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どうして人は被害者側にも原因を求めようとするんですか?

例えば、空き巣に入れたのはしっかり対策していないのが悪いとか。
自転車を盗められたのは自転車に鍵をかけてないお前が悪いとか。
ひどいものになると、いじめはいじめられる側に原因があるなんて理論もあるみたいですね。

ずっと思ってたんですが、これってどう考えても加害者側が100%悪いんじゃないんですか?
一番下の例は例外ですが、上二つはちゃんと法律的に禁止されているにもかかわらず、何故人は被害者側に原因を求めようとするんですか?

ずっと疑問に思ってました。みなさんの意見ください。

A 回答 (11件中1~10件)

二つの側面があるように思います。



自分の身に置き換えてみてどうかという点と
自分が被害者に寄り添えるかどうかという点(被害者が身近な人である場合)

前者については、自分にもそういったことが起きるかもしれない
と考えると不安になるので、
そういった事件とは関係のないところにいる自分を再確認して
安心したいといったメカニズムが働くのでしょう。
他人事で済んでしまうのが一番楽ですから。

そのため、いじめも含めて、
その理屈は客観的に正しくなくても構いません。
あくまでも自分が納得できる理屈であればよいのです。
その理屈も事件に応じて臨機応変に作り変えればよいです。
鍵をかけていても自転車が盗まれた事件を聞いた場合は、
鍵を二つつけておけばよかったと言えばいいし、
鍵をかけていて空き巣には入られた事件を聞いた場合は、
もっと破られにくい最新の鍵にしておけばよかったのに……
と言えばいいでしょう。

後者については、何らかの事件に巻き込まれた被害者と共にいるのは
非常に居心地が悪いものですから、
「それはお前が悪い」と言っておけば、気が楽になります。
これは、事件に限らず、例えば何らかの悩みを打ち明けられたときに
その悩みを共有しないで、「こうすればいいのに」と結論を言って
その場の居心地の悪さから自分を切り離してしまうメカニズムと共通でしょう。
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昔から盗人にも3分の利、なんて言いますから


油断をするな
敵に隙を与えるな
こういう教訓のつもりでしょうね

確かに外国で被害に遭う人の多くは無知だったり油断したりということが多いようですね
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被害者にも原因がある→自分にそれは当てはまらない→自分は被害者にならない。


こういう論法で安心するためです。
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質問者さんは、とてもいい人だと思います。


そういう人が多くなれば、特に上に立つ人の中に、そういう人が多くなれば、世の中も良くなると思います。

しかし、残念ながら、そういう人は、ほんの一部。民衆の大半は、人の不幸を喜んだり、弱い者イジメをする卑怯者です。

子供の時から、家庭や学校で、正しい教育がされていないことも原因の1つだと思います。
しかし、先生や親も、習ってきていないので、子に教えることができないばかりでなく、被害者バッシングをして、「自分はそんなバカじゃない。関係ない」と、優越感にひたっている愚か者が多い。思想の狂いほど恐ろしいものはないですね。
正しい思想を教育してくれる人、機会がないことは憂うべき事態ですね。
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単純に、加害者側の「悪質さ」より被害者の「落ち度」の方が色々と言いやすい、叩きやすい、というのはあるんじゃないでしょうか。


もちろん、加害者が100%悪くても、「悪いことは悪い」と言うだけでは終わらせたくないというか、なぜそれが起こったのか、今後それが起こらないようにするにはどうすればいいかを考えることはとても大切なことだとは思います。
でもそれでも、騙すより騙される方が悪い、みたいな論調とか、たとえば性被害などで被害者の落ち度をあげつらうような議論は見ていてどうも胸が苦しいです。
世の中、強面の凶悪人間より、弱そうな人間のちょっとした「落ち度」や「失敗」の方がバッシングの集中砲火に遭っている気がします。
暴力団とか世の中の大きな悪には弱いけど、弱った人のちょっとした落ち度や悪には強気に出れるみたいな、そういうのが嫌です。
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>まあ確かに加害者に対して「悪い」というのは語弊があるでしょうね。



「被害者に対して」の間違いでした。
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まあ確かに加害者に対して「悪い」というのは語弊があるでしょうね。


別に「悪い」訳じゃなくて、被害を受けないために改善の余地があるという意味だと思います。

例えば、危険な地域に無防備に入って怪我をしたとします。
怪我を負わせた相手が100%悪いですが、かといって怪我したことに対して被害者に100%落ち度がないかというとそうではない気がします。
確かにそもそもそんな危険な地域があることが悪いのですが、その地域に入ったら怪我をすることは分かっていて入ったのですから、怪我をしてしまったこと自体にまったく本人に責任がないかというとそうではないでしょう。
少なくとも、本人は回避する手段(その地域には入らない)を知っていて、また入ったら怪我をすることも知っていて、入ったわけですから。
そこには被害を受けないようにするために改善の余地が被害者側にもあったということになります。

また、その改善を怠ったことで、犯罪を助長してしまっている事実があるというのもあります。
例えば、すべての家が玄関に鍵をせずに放置していれば、空き巣は盗み放題です。
もちろん空き巣に入る人間が悪いのですが、空き巣の犯罪を助長してしまうことは確かです。
結果的に犯罪を助長するような行為はやはり改善の余地があると言わざる得ません。

被害者に対して原因を求めようとするのは、被害を防止するためです。
社会の目的は、加害者を罰することにあるわけではなくて、加害者をなくすこと自体に本来ありますから。
そのためには、加害者側を罰するだけでなく、被害者側が対策を取ることが必要不可欠だからだと思います。

ご参考まで。
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「いじめ」は対象として適切ではないと思いますのではずします。



 たとえ話ですが、交差点を渡るときに、進行方向の信号が青だからといって左右を確認せずに渡るようなことはしませんよね?信号を守るのは当然の義務ですが、実際には運転手が見落とすこともあるし、故意に無視することもある。事故が起こったとき「信号を守らないほうが悪い」と主張したって、撥ねられた事実自体は変わりません。
 
 同様に、空き巣や自転車盗は法律で禁止されているからといって、実在するのは事実です。実在する危険やリスクについて自己防衛行動をとらないのは、実際のリスクを減らすことにはならない。
 被害者側の責をあえて言うのは、そのことで社会に警鐘をならし、社会全体のリスクを減らして行こうという考え方があるんじゃないですかね。
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「被害者の落ち度の追求」とは、前もって自己防衛すべきことをしなかったことへの、反省と対策だと私は思ってます。



これは被害者の防犯意識を高めることと、同じ被害(苦しみや悲しみ)に遭わないようにする、「リスク回避」を目的としなければなりません。

被害に遭ったその現実を責めるのではなく、あくまでも被害から学ぶためにあれこれと一緒に探ってみる(検証)というレベルで。

質問者様が言われるように、最近は被害者を責めるかのような発言や報道が多くみられますが、私はそれには反対です。

責めているだけでは犯罪被害者は減らないし、また被害に遭っても、それを訴えることが出来なくってしまう、つまり泣き寝入りする被害者が増え続けるだけだからです。
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加害者が一方的に悪い、被害者は完全に落ち度がない、という単純なものばかりではありません。



また、被害者に理由がある場合は、非難するのではなく、他の人も同じような目に合わないように、注意をうながしてこそ、教訓となります。

人は、法律で行動しているわけではありませんから、いくら法律に違反していると非難しても、犯罪はなくなりません。
犯罪の被害者になりたくなかったら、気をつけるべきでしょう。
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