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禅(精神統一)とは何か、皆様の見解を教えてください。

私は、「無念無想」の境地で、見ず、聞かず、感じずの状況と思っています。
得られるものは、その境地に達したものでなければ分からない。
違うのかな?

A 回答 (18件中1~10件)

あなたはすでに、答えを見い出しています。


他人に質問する必要はありません。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6125920.html
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
私の考えは私だけのものかなと少し心配になりました。
世の中の人はもしかして違う見解なのかなと疑問に思いました。
それだけです。

お礼日時:2010/08/27 18:56

> 心理学者の逃げのような気がする。

所謂、うつ病患者に最適な暗示を掛けられない、

心理学者に興味はないので、心理学者が何と言うかは知りませんが、
達成感の積み重ねなどの行動療法をメインに併せた場合のみ、催眠術の施療の余地はあるでしょう。副次的にです。
行動療法が適していると判断できる患者の、しかも、行動療法がスムーズに進まないといったケースですね。

> 坐禅10時間
> その境地に達した人なら5分位で出来るものと思っていました。

何をですか。
 
坐禅は坐禅。
瞑想は瞑想。 
日常を作務で充たして無念無想。

空ける(うつける)は空ける(うつける)。
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この回答へのお礼

再度回答有難うございました。

>坐禅10時間
>その境地に達した人なら5分位で出来るものと思っていました。
うつ病患者に座禅10時間させるアイディアかと思いました。禅の境地までいかなくても、取り合えず何も考えない境地に達するだけで十分と思いました。
なれたら、5分位でできるかなと。

お礼日時:2010/09/04 21:34

少し加筆させていただきます。



お話した維摩経の一節は、渡辺照宏著「お経の話」に載っているものです。
ご一読をお勧めします。
大乗の利他行を重視した菩薩の境地なのだと思われます。
見事な働き・・とはその事ですが、方便というものの有り様は説かれていません。
沈黙による不二の法門の暗示で終わっています。
それが禅門らしさでもあるように感じ取れます。
実際の方便における展開は、この後の密教分の教えに入るのだと思われます。

救済の働きを示してこそ、真の瞑想にふさわしい・・・と維摩は言いたかったのでしょうか?
しかし、凡智から見れば、余りにも高い境地でもあるように思われます。
この世界に身も心も現さずに・・・とは生死を超越して、とも取れます。
全く人々に知られる事なく、人々への利他行を実践する・・・とは・・・気が遠くなりそうなほどの高い理想のようにも思われます。
成仏の先の実践そのものが真の瞑想であるという事なのでしょう。

禅門の印可は成仏の証として与えられるものなのでしょうが
そのあたりから上の世界においては、前述した客観性の確かさがないと進めないもののようにも思われます。
いわゆる、師子相伝の世界かもしれません。
密教においては潅頂という形で直接の伝授がありますが、こちらも上に行くほど客観性が厳しくなってくるようです。
客観性の内容とは、如来の智慧と慈悲の心でもあるように思われます。
禅門では智慧を重視しているようですが、密教になると、さらにその上に慈悲心による方便を展開してゆくようです。
成仏の上の世界です。
それは、この現実の世界に戻って来る事も含んでいるようにも思われます。

瞑想の帰結において見えてくる現実の世界とは、どのようなものなのでしょう?
きっと私達が見たり、感じたりするのとは、全く違っているのかもしれませんね。
同じ世界に住んでいながら、そうした見方をされている方がおられるのかもしれません。
ご精進をお祈りいたします。
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この回答へのお礼

再度回答有難うございました。

ここまで、奥深いものとなると難しくなりすぎて瞑想に入る前に挫折しそうです。
でも、頑張るしかありません。

お礼日時:2010/09/04 21:27

ヒントになれば幸いですが・・・



禅宗の印可が与えられるのには、見性という悟りを得ている事が条件とされていますが
どの段階の三昧を体験しているものなのか、といった事とはまた違ったもののように思われます。
想いも無く、想いが無いという想いすら無い・・・という非想非非想処の境地でさえも、見性とは違うのでしょう。

