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漢文はなぜ一旦古文にしてから現代語に直すのでしょうか?
よく「漢文を勉強するには古文を勉強しないと…」と言いますが
なぜその必要があるのでしょうか?

古典だから、古文に直さなければいけないのなら
シェークスピアも一旦古文に直さないといけないですよね。
ピラミッドにある文字なんて日本語に訳せないことになります。

たとえば「須…」という漢文があったとき「すべからく…(す)べし」を読み?を教え
「きっと…しなければならない」と意味を教えますが
最初から「須…」は「きっと…しなければならない」で充分ではないでしょうか?

古文が一般的だった時代に漢文を訳していた人が作り出した資産は
きっと素晴らしいものだったからかと思うのですが
それを現代語バージョンに変換できていないのは
ある意味それは怠慢ではないかとも思ってしまうのですが…。

ちなみに私は学生ではありません。
漢文を学ぶ義務も意欲も今のところ無いですが
ずっと昔からこの疑問を持っているので
どなたかお願いいたします。

A 回答 (13件中11~13件)

漢文というのは、中国の古典のことでよろしいでしょうか。


だとすると、漢文を日本語の文章として学習する際に、古文で学習し意味を現代語に翻訳するのは、漢文を引用した古文があったり、元は漢詩のものを昔の日本人が読みくだし(古文)で一般的に知っており、それを元に本歌取りするようなことがあったからではないでしょうか。

たとえば、今でも漢文の古典である四書五経を出典として、日本の元号を決めています。
昭和は、書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」から取られており、古文にすると「百姓は昭明にして、萬邦を協和す」という文になり、さらに現代語訳すると「人々が己の徳を出し合えば、世界中は平和になる」という意味です。

このとき漢文からいきなり現代文の意味にしてしまうと、百姓が人々、昭明が徳を表すこと、協和が平和で萬邦が世界中、という漢字の意味をつかみ損ねてしまいます。
漢文中の漢字の意味を説明しようとすると「百姓が人々、昭明が徳を表すこと、協和が平和で萬邦が世界中」と説明するしかないわけで、だったら古文としてもともと通用している「百姓は昭明にして、萬邦を協和す」と書いてから説明したほうが早いのではないでしょうか。

また江戸時代になると、庶民まで教育が行き渡り、寺子屋を卒業しその上のレベルになると江戸時代の人々は武士も町民も四書五経などの古典を教材に学んだようです。ある程度の知識人になると漢文を読みくだしせずそのまま読んでいたようですが、多数の人は読み下し(古文)で学んでいたことでしょう。また江戸時代は俳句が盛んでしたので、漢文からの本歌取りをすると教養人と見られていたようです。しかし教養がある、ということを見せるにはみんなが知っている程度の読み下し文から本歌取りする必要があったでしょうから、漢文よりも読み下し文(古文)を勉強しないと、俳句の本歌取りなどが理解できなくなってしまいます。

芭蕉の「行くはるや鳥啼うをの目は泪」も漢詩を下敷きにしています。本歌は「羈鳥恋旧林、池魚思故淵」です。これを古文にすると「羈鳥は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」となり、この古文を教養として江戸の庶民(といっても旦那衆など)が覚えていることで、芭蕉の句の意味「鳥は鳴いて魚は目に涙して行ってしまうもの(本歌は離別:芭蕉は春の終わり)を惜しんだ」という句の意味を知ることになります。
結局現代人がこれを理解するにも、「羈鳥恋旧林、池魚思故淵」→
「羈鳥は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」という別れの歌があって、芭蕉の句「行くはるや鳥啼うをの目は泪」が理解できるわけです。(ちなみにこの句は行く春と旅立ちがかかった二重の意味の惜別が入っています)

中国語をそのまま勉強する、またはシェイクスピアのように日本文化に影響を与えていないものなら、そのまま原文を崩さずに味わったほうがいいと思います。(俳句だって外国語にしてどこまでつたわっているのか非常に疑問ですね)
しかし、漢文は日本文化に与えた影響も大きくそれを読み下して日本の文化に埋め込んでいったという歴史がある以上、漢文・古文そして現代文とすべて学ぶ必要があるのだと思います。
また「漢文を勉強するには古文を勉強しないと…」というのは逆で、古文には漢文からの引用やメタファーがたくさんあるので、古文を理解するには漢文の素養が必要だ、ということだと思います。

