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涅槃とは自然への同化・・真言へのアプローチ

それは死をもって終わるのではなく、根本生命への回帰なのでしょうか?
全ての事象は根本生命そのものであり、また現れなのかもしれません。
とすれば、事象に対する解釈そのものの中に精神性が閉じ込められている、のだとも言えそうです。
自然を抜け出し、相対しているという知性の働きは、実は幻想であり
自我の思量の範囲において自らの位置付けをしているのに過ぎない・・・ものなのかもしれません。

思量の殻を破る有効な手立てとして真言が上げられると思いますが
そこに於いての働きの解釈もまた限られた範囲に留まる事から、今日に至るまで訳されずにきたのでしょう。
訳せぬもの、訳してはならぬものが真言であり、唱えてこそ入れる世界への鍵となるものです。
既に無相の真言の現れが、全ての事象であるという解釈もできるかと思われますが、体験を経た上でなければ危険であるとさえ思われます。

以上の点について、事相面に精通された方のご意見をお待ちしています。

A 回答 (8件)

 ANo.6:私ももう少しで75ですから、人生の過半分を過ぎましたかね。


 だから、50,60代のようにあっちこっち活動して、時間とエネルギーを浪費しないでほんとうのことをじっくりやろうとしていますよ。
 いえ、しっかりやるには真剣であれば教えの本当のことが伝わってくる(分るのでなく、伝わる)し、本当の方にお会いできます。
 生身の師だけが師ではない。
 血の灌頂なんて知りませんが、やっているとだんだんそうされていきます。
 マントラや結印が同とは言いません、これは一つの道ですからね。
 私もそれは健康にも、自分をしっかり持つためにもよかったですよ。
 しかし、私はヒンドゥの哲理という少し自分の幼い時(三歳くらいから)の思考に合致するものに、出会いそれに回帰しただけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
人生の宿題に迷いなく取り組めるという事は幸せな事ですね。
私も見習いたいものです。
血、と言ったのは譬えで、これも覚知的表現です。

現実に困っているのは、私自身の時間的な感覚においての因と果の情報の交錯にあります。
それは自然を媒体とした明らかな情報として、私個人にのみもたらされているものです。
単なる主観として一蹴されてしまうものでもありますが、私自身においては、のっぴきならぬ現実そのものでもあります。
易の教義も参考とする有効な方法かもしれませんが
根本から解くためには、私自身に合った方法としての真言門がすでに提供されているように感じます。
やはり宿題なのでしょう。
師は既に決まっています。(おそれながら)
事相面での参考とすべき事を広い範囲から掬ってみたい気持ちでもありました。
或いは哲学的に扱える範囲ではないのかもしれません。
ご理解していただける事を信じて、以上をお礼に代えさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/26 11:06

 へたのすけさん お早うございます。



 ブラジュロンヌですが ひとつお聞きしたいです。

 即身成仏はどうなったのですか?

 とげは瞬く間に抜かれるのではないですか。その患部が癒えて行くには その度合いに応じてときがかかるでしょうけれど。

 ということは まだまったき姿になっていなくとも すでにえらそうにものを言ってよいのではないでしょうか。

 またえらそうに言えなければ まだ即身成仏に到っていないことになります。
 ということは その段階ではすべて 憶測でものを言っています。
 いちばんいぢの悪いたとえを用いるなら それは 群盲象をなでるということになります。
 ということは けっきょく――もしそういう段階であるならば―― テクストをしっかりとまなびあって行くことが いちばんの近道になるのではないでしょうか。

 師からの直伝が筋であるともおっしゃっていますが ともかくその師匠は 即身成仏を得たのですか?
 得たのなら 果分可説でしょうから 一般の人びとにも努力して読めば分かるというかたちでその境地の内容を言葉で明らかにしているはずです。

