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共観福音書の中で最も成立が古いとされる
マルコ福音書の最後は、

16章の8節

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

ここで終わって、以降は付け足しである。
という解説をどこかで読みました。

するとこれは、それこそこれで話が終わりですよね。
キリスト教が広まりようがないんですから。

A 回答 (8件)

 みなさん こんばんは。



 わたしの単純な解釈を述べます。


 原罪もヘビも悪魔もまったく別としてですが どうも人間は ややもすると――それこそ無常の雨に打たれ 深い海の底にまで連れ去られて行ってしまったかのように―― どうしようもない〔例によって対象のない〕不安に落ち入り 来る日も来る日も深く暗い闇の中に置いてけぼりにされたように感じる時期があるのではないか?

 そしてこの闇の中にいる人間に光を見させるためには どうすればよいか? という主題が考えられた。
 一般的に言えば 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。




 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口から行けば:

 いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として――)去っていくことだったのだと思われます。

 人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったというほどの事態に見られるそのことです。
 あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 死を死んだということ。などです。

 人間としてでなければ――つまり ローマ兵士らに神ならそこから降りて来いとからかわれて 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味で 人間としてですが 人間としてでなければ―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。神だから 最後までその務めを果たし得たが おれたち人間には無理だという話になってしまう。

 しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。


 マルコも この線で書いていると思うのですが。・・・
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この回答へのお礼

神が人間になるって発想が凄いですよね。
そして人間に殺されてしまう。
そして復活。
最初に誰がこんなことを考え付いたんでしょうね。

単純に神がいないと考えるより、
ひどいというかひねくれているというか。

お礼日時:2012/09/10 22:24

こんばんはです。


お礼、感謝です。



☆☆☆
《仮現説》、知ってはいたんですけれど、
すっぽり頭から欠落していました。ポリポリ。

「我はアルパなり、オメガなり」  (ヨハネ黙示録 1:9)
この言葉のみを頼りに、純粋に自力ですべて構築したんですよ。一切、先行思想抜きで。
なんかWikipediaの《広義の仮現説》になったいますね。そのまんまの結論に至っている。驚いた。
しかも、No.6で引いたルカによる福音書と同じ文まで載っている(笑い)。
指摘されるまで、まったく、自分の導き出したものが《仮現説》になっていることに気づかなかった。ポリポリ。

ってことはだ、宗教革命以前に僕がカトリックの世界にすんでいたら、
異端審問にあい、火あぶりにされる危険性があったというわけか(笑い)。



☆☆☆
~~~~~
でも、この16章6節に登場する「若者」がイエスの復活を婦人たちに告げるわけで…。
マルコ福音書はこの人物を天使とは表現していない。

気になります。
~~~~~~
福音記者のマルコははっきりと書いていませんが、これは《天の御使い》でしょう。復活をとげたイエスなら、もっと面白いけれど。

なんか胡散臭く感じられる存在というとキリスト者の人に怒られそうですが、
そのような存在をボカすところがあるんですよ、マルコによる福音書。
明言しないってところが。。。。
それが福音記者としてのマルコの真摯さなのかどうかは分かりませんが。。。。
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この回答へのお礼

