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十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。

日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。
・恋愛の詩人
・メランコリックな詩人
・サディスティックな詩人
・宗教的な詩人
・魔術的な詩人
・政治的抵抗の詩人
・貧者の側に立つ詩人
・ダンディズムの詩人
・芸術至上主義の詩人
などなど、あるといえるでしょう。
上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。

ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。

ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。
個人的な感想、分析をお待ちします。

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A 回答 (89件中51~60件)

【Die Libelle(トンボ)】


http://de.wikisource.org/wiki/Die_Libelle

【Die Libelle, Polka Mazur. Die Pariserin, Polka francaise】


【食品総合研究所】
http://www.nfri.affrc.go.jp/

【 水の華 】
http://www5f.biglobe.ne.jp/~biotop/017.HTM
http://www5f.biglobe.ne.jp/~biotop/biotoptusin.htm

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こんばんは、iacta-alea-estさん。


(^O^)/はい ! ここで問題です。


好きな季節は?




(*^^*)>""" 夜の船室にて―――――
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。好きな季節は、個人的には五月や六月、初夏です。早朝に草木が息づいて行く感覚が私は好きです。でもボードレール的には秋の夕暮れですね。パリでボードレールの秋を探してみましたが、日本の秋とはまた少し違います。「夜の船室」とは、もしかしたらご旅行かもしれませんね。楽しんでください。

リンク先の音楽聴きました。いいですね。それから水の華というときれいですが、なかなか繁茂されると困る植物ではありそうだなと思ったところです。「悪の華」とネーミングセンスが共通しているということなのでしょうが、同意するところです。元々、Les Fleurs du malは「悪の花」であって、華ではなく、草の方なのです。ただあまりにも、この訳出が有名なので定着してしまったそうです。

お礼日時:2010/12/14 16:44

 Bonjour!




  ◆ 谷間に眠る者 (Le Dormeur du Val)

   緑なす里の野にさわやかに水流れ
   狂乱の銀の衣(きぬ)草々に飛び散らす
   いや高き山の端に綺羅やかに日は昇り
   光線の泡の生(む)すこの狭き谷合いに

   年若き兵士ひとり髪乱し口を開け
   鮮やかな芥子菜(からしな)の群青に頂漬け
   眠りゆく。陽光の雨注ぐさみどりの
   床に臥し蒼ざめて草のなか雲ながめ

   足元に菖蒲(あやめ)咲き眠りゆく。口元に
   病める子の微笑みを微笑んで眠りゆく。
   天地(あめつち)よ暖かく揺らせ彼凍えるを。

   芳(かぐわ)しき花の香も鼻元に届き得ず
   陽を浴びて眠りゆく。片腕は安らかな
   胸の上。右脇にくれないの傷跡(あと)ふたつ。


  ◆ 縁覚 (Sensation)

   夏の青い夜などに
   わたしは小さな野径をたどる
   ちくちくと麦穂に刺され
   小さな草を踏みしめる
   わたしは幻に酔い
   草々は足から心地よい
   ああ風よ吹くがよい
   わたしの剥き出しのあたまから
   洗っておくれ
   わたしは口などを利くまい
   なにも考えまい
   ただ限りなき愛に飢え
   わたしはこころが昂ぶるのみ
   ただ果てしなき遥かかなたへ
   わたしはボヘミアンをたどるのみ
   俗界を隈なく――わたしは西方へ行く
   おんななどを従えて
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この回答へのお礼

投稿ありがとうございます。今度はボードレールではなくて、ランボーですね。一応、ボードレールが論題なのです。そして前にも書いたとおり、訳の検討をするのはかなり大変なのですし、意訳だとコメントの仕様が無いのです。ご自分で訳して論じてくださったらいいのですが……。ただ、せっかくなのでSensationの方を検討しておきましょう。Le Dormeur du Valの方は、かなり凝って訳しているので、私も触れない方がいいなと思ったのです。

Sensation

Par les soirs bleus d'été, j'irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l'herbe menue :
Rêveur, j'en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue.

Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :
Mais l'amour infini me montera dans l'âme,
Et j'irai loin, bien loin, comme un bohémien,
Par la Nature, - heureux comme avec une femme.

抒情的にかなり改訳しているので、細部が省略されているのを間違いということはできないのでしょう。ただ二点、指摘しておきましょう。
・「ボヘミアンをたどるのみ」:ボヘミアンは人間の属性を形容する言葉なので「たどる」とは接続しませんね。直訳は「ボヘミアンのように」ですが、これでいいではありませんか?
・「おんななどを従えて」:直訳は「女と一緒にいるように幸福に」です。ここは原文を尊重した方が、より抒情的だという気がします。

お礼日時:2010/12/14 15:34

承前



自己正当性というのは、属す社会が自己を認める所以となるものであって、ロマン派は長い歳月のなかで、それを欠く状況も、それを個室内で創り上げる状況も描いてきたでしょう。そこでの焦燥、倦怠、憂鬱は、自我の苦しみなわけで、Harmonie du soir に出てくる憂鬱なワルツは、そのような種類のものにはわたしには見えません。そして、何が質問者さんにあのように書かせたのかも疑問です。
というのも (1)わたしはメランコリーを指してロマン派でないと言ったっけ? (2)メランコリーが病気とみなされたのはフロイト以降なのか? (3)ボードレールの書く憂鬱をわたしは病気と言ったっけ? (4)19世紀初頭エスキロールによるメランコリー分類をアリストテレス的といえるか? といったことが頭の隅に去来するのです。