この回答への補足

>漢文というのは、中国の古典のことでよろしいでしょうか。
これについてはよくわかりません。
高校で「漢文」と呼ばれているもののことです。

昭和の年号についてですが、「昭明」「萬邦」は古来の日本でも
さほど使われていないような印象がありますが、いかがですか?
(「百姓」も古文では見かけないような気がしますが…)。
だとすれば、わざわざ古文を経由する必要は無く、現代語で
「百姓が昭明であって、萬邦を協和する」として良いように思います。

芭蕉の例にしても「羈鳥は旧林を恋して、池の魚は故淵を思う」と
漢文を訳すことでも充分に理解可能だと思います。

>古文を理解するには漢文の素養が必要だ
古文のための漢文という位置付けですね。
これはあまり考えておりませんでした。

補足日時:2010/08/20 00:35
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現代語に直す時は、質問者さんの仰せの通り、漢文をそのまま現代語訳すればいいのです。



現代語に直す時、古文に直して、それを現代文に直す必要はまったくないのです。

ただ、漢文を「漢字仮名交じり文」に直す時は、古文の文法に従って書き下すのが、現在の考え方です。
日本の国語で扱う漢文は、中国の古典です。なので日本の古文(漢字仮名交じり文)に直しているのです。

>たとえば「須…」という漢文があったとき「すべからく…(す)べし」を読み?を教え
>「きっと…しなければならない」と意味を教えますが
>最初から「須…」は「きっと…しなければならない」で充分ではないでしょうか?

「須…」という漢文があったとき、現代語訳するときは、あなたがおっしゃる通り、
「きっと…しなければならない」と現代語語訳していいのです。

書き下し文(漢字仮名交じり文=古文)に直す時は、
「須らく…(す)べし」と古文の読み方の作法に従います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
では、なぜ書き下し文は古文の文法に従うのでしょうか?
また高校で書き下しを教える必要性がなぜあるのでしょうか?
言文一致からもう百年も過ぎようとしているのに…。

補足日時:2010/08/20 00:21
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「漢文」 は、古い中国の文献ですから、日本でいえば 「古文」 に相当するものだと思います。


そういう意味でも古文の調子で読む方が趣があるし、格調があるように感じられます。

また、日本語の古文の方が、語尾変化などが簡潔で、すっきりしています。
「子の曰うとことでは」 などどまどろっこしいことをやるよりは 「子曰く」 の方がはるかにすっきしとしています。
だから、リズミカルで、暗誦にも適しています。お経なんかでも、「色は空に異ならないもので・・・」 などとやってたら、締まらないものに感じられるのではないでしょうか。
日本の短歌や俳句だって、リズムがあることが、人口に膾炙する原因ではないでしょうか。

ただし、現代の中国語を日本語にする時には、そのまま現代の日本語に訳すのが普通だろうと思います。
「漢文」 は、あくまでも中国の 「古典」 としての扱いですから。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

>「漢文」は、あくまでも中国の「古典」としての扱いですから。
は質問文にも簡単に書きましたように
ピラミッドにある文字を通常は古文に訳したりしないと思います。
そもそも時代が合わず、当時の日本語なんてわからないですよね。
なぜ漢文だけを古文で和訳するのかとても不思議です。

>日本語の古文の方が、語尾変化などが簡潔で、すっきりしています。
現代日本語の無能な点は薄々理解しております(形容詞の命令形が無いなど)。

>「子の曰うとことでは」 などどまどろっこしいことをやるよりは
>「子曰く」 の方がはるかにすっきしとしています。
漢文を勉強する人の多くは、少なくとも学校教育では
その「まどろっこしいこと」をやっており
逆に暗誦したりリズムを楽しんだりは殆どないと思います。
また暗誦する人よりも学校教育で苦しめられる人のほうが
人数としては多いように感じますが…。

補足日時:2010/08/19 18:32
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