 どうもそういう方面においても 矛盾のようなことが見え隠れします。というのが 率直な思いです。

 ブディズムにいいものがあれば活かしたい。なければきちんと批判しておきたい。
 この思いのみです。



 これだけのことを言うのなら もっとえらそうなことをしっかりと言っておかなければウソだという声を聞いて 述べます。
 ★★ (No.4お礼欄) ご教示の例文は、秘鍵の中の、即身に法如を証す、という箇所と宗教的な比較が可能と思われます。
 ☆ 言い慣わした文句を用いるなら心を鬼にして言うということですが この《即身に法如を証す》――そう言えば ここにも《即身成仏》の素がありましたね――という説文は あまりにも《分析的》です。非実践的です。《法如》とは何かという問いがただちに飛びます。
 あとはわたしが《秘鍵》をしっかりとまなび切らなければ駄目だという声が残っていますが。

 とにもかくにも へたのすけさんはまだやわらかなお考えを運んでおられるようではありますが この日本の仏教は――学問としての研究は一流もあるでしょうが またブッダのあとの実践と思索にも目を見張るものがあり足元にも及ばないと思いつづけていた頃がなつかしいですが―― おそらく人びとの気持ちを少しづつ徐々に徐々に 蕎麦の延びたものにしていくことにしか役に立っていないのではないか。
 みづみづしさのかけらもないと考えます。いかがでしょう?
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この回答へのお礼

どうしても引きずり出してみたいのですか?
アプローチの段階にいる人間にとっては酷な事でしょう。
多くの論を重ねても空しいだけのように思えてなりません。
であればこそ事相面での問いにさせていただいたのです。

言葉の解釈は、最後はその人の体験によって決まってくるのでしょう。
即身成仏という言葉の解釈も同じだと思われます。
私にはまだ遠い世界です。
しかしながら、全く見えていないわけではないのです。
仮に私が見たものを提供したとしても、その事に何の意味があるのでしょう。
逃げではありません。
まだ私が未熟であるという認識がある以上は、控えるべきものでしょう。
それが信じる教えや人に対しての礼儀でもあると思います。
ブラジェロンヌさんと論を交わせば、それはそれで楽しく有益なものになるかもしれません。
しかし、論の範囲に留まってしまうように思えてならないのです。
人生の宿題であればこそ、論以上の世界に踏み込まなければならないものと思っています。
踏み込んだ上で、また許される範囲でお話をさせていただければと思います。
その機会があれば幸いです。
お元気でお過ごしください。

お礼日時:2010/10/26 11:47

 私も真言宗のことをやっていたとき、ヘタノスケさんやブラジュヌロンヌさんのような難しいこととしてではなく、偉い人に聞いたら、意味はないというご返事でした。


 私も少しは拘りましたが、どうしようもありませんでした。
 真言って、この私達がwakefulでいる界の言語的意味を問題とされているとしたら、真言という特有のvibrationをもたらす祈り行為そのものが、仰せの無なる相界とこの事相界の媒介者なのか、或いはもう事相界のもので、其処に存在し其処の意味と機能であるものなのかですね。(無相や事相ってことばを誤解しているかもしれませんが。)

 私も今はヒンドゥの哲理の勉強と精進をしており、マントラについての説明と称えるというより一体になる行もあります。
 それは多分仰せの無相という界の根底のものであり、無論事相の界という架空界を見切る行でもあります。
 唯一の真言は根本存在の観念の発出で、多数の真言それからのものでしょう。
 そういうvibrationの真言の発見発明は一定の聖人者によるのでしょう。
 そういう真言のこの世での言語的意味は表現し難いと存じます。
 ただ無なる相界における働きとしての、無なる相界での意味はあるでしょう。
 そういう機能と意味は言葉での把握ではなく、行でわかってくるものだと存じます。
 真言、マントラですか?このお称えは自己のどういう意識面でどのように唱えるかが大事ですよね。
 それはやはり師からのお伝えがなければ、何の意味も機能もないでしょうね。
 伝えてくださるお方から頂かないと。この世の言葉ではないですね。
 ご質問はなんとか漠然と理解できたかも知れませんが、ブラジュヌロンヌさんのご回答はとても難しくて私には三分の一もりかいできていないので、見当違いの回答投稿かも知れませんが、私の学んでいることをご参考までに提供申し上げます。
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この回答へのお礼