それと、ロマン派の定義とおっしゃるけれどもそんなレポートをここに書いてお話しなきゃならないほど、質問者さんの土台が不確かだとは誰も思いませんよ。。。
また、メランコリーの日本語のwikipediaをわたしは褒めるために挙げたのではないので反応されてもちと面食らうのですが、それを補ってルネサンスの寓意について述べたわたしの言葉は、どこのルネサンス史家も言ったことがないので、興感ずるところがないならば信用しなくてよいです。そしてそれが寓意と霊感的なもののうつろいやすさに繋がるという脈絡も、下手に記憶してしまうと網羅的な緻密なプロセスを欠いた状態で我がもののように出てきかねませんから、湯船の煙と一緒に忘れてしまうことをおすすめします。

(3)感性と解釈ついて
これは飛躍があるように思います。やっぱりわたしはそんなことは言っていないはずですし、見直してもやっぱり言っていないように見えます。
たぶん、アメリカンジョークをどうやって笑おうか、という話が近いかもしれません。
あるいは、ボードレールの詩はジャパニメーションにしたらどうだろうかとか、
モダニズムをその精神のまま感得する方法が得難いのは音楽の演奏にもまた、言えることではないだろうか、とか。

※その他
最初の留学は交換で学部生の頃です。時期は「若干」講演に遅れています。
二度目の留学では精神医療に携わりました。
在野で仕事していますよ。
年増になって子供を産んだのでまだ息子が2歳です。可愛い可愛い。
いろんな縁で飛び込むと紆余曲折ありますが人生を楽しめるとよいと思っています。
子供がもう少し成長したらフリーランスで世界中に行きたいなと。
留学生活、楽しんでください。
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賑やかですね。

ところでご応答から感じるのですか、先入観と齟齬が多くないでしょうか。リラックス~リラツクス~。リトルキスさんの指圧がおすすめだな~。
それとも談義の裏技かな?

ランボーやマラルメのイマージュなどというものを文学畑の人はよくとりあげている気がするのだけれど、6の回答で触れたように、わたしの主眼は彼らがイマージュを陳列のために陳列していないところにあり、(もう少し言えば自分の構造的手法のためにイマージュを使う。14で述べたように「人間が同じ反応をしたり同じ仕組みを持っていたりすることを解明しようと」しながら。)
ボードレールではそういう脱却が詩では試み半ばであり、しかしイマージュが寓意として機能しているようだ、ということを質問者さんに振ってきた文脈は伝わっているといいんだけどな、と思います。

(そのようなことが、文学科の黒板に書かれているんなら、文学科の教授って捨てたものではないのでしょうね。不遇にも象徴作用について外国文学者や国文学者と面白い話になったことがありませんが。「文献学者」とはそのうち話してみることにします。)

スタロバンスキはありがとうございます。イコノロジーの問題ならまさにわたしたちのやりとりはドンピシャの話題ですね。表面性と寓意の話を質問者さんから教わることが
ついでにfigure pencheeから、母の図像、マザコンに触れていませんでしたか。

ところで噛み合わなさをちょっと掃っておきましょう。
27のご応答のから。
(1)翻訳について
わたしは訳出せずに話をしています。「日本語の現代詩はどちらかというと目から遠ざけるほうです」。
質問者さんの、17へくださったご返事を見てちょっと考え、
ボードレールの表面だけを汲み取ることの積極的な大切さがあるであろうことを、27で読みとって頂ければと思いました。
しかしたぶん、わたしの話している内容と、読解なさっていることは、喰い違った状況に置かれていると思います。そうでなければ、

> 私の訳出が学会で出てくると、減点の対象になるでしょう。しかしここは楽しみで「ゆるい文学談義」をしているのです

などという、どうでもいいことはおっしゃらないでしょう。どんな訳を出していようと原語で正確にお読みになっているのだから、それを了解しあって話が進むはずであることをお感じになるでしょう。

わたしの専門の中心は精神療法(史)です。このサイトには5年前近くから断続的に参加していて何度か書いているのでしたが、現在の回答履歴の中には無いかもわかりません。
記述の分析は現在だけでなく時代を遡ってもやりますが、しかし患者の記述から患者の病気を読み込むだけで、フーコーみたいな横暴なことはしないからやっぱりこれは文献学なんてものじゃないなあ。。。
関心のなかで近代西欧精神史の比重は大きいですから、二月革命から第一次大戦あたりのヨーロッパの文学・芸術談義には相手の懐次第ではおつきあいできるかな、という感じですね。

(2)メランコリーなど
「夕方のいい匂いの中で憂鬱になってるところがボードレールですね。」を引用から省く必要はないのですよ。
銭湯に浸かりに行くのに教科書を持っていかなきゃならないらしいのは、質問者さんがもし男の子なら、男湯と女湯の間に何か高踏な壁があるせいだろうか。。。
あいにく人の言ったことや書いたことを覚えるような勉強は20歳くらいまでしか興味がなかったのでお気に召さないかもしれませんが、憂鬱になってしかるべき大義名分というのは、ロマン派では書かれていると思います。つまり「世紀病にかかった」ロマン派の青年像というのは、自己正当性を必要としていますでしょう。

つづく
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この回答へのお礼

雨合羽様、

震災などありましたが、ご家族は無事ですか。こういう風に手紙のように、お礼欄を使うのは違反かもしれませんが、ご連絡をするのに他に方法もないので、残っていたお礼欄を使わせてもらうことにしました。

最近、審美に関する問いを開きました。前回のブラジュロンヌさんの欄がうまくいかなかったので、私の欄ならば、もう少し建設的なやり直しができるかと思ったのです。ブラジュロンヌさんも、少し変わったように思います。ブラジュロンヌさんも参加して、まぁうまくいっていますし、よいやり取りができていると私は思っています。もしよかったら雨合羽さんのご意見も拝聴したいのです。一応、私としては設問文はそこそこ良く書けたかと思っています。私はこの欄を閉めたら、OKWaveは去るつもりです。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

