が向かいました。
 たしかに ふつうの人間が 仏性と言えば 清浄心ということでもあるでしょうから これをみづからの――もう一度使いますが――現場において発揮するということ。あるいは そこでの振る舞いの数々をとおして 慈悲心を見通せるようになるということ。これを扱っておられます。苦心の論文であろうと存じます。
 
 でもここでは わたしはスネオに徹しましょうか。
 ★(α) 高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。
 ☆ たしかにこのように 生活日常が大事であることにも触れておられます。だからこそ 卑近なことでは タバコを吸ったとか不祥事が出た場合には 大きく問題にされます。ですが だったら 高校を卒業したなら もう何でも大人の裏表の世界に染まって行ってもいいのかともなります。江川も桑田も その点では 時効無しです。ではないですか?

 つまり 慈悲心の問題を 晴れの舞台といった特殊な場において発揮されるか もしくは そこでこそ見通されるというふうに 絞って行くのはなぜか?
 ★(β) これはっという瞬間 / 投打に没頭する故に、決定的な瞬間
 ☆ この(β)の特殊性は (α)の日常性を凌駕しない――こう言いたいのではないでしょうか? 慈悲心というのであれば。つまり わたしとしては (β)を特別視するところに 江川と桑田が現われた――こう考えます。

 でも試合なんだから勝負は勝負ですよ。勝負を決めるというのは 普段からの練習と同じ次元です。日常性の延長です。それを 晴れの舞台なのだから 特別の縁起の瞬間なのだというのは どうも感覚としてピンと来ませんね。どうでしょう?

 * BIGLOBE何でも相談室は 今朝から模様替えです。OKウェーヴに合わせてシステムが変わりました。ところが 原稿を確認して 投稿するに到ると 《アクセスが集中している》が出て 仕上がりません。でした。あぁ 苦労した。
 補足欄も お礼欄と同じく 制限が2000字となったのですね。

お礼日時:2010/03/25 12:54

仏が稀有であると言うのは、ある意味で私の手抜きかもしれない。

「仏が珍しいと思っているのは私だけ」たしかにその指摘には注目したくおもいます。
だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。
うーん。。どういうことなんでしょうね。
居る居ない、あるなしにこだわりすぎたかも。。

これもちょいとゆっくり考えさせてもらいます。
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この回答へのお礼

 今晩は てるてるさん。ご回答をありがとうございます。

 ひどっちさんとのやり取りで 
 ★ だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。 / うーん。。どういうことなんでしょうね。
 ☆ このあたりのところについて 間接的に触れているかと思っていますが いまは静かに見守らせていただきましょう。
 どうぞ時間をじゅうぶん費やしてくださいませ。(ちょっと 冷たく)。

お礼日時:2010/03/24 23:03

 こんばんは、ご返答いただきまして、また、詳しいご説明をも添えていただきまして、厚くお礼申します。

Hidocchiです。

> ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?

 仏教との出会い、縁起(空)の理解等につきましては、何かしらの契機のようなものが存在しているのかもしれません。
 ご存知のことと思われますので、概略だけ説明させていただきますと、釈尊が悟りを得、その後、旧友5人のところに行き、そして、皆が全員ブッダとなったとされています。また、舎利子も元々は別の教え(懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え)に従っていたのですが、ふと釈尊に出会い、「釈迦の教えの一部を聞いたとたんに悟りの最初の段階に達したと伝えられる。」とされています。これらを考えて見ますと、予定論的な要素も含んでいるかのように見受けられます(参考1)。
ですが、必ずしも、その教え(縁起・空観)を聞いたとしても、理解できるとは限らないとも考えられます。その契機の次の段階でございますが、これには、人の努力(周囲の人たちの援助も含まれるかと思われます)が必要とされるかと思われます。
 実際、世親(vasubandhu)の兄にあたる無著(asaNga アサンガ)は、「「空」の教理が理解できないため自殺しようと悩んでいたとき、東方、ビデーハ国(現在のビハール州北部)のピンドーラ(piNDola、賓頭羅)阿羅漢に出会い、ようやく小乗の空観をも体得した。」とされています。これも、契機と努力の結果かと考えられます(参考2)。
 従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。

参考1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9% …
参考2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%91%97


> ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? 

