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数とは多数性における統一である

という定義は正しいでしょうか。

A 回答 (5件)

 #3です


 補足を頂きました。
 【補足 NO4さんの>数は数学の対象なんやから雰囲気だけで物を言わず定量的に定義でけんにものは意味がないんや。というご意見がありますがどうなんでしょう?】

 猪突さんでしょうかね。私もわかりません。
 【数は数学の対象である。だから雰囲気だけでアバウトに物を言わっていては、数学の世界での定量的に定義・判断・認識ができないでしょう。そういう次元での数とか何とかには意味がないんや。】という事かも知れません。このお方様は理数系ご専門だとかおおせられていたと存じます。
 その事は至極当然ですね、数を近代というか、欧米的数学的観念のものとして限定すれば。猪突さんのご文章は今まで他のところではとても分りやすく、深遠なるお話ですが、ここはちょいと難しかったですね。

 なお私の更なるコメント:人間というものは認識をするという、つまり自分の機能とカテで構成し受け取り、対象と内容をつむぎだす。そういう機能とカテの一つが区分、別化ですよね。そしてその個別性を捨象して、数える。統合というか統一というか。
 両方が数というものの機能だということを補足します。
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んにゃ、それは数に対する定性的な一側面や。

数は数学の対象なんやから雰囲気だけで物を言わず定量的に定義でけんにものは意味がないんや。数とは集合の集合のことであると言うのが一番本質的なことや。

この回答への補足

>数とは集合の集合のことであると言うのが一番本質的なことや。

頭が悪いせいかもう三日間考えこんでいるんですが理解できないいんです。

例えば三つのものから集合は三という数ではない。三という数は、三つのものからなるいかなる集合より抽象的なあるものである。

と思うのですが間違っていますか?

補足日時:2010/08/19 21:31
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この回答へのお礼

予想に反してご回答が4件も。

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大変ありがたいことです。

のちのど補足させていただきますのでよろしくお願いいたします。

お礼日時:2010/08/15 19:43

 私も同じことに気付いたことがあります。


 人間っていったてみんな違いますが、何人とかいうとそこに統一という機能と結果がありますね。
 私達は物心(ものごころ)ついてから、【何かが分る、何かについて分る】というのは常に区分、区別し、他という多様にしますね。
 【私】なんていう感覚と意識も、【自分ではないもの】っていう区分と区別すね。
 だから私達がまなんでいるSelf-Realization Fellowshipという団体のあるひとつのヒンドゥ哲学では、人間の意識の発端の一つがこの区分なのだそうです。
 つまり知性とはこの区分の機能だというのです。
 そしてそれを象徴しているのが、ヴィアサという原人(バガヴァッド・ギータの著者)ということになります。
 創造神(ブラフマ)のシャンターヌもその子孫も死ぬ(創造界では見えなくなる)と、関りは忘れたが遠国の色の黒い人がその残された妃の相手をしてパンドゥたちを産む手伝いをするんですね。
 これがヴィアサなんですが、ここから二面の子孫がでる。
 クルというどんどん創造界のなかで埋没していく側面の質。そして逆昇して元の意識存在に向かう質。
 ここらから何かと区分と判断が出てくる。
 そういうわけで、人間とそれが存在し、意識構成しているこの創造世界には本当の【一】というものは見出せない。つまり存在しない。
 多様を統一した【一】と多様しかない。
 ということになっていますね。それで本当の【一】にいく技法をSelf-Realization Fellowshipは教えている、というとなんです。
 数は区分であり、認識であり、そして区分たる認識の機能としての統一である。
 ということなのでしょうか。 

この回答への補足

NO4さんの>数は数学の対象なんやから雰囲気だけで物を言わず定量的に定義でけんにものは意味がないんや。というご意見がありますがどうなんでしょう?

補足日時:2010/08/19 21:34
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お礼日時:2010/08/15 19:44

[数とは多数性における統一である.]という定義は正しいでしょうか。



○常識的にいって正しくないと思いますよ。
数は多様性を表す指針の一つではあるが十分条件ではありませんからね。
例えば、金太郎飴は切っても切っても金太郎飴ですし。千手観音でもいいんですが数は多数性を表現しないのですね。
また、哲学的には「1」でも多様性を内在しますからね。これは西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」などで明らかですから。「1」でさえ多様性を意味することがありますからね。
まあ、数では多数性の表現は不十分ということです。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2010/08/15 19:44

多数性とは一の複数性であるとします。

複数性を複数性として成立させる〈地平〉を統一と呼んでいるとすると、一とは、統一における複数性と同時ゆえに出現することのかなう数であるから、一は一の複数性における地平の震源的中心にほかなりません。二以上の数の出現は、一の複数性における地平の出現と考えられます。このことから、数(の出現)とは多数性における統一(の出現)であるといえるかと思います。フッサールやヴィトゲンシュタインを読み込んだわけではないので大雑把ですが。

この回答への補足

フッサールみたいな難解な哲学については言及できないんですがご回答文中の「地平」というのは例えば次のような意味でしょうか?

「能動的に意識するものは、そのつどの言う動的に意識されているものと結びついているが、それへ向かっていること、それに携わっていることの周囲には、つねに沈黙し隠れていながら、ともに作動している妥当性の雰囲気がある。つまり生きている地平がそれを取り囲み、動いている。その地平において活動的な自我は以前に獲得したものを再び活動させたり、頭角的な思い付きを意識的に取り上げたり、直観へと変更したりしながら、任意にそこに身を向けることができるのである。『ヨーロッパ諸額の危機と超越論的現象学』

補足日時:2010/08/19 21:47
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お礼日時:2010/08/15 19:44

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