こういう風にご案内したのは、みればわかると思いますが、実は他に予想外に私に強い関心を持ってくれる方が現れ、そのお陰で荒れてしまい、私の力量ではあまり長く持ちこたえられなそうだと思うからです。どうも私が四角四面なことをいうからよくないのかもしれません。ブロック機能を使っていますが、どうも複数アカウントをとって、徹底的にアタックしてくるのです。こうなると、どのアカウントが誰なのかわからなくなってしまいました。あまり長くもたないでしょう。また私の設問に関する、別の問いが派生的に立っています。これは悪意のあるものではなさそうですが、ちょっと先のことはわかりません。何だか人気者ですが、私には過分のことです。まだ私が若いということでしょうけれど、そう注目されても対応しきれないな、というのが本音です。

せっかくご縁があったので、最後と思ってご案内した次第です。一週間程お待ちしてみて、もしお忙しそうなら、今回は縁がなかったものと諦めて、後の整理をしようと思います。大変なことがあるかもしれませんが、どうぞせめて、春の華やかさをお楽しみになれるお時間がありますように。またご子息らが健やかでありますように。

サイコロ

お礼日時:2011/03/31 20:45

#34からのつづき。



前にも書きましたが、モダンアーチストの殆どの人は何でもありで、芥子粒を針の穴に投げ通すことができることで凄いだろうと威張っている、モンテーニュに馬鹿にされた人のようです。人の尻の穴を見せて、ここに真実があると言っている連中です。

ゲーテがモーツアルトの曲を聴いて、「この作曲家は、悪魔が人間どもを嘲弄するために送り込んだに違いない」との意味の事を言ったと聞いております。実際、モーツアルトが出て来て、あっ、こんな手があったのかと真似した後の作曲家はことごとく失敗しているようです。だから、モーツアルトの真似では駄目で、それを超えなくては成らなかった。

似たような例はチャイコフスキーだと思っております。彼の曲は、ぎりぎり芸術作品の側にいられた。ところが、こんな手があると「真似」をした後の作曲家の作品は、ことごとくイージー・リスニング音楽に堕してしまっている。

賽子さん、どうなんでしょうか。ボードレールって言うのはこのモーツアルト見たいな方なんでしょうか。悪魔が人間どもに、その程度の低さを暴露して嘲弄するために送り込んだ。

それとも私のこの見方は余りにも明後日な方向を向いているのでしょうか。

この回答への補足

讃歌 Hymne

私の心を光明に満たす
いとも恋しい女(ひと)、いと美しい女(ひと)に、
天使に、不死なる偶像に、
幸あれ、不死のいのちの中で!

潮の滲みこんだ空気のように
彼女は私の生の中に広がる、
そして飽くことを知らぬ私の魂の中に
永遠(とわ)なるものへの憧れを注ぐ。

愛しい隠れ家の雰囲気を
香しくする、いつも新鮮な匂袋よ、
夜を過ってひそやかに
煙る、忘れられた香炉よ、

いかにして腐敗することなき愛よ、
真実(まこと)もてきみを言い表わせよう?
私の永遠(とわ)なるいのちの奥底に、
目に見えず横たわる麝香の粒よ!

私の喜びと健康を作りなす、
いとも情け深い女(ひと)、いと美しい女(ひと)に、
天使に、不死なる偶像に、
幸あれ、不死のいのちの中で!

阿部良雄訳、『ボードレール全詩集I』、筑摩書房、p. 334

Hymne

A la très chère, à la très belle
Qui remplit mon coeur de clarté,
A l'ange, à l'idole immortelle,
Salut en l'immortalité !

Elle se répand dans ma vie
Comme un air imprégné de sel,
Et dans mon âme inassouvie
Verse le goût de l'éternel.

Sachet toujours frais qui parfume
L'atmosphère d'un cher réduit,
Encensoir oublié qui fume
En secret à travers la nuit,

Comment, amour incorruptible,
T'exprimer avec vérité ?
Grain de musc qui gis, invisible,
Au fond de mon éternité !

A la très bonne, à la très belle
Qui fait ma joie et ma santé,
A l'ange, à l'idole immortelle,
Salut en l'immortalité !

補足日時:2010/12/14 15:00
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。パリは連日雪で、風邪でお礼が遅れました。すみません。始祖だけがうまく行くということですが、興味深く読ませていただきました。明後日の方向どころか、的確だと考えます。
少なくてもボードレールの後続で成功した詩人はランボーにせよ、マラルメにせよ、ボードレールからさらに革新を求め、成功させたと言えます。ボードレールの後続は誰しも始祖でなければならず、真似は許されなくなったのです。
たとえば初期のマラルメはボードレールの模倣が多いのですが、あまり優れているとは言えません。メランコリーというテーマになぞらえて、マラルメ自身の意気消沈をソネにしていますが、どうもボードレールの闊達とした開き直りに比べると、鬱々として、覇気がないようにも見えます。韻の踏み方や語の豊富さという面ではボードレールより優れているものがあったとしても、です。

モダン・アートですが、少なくてもボードレールの時には奇を衒うということと別の趣旨があったことは確かです。彼にとっての「現代性」とは、伝統的な美術の様式では表象できなかったものに形を与えるということです。『悪の華』でいえば、たとえば乞食や、都市の描写ということになるでしょう。これらは伝統的な美に範疇に入りませんでした。乞食などは当然、十九世紀以前にも存在したわけですが、それが主題として描かれることは稀でした。同時代的に身近なモチーフを描き出すのが、当初の趣旨ではあったでしょう。

