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日本人の精神の本質について分からないので教えてください。

日本人はなぜ哲学的・概念的・論理的ではないのですか?

A 回答 (11件中1~10件)

見知らぬ人に「あなたはなぜ悪人なのですか?」なんて質問したら「失敬な、この戯け者!」と一喝されるでしょうな。

相手が江戸時代の武士だったら一刀両断にされちゃうかもしれない。

ですから、まず「あなたは悪人ですか?」と聞き、「いかにも、拙者は悪人でござる」と合意が取れた場合にのみ、次の質問として「なぜ、あなたは悪人なのですか?」と聞き、結果、「善人なおもて往生す、云々」という会話が成り立つわけですね。

しかるに質問文を読むとその段取りができていない。
このカテゴリを見ている”老哲学者”たちは一瞬にして質問者さんの言語水準(=論理的能力)を看破してしまったでしょうね。

人生で「なぜ」という疑問をぶつける前に事実確認をする習慣は大変重要です。

意地悪な前置きはこのくらいとしますが、質問者さんの疑問に対して、質問者さんご自身が回答を見つけるためのヒントとしては禅を勉強されるとよいと思います。
禅は勉強する対象ではなく、実践する対象なのですが、禅を実践するには人生50年では足りないそうですから、とりあえず知識としての禅でやむなしとしましょう。拙者も知識として禅を少々かじってみたところ、武士道の精神的バックボーンとして禅の考え(というよりも禅的生き方)が貫いていることが理解できました。禅では死についても「死んだあとは天国に召されて云々」という西洋の非論理的な思想は皆無です。死を空とし、生も空とし、生と死を西洋の二元論的な構図からアウフヘーベンしちゃっている。

沢庵和尚のお話の一部などを拝見すると、十分に哲学的、概念的、論理的ですが、それが哲学的、概念的、論理的であるに留まらず行動を求めていることに気付きます。
禅は哲学であるが、哲学以上のものであり、行動を求めているのですね。

日本の武士は国家公務員であり責任ある行政担当者でしたが、その責任に命を掛けたという点において、現代の国家公務員どもとは決定的に異なる階級の人達でした。禅はその武士たちの心のよりどころとなったようです。彼らは政(まつりごと)の責任が重大であることに関して、言葉で語る事はなかったけれども、それを自分の生命を賭して示した。士農工商の身分制度で皆が「士」にあこがれていたかと言うと、そんなことは無くて、農工商の民たちは「お侍さんたちは可哀そうだなぁ、自分の命を守ることも許されないのじゃからなぁ」と、むしろ同情と憐憫をもって見られていたんじゃないかと思うな。

農工商の民にとっては、直接に禅の教えが広まったわけでもないようですが、禅や武士道の教えを忠実にまもり、まさに身をもって示した侍たちの行動から影響を受けた。だからこれが日本人全体の文化となった。
ここがヒントですよ。

侍たち知識階級が禅や武士道の教えを「言葉を弄して」庶民におしえたのではなく、自らの人生を通して示した。
ここが西洋の知識階級やキリスト坊主が「言葉を弄して」庶民を教育しようとしたのとは決定的に違うところですね。

西洋人は、哲学的、概念的、論理的であった。
日本人は、哲学的、概念的、論理的であるにとどまらず、「言葉を弄せず」行動で示した。

「弄する」って言葉は西洋語に訳がありますかね。abuseかな。辞書にはuse sophistryという成句が載っていますが、日本人が「言葉を弄する」と言うときとは感じが違いますね。

西洋文化に汚染されてしまった私たち現代日本人にとっては、鈴木大拙さんが西洋人向けに書かれた「禅と日本文化」という本が大変参考になります。日本語訳が岩波新書から出ていますのでご参考まで。
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 こんにちは。