再び回答ありがとうございます。

まあまあ。仮現説が流行った古代は
まだカトリックも誕生する前でしたから。

神あるいは神々が世界に普遍的にいたるところに満ちている考えは

汎神論?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E% …

ウパニシャッドも汎神論らしい。

お礼日時:2012/09/10 22:17

kazamidoriさん、こんばんはです。


そして、bragelonneさん、こんばんはです。



☆☆☆
No.4
 ○ ~~~~
 聖書記者マルコは イエスが《復活》という語を用いたというところまでは 認めている。

 そして その用いたときの意味合いは微妙でありあいまいでもあると言わねばならないようであるが 言えることは イエスが復活のことを サドカイ派のようには 否定していない。というふうに受け留めていると見られる。
 ~~~~~~

おっしゃる通り、イエスが《復活》という言葉を使ったことは認めていると思います。《イエスの復活》も認めていたと思います。
ただ、《マルコ伝》の記者は、その《復活》が何を意味するのか、その態度が定まっていなかったのではないでしょうか。

マルコによる福音書
12:25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

サドカイ人の質問に対するイエスの返答です。
《天にいる御使いのようなもの》だから、サドカイ人の指摘する矛盾は起きないと、この質問を交わしています。
イエスがただの人間なのか、霊的な存在なのか、その問題は別して、
イエスはここで《天にいる御使いのようなもの》という曖昧な概念を持ち出す、これは非常にずるい論法です。この《天にいる御使いのようなもの》という言葉はどのようにも解釈できます。イエスは、ここでは、正面から答えることを避けています。
死からよみがえったモノの存在が事実そのような存在なのかも分かりませんが、イエスのある意味でこの煮え切らない態度が、《マルコ伝》の記者に暗い影を落とす、混乱させる。。。。
復活をとげたイエスの姿が分からない、《マルコ伝》の記者にはその姿が見えなかった、ってことなのではないでしょうか。だから、書けなかった。

ルカによる福音書 
24:38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。

《復活》の意味が定まらず、《マルコ伝》の記者は、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。」の姿勢をとらざるをえなかったのでしょう。
イエスは《マルコ伝》の記者には《手と足》を見せなかった。《焼いた魚の一切れ》を食べてみせなかった。
つまり、《マルコ伝》の記者の眼に足る《確たる証(あかし)》・《資料》がなかったということではないでしょうか。

でも、本当にそれだけなのだろうか?
《マルコ伝》の記者には、イエスが何者であったのか、つまり、イエスの正体に踏み込むことの畏れ、躊躇というものが感じられるんですよね。ある意味、そんなことはどうでもよい問題だという強い姿勢が。
復活後のイエス話については置いておいて、ヨハネから洗礼を受ける以前のイエスについては、イエスの十字架事件からそれほど時が経過していないなので、真贋まじりながらも色々な伝承や資料が残っていたはずなのに、なぜ、それを書こうとしなかったのか。
誕生から洗礼までのイエスの行いは、《マルコ伝》の記者の意図に合わなかった?
それとも、
それを裏づける確実な資料がなかった?

どっちなんでげしょ?



☆☆☆
今、すこし閃いたのですが、
「イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 」(マルコによる福音書 16:6)
は、実は、とんでもなく深い意味を持った言葉なのではないでしょうか。
神イエスはこの宇宙のいたるところに遍在しているのだ。だが、人間はその姿を容易にとらえることはできない!だが、確実にここにいるのだ!!
とか。
つまり、これが《イエスが復活する》ということの意味。
イエスの予言は成就した。成就するもなにも、無始の始めから、そして無終の終わりまで、イエスとは永遠にそのような存在である。「わたしはアルパであり、オメガである」。

「わたしはアルパであり、オメガ」なのだから十字架でかけられて、イエスが死ぬはずがない。
だから、この世に肉体として復活をとげたイエスの活動という《与太話》は不必要!!
な~るほど、《マルコ伝》は「イエスはまことに神の子であったのだ」で終わっていてはいけない。この言葉を引っ張り出すまでは終わることが出来ない。
な~んてね。

ここは、素直にイエスの体がないと読むべきなんでしょう。
そして、マルコ伝の記者には復活をとげたイエスの活動話の資料がなかったと考えるべきなんでしょうね。


☆☆☆
これもちょっととした思いつきなのですが、
《イエスの十字架》と《復活をとげてこの世で活動するイエス》というのは、
とかく《しるし》を求める人に「わたしはアルパなり、オメガなり」の《しるし》を見せただけなのでは。
「なんで父なる神は子なるイエスを十字架にかけて殺させたんだ。不条理だ」というのは、所詮、人間目線の考え。ヨブと同様に《神を非難する者》《神と論ずる者》という《過ち》。それは、《自らを神と等しくき者》とする《傲慢》。
そして、イエスを十字架にかけさせるのが、《しるし》を求めたがる人たちへの《神の愛》ではなかったのかと。

な~るほど、うまくできてんな、福音書。
とすると、パウロの《十字架の神学》はとんだ誤解というわけか。イエスの十字架は原罪の贖罪、なんてのはデタラメ。そもそも人間には原罪なんてものは、最初からなかった。だぁって、神はこの世を善きものとして作ってんだから。
父なる神は愛する独り子のイエスを犠牲にして……、って言っている間は、まだまだ駄目だな。まだまだ人間の側の考えにすぎない。だぁって、イエス、死なないんだもの。殺しても、殺せないんだもの。「アルパであり、オメガ」だもん。現象としてイエスは死んで見せただけだもん。

と、クリスチャンではない《ねむりねこ》のオツムは申しております。
いかがでげしょ?

