プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

”幸せでいるためには、他の幸せな人々と親しい関係になる必要がある”について、どうおもいますでしょうか?

A 回答 (4件)

近道だとは思いますが、絶対ではないと思います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/22 02:32

ということは,


幸せな人とお近づきにならないと幸せでいられないということでしょうか?
なにか違うように思いますね。

”幸せでいるためには、親しい関係にある他の人々も幸せになる必要がある”
なら納得できます。
”幸せでいるためには、地球上にいるすべての人々が幸せになる必要がある”
と考える人もいそうですが,
凡人はそこまで想像力が及びません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/22 02:32

他の人はそのまた他の幸せな人が必要なはずです。


そしてまたその先も。
最初に幸せでいられるようになった人は誰に頼ったのでしょうか。

それぞれの人が自分の幸せを感じる能力を自分で育てれば済むだけの話です。
それを他人から得ようとするから自分の中にその能力があることに
気付くことが出来なくなるのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/22 02:31

必ずしも、他の人という関係が必要と言うことではないと思います。

他の幸せな人々と言う事になると、返って羨ましくなってしまうかも知れないと思います。それは『心持』の関係が関係してくると思います。

本人の心持という事になります。幸せと言う定義ですが『心安らかで幸福感が在る』と言う言い方で良いなら、その反対を云うとわかり易いと思います。

その反対とは『生き難くて、孤独感が湧いてきて、生きている心地がしない』という事になります。今云った二つの心の状態は、他の人には関係が無いといえるはずです。そういう訳で、”幸せでいるためには、他の幸せな人々と親しい関係になる必要がある”と言う事は一面しか見ていないと思います。

反対の状態をもう少し詳しく書いて、それから幸福感と言う事を書いてみます。

幸福と言う言葉の反対とは、『病む』と言う事になると思います。或いは天国と言う言葉の反対語『地獄』と言う言い方でも可能と思います。生きている事を『苦しみの中で』感じていると言う事です。

その苦しみを生き難さとして、或いは不安として、或いは恐怖として感じている状態という事になります。この言葉は、昔の人が言った言葉『一切皆苦』と言う言葉に繋がっています。『意識が在る』時には苦痛として感じていると言う意味においてです。

この苦しみを『一切皆苦』と、お釈迦様は言っていたと思います。王様の暮らしさえ捨てなくてはいけないほど大きな苦しみを、味わっていたと言う意味です。普通の暮らしが出来なくなって、家にいられなくなったというほどの意味です。

今で言う入院治療の必要性を感じていたと言う意味です。是は『意識』した事自体を意識する事とも言えます。つまり意識した事を『症状』として訴えていると言えます。

つまり問題は『意識した事』に在るのではなくて『意識』そのものが問題になっていると言う事実です。是は『メンタル面で強い』と言う事と『メンタル面で弱い』と言うことで説明するとわかり易いと思います。

メンタル面で弱いということは『心を病みやすい』とも言えます。それは意識しやすい人といっても良いでしょう。その事を神経質な性格とも云いますが、それは意識しやすい、或いは自我意識が出やすいといっても良いと思います。

メンタル面が強いと言う意味は『自我意識が出にくい』或いは『無意識的に出来る、或いは我を忘れて出来る』と言う事になります。

人間には意識が二つ在ります。自我意識がその一つですが、無意識にも意識が在ります。この二つの意識のずれを『心の矛盾として』具体的には意識する事として『症状として』自我意識は受け取っています。

幸福感がある時とは自分の心に矛盾が無い状態の時です。二つ心が在るにも拘らず、『心が一つの時です』

その反対の時、つまり心を病んでいる状態『罪悪感に苛まれたり、孤独感に打ちひしがれている時や、症状や、意識した事を苦にしている時』とは心に矛盾や対立が在る時と言えます。

言い方を替えたなら自我意識の意識と、無意識の意識が仲たがいしている時の事を『心の矛盾として』自我意識は苦しみとして、或いは孤独感として、或いは罪悪感として、或いは漠然とした不安として、感じている事になります。

この感じる人の事を神経質な性格とも言います。是は自分自身に敏感な人という言い方が適当かもしれません。二つの意識のずれが人間の不安の要素となっています。

この解消を宗教文化の発展として人間は後押ししてきたと思います。ですが今の宗教人や宗教家は、毎日の生活に追われたり、自分の道に入ったきり人を導かなくなっている気がしています。

そういう背景があるためか今は『精神科医』のところが繁盛いるように見えます。

人間の苦しみとは『心の矛盾』という事になります。その解消は心の矛盾の解消という事になります。それは言葉にするなら『自我意識と、無意識の意識の仲たがいの解消』という事になります。

心を病む、或いは神経症になって苦しい想いをしている。或いは自律神経失調症で苦しんでいると言う事は、自我意識が自我意識のみの生き方で苦しい想いをしていると言う意味になります。

それは『無意識の意識』の力を借り難くなっているという意味になります。或いは無意識の自分になり難くなっていると言う意味になります。

我を忘れた状態、没我の時に自我意識は休んでいます。自我意識が休めなくなった状態の事を『心を病む』といっています。

人間の暮らしは意識と無意識が交代しながら正常な暮らしが成り立っています。心を病まなくなるという事は『もっと没我の状態を心がける』という事になります。症状を気にする状態『意識している事を忘れる事』が肝心という事になります。

症状は在って当たり前の事に気が付くところに本当の治りがあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しく意見を教えてくれて、本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/05/22 02:29

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!