三昧の状態は主観的な見方しか出来ないように思われがちですが
禅においては、言葉以前に三昧の状態が伝えられてしまうところをみると、確かな客観性があるように思われます。
でなければ、印可そのものが有り得ないものになってしまいます。
三昧の状態を客観視できなければ、印可を与える資格も無いという事にもなります。

>その境地に達したものでなければ分からない。
その通りだと思われます。

また、見性といわれる悟りでさえも、その先にある世界が深いもののようにも思われます。
維摩経に
この世界に身も心も現さずに、見事な働きを示すのが瞑想である・・・と説かれていますが
これは、悟りの自内証の自受法楽に留まることへの戒めであり、利他行の中に真の瞑想があるという事でもあるのでしょう。
ここにおいても、三昧の客観性が見られると思われます。

自らが得た三昧や、見性と思われるものにしても、その客観性が大切だと思われます。
道元禅師が海を渡ったのも、その答えを出してくれる師を求めての事だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

>この世界に身も心も現さずに、見事な働きを示すのが瞑想である
この境遇をあてにしています。

お礼日時:2010/09/03 19:06

禅は、精神統一ではありません、精神分散です。

何処にも心を置かない事が、禅の主張する処です。何処にも心を置かないと云う意味は『意識していない時』と云う意味です。

東洋の思想『無の境地、或いは無念無想』とは、意識がないという意味では在りません、『意識が在りながら、その意識には囚われていない』と云う意味です。

没我のときと云う言い方も出来るかも知れません。無の境地は『自分が無くなってしまう事では在りません』自分が物となって働いている時です。すなわち自分が自分の意識ではない者で働いている時の事です。

言い方を替えるなら、意識と無意識が交替が終わって、自我意識がすっかり無意識に身も心も預けきった状態の事です。その時に道に至った人は、自我意識が無意識の自分のする事をみる事が出来た人の事です。

意識と無意識が一つになって働く時、無念無想と言います。その二つの意識が出会う事を『見性』と言います。禅は、自分の存在の秘密を明らかにする事です。言い方を替えるなら、自我意識が自分の実存と手を取り合うことを教えています。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
>禅は、精神統一ではありません。
そうですか、では今後禅をすると表現を変えます。

>意識と無意識が一つになって働く時、無念無想と言います。その二つの意識が出会う事を『見性』と言
>います。禅は、自分の存在の秘密を明らかにする事です。言い方を替えるなら、自我意識が自分の実存
>と手を取り合うことを教えています。
現在、何も考えない境地に達していますが、何も考えない自分がいます。

お礼日時:2010/09/03 19:00

 ANo.13


 あぁ私の勉強と経験をご参考までに投稿しました。
 お役に立たずに申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
大変参考になりましたよ。
皆さん大変な思いをして会得されているんですね。
何も考えない状態を最低30分継続できるように頑張らなくちゃ。
それからですね、心を五感から解き放つのは。

お礼日時:2010/08/31 17:42

 ANo.12人それぞれですね。

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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2010/08/31 17:38

 ANo.11 無論、呼吸はなくなっている。


 パタンジャリのシュードラでの先の説明ですが、プラチャハラから頭蓋骨にいくので、此処から先に三つのものが続きます。
 ディアーニ、ダラニ、サマディ。以上補足。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

呼吸がなくなったら間違いなく死でしょう。自然科学的に。

お礼日時:2010/08/30 09:36

 ANo.6


 一ヶ月?
 ここにいくには、ヒンドゥの教えでは、ヤマ、ニヤマという生活的、道徳的そして社会的自分を形成し、アサナという人間としての身体的、精神的姿勢をきちんとし、それからプラナヤマという自分の意識と生命を操縦する行を積み、そしてプラチャハラという自分を根源にむけることです。(解説は門外の方に通るようにしてあり、内部的にはそういうことばでの説明ではない)。
 ここまで、10,30年のひともおり、3,5年のひともおります。
 
 いいわすれたけでど、自分と世界がなくなるし、体温は低下し、夏でも暑くなくなる。
 心頭滅却(火なお涼し)っていうのだろうけど、それが一ヶ月というのはもう釈尊もびっくりでしょう。
 冬でも戸は開け放してやる。
 雨でも風でも、戸外で一定の行の後にやる。
 行そのものがもうそれ自身だということでしょうね。
 