>そういう機能と意味は言葉での把握ではなく、行でわかってくるものだと存じます。
>それはやはり師からのお伝えがなければ、何の意味も機能もないでしょうね。
やはり直接の、即、の世界なのでしょう。
血の灌頂とも言われるくらいですから・・・
薄々とそうは感じています。
アプローチの段階から先へ行くかどうか、少し迷う時間が生まれそうです。
残り時間を気にする年になってしまいましたので、余りいつまでも迷ってはいられないのですが・・・
ご助言ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/25 20:52

hetanosukeさん




>訳せぬもの、訳してはならぬものが真言であり、

⇒個人的な考えです。
 訳して、意味を理解して、粘り強く唱えることにより、真言に命が注ぎ込まれるものと考えています。真言を音として唱えているだけでは、百年たっても得る物は無いと考えています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>訳して、意味を理解して、粘り強く唱えることにより、真言に命が注ぎ込まれるもの・・・
三密行の見方からすれば、意密の大切さが、語密以前の前提となるように思われます。
その場合においての真言の解釈の範囲をどう扱って臨むのかが問題であるように思います。
つまり、行、以前の段階においての観想の内容の決定についてです。
おっしゃるように、観想を伴わない行は不毛の結果に終わるでしょう。
観想の内容については、先達からの伝授によるものなのでしょうが
前述したように、覚知的といいますか、即、と言い切れるほどのできるだけ簡潔な内容であるべきだと思います。
一字に千理を含み・・・という事からすれば、推し量ろうとする事よりも、大意のみの簡潔な観想をもとに行に臨むべきものと考えます。
意密の大切さには私も同感です。

お礼日時:2010/10/25 20:31

 たぶん最後になると思います。

No.1&3です。

 ひとりの人のひらめきの事件についてしるします。
 ★ 高度な覚知的表現
 ☆ とうかがって想い起したものです。ただし ちょこっと趣きが違うようでもあります。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そのときはるかに高いところから

    私はおとなの食物だ。

    成長して私を食べられるようになれ。

    食べると言っても 肉体の食物のように

    おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

    逆に おまえが私に変わるのだ。

 というみ声を聞いたように思いました。

  (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 なお
 ☆☆ (回答No.3) 仮りの言葉としての真言のネットワークが姿を現わしてくるなら たしかに《根本生命の現われ》であるでしょう。
 ☆ 社会において持たれるようになる言葉は 《ほんものの真言》の仮りの現われであるでしょう。と思います。
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この回答へのお礼

再度お答ありがとうございます。
失礼ながら、覚知的表現というものをご理解していただけた事を嬉しく思います。
また、意地悪く、たこ壺的とおっしゃりながらも暖かい包容力を示していただけた事を感謝いたします。

ご教示の例文は、秘鍵の中の、即身に法如を証す、という箇所と宗教的な比較が可能と思われます。
有難うございました。

お礼日時:2010/10/25 19:59

 No.1です。

へたのすけさん あらためまして こんにちは。ご返答をいただきありがとうございました。

 修行としてわたしは手に印をむすぶということをしたことがありません。つつしんでそのお事割りをしたうえで もうひとことお伝えいたします。

 ★(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 ただ、ここで私が一番お聞きしたい事は、質問文を転ずれば
 ( a ) 一元論から見た世界観と
 ( b ) 真言の有効性についてです。
 ( c ) その事相の有り方と本質について、≫果分可説≪ の立場からアドバイスをいただければと思いました。

 ( d ) 相に即して無相に入り、無相に即して無限の有相に展開してゆく、という事相面からすれば
 ( e ) 人間社会の全てをも包み込んでしまうようにも思われます。
 ( f ) その実証は空海によって明らかでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ( a ) 世界観が《一元論》であることは どこからも押しも押されもしない常識であると思います。
 ( b ) 《真言の有効性》については 
 ★ 訳せぬもの、訳してはならぬものが真言であり、唱えてこそ入れる世界への鍵となるものです。
 ☆ をめぐって考えるところを述べますが まづ《シンゴンという言葉》あるいは何らかの具体的な《祈りの言葉》は 事相と無相との橋渡しとして仮りのものです。
 さらに断定口調ですすめますが 《いま・ここにあるわたし》が無根拠において根拠づけられた――つまりあるいは心がやわらがしめられた――そのあと その事件の起こったという証拠として発する言葉であると捉えています。最初の発声としてはです。
 それはおそらく空海〔の体験とその証言〕をも超えて――つまりそれは 事件の中身を争うものではなく そうではなく 空海対わたしではないということ 無根拠対わたしだということを意味するものですが その空海を超えて―― 湧き起こる出来事であると捉えています。