 愚生は、誰もがブッダであると考えております。以前には(初期仏教の頃)、ブッダは少なからずいたようでございますが、ここ2千年を振り替えりますと、即身成仏となられた数名以外は分からないという状況でございます。しかも、例えば、密教系の真言宗では、教祖の空海と比肩しうる密教思想家は今日まで現れてはいないという状況でございます。逆に申しますと、“ブッダ”という概念を彼岸のまたその彼岸まで、勝手に人たちが追いやってしまったと考えております。
 そして、その際の対人関係は と申しますと、未だはっきりとした回答を持ち合わせてはいないのですが、お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております(かなり個人的希望も含まれており、お恥ずかしい限りでございますが)。

 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

この回答への補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 だいぶんすすんでまいったと思います。ありがとうございます。
 なるほど ブッダあるいは弟子たち さらにその後のブディスト探究者ら その人びとの足跡をたどって さとりを得たかどうか・どの程度だったかをさぐるというのは そのまま実践の問題を問い求めることなのですね。
 ★ 愚生は、誰もがブッダであると考えております。
 ☆ 仏性の問題と言い ブッダの修行ないしさとりの度合いと言い お聞きしていた内容として もはや《人はブッダである》は大前提であったのですね。分かりました。非思考(信仰)の問題として捉えるならば 必然的に存在はそうであるとなるとは たしかに思います。
 そしてまた 慈悲心となれば この信仰の――最初のさとりのあとの実践過程として――その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。
 たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。

 そうしますと ブディズムの側からさらにさらにご投稿があるとよろしいかと考えますが それはいま措くとして あとは 《目覚め》にしたがって残りの人生をどう生きるか そこでの実践はどのように成るのか この課題と言えば課題が持たれるというところでしょうか。
 ★ 従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。
 ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。

 そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。
 ★ お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております
 ☆ ううーん。これは 無難なお答えと言いましょうか だと思うのですが どうなりましょうか? つまりこの問題は ここでは その実践にかんして 実践じたいが現実なのだと人びとが納得し得たなら よしとすることになるわけですが そのような説明は どうなるでしょうか。

 ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~
 『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に

   「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を
   摂(せつ)す」

 と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。
 鈴木大拙師は

   「慈悲の究極は存在にあり」

 と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?
 さらにわづらわせ申し上げますが よろしくお願いします。

補足日時:2010/03/24 22:58
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお礼を書いています。

お礼日時:2011/03/24 16:33

喩えば、野球部員がいて、甲子園を目指しているとします。


でですね、部員Aが、「俺達って、甲子園行けんのかな・・・」
と言ったとします。
部員Bは当然、「ああ、きっといけるさ。」
と自他を励ますその言葉に、疑問の余地はありません。

ところで、高校球児は、克つことを目的に甲子園を目指すのではありません。勝ちは途中、その中にあるものが欲しくて、甲子園を目指しているわけです。

それと同じで、今、僕らがこけたり起きたりしていて、
あるひとが、「俺らって、起き上がれんのかな・・・」
と言ったとします。
そしたら当然他の人は、「当たり前じゃねぇか。気に止む無いっ。」つって、
自他を励ますでしょう。
その言葉に疑問を挟む余地など無いのです。それが信です。

ところで我々は、歩くことが目的ではありません。歩きは途中、その真髄(=ゴール)を目指して歩くわけです。であるから、克己は途中、その中にあるものを探して僕らは歩こうというわけです。

> どぢゃ?
 世尊ったぁ いったいなんやねん? どないやねん?

これはつまり、すし屋の職人に、大将って呼びかけたり、あるいは、バーの店主にマスター、なんて呼びかけたりするのと同じです。
仏弟子は仏、法の店の店主を世尊と呼ぶのです。

ここで、bragelonneさんが世尊と呼ばれるのは、
未来の世尊だからです。今日か明日か、あさってか、もっと先か、何時にせよ、誰もがしあわせな未来を願われるのに似ています。
 たとえば子供同士で、「ケンちゃんはどんな大人になんの?」と言っているようなものです。
それは相手の面影の向こうに、わからないのであるが、大人というものを見ているのです。
そのように大人になることを自分自身の事として受け止めて、子供らは自分達なりの答えをいつか見つけて、次第次第に、ひとりひとり、大人になって行くのです。

