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孟子 ―王道― の「則無望民之多於隣国也」の「則ち民の隣国より多きを望むこと無かれ。」 という書き下し文で、無かれは何形でしょうか?
古文では形容詞命令形だと思うのですが、漢文でも命令形なのでしょうか?
また、也は置き字となっていますが、無かれ(直前の単語)が命令形の場合、だいたい「也」は置き字となるのでしょうか?

A 回答 (3件)

 長らくお待たせして申し訳ありません。

先日の宿題の件でお話し致します。
先ず原文の「王如知此、則無望民之多於隣国也」を「王如し此を知らば、則ち民の隣国より多きを望むこと無かれ」と読み下しているケースですが、これはおかしいですね。
 「如し」を「もし」と読むのは妥当ですが、全体は「王、如し(も・し)此を知らば、則ち(すなは・ち)民の隣国より多きを望む無き也(なり)」と読み下すことで、「王がそのことをお解りでしたら、人民が隣国より多くなることをお望みになりますまい」として孟子が梁の恵王の問い掛けに応えている形です。質問に対する回答ですので、命令形との解釈は成り立たないこととなり、読み下しが誤っていることになります。
 文末に置かれている「也」はこの場合「なり」と読んで、「~である」との断定の機能を果たしています。
 古文の感覚をそのまま漢文に持ち込んでしまったがゆえの誤解でしょう。

ついでですので、この文章に続く部分を釈読してみます。
【読み下し】
「農時を違へずんば、穀勝(あ)げて食らふべからざるなり。数罟洿池(そくこをち)に入らずんば、魚鼈(ぎょべつ)勝(あ)げて食らふべからざるなり。斧斤時を以て山林に入らば、材木勝(あ)げて用ふべからざるなり。穀と魚鼈と勝(あ)げて食らふべからず、材木勝(あ)げて用ふべからずんば、是れ民をして生を養ひ死を喪して憾(うら)み無からしむるなり。生を養ひ死を喪して憾(うら)み無きは、王道始めなり」
 
 【通釈】
「農繁期を避けて人民を徴用するならば、穀物は食べきれないほど獲れるでしょう。目の細かな網を池や沼に入れなければ、魚やスッポンの類は食べきれないほどに増えるでしょう。(伐採のための)斧は一定の時期にだけ山林に持ち込むならば、木材は使いきれないほどになるでしょう。穀物と魚・スッポンなどが食べきれず、木材が使いきれないほどになれば、人民をば、生活を安定させて死者もキチンと弔い祭らせて、何も不満を持たせずに済むでしょう。人民が安定した生活を送りきちんと死者を弔うことができて不満を持たぬこと、これが王道の始めです(王道は民心を得ることを根本とすることに第一義があり、安定させることによって王道に則った政が始まることとなります)」

※句形としての「~ずんば…ず」の形は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の故事として既に学習されているかと存じます。漢文の読み習わしとして「~ずんば…ず」がある、とのことを頭の片隅にでも置いていただければ幸甚です。
 また「読み下し」を調べるならば、典拠と実績が明確な『漢文体系』などスタンダードなものを参照されることをお薦めします。
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書き下し文というのは結局のところ日本語なので、「無かれ」の品詞・活用はと聞かれるとその通りです。


もし書き下し文ではなく、原文の漢文そのものについて、つまり「無」という中国語についていうならば、中国語に品詞の区別は無きに等しいですし(少なくとも古典では)、活用は無いので命令形は存在しません。

また「也」は基本的には断定の意味の助辞(日本語でいう「~だ」)として使われますが、実際のところ疑問文でも否定文でも用いられます。誤解を恐れずいうなら文の強調と捉えてもかまいません。
そういうわけで、「無かれ」の様な命令文だからといって必ず「也」が来るというような決まりはありません。
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 こんばんは、質問に続けて答えさせていただきます。


先ず漢文の「句形」と、古文の品詞の理解を同列に並べるわけにはいかないことをお話し申し上げます。
先程もお話ししましたが、漢文を漢字仮名交じりの書き下しにした場合は、「日本語として自然に感じる」ことを前提とします。
 結論からいえば、漢文の句形で使われる「無」は「莫」「勿」と同様です。日本の文章ならば「~するな」として禁止を示す句形に使われる文字です。命令ではありません。
 用例として「寧為鶏口、無為牛後」(寧ろ。鶏口と為るとも牛後と為ることなかれ=いっそ鶏の嘴や鶏冠になることはあっても牛の尻尾となることは決して褒められたものではない)などが典型的です。
 置き字に関しては改めて回答させていただきます。
 
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