 ( c )の《果分可説》は このひらめきの体験を言葉に表わすというのは やはり仮りの言葉として《説き得る》のだという立ち場をつらぬきたいと考えます。さとりについての言葉は 代理表現であるに過ぎないのだと。

 ( d )( e )の主題については すでに( a )~( c )までの事柄の中に含まれていると思われます。
 《果分》を得たわたしは それを与えられたと捉えていると思います。よって 《無根拠》によってわたしは覆いつつまれている。網で掬われている。そのとき社会の中に わたしという位置関係を得ていると思われます。誰しもがそうであるとわたしは見ていると思います。目に見えないサンガの中にあるのだと。

 そのときには ( f )について敢えて述べれば ひとり空海が特別の位置づけを得ているとは思われません。空海もわたしもあなたもかれもかのじょもそれぞれ見えざるサンガのひとりであるという位置づけだと信じます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ・・・根本生命への回帰なのでしょうか?
 全ての事象は根本生命そのものであり、また現れなのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 仮りの言葉としての真言のネットワークが姿を現わしてくるなら たしかに《根本生命の現われ》であるでしょう。つまりその社会性において 一人ひとりの《果分》体験についての里程標をしるしづけてすすむものと考えます。
 そのとき根本生命のほうは――へりくだりの名人ですから―― 背景へとしりぞいてしまっていることでしょう。
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この回答へのお礼

有難うございます。
いつもながら柔軟で多様性に満ちたご見識には恐れ入ります。
さて
果分可説においての言葉は、仮のもの、という要素を排除できない事を踏まえた上での表現なのでしょう。
それでも、真理の概念化は可能である、という事なのですが、この辺がある意味では大変面白いところなのかもしれません。
実修を重んじた空海にして言い切れた事ですが、対照的に教論を重んじた碩学の人達には無理であったという事です。
見方を変えれば、果分可説というものを実修を抜きに軽々しく受け止めるべきではない、という事にもなりましょう。
また、その言葉が指し示すものを理解するのは容易ではないと知るべきなのかもしれません。
真理の概念化は可能であっても、概念表記の言葉からどこまで真理を推し量れるのかは、体験による深さに比例した範囲に限られそうです。
表現における言葉の選択の問題は大事ですが、論よりも実修を第一義とした場合には、時として高度な覚知的表現としての型にはまらない文言になる場合も多いように感じます。
普遍性を持たない主観と紙一重のようにさえ見えるものです。
>たこ壺的の世界・・・
そう見えがちですね。
その辺がどう表現され、どう見えるのかといったところも面白いですね。

>仮りの言葉としての真言の・・・
正直いってこの言葉には残念しました。
言葉は仮りのものであっても、真言は仮りのものではないように思います。
その違いは、表現の手段と表現すべき当体そのものの違いのように思います。
語ではなく、秘密語です。
真秘性のある言葉とも言われますが、この表現もまた誤解を生みやすいかもしれません。
結局、どのようにしても前述の通りの覚知的表現に頼らざるを得ないもののようです。
よく知られた、空海の般若心経秘鍵の一文がその最もたるものでしょう。

まだアプローチの段階です。
であればこそ、お互いに自由であっていいようにも思います。
有難うございました。

お礼日時:2010/10/24 21:41

>訳せぬもの、訳してはならぬものが真言であり、唱えてこそ入れる世界への鍵となるものです。



 その通りだと思います。何を唱えるかはその人にもっとも適する波動になるように唱えることだとは思いますが。

>既に無相の真言の現れが、全ての事象であるという解釈もできるかと思われますが、体験を経た上でなければ危険であるとさえ思われます。

 前段の解釈通りであり、なにか危険な事柄であるかのような、あるいは特殊なことがらであるかのような感覚こそが危険かと思います。
 なぜならば、すでに誰もが経験済みであり 忘却 しているに過ぎないからです。忘却というよりも日常に慣れすぎて本来のあるべき姿にさえ気づかなくなってしまったということかではないでしょうか。
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この回答へのお礼