ところで人名の後につく「さん」は、「尊」なのだと私は考えています。「君」というのもあります。
つまり人は日ごろから、相手の事を世尊だと思っているということになります。
どこかの国でも、ヘイ、ブラザーなんて言うし、日本でも男性は誰でもにいさん、女性はねえさんと呼んだりします。それくらい、人は仏になってしかるべしなんだということでは?「ちゃん」も、舌足らずなだけで意味は同じだと思います。「様」も、変遷していますが、sama=san=尊と思います。
まぁ、呼び方は良いんですよ。要はだれでもそういう気持ちがあるってことです。

ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。

諸仏世尊、善知識、法(=そのこころ)は、出現すべきそのときに、無類の高貴さをそなえて世に出ると言われています。それはたとえば、子供があるときに、びっくりするような大人びたことを言うのに似ているらしいです。衆生(と言っても善き人)の口を借りて時として世に出るそれは、そのようにふとしたときの事ではあるが、その時たしかに法が世に現れたのだというそうです。
そして、それを聞いて覚った人が、大人になる、つまり仏になるわけです。
 
甘えについてのコメントは熟慮させてください。ひとごとじゃないんで。。

この回答への補足

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうなりますと――そうなるとですね―― 希望には形のあるものと無いものとがあると言っていた二つの場合を 《きわめて現実的に》 ひとりの人間としての《わたし》にとって 総合するという見方かつ実際の立ち場を想定するとよいと思いました。

 どういうことかと言いますと。まづ 球児の希望に関しては 形あるものとしてさらに二つがあります。試合に関するかぎり負けを目指すわけではないので 勝つという望みがひとつ。そうして全体として 人生としてゆたかさを得ること・または人格としておおきくなること これもあるということでしょう。――形の無い望みは 非思考のなぞの力のもとにあるということ でしょうか。
 つまりすなわち これらの希望がすべて総合されて ひとりの人間ごとに持たれるし かなえられるという主題に収れんします。《僕らがこけたり起きたり》する場合も 基本的に同じ主題として捉えられるはずです。

 つまり――何を隠そう いま考えたのですが。ただし《われはブッダなり》宣言は 前からあたためていましたが―― 《非思考》としての《慈悲》も そういう想定としては《いま・ここなる〈わたし〉にとって現実である》と見ることです。《わたしはブッダである。ゆえに 慈悲心が与えられている》 これです。
 それは まぼろしである。けれども まぼろしとして現実である。《わたし》の主観においてはであり けれども世界のすべては主観の問題なのであると。

 それなら 世尊や尊と呼ばれてもよいでしょうし それは 誰もがそう呼ばれるということであり 《未来の世尊》ではなく 現在の過程としての世尊であるとなります。また 誰もがそうであるので いちいちそう呼ぶこともなくなるとも思います。
 もしこの考え方の線では 次の見方を引っ込めてもらわねばなりませんが その点は どうですか?
 ★ ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。
 ☆ 時間(時空間)は 《いま(いま・ここ)》なのです。ズレはありません。ここがロードスですから。

 tansll さんは すでに慈悲心はさづかっていると見ておられます。
 Hidocchi さんは 関係論ないし人間的交通論においてよりは存在論において すでにひとは慈悲心ないし仏性の当体としてあるという空観=縁起共生論として 答えを見出しておられます。
 (ひどっちさんの場合 実践よりは理解・認識として現実なのだという条件がついているかどうか。また つまり実践ないし理解ということが 社会的な交通の場でどういうかたちになるか。こういった点についてさらに尋ねてみているところです)。( tansll さんの場合 非思考=信仰として捉えたあとは もう細かいことは言わないという立ち場でもあるようです)。

 ブッダを珍しいものと見るのは この中では てるてるさんお一人のようですよ。愛(め)づらしきものであることは 四人とも見方が一致していると思いますが。つまり それは ひどっちさんの提起しておられる《偶然性》の問題だと思います。あるいは 潜在性とその顕在化と言ったほうが早いかと思います。潜在性としては ひどっちさんとのやり取りで出てきた《本覚思想》や《即身成仏説》におおいにかかわると考えます。
 あるいは ここに《もののあはれを知る》説をもわたしとしては からませたいと思っております。
 よろしくお願いいたしたいと思います。(ちょっと かたいかなあ)。

補足日時:2010/03/24 09:40
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