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No.16
- 回答日時:
イエス・キリストが十字架上で語った言葉で、一番最後の言葉は、「父よ。
わが霊を御手にゆだねます。」です。特に重要のなのはそのひとつ前の言葉「完了した。」で、それはイエスが「キリスト(救い主)」としての使命(人間の罪を“身代わり”に背負い、神から罰を受けるという<犠牲の供え物[神の小羊]>としての役割)を完全に果たし終えたということです。
その2つ前の言葉として、イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」と言ったのですが、その意味するところは、“人間の身代わり”に「神から見捨てられた(罰を受けた)」ということで、それを私たちに明確に示すためです。
キリストを救い主と認めたくない人は、この言葉をとって、「救いに失敗して、神に文句を言った」とか、「ただの情けない人間だった」とか言いますが、キリストのその後の言動を見れば、この言葉が「失敗」の類ではないことは明らかです。
ちなみに、キリストは罪のないお方なのに、バプテスマのヨハネから“身代わりの”(罪の悔い改めの)洗礼を受けています。
神を信じない人に、神のみことば「聖書」を正しく理解する力はありません。未信者やいい加減な宗教学者の言葉には要注意です!
No.14
- 回答日時:
<補足>
イエスが死ぬために来たというクリスチャンの発想には、すり替えが隠されていると思うのです。
つまり、自分たちの至らなさで、イエスの命を守ることさえできなかった、バカ信徒、いわば、クリスチャンがイエスを殺した立場と言っても過言ではありません。
それを認めたくない心理が働き、自己正当化理論を構築したのだと思われます。
自分たちが殺したことからくる良心の呵責を封印し、あろうことか、イエスは死ぬために来たのだ、神の御心だったのだと、もっともらしい逃げ場を作ったということは、容易に想像できるものです。
仮に、死ぬために来たという主張が認められたとしても、それならそれで、大きな問題が発生しますね。
イエスが死ぬためにきた(この言葉を書くたびに疲れます。学校などで自殺があれば、命の尊さを唱えますが、普通は、死ぬために生きてる人なんて、凡人でも、人間のクズですらいないのですから・・・)
億一(万一)それを肯定しても、では何故その30歳ぐらいじゃないといけないの?
10歳じゃだめなの?あと七年経った40歳でも良かったのでは?
どうせなら100歳まで生きましょうよ、絶対その方が人類にとって良かったって!
100歳まで生きて大往生も同じ死です。こうなっちゃうから、死ぬために来たなんてのはそもそも普通に矛盾を孕んでいるのです。
40歳50歳が、一番油が乗る時でしょうよ!
生きていたらどんだけたくさんの人が救われたことか?
頭のいいイエスなら、最下層の貧民を相手にしている暇などなかったはずですよ!
今なら、国会議員クラスにも尊敬の対象として見られたと思います。
そうやって人を救い、感化し、善なる影響を与えるには、生きて、その行動の素晴らしさでもって示すこと以外ないと思います。
作り話という感じはしませんね。
実際にあったと考えるのが妥当な線だと思います。
No.13
- 回答日時:
私は、キリスト教徒の立場ではありませんが、クリスチャンの熱波が歴史を動かしてきた客観的事実は受け入れざるを得ません。
わずか三十余年、衝撃的な死をもって、その生涯の幕を閉じたイエス青年・・・
そのイエスを信じて従ってきた弟子や信徒達・・・多くの迫害の歴史・・・
その迫害の中にあっても、信仰は衰えることを知らず、やがて大きな勢力と化す。
究めつけは、キリスト教を迫害弾圧してきたローマ帝国自体が、キリスト教を国教と認定するに至る。
明らかに、他の宗教とは違う何かがあります。
歴史の中心宗教と言ってもいいかもしれません。
そういった諸々の歴史過程に起きたキリストに関わる者達の足跡、史実から見ても、イエスと言われた青年がただ者でないことだけは、信仰とは別に、十分な判断が可能です。
その歴史を動かしてきた中心宗教の中の中心こそが、イエス青年なのです。
その青年が、十字架の極刑の只中で、最後に発した言葉に意味がないことは考えられません。
私は、信仰者ではありませんので、主観的な判断は避けます。
そこで理論的に考えて見ます。
但し、イエスが本当にキリストと呼ばれる救世主であることを前提にした場合どうなるかです。
そもそも、救世主である方がそんな若さで死んではいけません。
考えてみて下さい。イエスが死んだあとからですらも、信仰勢力は拡大していったのです。
中心教祖なしに拡大していったとすれば・・・驚くべき奇跡と言えるかもしれません。
大将がいなかったら、つぶれる方向に向かうはずです。だから奇跡なのです。
では、イエスが死ななかったらどうなっていたか?