三密の実修上の事は口伝ですが、残すべきものは残して、平易に説かれても良いように思っています。
先徳の引用文だけに拘らないものが必要だとも思っています。
その必要性は私個人に限るものではないかもしれません。

>本来のあるべき姿にさえ気づかなくなってしまったということかではないでしょうか
そのような感じなのかもしれませんね。
事象の本質と現れの面である同化を、即、と表して分析し、真言を通して無相の根本生命に至るという般若心経の内容も
実は、これが当たり前の事の本当の中身なのだと言っているようなものですね。
有難うございました。

お礼日時:2010/10/24 19:01

 こんにちは。



 事相の中に生きていて 無相の真言を捉えたという人に尋ねるのがいちばんでしょう。

 その際 訊いてみるべきことは

 1. 事相の中にいて無相の真言を捉えたというのは 《思量》によるものなのか。それとも《思量》を超えたものがあるのか。 

 2. 言いかえると:仮りに無相の《根本生命》の世界があるとして その《真言》とそして《事相の中にいる〈わたし〉》との関係はいかに? ということになります。

 3. あるいは:《既に無相の真言の現れが、全ての事象であるという解釈もできるかと思われますが、・・・》というとき その《解釈》は 《思量》によるものなのか? そうであれば 《真言》ではなく人間の言葉で表わすことができるはずです。表わしてくださいと尋ねることになります。

 4. それともやはり《訳せぬもの・訳してはならぬもの》であるなら 《体験を経た上でなければ危険であるとさえ思われます》というとき 人間の言葉ではいっさい表わし得ぬということになりますか?

 5. ところがこの問い求めは そもそも足の速いアキレスでさえ亀にも追いつけないというその結構(かまえ)がすでに初めに出来ているのではありませんか? 事相と無相とのあいだにです。

 6. もしそれでも 《真言〔は それを〕唱えてこそ入れる世界への鍵となるものです》とおっしゃるときには 或る種の仕方で(ひろく捉えて)アミターユスの念仏という世界と同じであるように思われます。

 7. もしいぢのわるい見方をするなら それはたとえ事相の世界にいるに過ぎない(つまり 涅槃=死に至っていない)としても その《存在》には《わたし》という側面とそして《わたしどうしの関係性》の側面とがあると考えられます。そのとき 《真言とその現われ》として世界観をかたちづくるのは ややもすると《関係性》の側面をないがしろにする傾きがあるということだと考えられます。

 8. 同じことで:関係性をなくした《わたし》・つまりはそこに社会性を見ようとしない《事相》というのであるならば――いぢの悪いやぶにらみですが――それは 或る種の仕方でタコつぼの思想ではないでしょうか? タコつぼの中に閉じこもる世界観だという意味です。どうでしょう?

 9. 真言には社会性がいっさい無いとお考えになりますか?
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この回答へのお礼

質問文が不完全理論であることは承知しています。
アプローチと書いたのはそのためです。
>タコつぼの中に閉じこもる世界観
>真言には社会性がいっさい無いとお考えになりますか?
そう受け取られてしまうのも致し方ないところです。
ただ、ここで私が一番お聞きしたい事は、質問文を転ずれば
一元論から見た世界観と真言の有効性についてです。
その事相の有り方と本質について、果分可説の立場からアドバイスをいただければと思いました。

相に即して無相に入り、無相に即して無限の有相に展開してゆく、という事相面からすれば
人間社会の全てをも包み込んでしまうようにも思われます。
その実証は空海によって明らかでしょう。

様々な視点と問題点について、お気付きになられた事を示して頂き有難うございました。
参考とさせて頂きます。

お礼日時:2010/10/24 17:58

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