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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

イエスが言われたとされる、このことばの真意や具体的な方法とは、いかなるものですか。


それとは別に、
他者に対して、いやが上にも重い荷を背負わせ、塩水を飲ませたがる者は、いかなる者で、いかなる喜びゆえに、そうしているのですか。

A 回答 (7件)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。


わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

主イエスが言われたとされるこの言葉の真意は、この言葉の後に続いている言葉により理解できます。
「疲れた人、重荷を負うモノ」とは、律法の間違った解釈を押し付けられて、それを守り行うことに疲れた人、重荷となっている人のことです。主イエスは律法の正しい解釈を持っているので、そのクビキは負いやすく、律法の真意である安らぎが得られ、その荷は軽いのです。

具体的な方法とは、主イエスによる律法の正しい解釈を知って行うことです。

その逆は、律法の間違った解釈を民に強いて、自分も御国に入れないばかりか民も御国に入れないようにしている人たち、つまりファリサイ派・サドカイ派・ヘロデ派・律法学者たちのことです。
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 1. イエスが言われたとされる、このことばの真意や具体的な方法とは、いかなるものですか。



  真意はこのフレーズで表明されている通りのことであって、裏も表もないと存じます。
  私、イエスが到達しているところが貴方の存在性でありますよ、この意識をともにしましょう。ということでしょう。何がどうだこうだ、あれがほしい、したい、なりたい。
  それって何なのだ、一体それを何故求めるのだ。本当に求めるものを求めよ。
  ということでしょう。今私たちが必用な物や事柄は、イエスから見たら何かの裏返しか代替品にみえているのでしょうね。だからそんなものは抛擲していいんだよ、っていっているんでしょうね。
  私もイエスにお会いできるように、そんなものを抛擲しようと存じていますが、できないのが凡俗です。


 2. それとは別に他者に対して、いやが上にも重い荷を背負わせ、塩水を飲ませたがる者は、いかなる者で、いかなる喜びゆえに、そうしているのですか。

   そういう人って、普通の人であり、喜びなども私や質問者さんと同じことを求めているだけでしょう。
  そうでなくありたいと思ったら、どの人もイエスと同じ人だと思うことでしょう。
  そういう目に遭いたくなかった、そういう人の望み通りにさせてもらうだけでしょう。
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イエス様が伝道を始められたころは、ユダヤ教のパリサイ派といわれている司祭、宗教官僚が


勢力を持ち、本来の神の言葉とされた律法に、沢山の細かい制約を設け、人々を服従させ、
支配していた。そこにはさまざまな差別や搾取がおこなわれていた。
イエスは彼らを偽善者と呼び鋭く批判され、もっとも重要な掟はこれであると非常にシンプルな答え
を示された。
もっとも重要な掟(マルコ12の28以下)
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出て、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。

「第一の掟はこれである。(イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。
心をつくし、精神を尽くし思いを尽くして、あなたの神である周を愛しなさい。)
「第二の掟は、これである(隣人を自分のように愛しなさい。)この二つに勝る掟はほかにない。」

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。(神は唯一である。他に神はない)
とおしゃったのは、本当です。そして(心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、かみを愛し、
また隣人を自分のように愛する)ということは、どんな焼き尽くす、ささげものや、いけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない}と言われた
もはや敢えて質問するものはなかった。

マタイによる福音書11章28節以下
「疲れたもの重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」

宗教社会で苦しんでいるすべての人々にあなた達をがんじがらめに、縛っているものから解放してあげよう。
とおっしゃているのです。
29節以下
わたしは柔和で謙遜な者だから、私のくびき(先の律法の教え)を負い私に学びなさい。
そうすれば、あなたがたは、安らぎが得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。
くびきは当時ニ頭の牛につけ耕したそうです。もう一つのくびきはイエスがつけてくださって、
ともに負ってくださる。とききました。
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言葉を発した「わたし」と宣う方が「どこにおられると思うか?」によって、「言葉の真意」は変化し得ます。


単純に分類するならば「生前に」なのか「死後に」なのかでしょうね。
もし、後者(死後に)のみに正当性を見いだそうとする場合には、たとえ「いやが上にも重い荷を背負わせ、塩水を飲ませ」られたとしても、何の苦労とも思わないことでしょう。
もし、前者(生前に)のみに正当性を見いだそうとする場合には、「わたし」と宣う方の元へ行こうと彷徨い歩かれるかも知れません。そうして、何らかの「力」(たとえば、集団的な力)によって、「いやが上にも重い荷を背負わせ、塩水を飲ませ」られることから脱却可能になるかも知れません。

受取手の解釈に依存するでしょうが、いずれにしても「【苦】から逃れようとする思いと(相対的に)【楽】を求めようとする思いは、万人共通であろう」といった前提条件が、その「ことばの真意」には隠されているということです。

ただし、そういった穿った見方以前に、「苦しんでいる人々を救いたい」という心、すなわち、元来言葉にすら成り得ない素朴な「祈り・願い・思い・想い」の情(繋がり合い)が先にあったというのが本来なのでしょう。そうであるならば、「ことばの真意」について論じること自体が無意味になってしまうことでしょう。
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 本当に疑問に思っていて、真意を聞きたいのであれば、質問者が「嫌だな、苦手だな」と思っている人に聞いてみたらどうだろうか。



 おそらく、良く理解できるだろうと想います。

 たとえば普段からブロックしている人に聞いてみるとか。

 尚、インチキ霊媒師の処遇はどうなるか、私には解りません。本人次第かもしれません。
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「イエスが言われたとされる、このことばの真意や具体的な方法とは、いかなるものですか。



○心を癒してあげるという意味ですね。言葉にすると「人はパンのみに生きるにあらず。」ですかね。
あるいは、「のどの渇きは水を飲め直るが心の渇きは直せない。」ということですね。
これらの言葉が意味を解く鍵ですね。
つまり、あなたの悩みのほとんどはあなた自身の肉体に関するものでしょう。一度それを捨てなさいといっていたのですね。肉体に依存した罪については「罪はなし。」といいましたね。

「他者に対して、いやが上にも重い荷を背負わせ、塩水を飲ませたがる者は、いかなる者で、いかなる喜びゆえに、そうしているのですか。」
○ あなた自身が望んだこと。あるいはそれを受け入れたことですね。
わからないと思いますから、例えがいりますかね。
子供の頃、映画が好きでよくちゃんばら物を見たものです。映画の中には憎らしい悪役がいるのですね。いつも悪役の俳優が主役をいじめてつまるところ最後は殺されるのですが、悪役の俳優も悪役ばかりでいやでしょうね。でも悪役がいないと映画にならないのですね。私が見ていた悪役は、本当は優しいいい叔父さんだったのですね。
つまり、あなたをいじめることが仕事なのですね。それはあなたの舞台における役柄だからですね。舞台劇で役者が役を放り投げると舞台になりませんからね。あなたに舞台劇を用意している多くの人がいるということですからあなたは本当は立派な人かもしれませんね。
立派な魂は、「我に艱難辛苦を与えたまえ。」と望んで舞台劇を設定するのですね。
これは、最初の質問とも関係するものですね。
イエスは「舞台劇の役柄を一時わすれなさい。」といったわけです。
それで、みんな楽になったわけですね。・・・・・わかりますかね。
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神様の話を飯のタネにする商売をしていただけです。


現代の教祖様商法と変わりありません。
磔獄門は必然です。
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