 おそらくご質問は もう一歩をすすめるにはどうすればよいか ではないでしょうか?
 日本人はすでにじゅうぶん哲学的に考え合って生活共同とその共同自治を行なってきた。ただ どうも この島々の中だけでそうである。一歩外に出ると 何も出来ない場合がある。
 いやあるいは ひとりで出かけてたいした仕事をやっている日本人もけっこうそこここに見られる。けれどもそのおこないが どうも知られていない。世界に向けて PR が足りないのではないか。そのように ほかの人びとに向けておのれの考えを発信することも 哲学の問題なのではないか。
 もしそうだとすれば その強さともろさの同居するような日本人としての社会的な交通のあり方を取っても
 ★ 日本人の精神の本質について分からないので教えてください。
 ☆ と。

 ひとつには へりくだっているからです。ひとに対して ゆづることをその生活の中にくせとして来ているからです。

 自分から誇るということを わたしのような大バカ者を除けば しません。中には その大バカ者をバカにすることで楽しんでいる人間もいますが これは死んでも直らないとまづは思っておいたほうがいいでしょう。

 言いかえると もし日本人がその哲学した内容を実際に言葉にして明らかにするようになるときは この死んでも直らないニンゲンたちが ほんとうに死ぬかそれとも万が一よみがえって来るかするときでありましょう。

 ものには順序があるからです。ひとつひとつ片づけて行かなければなりません。ひとつひとつ新しい展望をも開いて行かなければなりません。そういうことは それとして 行なわれて来ているはずです。そういうものです。
 もしそうならなければ そのときにも それはそういうものだと成ります。

 どうなるか? そのことは 大バカ者は放っておいて ちいさなバカを人びとがどれだけ・どこまで 同じ地続きの地球の上に立って自由な話し合いをつづけて行けるか このことにかかっていると思います。
 たとえば この場でのやり取りにおいても そういう歴史が繰り広げられて来ているわけです。

 こういう質疑応答の場をつくったのも 哲学的ですし そこに参加することも哲学的です。あとは ふつうのりこうな人びとと 大バカ者とそして小さなバカの絡みをどうするか。ここにかかっていると考えます。
 ★ 日本人の精神の本質
 ☆ ふつうにりこうな人びとであるということが 本質です。あなたのように考える人たちであるということが 本質です。そして 触媒が必要なときもあるだろう。ということだと思われます。つまり触媒をねたみこれをさまたげる勢力も現われる。そういった情況にあると考えます。


 【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4827221.html
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一時期「人間は感情の動物だ」という言葉が流行りました。

日本人はそれを肯定してしまいました。

外国人なら 感情もあるが理性もある それは別のものだ と考えると思います

日本人は虫の居所が悪いとか言って 虫の居所で話半分な会話をします 真に受けてたらばかを見ます

結果日本人の思考は感情的なものが先になり 理性的なものは建前になりました。

本音は感情的なのです それで哲学・概念・論理が育たないのです。というのが偽らざる感想です。
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 精神の本質に、国民性は出ない、ということを語りたいです。



 それぞれの国の、行政、政府、首脳陣は変わりましょうし、
 
 社会制度、司法制度、などなど変わりましょうが、

 精神というものに、国の別はない、と思います。

 それに、日本人の精神の本質について分からない、という
 
 かなり曖昧な質問もされた方も、結局、論理的ではないような気もします。

 哲学的な質問でもないような気がします。

 もっと、具体的に、日本人はこうだから、こうなのだ、という質問を
 
 求めます。。。

 以上、日本人の市民生活の現場から、以上です。
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いろんな国からの出身者が混ざってるからですよ。



国王(天皇)一族すら朝鮮半島からの移民の末裔で、
それを曖昧にしたまま「日本」という民族を演出してるからです。
欧州の国々ではそういう支配階級の歴史も公然と示されて君臨しています。

中国も日本と同様で、漢民族の率いる共産党の私軍が人民解放軍なのに、
あたかも中国軍であるかのように人民を支配しています。
南朝鮮は米国の傀儡政権であり、北朝鮮は暴君の世襲王族制です。

