遅刻の「言い訳」選手権

論理学 自己言及のパラドクス

次の問題の考え方を教えてください。

Q どんな愚か者でも必ず正解する、イエスかノーで答えられる質問を考えよ

A あなたはこの質問にイエスと答えますか?

正解は、「この質問(Q1)にイエスと答えますか、という質問(Q2)」、ということを意味してると思います。

ノーと答えても、イエスになるというカラクリだと思うのですが、
その形が見えてきません。

(1)Q1(1+1=2)にイエスと答える人は、Q2にもイエスと答える。

ここまではいいとおもうのですが、次からがよくわかりません。

(2)Q1(1+1=2)にノーと答える人は、Q2にもノーと答える?
                 Q2にはイエスと答える?

Q1に具体的な命題をあてはめるから、Q1とQ2の内容が変わり、
自己言及のパラドクスの形に持ち込めないのかな、とも思います。

正解の意味が分かる方、説明していただけたら嬉しいです。

ちなみに、逆らえない命令は何か、外れない予言は何か、相手がたとえ嘘つきでも、二つの道の内の正しい方を答えさせる方法は何か、という問題は理解できます。こうした問題を例に説明してくださっても理解できると思います。

A 回答 (5件)

「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」の中の「この質問」という語句は「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」という質問全体を指すと考えると自己言及命題になっています。

そうすると「あなたは『あなたはこの質問にイエスと答えますか?』という質問にイエスと答えますか?」という質問にイエスと答えますか?」という質問に・・・・(以下無限に続く)という質問の意味になっていることが明らかになります。意味自体は無限循環していますが、答えはこの循環のどの段階でもイェス、ノーどちらも有意味ですから、どんな無能な人でも必ずこたえられる質問ということができます。

質問者さんの回答アプローチは「嘘つきのパラドックス」タイプのパラドックスに有効ですが、この問題については無力です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

「この質問」の内容=「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」という考え方ですね。
ここまでは理解できるのですが、イエスでもノーでも有意味というだけでは、「質問に正解している」とまではいえない気もします。「不正解ではない」というところではないでしょうか?

問題の出典のある本には、答えの後に「イエス、ノーどちらを答えても正解となる。ちなみに、答えを拒むものがいても問題はない。その人は不正解を出していないからである」と説明があります。
このことからも、イエスとノーは(多義的な解釈の一つの表れとして)はっきり正解になるのではないかと思います。

ノーと答えたら二重否定が起こる、
「天国への道」という問題と回答の仕方が似てるのではないかという気もします。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/5129 …

出典のある本には、「天国への道」についても紹介されていて、「必ず正解のでる質問」と関連があるとされています。

もう少し考えてみますね。
ご回答を正しく理解できていなかったらご指摘ください。

補足日時:2010/08/11 16:26
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この回答へのお礼

先日はありがとうございました。
出典の本の著書に答えを聞いて解決しました。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs?OF=20&
No.2453です。

お礼日時:2010/08/22 21:27

皆さんが回答されておられますが、自己言及によって簡単にパラドックスが


生じるのは、「俺の言うことは全て嘘」という有名な例にある通りです。

そしてこのような日常的な言明の範囲では、いじればいじるほど分かり
にくいパラドックスを構成できますが、その事に意味はありません。
そうした論理構成から意味性を取り除く(リシャール数を使って)という
荒業によって、そうした“何かを表現している言明”の公理系において、
その「何か」が無矛盾(Aと非Aを同時に可能にしない)であるためには、
その「公理」には、その公理系自身の中で是非を決定できないものがある
=公理系は不完全でなければならない、という証明をしたのがゲーデルの
「不完全性定理」です。

それは、決定性を元にした物理学において、そうした決定性同士が相補的
不確定性を成す=非決定において有限的な存在性が生じる、という
「不確定性原理」として射影しています。
現代社会の日常的知識は、学問の最前線から遠く離れてしまっており、
そうした知識を学ばずに、自分の中だけでどんなに考察を深めても、
有意なものは得られません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

大変参考になりました。
まさかゲーデルの不完全性定理と関係があると思っていませんでした。

お礼日時:2010/08/11 16:35

==蛇足ですが==


自己言及が証明できないことの証明にパラドックスを用いることは常套手段とおもいます。
問題にされている場合ですとNo.2氏が指摘されている通り、(((この質問に・・・・)という この質問に・・・・)・・・・・)と無限循環の命題になります。そしてその質問の答えはYESであってもNOであっても成り立つのです。このYESであってもNOであっても成り立つことがパラドックスなのです。よって この命題は自己言及命題となります。
極めつけは (この命題は証明できない)のような命題です。
と思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

NOであっても成り立つという所に関して、まだ疑問点が残っています。
もう少し考えてみます。

お礼日時:2010/08/11 16:31

論理は扱いますが,私が学んでいるのは数学なので違っているかもしれません。



Aのほうがカギでしょう。
>A あなたはこの質問にイエスと答えますか?