当然のことながら、今のキリスト教のような軟弱な宗教には堕していなかったはずです。
何故そうなのか、理論的にわかりますよね?
イエスの死後、中心指導者を失ってなお、彼を信ずる信徒達が、奇跡を起こしてきたならば、
じゃ~死なずに実際に生きて指導していたら、奇跡どころじゃない素晴らしい結末を起こしていたはずです。それが何かはわかりませんが、とにかく奇跡が束になってもかなわない超奇跡であることだけわかります
神が殺すはずはないわけですから・・・結局人間が、こともあろうに救世主を殺したのです。
そうです。救世主を殺すバカはいません!!しかし殺した!それぐらいバカなのが人類なのです。
神が殺したいのはバカの方です。
神から見たらどうなるでしょうか?
「あんたたち(人類に対して)、ホンとどうしようもないバカだね」「救世主を殺してどうなるのよ?」「誰を殺してもいいけど、キリスト殺したらあかんべよ!」「あ~あ、こいつら救いようのないほんとバカだね!!」「お前らがバカで救いようがないからというんで、何千年もかけてキリストを準備したというのに!それをどうして殺すかね?!」
その有様を見た神の心は、怒り怒り怒り・・・怒りの権化と化したことでしょう。
人類などクズ以下の価値しかない!それを救世主の力で、なんとかして下さろうという作戦(=イエス降臨)だったのに・・・涙・涙・涙
生きて指導者になっていたら、偉大な宗教指導者だけでなく、偉大な政治家であり、偉大な事業家であり、偉大な科学者であり、偉大な作家であり、偉大な芸術家であり、・・・・
どれだけ多くの人が感化され、感銘を受け、素晴らしい世界が構築されていたはずです。
イエスが死んだからキリスト教が誕生したのは事実ですが、その見方は甘いのです。
死んでしまったから、キリスト教どまりで偉大さを終わらせてしまったのです。
クリスチャンが、脳天気に「イエスは死ぬために来た」と言いたくなる気持ちも主観的にはわかるのですが、それは、捉え方が浅く、浮世離れした都合のいい解釈といったものです。
死んでさえ偉大な方なら、死ななかったらどんなに偉大であったかを理性で判断できることすら忘れてしまうぐらい、自己の救いのみに呪縛されたのだと思われます。
紙一重の差ですが、愚かなことには変わりません。
イエスを失って得た信仰を全ての如く捉えてしまい、その喜びに埋没し、実は、死なずに生きたイエスの信仰指導や生活指導を受けていたら、はるかに大きな喜びの世界を得ていたはずであることを直視できなくなった・・・いわば盲目の喜びや信仰といえましょう。
さあ、ここまでくれば、あなたの質問の単純な答えが見えてきますね。
イエス青年の最後の言葉・・・自分が生きて100歳を越えるまでに人類を指導していたら、どれほど多くの人々が救われ、どんなに素晴らしい国や世界に発展していくかを想定してみた場合、今自分が死ぬわけにはいかない立場だったのです。
何千年もかけて、神が準備してきた救済計画がダメになってしまう!「この愚かな人類を救うため、私を生かす道は残されていないのですか!」と。神の労苦と人類の悲惨を回避させたい叫びなので
No.12
- 回答日時:
史的イエスの問題というのがキリスト教にはあります。
福音書はイエスの伝記ではなく、信頼できる言行録でもありません。
福音書はむしろイエスを救世主と信じた人々の信仰の文書なのです。
ですから、どこまで事実かというと、明確でないというのが本当のところです。
イエスの最後の言葉ですが、イエスをどう見るかで考え方が違ってきます。
イエスを救世主と信じる立場の人は、最後の言葉にふさわしくないと困惑してます。
それで、この絶望の言葉の後に神への信頼の言葉が続くのだがそれが省略されたとか、
そもそも、イエスは最後にそういう言葉を発してなくて、伝承の過程で付け足されたとか
いろいろな解釈をして辻褄を合わせようとすることがあります。
イエスをただの人間だと見なす立場の人は、最後の言葉にふさわしいと問題にしません。
というのも、残酷な現実の前では人間に絶望の言葉が出ても当然だと考えるからです。
そういう人はイエスの復活は当然信じません。死んだら終わりです。
聖書の奇跡を伝説と見なしても、最後の言葉にはリアリティーがあると考える人も多いです。
No.11
- 回答日時:
というわけで、イエスの再誕はないでしょう。
これからの時代は、個々がそれぞれ適応した世界に移行するしかないのでしょう。 生前であれ、死後であれ。
この世界も残しておかなければ困る人がたくさんいるだろうから、「みんなで一緒にアセンション♪」というのは、ないのかな...