欧州に比べて東洋が「哲学的・概念的・論理的ではない」のは、
国家の成り立ちそのものについての定義付けが曖昧にされているからです。

現在日本は南朝鮮と同様に米国の属国ですが、それを謳うようなメディアは存在できません。
資本家がメディアのパトロンだからです。

「資本主義国家」というのは「資本家の為の国家」という意味ですし、
「共産主義国家」というのは「支配者の為の国家」という意味です。

選挙でも国家の未来像という議論はメディアから抹殺され、消費税論議に摩り替えられました。
メディアが支配者の道具である限り、理想的な「哲学的・概念的・論理的」な国民性にはならないです。 
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概念的・論理的と同じくらい感覚的・直感的であることは重要です。



まず感覚的・直感的な閃きや手ごたえがあり、それを他人に説明するために概念的・論理的な思考が使われます。

ですから、概念的・論理的なものばかりでは、自分が知る範囲の中を巡るだけになります。


感覚的・直感的でなければ物事はうまくいくという誤解によって、自分達の信奉する理論による世界観を絶対と思い込み、逆に知的停滞をしているというのが一部の知的といわれる日本人の現状かと思います。

全体をわかりやすく言えば、概念的・論理的派と感覚的・直感的派が不必要な対立をして消耗しているということです。

この対立の橋渡しには男女の恋の道が一番です。

結論、哲学的・概念的・論理的でのみあろうとすれば、非哲学的・非概念的・非論理的にならざるおえない。
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日本は、世界において集団主義的な性質を持つ、ジャポニカ稲作農耕文化圏


(+温帯モンスーン+常緑照葉樹林帯+A型地域)と、島国文化圏という、
2つの文化圏の重なった、世界でも稀な集団主義的(協調性、遠慮、腹芸、
思いやり、日和見etc.)な国であり、それゆえ近代の工業化=大量生産に
適応し、アジアの片隅で“奇跡”と呼ばれる成長を成し遂げたのです。

それに対し、主義主張を持つには、個人主義的である(大陸的な自己主張、
遊牧文化的な我の強さ)ことが重要なのです。
(周囲に合わすのではなく、自覚的に行動を決定する)
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#2と3です。

他にもまだ、「世界中」を「世界寿」と書くなどの誤植が幾つかありますが、その辺は適当に読んで下さい。

蛇足を付け加えておきます。

現在は国際化時代と呼ばれております。ところで国際人になるということは、外国のことを良く知るようになることでは在りません。国際化社会になればなるほど、自分の国の歴史や文化を勉強し、昔より遥かに外国人に巡り会うことが多くなって来たこの機会を利用して、その外国人達に正しい日本像を教えてあげることが出来る方を国際人というのです。そして、その方は、自分の国の歴史や文化に造詣が深いということで、外国の皆さんから尊敬されるようになるのです。

国際社会になったからと言って、フランス人の家に夕食に招待されて、日本の歴史のことは良く知らないが、私はフランスの歴史なら学校で教わったのでそれを話してあげましょうなどと言ったら、貴方は馬鹿にされて、フランスの歴史を日本人の貴方から聞く必要はないと言われてしまうでしょう。

外国物ばかり勉強して、自分に自信がなくなるなどとは、何のための勉強だか分りません。もっと、自分の国のこと、先人達の偉大な事績を勉強して、立派な国際人になって下さい。

序でにもう一つの蛇足です。一国の総理大臣や大統領ともあろう人が、外国に行って公の場で通訳をつけずにその訪問した国の言葉で流暢に話すものではありません。例えば、余りに上手に英語の話せる人がアフガニスタンの大統領になっているということは、アフガニスタンがアメリカの属国になったことを世界中に知らしめているだけです。勿論私的な場所では何語を話してもその人の勝手ですが、公の場所では駄目です。このように、人の上に立つ者は、外国語が話せないと言うことをつくろって見せるのも、国際化社会では大切なことなのです。
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#2です。

そこに誤植がありました。

上から2行目、

最も振るい時で => 最も古い土器で

また、同じ段落で、

日本の土器はご見場捨て場から出てくる。 => 日本の土器はゴミ捨て場から出てくる。

と読んで下さい。
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日本人が論理的でなかったとは、驚きの発言ですね。