 
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この回答へのお礼

>心頭滅却(火なお涼し)っていうのだろうけど、それが一ヶ月というのはもう釈尊もびっくりでしょ
>う。
ある人は、1分でその境地に瞬間持って行ってあげるといいました。
30秒でその境地に達した記憶がありますが、今は駄目。パチンコ店で何度か陥った記憶があります。
あのうるさい中、何にも聞こえなく何も感じなくなってしまうのです。数回ありました。理由は、集中しすぎ!
信じてやれば出来ます、貴方でも。出来ない出来ないと信じている以上絶対できません。
この意味がしっかり分かれば出来ます。

>冬でも戸は開け放してやる。
>雨でも風でも、戸外で一定の行の後にやる。
こんなことする必要があるの?
クーラーが効いた涼しい所でトライしています。

お礼日時:2010/08/30 09:34

> 私の理解を超える抽象的な話には耳、心を傾けても理解できないのです。



今寄せられている回答の中では、夫についての話は具体的で平易だったと思いますよ。。。
抽象的な話はこれからします。

miko-desiさんが放下着を平易な言葉でお書きになっています。
放下着で云う捨てることは留まれないことになるので、
前後際断といっても、あとさきを消し去った今ここは、滅して滅して滅し尽くしてしまいます。
足元から瓦解するところを、あとさきもあてにせず歩き続きているのだから、何一つ既成概念に寄りかかれないのですね。
五官から脱するということをそのまま感覚器の麻痺として捉えずに、
五官をとおしてやってくる認識と概念を脱すると捉えてみてはいかがでしょうか。

> 自由に得る方法は何でしょうか、先に教えてください。

得ることが自由にあるんです。自由に得るのでは飴玉の掴み放題みたいなことに。
方法をとおさずに。。。
方法というのは目的が決まった時に決まってしまいます。
方法と目的はセットというわけです。
だから、願いを定め、目的は動かし、さらに方法を逃れる、ということは、
得ることを自由にしていくコツである、と言えるかと思います。
一休さんも、良寛さんも、そんな柔軟性があったのかもしれませんね。

> 昔、催眠術でうつ病を治そうとしていたが駄目と言うことに成ったと聞いています。

催眠術というのは本人がそうしたい・そうありたいと思うような自己像にしか持っていくことができません。
うつは、自己焦点化をネガティブ・イメージによって繰り返してしまっている症状です。
自分と自分との一致が、達成できないとか失敗するなどの自己イメージで結びついており、そのぶん出来るものも出来なくなり、悪循環に陥ってしまいます。
ポジティブ・キャンペーンを催眠術師が吹き込んでも、ポジティブな自己焦点化を果たせないのがうつのうつたる所以です。

> 禅も有効なのではないかと思っていました。誰かに試すことはされていないのですか。

坐禅を10時間も続けられる患者さんなどいませんから、実際のところ試せないでしょうね。
本格的に入門などしてしまったら、余計うつがひどくなる気がしますよ。
参禅くらいはやっておられる方もいるようですが、気分が落ち着くとは思います。
それでいいのではないですか。それで薬を変えたり減らしたりする助けになっていけば。

応答をいただいても見られるのは3日後になります。すみません。
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この回答へのお礼

>五官をとおしてやってくる認識と概念を脱すると捉えてみてはいかがでしょうか。
そう思っております、信じています。

>ポジティブ・キャンペーンを催眠術師が吹き込んでも、ポジティブな自己焦点化を果たせないのがうつ
>のうつたる所以です。
心理学者の逃げのような気がする。所謂、うつ病患者に最適な暗示を掛けられない、各個人への最適な文言を思いつかない。

>ポジティブな自己焦点化を果たせないのがうつ
ここまで分かっているなら出来ると思いますが。

>坐禅を10時間も続けられる患者
その境地に達した人なら5分位で出来るものと思っていました。
初心者は、せめて”考えず”の境地に直ぐなれるでしょう。自己暗示でね、

お礼日時:2010/08/30 09:22

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