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A:「生き物を超越し意思を持った何かを、信じますか?」

B:「そういうものの存在は信じません。なぜならすべては相対的だから。

A:「すべては相対的 とは、どういう意味ですか?」

B:「例えば雷や火山の噴火。これを古代の人は神様の仕業だと信じており、自分たちが何か悪いことをしたから起こったと理由付けしたり、荒れ狂う神様をなだめるためお供えをすればやめてくれると信じたりしていた。」

 Bさんは、何が言いたいのでしょうか?

A 回答 (13件中11~13件)

小話で説明します。



神「私は絶対的存在だ!」
古代人「雷や!神が怒っとるで~!」
神「なに勝手に神のせいにしとるんや!わしがそんなチンケなことするか~」
神「誤解されると後々人間の科学が進歩した時に権威に関わるから、おまえら殺すか痛めつける!」
古代人「ひえー!今度からは下手なこと思いません~」

というわけで、絶対的な存在がいるならば雷や火山の噴火が神の御技という迷信をほっとくわけありません。

この回答への補足

>というわけで、絶対的な存在がいるならば雷や火山の噴火が神の御技という迷信をほっとくわけありません。

 認識の誤りがあれば、自力で気付いて成長する姿を良しとするのではないでしょうか。

 nikiさんが想像する神はそのレベルなんでしょうか、人の認識の度合いによって想定する神のレベルが変わるようです、、、。

 わざわざレベルの低い回答を書いてくださり、ありがとうございます。

補足日時:2010/06/20 18:57
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この回答へのお礼

 「神」も「古代人」も、それを設定する人間も、同レベルであるように想います。

お礼日時:2010/06/20 21:25

うーん。

説明を省く癖があるのでわかり難いのかもしれません・・・・

まず、Bさんは A:「すべては相対的 とは、どういう意味ですか?」に対して
雷や火山の噴火に対する古代人と現代人の解釈のちがいを挙げています。

つまり、雷や火山の噴火を自然現象ととるか神の御業ととるかということです。
言い換えれば、人間の側の進歩・認識の度合いにより解釈が相対的に変化(神の御業から自然現象へ)するということです。

もし絶対的な存在がいて人間に存在を示そう!!!としているならば、人間の側の進歩・認識の度合いにより神の御業が神の御業でなくなるというのはおかしいですよね。

結局、そのおかしさは絶対的な存在を仮定するから生じるのであります。
そのおかしさを解決するためには、単に「神」というものを自分達と比較して(相対的に)高度な存在を指し示すレッテル(ラベル・言葉)と看做せばいいわけです。
言い換えれば、古代人にとっては現代人は自分達と比較して(相対的に)神とみなせるということです。

ということは、現代人にとって「神」といえる存在も(相対的な)神に過ぎない可能性が高いということです。

そのようなものは生き物を超越した存在であろうはずはないということです。

この回答への補足

>人間の側の進歩・認識の度合いにより解釈が相対的に変化(神の御業から自然現象へ)するということです。

 認識の度合いにより、解釈が「相対的」に変化するものではないですね。認識の度合いにより、解釈が進化あるいは変化するものですね。

また、認識の度合いというものが、自分の認識を絶対であると仮定して変化するものであるとしても、それと「信じる・信じない」ということがどのように関係してくるのでしょうか。認識している・していない というだけのものですね。

>もし絶対的な存在がいて人間に存在を示そう!!!としているならば、人間の側の進歩・認識の度合いにより神の御業が神の御業でなくなるというのはおかしいですよね。


 いいえ、おかしくないですねえ。犬は人間を、人間が見るほど色や形を精緻に認識しているでしょうか。人が人を認識するのと比べたら、部分的な現象として認識しているかもしれませんね。

 結局、こういった思考のおかしさは、人間の認識が絶対的なものだと認識するからおかしなものとなるのです。

 また、もし人間の認識するものが相対的であるとするなら、絶対的なものを求めて「信じる・信じたい」と思うようになるでしょう。

 したがって、質問文の「相対的だから信じない」というのはまったく逆で、「相対的だから信じる・信じたい」と思うのではないでしょうか。

補足日時:2010/06/20 18:51
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Bさんの見解(推測)


神(?)の存在が絶対的ならば人類に絶対的に感知させられるはずである。
であるならば、少なくとも雷や火山の噴火を神の仕業と古代人に誤って認識させるようなことはさせない。神の存在や御技の解釈が相対的に変化するということは信仰する側の心の変化によるということ、つまり妄想にすぎないという証拠である。

以上の見解の弱点は、神(?)が人類に感知されたがっているという前提にあるでしょうね。
まあ、それを指摘すると「目立ちたがり屋の既存の神は少なくとも妄想だよね」と指摘されるでしょう。

もしそういうことならば私も同意で、神は人類に関心がないと思います。
たまたま目があって人間が勝手にインスピレーションを引き出すくらいだと思います。
それを人間側が一方的に神の愛と思って感謝してるだけのような気がしますね。
まあ感謝してますが期待はしてません・・・
当然、神を操作できるとは考えないので、神の国へ行くためのプログラムや団体を必要としません。

この回答への補足

>神(?)の存在が絶対的ならば人類に絶対的に感知させられるはずである。

 絶対的なら、そのまま神?の姿を感知できるはずである。という意味が良く解りませんが。

 相対的であれば、神は何らかの現象として感じられる。というのも良く解りません。

 相対的http://www.weblio.jp/content/%E7%9B%B8%E5%AF%BE% …

 何らかの関係・比較の上で成り立っているさま ということであれば、「私」という関係・比較の上で成り立つ相手として「神そのもの」を感じても、「相対的に感知している」と言う事が出来ます。

 つまり、絶対的=神そのものとして感知する 相対的=何らかの現象として感知するということではないですね。

>以上の見解の弱点は、神(?)が人類に感知されたがっているという前提にあるでしょうね。

 これはかなり怪しいのではないでしょうか。「偶然見かけた」だけかもしれません。野良犬も、偶然人間を見かけることがあるでしょう。

>もしそういうことならば私も同意で、神は人類に関心がないと思います。

 「妄想である、目立ちたがり屋の既存の神」は、妄想なので存在せず、従って本当の「神」について言及した文章であろうと思います。そうであれば、「真の神」は完全だろうから、自分が作った?人間に関心がないということもないでしょうね。無言ではあっても。人間でさえ、自分の子供に関心があります。

 もし、完全な神を観たら、その人は嫉妬するのでしょうか。であれば、神は姿を現さないでしょうね。

 もう一度質問文を読み直してみて下さい。

補足日時:2010/06/20 06:18
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この回答へのお礼

追記:

>神を操作できるとは考えないので、神の国へ行くためのプログラムや団体を必要としません。

 「小学生が教師を操作できるとは考えないので、勉強するためのプログラムや学校を必要としません。」とは言えないですね。

 ああ、そう考えると自分が「神である」と認知した相手や団体(団体はありえないが)であれば、それから学べば良いということですね。しかし、私の知る限り、神は無言ですので、学べると言うことはなさそうです。

 nikiさんの神はどのようなものですか?危機感や嫉妬心を覚える存在ではないことだけは確かでしょうね。

お礼日時:2010/06/20 06:37

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