日本の縄文土器は人類で最も振るい時で、中国よりも数千年早く出て来ます。それのみならず、他の国の土器は皆お宮の跡などから出て来て、それが祭事器として使われていたことが分かるのですが、日本の土器はご見場捨て場から出てくる。すなわち日常品として使われていた証拠です。日本は古代からハイテクの国だったようです。こう言う発想は、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。

日本では和算と言う数学を大変高度に発達させ、積分の概念や円周率を何処から教わることも無く発見しております。関孝和による行列式の発見は西洋に先立っています。

戦国時代の戦いの変化は、刀を使うよりも槍を使う方向に進歩しました。槍は刀よりずっと少ない鉄で作れるので、今までお百姓さん達にいきなり槍を持たせて大量の兵隊を作ることが出来るからです。こう言う発想は、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。

私有財産制は資本主義制度の根幹を成しますので、どの国でもその重要性に気がつくと必ずそれを憲法に書き込んで成文化します。人類史で私有財産制を最初に憲法に成文化したのは、日本の鎌倉時代の貞永式目です。そこでは、この概念を「本領安堵」と呼んでいます。こう言う発想は、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。ヨーロッパがその重要性に気がつくのはその数百年後です。

戦国時代の堺や江戸時代の大阪では、現在の銀行制度の殆どが、何処の外国からも教わらずに作りあてられていました。冗談に「その堺でもクレジットカードだけは発明出来なかった。何故なら、その時代にはまだプラスチックが発明されていなかったからだ」というのがあります。このような銀行制度を発明するためには、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。

江戸時代の石門心学と呼ばれる一派の鎌田柳泓や山片蟠桃らは、自然淘汰に基づく進化論をダーウインよりも50年ほど以前に唱えています。こう言う発想は、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。それも、『種の起原』で書いてあるように、ダーウインは進化論を正当化するために、家畜の鳩の改良法に着目して説明しておりますが、鎌田柳泓はそれを、朝顔の花の改良に基づいて論じています。

現在バイオ・エンジニアリングという言葉が流行っていますが、日本では味噌や醤油や押し寿司の醗酵など、微生物を使ったエンジニアリングが江戸時代以前から発達していました。味噌は中国の発明ですが、醤油は純粋な日本の発明です。今では、醤油は世界寿で使われています。また、カニカマボコも現在世界中の何処のスーパーマーケット行っても売られている大ヒット商品ですが、これは日本に昔から在ったカマボコの技術を応用して日本人が作った物です。バイオエンジニアリングを昔から使っていたとは、論理的合理的考え方が無いと出て来ませんね。


哲学に関しては、それを世界観と捉えてみましょう。源平の血を血で洗う戦乱を経て、日本人は世界を「無常」という「概念」で捉えることを学びました。無常とは変化のことであり、永遠という概念の対極にある概念です。変化とは永遠のような静的な概念ではなく、動的な概念です。そして、その無常という高度な概念は、物事が収まるべきところに収まるように成り行きに任せるように仕向けることを教えました。ところで、近代の物理学の金字塔の一つである「散逸構造の理論」によると、この自然界は数学で言う非線形性ということが本質的でる、そして、この世の中に有意義で複雑な構造が自発的に出てくるためには、その構造を外部から操作して作ろうとしては駄目で、その構造を構成している内部の成分がその非線形性を利用して擦った揉んだしながら、収まるところに収まった形で出て来るようになっていることが本質であることが分かりました。頑強で複雑な構造を作るのには、その方が外部の操作で人為的に作るよりも遥かに効率が良いということが分ったのです。そのような、「変化」に基軸をおいた日本の世界観なり哲学は、遥か昔から現代を先取りしていたようです。

ですから、日本人は哲学、概念、論理に関して他の文化には見られない独自な個性を作り上げ、それが人類社会を多様で豊かにするのに貢献して来ました。事実、西洋にも他の東洋にもない日本の独自な文化や世界観は、多くの国から尊敬のまなざして見られております。質問者さんはご自分とご自分の文化を卑下する物の見方を何処から仕入れて来たか知りませんが、ご自分とご自分の文化にもっと自信を持っても良いのではないでしょうか。
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