ただこれをやると、詩には記録性という要素が入ります(そこで雑文のようになる)。また美学は伝統によって踏み固められた「美しい」ものだけでは無く、醜いものにも、その位置を与えることになります。実際、乞食の女と貴族の令嬢を描くのはどちらが美しいかと言われたら、後者ではあるでしょう。化粧もせず、ボロを纏っている女などよりは、煌びやかな女の方に美はあります。
しかしどちらに関心をそそられるかと言われると、前者であってもいいはずです。そこでボードレールは「美とは常に奇矯なものである」と述べています。また好奇心を芸術家にとって、もっとも重要な要素とするのです。天才とは、自らの意志によって子供の無垢な好奇心を取り戻せる者である、とするのです。

ただし、この「醜いもの」に対する評価は、別の背景もありました。それは西欧の判断基準外の美学を認めるという意味合いです。「基準外の醜いもの」にはアジアの芸術が含まれていたということは強調しておいてよいでしょう。今の日本人の感覚からすれば信じられないことかもしれませんが、西洋的な伝統における「美」では、明らかにアジアの芸術は評価の対象外だったのです。それは千手観音像をヘーゲルが象徴段階という一番下位の芸術においたことにあらわれています。
ボードレールが「美とは奇矯なものである」と看破したのは、1855年、まさに中国美術を取り上げた時のことでした。同時代的にアジアの芸術を論評した美術評論家は稀であったと、阿部良雄はしています(1870年代になると他の美術評論家も詩人も、こぞってアジアの美術を取り上げますが)。実際、日仏が通商条約を結ぶ前から、ボードレールの書簡には日本の民芸品に関する言及が現れます。文献学的な論証はできないにせよ、『現代生活の画家』には浮世絵の影響があるのではないかという考察もあるほどです。

異文化理解という点を含めて、私個人はあらゆるアートに市民権を認めたいと思うところです。実際、何が美であるかを定義した瞬間、その後からは排他的な態度が開始されます。それは究極的にはナチスのギリシア称揚にあらわれているように私は思うのです。アウシュヴィッツ以降、詩を書くことが野蛮なのか?というアドルノの有名な問題が提起があるように、美を定義しが結果何が起きるかは、行くところまで行ってしまったという気が私にはします。

ただ近年のモダン・アートが、屁理屈をこねるが中身が無いということは、多々あるという気がします。ゴミ箱アートのはしりは、マルセル・デュシャンの「泉」でしょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/ura_okhp/36033638.html
これは既製品の便器をそのまま持ってきたのです。ただデュシャン自身には「ふざけている」という意識はあったようです。というのも最初のオリジナル作品は、展示の後、捨てられるに任せていたそうですから。こういうバランスが失われてしまったのは惜しいところだと思いもするのです。

話は変わりますが、チャイコフスキーの曲にボードレールの詩をあわせたものがあるので、ご紹介しておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=7dtbU08jQLE
歌詞はHymne「讃歌」からです。後で訳を補足しておきます。

お礼日時:2010/12/14 14:45

>観衆が作品を選ぶだけでは無く、作品が観衆を選ぶこともあるのです。



同意いたします。大分前に物理学者の私のある友人がこんな冗談みたいな事を言いました。「数学を理解するためには根気さえあれば出来るんだが、物理学の優れた言述を理解するためには優れた物理学者でなくてはだめなんですね」と。またまたこの野郎と、あの紳士淑女の数学屋さん達が顔を真っ赤にして激怒しそうな言葉ですね。

当たり前な事ですが、どんな学問をやっていてもどういうわけか本質的なところでは、皆さん共通した認識に到達できるようです。何でも有りではない。だから、皆さん努力する気になれるのではないでしょうか。

私が分も弁えずに芸術云々と言う気になれたのも、私がずっと若い時に私の日本の先生と一対一で議論し、滅茶苦茶に計算をしていたある日、京都で行われた物理学会をサボってその先生に連れられていった東大寺の戒壇院で、四天王の一柱の広目天にお目に掛かった時からでした。その時に始めて彫刻は徹底的に論理的なのだと知りました。以前は目の高さで見られたので、迫力が今とは全然違っていました。

はっきり言って、馬の耳に念仏と言うことはあるんですね。私はいろいろな学生の面倒を見て来ましたが、その中には本当に何かに到達したいと考えている学生と、議論のための議論で、ああ言えばこう言うというと議論の勝ち負けにばかり拘っている学生も居りました。そんな学生には、「あんたは学者には向いていないようだ。貴方のその行動力を見ていると、きっとビジネスなんかで売り上げを伸ばすような分野に行くと成功するかも知れませんね」と言って来ました。ビジネスの世界に関してまるで素人の私が頓珍漢なことを言っていたら、ビジネスの方、ご免なさい。でも、それを言われた学生は今ではビジネスで成功しております。少なくともアメリカのビジネスマンには、当たらずと言えども遠からじだったようです。

さて、共通認識がありそうだと言っても、相変わらず私にはボードレールが難しい。ただ気が付いたことは、

>ボードレールは「モデルニテ、現代性」の理論を表明したように、モダンアートの始祖というべき芸術家です。

というキーワードがあると言うことでした。

なるほどモダンアートに関する議論をしないと、ボードレールが解らないのかもしれない。ところが、私には、このモダンアートが判らない。近代美術などで、例えばオランダのクレラー・ミュラー美術館で見たピカソの抽象画はその品の良さに驚かされたのですが、その同じ美術館にぶら下げられていた横3m縦5m程の巨大なワイシャツのどこが芸術だか、まるで判らなかった。ブリュセルの国立美術館の近代美術コーナの一角に、ベルギーの国民食であるムール貝の殻が入ったバケツが置いてあった。よく見ると、誰々作と書いてあり、その周りをレーザー仕掛けの装置で目に見えない形で囲ってあり、そこに近づき過ぎるとブザーが鳴るようになっている。そうでもしないと、掃除のおばさんにゴミ箱に捨てられてしまうからでしょう。偶々そのバケツに他のゴミは入っていませんでしたが、館内の人もゴミ箱と間違えられて捨てられたゴミ屑を、時々そのバケツから取り除いているんじゃないかしら。