No.10
- 回答日時:
とにかく、作り話であるとするなら、そういった世界観を持ち、そのような物語を作り、それを認めている人間がそのような世界を作り続けていることになります。
そうでなければ、実際の人間関係の場でも認めないのだから。作り話でないとしても、一人もしくは少数の人間が犠牲にならなければ
もともと、生成・維持・発展することができない世界であるのだから、そういった事実を元に、人間は罪悪感を持ったまま、それに相応する世界を維持し続けていくことになります。
もしイエスが神(完全)であり、「神」に対する依存心がなければ、「そのような世界になるなら、人間のためにも犠牲にならないでおこう。人間が、人間自身を罪深い存在であると思い、罪悪感を持ちながら生きることで、実際にそのような世界を実現させ続け、結果として苦しみながら生き、死んでいかなければならないのなら、私が犠牲にならないほうが良いだろう。滅びてもそのようにしたほうが良いだろう。自分の為にも。」
と気づいたでしょうね。そこまで気づけるような、価値のある人間でなければ犠牲としての効果や意味がないなら、ぜひイエスには犠牲にならないでいて欲しいと想います。
生贄がなくても維持発展できる世界も作ることができると思うんだけどね。
それともやはり自分が移行すれば良いのかな???
No.9
- 回答日時:
作り話だったと仮定しましょう。
であれば、実際に子が犠牲になることでこの世界は保たれ、親(神)もそれを望んでいる・当然のことである という信条、信念(世界観)がそういった物語を作ったのでしょう。真実の話だったと仮定しても、イエスは神の子なのであるから、その感受性と判断力に誤りがあるはずもなく、「見捨てられた」と思い、そう発言したということは、親(神)が見捨てたからです。
真意も何もないでしょう。
結論としては、親が外道だったのです。
「一粒の種」は、犠牲とはなっていませんね。嫌々ではなく、むしろ喜んでいるでしょう。
人間は種 とは違います。血も流すし、その死に様は酷いものでもあるでしょう。
と、ここまで書いて思ったのですが、もし人間の中にも嫌々(つまり犠牲)ではなく、献身するというくらいの覚悟がある人間がいて、それがイエスであったとするなら、イエスは確かに一粒の種となったのでしょう。しかし、そのような人間がいなければ、存続させることができない世界であると言うなら、悲しいことです。
本人に犠牲になったつもりがなくとも、種とは違う、その酷い死に様、死に方を見て、周囲の人間は「犠牲」になった人間を哀れみ、悲しみ、尊崇しなければなりません。
犠牲になる人間がいなければ世界は保たれないし、発展もしないと思っていれば、確かにそうなるでしょう。
そのような世界においては、イエスが「犠牲」にならなければ、人間が滅びてくれるというわけです。
No.8
- 回答日時:
作り話であったとしても、そのような物語を作り、それに共感する人が多く、ゆえに普及しているのでしょう。
作り話であると考えても、そうでないと考えても、結論は同じことになると想いますが。
一人の人間が、人間全体の罪を負うことはできないでしょうね。
負わせたことにすることはできるでしょう。
No.7
- 回答日時:
こんにちは。
確かにイエス様の最後の言葉が、「神様への悲観や不満」に聞こえる言葉だと
いうことには違和感がありますよね・・・・。
イエス様は私達の罪(sin)の故にこの地上に来られました。
「イエス様は私たちの罪のために死なれた。」
「イエス様は私達の罪を背負って死なれた。」
というようなフレーズを耳にしますが、私達の罪は、
唯一罪の無い方、イエス様にしか償うことができませんでした。
今まで罪の無かったイエス様に死が訪れた最後の瞬間、
イエス様に私達の罪が入り(罪そのものになり)
それゆえ、口にした言葉が、「神様への悲観や不満」=「神様を疑う」
言葉になって現れました。
あの言葉を口にした瞬間、紛れも無くイエス様ご自身が罪となり、
そこで命を落とされた(罪が死んだ)からこそ、私達の罪が癒されたことが
このときのイエス様の言葉によって知る事ができるのです。
このときのイエス様の言葉は作り話ではなく、真実の言葉だと
私は信じています。
質問とずれていたらすみません・・・。
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