これではなんか、人間イエスが見えてこないなぁ。う~ん、困った。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>☆☆☆
>今、すこし閃いたのですが、
>「イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 」(マルコによる福音書 16:6)
>は、実は、とんでもなく深い意味を持った言葉なのではないでしょうか。
>神イエスはこの宇宙のいたるところに遍在しているのだ。だが、人間はその姿を容易にとらえることはできない!だが、確実にここにいるのだ!!
とか。
>つまり、これが《イエスが復活する》ということの意味。


グノーシス主義っぽくなってきましたね。

仮現説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E7%8F%BE% …


でも、この16章6節に登場する「若者」がイエスの復活を婦人たちに告げるわけで…。
マルコ福音書はこの人物を天使とは表現していない。

気になります。

お礼日時:2012/09/10 18:36

追伸まで:



マルコ16章の8節
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

これもおかしいですね、マルコや他の弟子は誰も墓に行っていませんから、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」の表現も間違いなくご婦人たちに聞いた話の後付ですね。

男性の弟子たちはエルサレムにはいなかったのですね。いれば捕まって処刑されてますからね。
イエスの遺体はローマ兵が墓に運び込み扉を大きな石で閉じていますね。夜、3人のご婦人たちが墓を見に行くと墓の石の扉が空いており、中に何もなかったので、それを見て怖れおののいたのが事実ですね。
その後、ご婦人達の前にイエスの復活があり、ご婦人がみんなを呼びに行ったということですね。
この時も復活を信じる弟子が少なくて、というか信じていなかったのですね。復活のイエスは手や足の釘で空いた穴のあとを弟子に見せて、やっとこさ信じるようになったのですね。
むしろ復活が怖かったのはユダヤ教の司祭たちですね。彼らの方が復活を信じていたのかもしれませんね。
こんなのが真実ですね。
まあ、弟子がどうあれイエスの愛の教えは立派なものですから、イエスのキリスト教に問題はないのですが、弟子の隠蔽がキリスト教に暗い影を落としているのは宜しくないですね。
ローマカソリックの元を作ったパウロにいたっては、イエスを貼り付けにした側にいたのみではなく、イエスの弟子を石打で殺していますからね。さらに弟子を捕まえようと逮捕状を持って行く途中のダマスコで霊のイエスに叱られて改心した人物ですから、どちら側からも信じられず、悲劇の人物ですね。

つまり、マクダラのマリアの福音書が一番正統な福音書であるはずなのですが、葬りさられているのですね。
なぜかといえば、自分たちに都合が悪い部分があったからとしか言いようがないですね。
ということで、福音書はあきらかに真実を語っていない部分があるということですね。
こんなの丸呑みで信じていたのではイエスの弟子にはなれませんね。
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この回答へのお礼

マクダラのマリアの福音書ですか。

お礼日時:2012/09/10 18:27

 お早うございます。



 素朴な疑問です。
 ◇ (ねむりねこさん 回答No.2) 2:イエスの復活を記述した資料は、マルコ伝の作者の編纂意図に合致せず、採用されなかった。
 ☆ この見解にしたがって マルコ福音16章9節以下は マルコなる聖書記者とは別の編集方針を持つ人間によるあとからのつけ加えだとしまして では ほかの記事に《復活》の話はないかと見てみました。

 《復活についての問答》とあとから表題をつけられた箇所が ありました。サドカイ派の人びとと復活についての問答をするところです。
 復活の語の出て来るところのみを抜き書きします。

 ▲(マルコ福音12:18-27) ~~~~~
 12:18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した
  
    * 復活(これは 記者マルコの用いたもの)
     :ἀνάστασιν (< ἀνάστασις anastasis );
      KingJamesVersion:resurrection

 12:23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

    * 復活(これは サドカイ人が用いた)
      :ἀναστάσει (< ἀνάστασις anastasis );
       KJV:resurrection

    * よみがえった(同じくサドカイ人の語)
      :ἀναστῶσιν ( < ἀνίστημι anistēmi );
       KJV: rise

 12:25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

    * よみがえる(これは イエスの発言として伝えられるもの)
      :ἀναστῶσιν ( < ἀνίστημι anistēmi );
       KJV:rise〔 from the dead〕
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ こう見てみますと 英訳で《 resurrection 》と《 rise 》 そして和訳で 《復活》と《よみがえる》というふうに使い分けていますが ギリシャ語原文では アナスタシス / アニステーミ というふうに同根の一語で表わされています。

 すでに結論に飛びますが ここからは 次のように帰結されますまいか?

 ○ ~~~~
 聖書記者マルコは イエスが《復活》という語を用いたというところまでは 認めている。

 そして その用いたときの意味合いは微妙でありあいまいでもあると言わねばならないようであるが 言えることは イエスが復活のことを サドカイ派のようには 否定していない。というふうに受け留めていると見られる。
 ~~~~~~

 どうでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね。マルコ福音書は復活に言及している箇所が何箇所かあります。

8章31節や9章31節もです。

お礼日時:2012/09/10 18:27

お礼、感謝です。




☆☆☆
~~~~~~~~~
婦人たちが復活したイエスを見ていなくて、
さらに何も言わず、恐ろしくなった
というのが、
いわば、無を見て、恐ろしくなったといえそうで

こういうのが聖書にあるのが面白いと思いました。

ニヒリズムとか考えるときに参考にならないかな、と。
~~~~~~~~~~

あっ、すごい。いままで、そんなこと、考えもしなかった。
マグダラのマリアたちは、無=カオス(混沌)を見たっていうわけね。
生命や宇宙の始原状態、または、生命や宇宙の深淵を覗き込んだというわけか。
すっご~い!!!!!
いいよ、いいよ、この解釈。

駄目だなぁ~、僕は。
頭でっかちで、困ったもんだ。なんでも、理詰めで考えすぎる。

その自由でユニークな発想、大切にしてね。

ニヒリズム。。。。。
ん。。。どっちかと言うと、実存主義ぽいのかな。超越しなければならないので。
そんな感じがします。
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この回答へのお礼

ほめていただき、ありがとうございます。

いえいえ。私は理性的ではないので、
理詰めで考えることができる人がうらやましいです。

実存主義ですか。調べてみます。

お礼日時:2012/09/10 01:21

こんばんはです。




☆☆☆
福音書の中では《マルコ伝》をこよなく愛する《ねむりねこ》の部分の回答

1:「誰にも語らなかった」と書いてあるだけで、「ずっと語らなかった」とはなっていない。
  のちになった、マグダラのマリアたちは弟子たちに語った。

2:「誰にも」の《誰》にはイエスの弟子たちは含まれていない。つまり、これは『イエスの弟子以外には《誰にも》語らなかった』という意味である。

これなら、辻褄が合うでしょう。


=========================
何で、福音書の中で《マルコ伝》が一番好きかって?
 1 一番短い
 2 最古の福音書
だからです。

《ヨハネ伝》はどうも性に合わない。
《マタイ伝》は堅苦しい、息が詰まる。
《ルカ》は結構好きで、よく読むんだけれどな。
でも、やっぱ、《マルコ伝》が、一番、性に合っている。
なので、《マルコ伝》を積極的に援護しました。



☆☆☆
《ねむりねこ》の合理的部分の回答

以前、《二資料説》とQ資料説の話を紹介しましたよね。福音書には、《イエスのことば》資料ともいうべき先行資料・文献があったという奴。

これから推測すると、可能性は二つ。
 1:マルコ伝の作者は、イエスの復活について直接的に記した資料を有していなかっった。
 2:イエスの復活を記述した資料は、マルコ伝の作者の編纂意図に合致せず、採用されなかった。

マタイ・マルコ・ルカの共観福音書は、それぞれ、個性というか、明確な編纂意図を持っているのよ。で、この三つの中でも、マルコ伝はかなり異質。単に1の理由からだけではなく、敢えて、イエスの復活話を書かなかった可能性が高いんですよねぇ~。マルコ伝の編纂意図に合わなかった可能性が。。。。だから、積極的にイエスの復活については書こうとしなかった可能性が。。。。



☆☆☆
僕としては、
《マルコ伝》は、イエスが十字架にかけられ、人々が「あ~、やっぱ、神の子だったんだ」で終わっていてもいい。むしろ、その方が完成度が高い、
と思うのよ。
もう、その時点で《イエスの復活》は言わずもがな、何を今さら、だから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

今回のこの質問の話を知って
改めてマルコ福音書を読んで、

婦人たちが復活したイエスを見ていなくて、
さらに何も言わず、恐ろしくなった
というのが、
いわば、無を見て、恐ろしくなったといえそうで

こういうのが聖書にあるのが面白いと思いました。

ニヒリズムとか考えるときに参考にならないかな、と。

お礼日時:2012/09/09 21:43

>するとこれは、それこそこれで話が終わりですよね。



○終わりですよ。ユダを除いて12人の立派な弟子はみな逃げてイエスの死には立ち会っていないのですから、福音書に書けるはずがないですからね。
でも、続きの福音書はあるのですよ。
イエスの死に立ち会った女性は、母のマリア、サロメ、この時、13人目の弟子で実質的に奥さんであったマクダダラのマリアが立ち会っているのですね。
つまり、13人目の直弟子マクダラのマリアの福音書があったのですね。
マクダラのマリアが復活したイエスに会って、残りのダメ弟子を迎えに行くのですね。このあたりが意図的に抜けているのですね。まあ、みなそのあたりを恥らいながら後の文に少しだけ付け加えているだけですね。
マクダラのマリアの福音書は、マクダラのマリアが娼婦であったということから、キリスト教を神聖化する段階で葬り去られていますね。
イエスは虐げられた人々、下層の人々ほど愛したのですね。そういう神ですね。そのあたりが気に食わなかった弟子の代表が裏切り者のユダですね。その他の弟子も似たようなところが少なからずあったということですね。
つまり、12人の弟子の福音書は終わりなんですが13番目の弟子の福音書があったので、話が終わらなかったのですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

福音書って聖書にあるもの以外にもたくさんあって
昔のほうがよほどキリスト教にとって
自由だったのではないかと思えたりもします。

お礼日時:2012/09/09 21:31

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