いつぞや、イギリスのどこの美術館だったか名前は忘れましたが、BBCがターナーを記念する美術館の近年の異常を放映していたことがあります。最近になって美術館の幹部が代わってから、妙にゴミのような展示物が増えて来た。こんな物が芸術なんですか、と言うのが主題でした。そのとき、何とか賞を受賞し、その美術館から巨額の値段で買い上げられたモダンアーチストがインタビューされ、滔々と自分の作品の意味を捲し立てていました。私は、何か音楽の作曲家が一生懸命になって自分の作品を解説しているような馬鹿さ加減を感じました。「あんたの音楽を聴いて私が判断するから、お前のくどくどした話しなんかどうでも良い」と言う気持ちと同じでした。

私の知人の著目なアメリカの物理化学者の奥様は、教育学を学んでからクラッシック音楽の作曲家に成った、変わった経歴の持ち主です。その方が言うには、例えばニューヨークの著名な音楽学校のジュリアード学院で、学生が昔からの旋律の美しい曲に関心を持ってその分野で作曲家に成ろうとすると、「貴方は芸術が判らないらしい。なぜ、モダーンな音楽をやろうとしないとか」などと言われると言っていました。あの、訳の解らない雑音を生産できるようでなくては近代の音楽家ではないそうです。

つづく。
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こんばんは、iacta-alea-estさん。



●しかし現実は甘くありません。ユゴーのOceano Nox「くらき海より」でも、成功を夢見て海にのりだしたが、返ってこなかったというモチーフが扱われます。ヴィニーには航海の途中で遭難し、瓶に遺書を託す船長が登場します。
こうした海難事故の最後になった時に、船乗りたちが詩を残すであろうというモチーフの詩は同時代的に多くあったのです。現代と異なり、本当に海難事故が多かったのでもあります。



You don't say!
http://www.h3.dion.ne.jp/~tango2/D/blueintheface …

バミューダトライアングル
(フロリダ・バミューダ・プエルトリコの三点を結ぶ三角形の海域)
Y-Δ変換

バミューダ海域…幽霊船…キャプテンハーロック~♪

【THE GOONIES】
http://www.google.co.jp/imglanding?q=THE%20GOONI …

フィギュアヘッド(船首像)
船に女神さん張り付けてあれどうよ?!
無事航海できますようにって???
よっぽど、セイレーンが怖かったのか???
船の舳先女神さん張り付け海を渡るってことは…
セイレーンに向けたメッセージ???
近づけばお前も張り付けの刑になるぞといわんばかりとも思えなくもない。
誘惑の甘い罠~♪

船といえばお宝の荷たーんと積んでたりもする、欲に目がくらむやからも多い
中には水夫が隙あらばと船長の首かっ切って船ごとぶんどるなんてこともざら
気のおけない仲間であっても財宝目の当たりにすると心が揺れ時に人が変わる
空の天気以上に読めないのが人の心。いままで穏やかな水面だったところへ
ポンと石ひとつ投げ入れただけで、あっという間にぽわぽわぽわぁーんと
波紋が広がってく。もしかすると、だれにも打ち明けることのできない心の動揺を
詩に書き記し、書くことでひとり心落ち着かせていたとは考えられないかな。
孤独との戦い

【セイレーン】
http://art.pro.tok2.com/Greek/Sirens/Sirens.htm
http://www.jiten.info/dic/world/ningyo_mermaid.h …
《諸国の人魚》
http://www.geocities.jp/navisoneraria/ab.html#28

【パオロとフランチェスカ ウォレス美術館】
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。そうですね。船首の女性の像は、海神の怒りを鎮める人身御供を模している魔除けなのでしょうが、確かに人魚の話相手のように見えますね。船乗りがどんなものだろうかとはよく空想しますが、ボードレールにもこんな詩があります。部屋に居ながらにして旅行する怠けっぷり?がボードレールらしいなと思います。ボードレールの好きな季節は、本当に秋だなと思えます。


異国の香り Parfum exotique

秋の日の温かな夕暮れどき、両の眼を閉じて、
熱のこもったきみの乳房の匂いを吸うと、
私の目の前には、単調な太陽の火の
まぶしく照らす、幸せな岸辺がくりひろげられる。

自然が、珍しい樹木を生いしげらせ、
風味豊かな果実を生らせる、怠惰な島。
男たちの体は、ほっそりして、力づよく、
女たちの眼は、驚くばかり、大胆率直に人を射る。

こころよい風土の方へと、きみの匂いにみちびかれて、
私は見る、海原の波に揺られて今もなお
疲れ心地の帆や帆柱に、満たされた港を。

すると、緑のタマリンドの香りが、
大気の中をめぐり、私の鼻翼(はな)をふくらませては、
私の魂の中で、水夫(かこ)たちの歌声にまじり合う。

阿部良雄訳、『ボードレール全詩集 I』、筑摩書房、p. 72.