これに対して,
イエスと答えれば,「質問に対してイエスと答えることができた」。
ノーと答えれば,「質問に対してノーと答えることができた」。
つまり,Aの質問は,Qが要求している
>どんな愚か者でも必ず正解する、イエスかノーで答えられる質問
として成立している
というカラクリではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「イエスと答えることができた」、「ノーの答えることができた」というだけでは、
正解とも不正解ともいえない気もします。

もう少しネバってみますね。
協力していただいてありがとうございました。

お礼日時:2010/08/11 16:41

論理学の問題と言うには余りに論理的でない文章なので驚いています。

まず、

>Q どんな愚か者でも必ず正解する、イエスかノーで答えられる質問を考えよ

>A あなたはこの質問にイエスと答えますか?


の「どんな愚か者でも必ず正解する、」の文章の中の「、」が余りに多義的で曖昧性を含み、意地悪な人ならどうとでも解釈できるような「、」ですね。要するにこのQは自分で判っていることは相手にも当然判る筈だと言う書いている方の勝手な思い込みだけで書かれている文章であり、それを読んだ人がその文をどう解釈するかのあらゆる可能性を論理的に考察されていない故に、論理的な日本語にすらなっていないと言うことです。私は物理の専門家ですが、論文を書く時にこのような曖昧な表現をしてしまって、意地悪な査読のレフリーからケチをつけられて無駄な時間とエネルギーを使わないで済むようにないように、極力神経を使って論理的に曖昧さの無い文章を書く努力をしています。いやな奴だとお思いでしょうが、普段から論理に拘っている一学徒として、貴方の文章を読んでカチンと来たので、学問をやる人間の参考になればと思って、思い切って辛辣に物を言わせてもらいます。

貴方の文章の拙劣さによると、ここでの問題は、自己言及がどうのこうのと言う以前に、文章の「多義性」と言うのが論理的には鍵言葉になって居るようです。多義的な概念には始めからイエスかノーかの答えは意味が無いですから。

次にAも見当外れな間違った解答です。何故なら、「イエスかノーで答えられる質問」と言うのが正解の条件なのに、このAでは、「場合によってはイエス、あるいはノーになる」と言う解答の可能性を残しているので、その正解条件すら満たしていない文章です。我々が人間界や自然界を探索する時に、イエスやノーで答えることが始めから意味が無くて、場合によってはイエスになったり、あるいはノーになるとい状況の方のが圧倒的に多いのです。

まさか頭の体操のお遊びでないく論理学と大上段に構える限り、この圧倒的に多い典型的な状況を語れないようなものを学問とは言えないし、また、そのことに神経質過ぎるくらい神経質になって、曖昧さの無い文章を書く心構えが無いと見なされてしまったら、論理学がお笑いの種になってしまいますね。

これは論理学の話しでは有りませんが、ある年寄りの経済学の教授と若いそのお弟子さんが、道を歩いていたら1万円札が落ちていました。そこでそのお弟子さんがそれを拾おうとしたら、その教授が「一寸待て、経済学の大前提によると、あらゆる人間は自分の利益を最大にするように行動するものだ。ところが、これだけ人通りが多いのに私達以外に誰もこの1万円札を拾おうとはしていないではないか。と言うことはこれは1万円札ではないのだ。だから拾うな」と言ったと言う笑い話があります。

まあ、質は違いますが、論理学を語る人は日本語で曖昧さのない透明でスッキリした論理的な文章を掛けるようになることが一先ず先だと思います。論理学って面白い学問だと思いますが、それを語るにはそれ以前に言葉の表現の練習がいると言うことを皆さんに教えてくれているという意味で、反面教師的な質問になっていると思えました。

この回答への補足

申し訳ないですが、反面教師なのは、私の質問ではありません。

私には、論理学の目的が何か説明する能力はありませんが、
ある種の文に曖昧さが生じる原因を解き明かすことは、論理学の仕事の一部だと思います。
曖昧さについて、「曖昧さを排して」論じることは論理学の仕事ではないとお考えでしょうか。
ご返答を読んでいると、「曖昧さについて論じるのは即曖昧だ」とお考えのように思われます。

私は、多義的な解釈を許す文を問題にしましたが、
パラドクスを扱っているので当然ではないでしょうか。

おっしゃる通り私の文章は「拙劣」かもしれませんが、
あなたの文章ほど負の力に満ちていることはないと思います。
ご回答を読んで怒りと悲しみに包まれました。

まだまだ書きたいことはありますが、
言説に怒りが混じることのないよう
ここで止めておきます。

教育的な配慮をなさるあなたが、
私に接したのと同じ態度で学生に接することのないよう祈ります。

補足日時:2010/08/08 20:08
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