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アフガン侵攻が行われたころの1979年、ウイグル自治区の独立組織が独立を宣言しソ連軍の支援、介入を求めたらソ連はどう動いていたでしょうか?

補足 なお、アフガン侵攻がまだ行われていない頃とさせて頂きます。

A 回答 (3件)

介入しなかったでしょう。



1979年つーのはまだ冷戦の真っ只中です。米ソが激しく対立している最中に、一応同じ社会主義を掲げる中ソが全面戦争にもなりかねない対立をするのはアメリカを喜ばせるだけです。
それに、パキスタン・インド方面への楔にもなるアフガン介入に比べると、ウイグル自治区への介入は戦略的にもほとんどうまみはありません。

そもそもその地域でクーデターが起こり、隣国の支援を求めたとしたら、それは当然元からその隣国の情報機関が裏で糸を引いているということになりますね。一歩間違えば核戦争にもなりかねないそんな危険な作戦をいかなKGBとはいえ企画するとは思えないし、ソ連首脳がそれにGoサインを出すとも思えません。当時ソ連は冷戦でジリ貧となっていましたし、中国は文化大革命の後遺症に悩んでいる最中でした。一歩間違えると双方とも国家そのものが揺らぎかねない危険があります。

もし仮にそういったことが発生(独立組織が独立を宣言)しても国際社会はそれを無視し、中国軍が大規模に介入して鎮圧し終了となるでしょう。
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大規模な軍事介入はしなかったでしょう。


武器援助と、密かに軍事顧問団を送る程度の事をしたと思います。

当時、ソ連がもっとも憂慮していたのが、NATOと中国との二正面での戦いになる事だったと言われます。
特に、当時はソ連が中距離核SS20を配備し始め、これに脅威を感じたNATO諸国が対抗策として、パーシング2の欧州配備をアメリカに要望するなど、欧州での対立と緊張が高まっていました。
中ソ国境でも国境紛争、中国軍とソ連軍の衝突は大小あわせて、後に公表された数では4600回(中国側発表)とか3800回(ソ連側発表)とされ、かなりの衝突がありました。
また、1979年1月1日付けで、米中の国交が樹立、米中国交正常化がなされ、対ソ連のための米中結束が促進されていました。中国は鄧小平の時代で「改革・開放」路線となり、国力を飛躍させ高めようともしていました。
ソ連にとっては対ソ包囲網が着々と形成されていく困った政治情勢です。

しかし、だからと言って中国と本格的な戦争になるのはあまりにも危険が大きすぎます。
中国軍は兵器は旧式なものの、兵力だけは大きく当時は陸軍だけで約360万人以上の兵力がありました。これはソ連陸軍の2倍の兵力です。
中国も対台湾、対ベトナム、対インドと周辺諸国との問題があるため全力を対ソ連につぎ込めるわけではありませんが、それでもかなりの戦力を対ソ連に振り向けていました。
もし戦争するなら、これを打破するのはソ連軍としてもかなりの兵力を必要とするでしょうし、短期間に決着は付かないでしょう。
NATO、特にアメリカの脅威があるソ連にとって、大規模な軍を長期間に渡り派遣し戦争するのは困難だと思います。
中国からしてみれば新疆ウイグル自治区は天然資源の宝庫で手放したくない地域ですし、下手に手放せば他の地域でも影響を受けた民族が独立運動を展開する可能性が出てきます。独立は許さないでしょう。
当時、新疆ウイグル自治区に配置されていた中国軍は11個師団です。これを撃破するのは短期間では無理でしょうし、増援もすぐ送られてくるでしょう。アフガニスタンに侵攻したようにはいかないでしょう。

ですが、そのまま中国が力を付けていくのはソ連にとっても不利になるばかりです。
ウイグル族が独立を望むなら、それに少しだけ手をかし、ソ連が大きな痛手を負わないよう中国の力を削ぐ方策をとるのではないかと思います。
1979年は中越戦争が起こった年でもありますが、やはりソ連は本格的軍事介入はせず、ベトナムに支援だけを行っていました。
ウイグル族がソ連に支援を求めても本格的な軍事介入は避けると思います。
武器援助や軍事顧問はソ連が第三世界で影響力、勢力を広げるのに使った常套手段です。そういう手段をとるのではないかと思います。
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1979年に米中国交が樹立されたので、ウイグルに介入すると


ソ連は米中2大国を敵に回す危険が非常に高くなります。
ので、ソ連が軍を動かすことはないでしょう。

これが10年前の1969年で中国が外向的に孤立していた頃なら
ダマンスキー島紛争のように、ウイグル介入も有り得たでしょう。
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