お礼日時:2010/12/14 15:53

 No.24&25&29&30&31です。



 いやぁ ありがとうございました。プロメテウスで――プラス 死の舞踏で――腑に落ちます。
 プロメテウスなら分かりそうなものを。そしてあるいは《ふるき人とあたらしき人》の話を当てはめて書いたほうが――向上という意味では――しゃれた風情が出て来るであろうというものを。そうですか。たぶん――わが恣に言ってしまえば――グノーシス主義の限界であるかも分かりません。

 《 L’école païenne 》 は PDF の読みとりの acrobat が今のとは別にインストールせねばならなくなるということで――というより長そうなので 読むのに時間がかかってしまいます――断念しました。ごめんなさい。

 この《陽気な死人》は そうしますと自己PR の詩ですね。われら詩人はこんな仕事をしとります。よろしくという作品ですね。
 ということは 解読が成ったとしても 勝手に判定すればドローですね。聖書なら或る程度 世界史的だと思うのですが 十九世紀にまだギリシャ神話を持ち出すというのも遅れているゥという感じがします。それを出汁にしてコマーシャル・フィルムを流されても 作品鑑賞という道からややはずれているという感じです。
 ですから ドローです。判定のための作品ではないという判定です。

 わたしがディベートをやろうとしていると取られるのはかなしい現実であるのでしょうが その点にひとこと触れます。
 というのも かつて《ディベート》にもなった俳句の問題があるので簡単に触れることができるのではないでしょうか。五七五だけでは分かりませんよね。あるいは風景を写しただけですよね。解説を聞くと 時としてよさそうだという場合はあります。そしてそういった解説を 鑑賞者にゆだねるということですよね いまの話は。作品論には そういう問題があるとは思います。
 つまり作品であるなら 素材のままではないはずです。食べられる状態にまでは料理して差し出すのだと思います。――あぁ 足して二で割った忌むべき結論!!


 さて 露出が激しくなりましたので ご説明をいただいたことへの感謝の気持ちを重ねてお伝えしつつ しばらく引っ込んでいます。ありがとうございました。
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 No.24&25&29&30です。



 ここまでのわたしのレチサンスもほとんどことごとく解読されるとなると さてはいよいよ《観衆が作品をえらぶだけではなくて 作品のほうが観衆をえらぶこともあるのか》という雲行きになって来ましたが そうはまだまだ問屋が卸さんぞという空元気でもつけて臨まねばなんねえとなりましょうか。

 ボードレールの作品にかんする疑問をぶつけておしえを乞い もしそれが誰も解けないとなれば 作者は観衆に分かるような作品をつくるべし〔という見方が消滅はしない〕となるでしょう。

 ○ 《陽気な死人 Le Mort joyeux 》
 ☆ についてです。すでに挙がっていました。おしえてください。

 (1) 第一連:《地面に自分で穴を掘って自分の骨をそこに並べる》というのは どういう意味か?
 《ふるい骨 mes vieux os 》と言っているので それはあたかも《ふるい人を脱いであたらしい人を着る》という聖書の文句にあるような《〔生きたままでの〕新生》をむしろ言っているのでしょうか?

 (2) 第二連:(1)と同じような不思議です。
 
   生きて、カラスたちを招き、
   私の汚い骸骨を隅々までしゃぶらせたい。

 ☆ 《生きて Vivant 》と《私の・・・骸骨 ma carcasse 》とのつながりですが こうでしょうか? つまり 《生きたまま烏に肉をついばみさせる。その結果 骨だけになってもかまわない》ということでしょうか?

 (3) 第三連:その結果すでに骸となったわれを 蛆虫らが見に来るよう呼びかける。でいいでしょうか?

 (3‐1) 《腐敗の息子 fils de la pourriture 》は 蛆虫のことですよね? それとも すでに死体となって腐って来ている私でしょうか?

 (3‐2) 《 Philosophes viveurs 》は《〔達観した〕遊び人》としてはおかしいのですが むしろ――複数形としても――《蛆虫 vers / noirs compagnons 》とは取れませんか?

 (4) 第四連: これは(1)および(2)のうたがいとかかわりを持つのですが 次のように蛆虫らに対してなぜその死体である《私におしえよ》と言っているのでしょう?

  そして私に教えよ、何らかの苦しみが今なお、
  魂のない、死者の中のこの老いた死体にもあるのかを!
  Et dites-moi s'il est encor quelque torture
  Pour ce vieux corps sans âme et mort parmi les morts !

 ☆ すなわちこの《死体》は 《私》のものであることに間違いありませんが それは《ふるいわたし》のことを言うのでしょうか? つまりふるいわたしがほろんで わたしはすでにあたらしいわたしになっているという含みがありましょうや?

 (4‐1) すなわち
 ▲ (コリント前書 3:15) 〔みづからの仕事が〕燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
 ☆ この《火の中をくぐり抜けて来た者》を下敷きにしていましょうか?
 聖書とボードレールという主題は どうなっていましょう?  (むろん分からないのでお尋ねしています)。

 (4‐2) 《何らかの苦しみが〔今なお、魂のない、死者の中のこの老いた死体にも〕あるのか》を知りたい・あるいは考えてみたいのは 《 Philosophes 》でよいのでしょうが ただしそれがなぜ《 viveurs 遊び人》なのか これも分かりません。ということは 蛆虫のことではなく《私》たち人間のことを言うのでしょうか?

 ☆ 以上です。よろしくお願い致したいと存じます。
 もしこういった疑問が解けないのであれば 《作品が観衆をえらぶ》ということは 小さな声で言っていただかないとなりません。と思います。

この回答への補足

(お礼からの続き)

C. ボードレールとキリスト
大雑把には以上で全部回答したことになるでしょう。残るは、キリスト教とボードレールですが、ボードレール自身は、コメディアンか司祭になりたいといっていました。両極端なのがふざけていると思われるかも知れませんが、結構真剣だったのです。その立場は独特なもので、グノーシス主義とも言われます。

たとえば1840年代以降、ボードレールの活動期と、彼の所属していたサークルは、ゴーティエやバンヴィルという詩人らで、後に「前高踏派」と呼ばれることになるグループです。ゴーティエらはギリシア芸術を信奉した中で、ほぼ唯一、キリスト教的立場を貫いたのがボードレールでした。「異教派」L’école païenneというテクストでは徹底したギリシア批判を行います。次のところからダウンロードできます。関心があれば。
http://baudelaire.litteratura.com/?rub=ressource …

