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十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。

日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。
・恋愛の詩人
・メランコリックな詩人
・サディスティックな詩人
・宗教的な詩人
・魔術的な詩人
・政治的抵抗の詩人
・貧者の側に立つ詩人
・ダンディズムの詩人
・芸術至上主義の詩人
などなど、あるといえるでしょう。
上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。

ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。

ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。
個人的な感想、分析をお待ちします。

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A 回答 (89件中11~20件)

あ、ルドンの挿絵だ、Un coups de desの、と思ったら自己紹介に書いていらっしゃいましたね。

自分の回答履歴に並んだ質問横の画像を見て、少し驚いてしまいました。
      ***
だいぶ前のように感じられますがサイコロさんの目に参考図書が届いたようでコメントをありがとうございました。
モダニズム考ど真ん中ときたら、やっぱりボードレールの美術批評から出発して、アメリカ現代美術に移動して、日本美術に回帰しなくちゃね。
でも大学一年生の夏休みみたいな半端な選書は冴えないので気が引けました。
      ***
文字や画像や音といった情報の編集を世界へ拡大したインターネットは、仮構的な(かつ表象的な)ものだと思うのですが、
瓶底眼鏡の超大な集合体として道具以上のものにはなれないはずではないかと思っており、精神病理にいいことはないとも思っています。
なぐさみという一面を除いて。
なぐさみより大切なものがあるでしょうか。たぶん、独りでなぐさむことの美意識というロマンティスムの問題は守られるべきでしょう。
隣町での出来事はこれ以上の言葉になりませんが。
      ***
書き散らし。ところで先端科学の理系の人々というのは、デコードに命を賭けるべくコードを信じなければならず、そんな信念から本当にコードが世界に存在してくるという様態を生きているんじゃないかなと思うことがあります。
触れられないコードにデコードをかける、デコードが出来たときにコードが仕組み上がる、という転倒した世界に浸かっているのではないかしらと。
      ***
もしそうなら、その奇妙なスリルは、そっくりそのままには、ヌーヴォーロマンの中途半端な試みを生むだけで、文学に馴染むことが出来ないものかもしれません。文学の研究がデコード・オン・デコードであることを、その喜びを感じさせるように成功させている例としては、わたしは、ブルフィンチのギリシャ・ローマ神話概説を思い浮かべます。古近の文献から詩文を引いて、テマティックを紡ぎあげ、主観はできるだけ小声に抑えた語り口で、どっこい自分の博識高い主観世界でまんまと読者に全体を与えるというもの。こうして、自分の身の丈では及びもつかない全体視になすがままにされる喜びを味わえるとき、わたしはデコード・オン・デコード・オン・デコードを楽しんだわけで、どこまでいっても重奏のように、重層のように、コードは古くからある世界の深遠なところに深遠でありつづけるということを経験するような気がします。
      ***
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この回答へのお礼

さすがに博学ですね。ルドンがすぐわかりましたか。またマラルメがお好きなのですね。お訪ねていただいて嬉しいです。子爵とのやり取り、一段落ついた形でしょうが、お疲れさまでした。はらはらしながら見ていました。子爵は、雨合羽さんにとって大切な相手ではあったのでしょう。結果は残念だったと思いますが、拍手を贈りたいです。

>(……)インターネットは、(……)精神病理にいいことはないとも思っています。なぐさみという一面を除いて。

「なぐさみ」という語を使ったのは、意義深いですね。なぐさみというのは結局、自己満足という側面もあるでしょう。ネットというのはヴァーチャルなコミュニケーションではあり、モノローグにしかなっていないこともあります。あからさまに自分の意見しか表明していない相手もいれば、日本語の解読力の問題が発生する相手もいます。
ただ私には、まともであったであろう相手が病んでいくように思えていて、それがネットというツールの問題に要因があるようにも思えるのです(柄谷がNAMだとか言っていましたね)。確かに病理によくないのかもしれません。

もっとも私としては、いいこともありますよ。雨合羽さんは、表千家の教授の家に生まれたと別の回答欄にお書きでしたね。お医者さまで、美人で、絶対音感をお持ちで、仏在住、お生まれも由緒正しいとなれば、なかなかネットでもない限りお話になれない相手です。実際、日本語の使用方法も、私のように直球で議論する者とは違うのだなと感じました。裏の意味の含み方など、独特ですね。読めばわかるが、これが口語なら、コミュニケーションが取れるか、自信がありません。私のような粗忽者が話相手になり得るとすれば、それはネットが適度な距離を置いてくれるからでしょう。
でもこれは誰に対しても、多かれ少なかれ、同じだと思います。ネットであるからこそ自由であるとも言えそうです。

さて、文学研究の話を振っておいでですね。

>文学の研究がデコード・オン・デコードであることを、その喜びを感じさせるように成功させている例としては、わたしは、ブルフィンチのギリシャ・ロー マ神話概説を思い浮かべます。古近の文献から詩文を引いて、テマティックを紡ぎあげ、主観はできるだけ小声に抑えた語り口で、どっこい自分の博識高い主観 世界でまんまと読者に全体を与えるというもの。