ボードレールの中では原罪という意識がきわめて強く、これは「読者に」にもあらわれていました。悔恨、罪、告白などはキリスト教の告解を踏まえているでしょう。また「身代金」Rançonには、自らの現在を購うためには働かなければならない――とも述べられます。
こうした発想は1851年に政治的挫折を味わうまでは、空想社会主義との関わりでボードレールにとって重要なテーマでした。簡単にいえば、社会的連帯で貧困を撲滅しようという考え方に同意していたのです。
これをキリスト教との関わりで説明すれば、十九世紀フランスは政教分離の流れにあったわけですが、祭司の役割を詩人が担うことで、社会の連帯感を維持しようとした、といえるでしょう。ユゴーなどロマン派の詩人がそれを積極的に引き受けました(Paul Bénichou, Le Sacre de l’écrivain, in Romantisme français, Paris Gallimard, t. I, 1996)。ボードレールは少々この世代から遅れてきたのです。それでうまくいかないのですが、彼は社会の祭司として特権的に振舞う詩人という姿に憧れがあったのでしょう。

最後にボードレール研究史に触れると、1930年代まではキリスト教者としてのボードレールという捉え方が主流だったようです。「あまりにもキリスト教者のボードレール」などという論考が出ていたと聞きます。その後、1850年前後にジョルジュ・ブランとサルトルによって精神分析され、人間的なボードレール像が提示された――ということになります。性的不能者で、母に甘え、社会に出られなかった詩人という姿です。現代ではこのボードレール像は乗り越えられてさらに先へいっているというのが流れです。

E. その他
>もしこういった疑問が解けないのであれば 《作品が観衆をえらぶ》ということは 小さな声で言っていただかないとなりません。と思います。

私の回答を見て、どう判断なさるのか、私はわかりません。言う権利なしと判断なさるのも、またいいでしょう。ただ私は素のままでは選ばれないのがわかっているからこそ、選ばれようと努力するという風に私は振舞っているつもりでした。甘めに自己評価すると上述では六十五点くらいです。雨合羽先生などをはじめ文献学の先生方が私のこのコメントを見たら、私の記述の粗さに怒り心頭するかもしれません。ただし自分の身の丈がわかっているからこそ、その範囲で楽しんでいるつもりです。話の成り行き上、啓蒙するかのような立場に不覚にもなってしまい、その立場をとるには貧弱な力しかないのですがが、「ゆるい」という形容詞を文学談義につけたように、最初から許してもらっているつもりでした。楽しいことを楽しく語る、中身のあることを語る、ディベートはしない――というのが希望です。

昔の大先生は、詩を読むのは恋人に接するのと同じだよ、といったものです。キザな台詞ですが、なかなか核心的なことをいっていたなと思います。その心は、芸術作品は愛情をそそがないと応えてくれない――ということです。気難しいレディをダンスに誘うような楽しみがあると私は思います。相手の呼吸を読んで、誘惑するプロセスそれ自体にエロティシズムがあったりするものです。そう考えると、調べて読むのが、ちょっと楽しくなりませんか。

補足日時:2010/12/07 20:51
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。文学談義らしくなりましたね。別に私の自尊心はいいのですよ。ただ多くの人に詩が好きになってもらいたいだけです。誰もが観れるハリウッド映画に臨むように、詩は読むことができないと私は言いたかっただけです。私の思うに、文化というものへの接し方が日本と外国では違うような気がします。どちらがいいということではないのですが、日本は口当たりのいいものを好むのに対し、外国では「良薬口に苦し」とばかりに受け手が切磋琢磨する態度が多い気がします。詩に私が選ばれたという気は無く、なるほどここでは偉そうに解説する立場になってしまいましたが(これをするつもりの設問ではありませんでした)、おそらくフランス人と比較すれば、まだ偉い先生方と比べたら、なんら選ばれていないでしょう。身の丈に合った範囲で楽しみたいのです。だから正解というのではなく、参考程度に考えてください。

A. 死の舞踏について
まず表題ですが、この詩は元々「憂鬱」「ソネ」と題されていたのが、詩集収録の段階で「陽気な死人」に変わったのです。表題は死の舞踏という中世の伝統を踏まえたものでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE% …
死の舞踏は深刻な喪というだけではなく、女性を口説く材料にも使われたといいます。「どうせ死ぬんだよ、その前に愛し合おうじゃないか?!もったえぶらないでよ」という口説き文句です。こうした女性を口説く要素は『悪の華』だと「踊る骸骨」Danse macabreに出ていますね。だから「陽気」だったり、「遊び人」だったりするのです。
死を前に鱶のようにふてぶてしく開き直っているところが、面白いじゃありませんか。たとえていえば、正月に骸骨をぶら下げて歩いた一休の逸話のようです。ザクッと開き直ったという感じがします。

B. 質問の答え
さて問いの(1)(2)ですが、ここにはプロメテウスの暗示があります。人間のために火を盗んだ結果、生きて鳥についばまれることになった不死の神です。火を盗むという行為はしばしば芸術家の営みに喩えられます。おそらくプロメテウスの暗示を看取できれば、疑問の大半は解消するでしょう。同様の暗示は「シテールへの旅」Un voyage à Cythèreにもあります。

第三連ですがウジ虫らに、浮かれた死者らが来るのを見に来い、といっているので、まずはいいと思います。ただウジ虫Versは「韻文詩」と同じ語です。これは掛け言葉だと言えます。したがって、この墓とはVersが這いまわっている、詩的造形そのものでしょうし(詩群や詩集のこと)、「墓を掘る」とは詩を作る営みのことです。
ただし転倒しているのは、ウジ虫らが待っていて、死者の方が寄ってくるということです。韻文に向かってわらわらと集まってくるということは、この将来死ぬであろう「遊び人ら」(第三連)は我々読者のことだと考えていいでしょう。そこから、第四連の「教えよ」とは、墓所である詩を「味読せよ」ということでしょう(ただ遺書か否かという質問があったので、そことの整合性で慎重に応えないとならないところですが、遺書では無く、読者にあてたメッセージだということかもしれませんね)。

(補足へと続く)

お礼日時:2010/12/07 20:19

 どちらかひとりが こううたっているのでしょうね。

ふたりともということはないはずです。

 ◆ (《取り憑かれたるたましい L'irrémédiable》 ) ~~~~
 
 観念の死か? いや生活のあり方そのものか? 

 いやいや 人間まるごとだって? 落ちてゆくとは!! 

 この晴れた空の下 何を嫌ってのことか? 落ちてゆくとは!! 

 えっ? ここは三途の川だって? まさか? 

 へどろが鉛のように絡みつくからと言って まさか!! 

 ああ あの五月晴れの宙よ! いと高き山よ!



 だが 天使だったのだ。

 ちょこっとおっちょこちょいだとは言え 愛が 

 愛が ちょこっと臍を曲げただけさ。それを この

 悪夢か? 何と遥か先にまで広がっている夢路であるか 

 かくなる上は 苦しみ甲斐があるというものだ。



 縁起がよいとは到底言えないからと言って 

 われが たたかわないとでも? 

 それにしても この渦巻きは 何だ? 

 遥か先まで 歌をうたっているではないか。その調子はづれは 

 何だ? ああ 

 眩暈。まわれ まわれ おまえよ まわれ。



 これは われの所為ではない。われは ただ

 魔法にかけられたに過ぎぬ。この逃避行こそ 

 試みに値するのだ。青い空の下には 

 ヤモリにイモリ イグアナにオオトカゲ 

 この這い回る輩らを われは嫌っただけだ。

 われこそが光を手にする。

 

 ここは 暗闇。ランプくらいは持って来るべきだった。

 あそこには 地が穴を開けている。

 底無しの底から這い上がってくる匂い。落っこちたら 

 おしまいか。せいぜい手すりを作っておいてくれ。



 何かおるぞ。ぬるぬる坊主たち。

 燐光とは あやつらの目か。その光が 

 なお暗闇を深めておるわい。目と目とのみ にらみ合っている。



 われは ちがう。

 極北の星を われは 追い求めたに過ぎぬ。われは 船だ。

 宙を航く船だ。星のきらめきに惑わされたからと言って どうして 

 それが 罠だったのか。この落とし穴。あの星星のあわいを

 抜けて来たというその何処が まちがっていたのか。



 この定めを想えというのか。あの道こそが ここへと通じていたと

 いうのか。おれは 知っていたというのか。

 神こそが この海の導き手だったというのか。



 われが見るのは このわれのすがた。蒼白きわが面持ち。

 この井戸を覗くわれ。透き通った真実の黒き陥没。

 鉛をあおって揺れる星のおれ。



 これでも まだ 輝いている。人よ この光に寄れ。

 地獄が 何だ? これこそが 地獄の恵みよ。わがともし火よ。

 栄光なり。わが慰みなり。われは ただ この病める心を 誇るのみ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

投稿ありがとうございます。詩を読むのは楽しいものです。しかし訳出だけして、何も語らずというのは、少々お礼に窮します。訳に全てが含まれているということかもしれませんが、素直にいえば、それは私の負担が大きいので、やめてください。というのもこの訳は、逐一、検討するには演出と省略が多すぎるのです。かなり苦労なさったことは、わかりますので無下にできず、私も時間をかけて読んでみました。原型がわからないほどに変化しているので何が根本的な原因かを把握するのに困ったのですが、やっとわかったことによれば、「われ」jeを補い、それに合わせて自由に口語に変えたのですね。
なるほどそれによって「私」が生き生きと自問する形に変わっています。より抒情的になっていますし、訳だけ通読すると、これはこれで中々味があるなと私個人は思ったことも事実です。超訳と自覚があった上で、ボードレールの真意を汲んだという自信をもって投稿されたことでしょう。細部の問題点はあっても、読んでいて説得力はありました。

ただ敢えていうと、これは抒情詩では無く、そこがポイントなのです。ボードレールの描き方は、自分を「取り返しのつかない者」としたのではなく、第三者という距離を置いています。つまり観察者がいるというのが出発点です。この点は統辞法に反映されており、各ストローフの冒頭に、「イデー、フォルム、存在」「天使」「とりつかれた男」「地獄落ち男」「一艘の船」など、まず名詞とボンと置き、それを現在分詞で修飾し、各セクションを分ける観察的な文章になっています。「完全な絵」tableau parfaitという言葉があるように、ここでは眺める感覚が出発点なのです。
最終的に詩を読んだ読者が解釈すれば、なるほど各要素は言葉として出てこない「われ」の部分の一つ一つであるとか、変容した姿であるという解釈は成り立つかもしれません(実際フォルムが失われる趣旨を冒頭で予告してもいます)。しかしそれを統合するのは読者の脳裏にすぎないのです。むしろボードレールの意匠としては、詩の最後のセクションIIで示されるように、自らを鏡として、そこに各要素を映し、自己疎外した上で観察して描いていることにあるといえないでしょうか。
だから問題は抒情的に朗々と自問自答することでは無く、自己疎外の中で本来あるべきjeが欠落していることの方が、実は大切だったりするのです。これがさっきから話題に出ている「変だぞ?」と思う要素だったと私には思えます。

お礼日時:2010/12/07 11:11

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