「デコード」とは元の情報を忠実に取り出すということであって、創造性を加えて変化させないという意味での語の選択なのしょうね。なるほどデコードの繰り返しが文学研究ではあるのです。これは見方によっては創造力の欠如であるのかもしれません。デコードという行為は創造ではないでしょう。
しかしデコードを積み重ねていった結果、総体として完成するものは、何か別ものかもしれません。いうなれば積み木を重ねるという行為は創造性のかけらもないが、積み木を重ねて行った結果完成する玩具の城は、創造性に富んだものだ――とも言えるかもしれませんね。こうした創作物が与えてくれるのは、「自分の身の丈では及びもつかない全体視」をもたらしてくれる超越性であるというのは、本当にそうだろうと思います。そしてこうした経験が、深いところにあるが故に直接そのものへ到達できない普遍的なコードへと接近させ、永遠性に触れさせるような経験につながるのなら、その研究は非常に大きな成功をおさめたといえるかもしれません。
――これを理系の話に引きつける形でお書きなのは、私にというより、猪突先生へのメッセージという要素を含むからかもしれませんね。文学研究の創造性とは何かについて説明をすると言っておきながら、それが遅れている私ですが、この点について水を向けてくれたとも言えそうです。

お礼日時:2011/02/07 21:56

体調を崩しながらの他の場所での遣り取り、大変でしたね。

でも一段落したようですね。

 ちょっとして俺のことかとちょとつ言い

なんて見ながら読んでいまいした。

>たぶん貴方を私が放り出したことを咎めて、文献学の危険性云々と言っています。

成る程、そう言う読み方も有り得るのですね。だから、私は学生に、「よく練られた文章が書ける自信がついて来たら、文章は少々諄く書くものだ。簡潔に書こうとしては駄目だ。必要最小限の文章は最悪の文章だ。世の人には皆違った歴史が刻み込まれている。だから、簡潔さを犠牲にしてでもこちらの言いたいことを誤解されないような表現をしないと、論文審査では余計な時間とエネルギーを使わされてしまうから気を付けろ」と言っているのです。ですが、言う易し行い難しですね。なにせ、諄い文章を書けるようになるのは、文章の上級編なんですから。

私はもっと単純な人間なんですよ。どういうわけか私には動物的なカンがあるようで、面倒くさいと思ったら、その人間関係に関わらないように、それを簡単に断ち切ってしまうことが出来るらしいのです。「やっ危ない、豚面だ、もとい、遁ずらだ」てな具合です。もちろん、そんなことビジネスや政治の世界では通用しないことでしょうから、そんな動物の侭で居られる職業に就けたのは幸運だと思っております。ですから、私の質問は、決して他人様の人間関係には頓着致して居りません。もっと純粋な質問です。

私には本当に文学系の文化は未知な領域です。あなた方の価値観を知りたいのです。文化とは価値観の違いのことですから、何をもってその分野の危機と考えるかも、文化によって全然違うことも有り得ることです。だから文化の違った世界に紛れ込んでしまうと、誰でも居辛いと思う筈です。私は、物理屋の文化の中で日々数学を使って物を考えておりますので、数学屋さんの世界に入って行くと、全く場違いなところにいて、「わー、こんなところにいるのやだー」ってな思いを何度もした経験があります。

果たして、文学の世界も私にとって「やだー」てな世界なのか、それとも、「意外に居心地がいいじゃん」と言う世界なのか、私が知りたいのはそれだけです。

別に急いでいる話しでもありませんので、もし気が向いたときでもありましたら、私からの質問にも答えて頂けると有り難いです。

あと、雨合羽さんの見方も面白いので、そちらからの横やりも期待して待って居ります。

一様、八方美人で行くことにして、リトルキッスさんにも胡麻を擂っておきます。玉石混淆の貴方の提示する情報には、ダイヤモンドの原石かも知れなさそうな情報も入っているかもしれませんよ。実は、今それを確認中です。それを確認するにはここ1年近く掛かりそうですが、そのうちにリトルキッスさんにその成果を報告致します。

この回答への補足

I
お陰さまで、やっとアウェイから、ホームグランドに戻ってこれました。私なりに区切りがついたつもりです。年始からご挨拶できず、申し訳ありませんでした。文献学の回答は合間合間に考えていますが、その前に、少し前置きをした方がいいと思い、今回はエッセイのようなものを投稿します。


私は回答者の古株の方々同士、確執(と呼ぶべきか、言葉が見つかりませんが)を知りませんでした。しかし何か変だなとは思いはしたのです。サビーヌ少女誘拐に関する問答を読ませていただいた際に、古株の方々の某かの状況は了解できました。私の回答欄には一触即発になる可能性の方々が集まっていたとも、今更、思ったところです。積もり積もったものがあったようですね。
文化的な洗練度の高いコミュニティーを示す「エスニシティ」という言葉がありますが、もしかしたら「ハイソな連中には入っていけんわい」という悔しい思いもあったのかもしれません。私の家はハイソではありませんから、学術関係のコミュニティーに入った時、僻んだことは数知れません。今も時々、「この先生の家系が蓄積した立ち振る舞いの洗練には、到底、私では敵わない」と思うことはあります。こうした差異は話せば話すほど、溝が穿たれて埋めがたくなり、どうしようもなくなるということが起きるものです。いっそ黙っていた方がよろしいということもあるわけです。


経験則で、私は言葉には二つの様態があるようだと感じています。一つは溝を明らかにするものであり、もう一つは橋をかけるものです。
言葉を何に喩えようかというと、私の高校時代の恩師は刀に喩えました。高校生の作文を読んでは、お前の言葉は名刀のようだとか、批評するわけです。またボードレールも言葉の鍛錬を剣術に喩えました。「太陽」(『悪の華』)から引用してみましょう。

>私はひとり、わが気まぐれな撃剣の稽古に出かける、
あらゆる街角に偶然のもたらす韻を嗅ぎつけ、
語に躓くことあたかも敷石に躓くがごとく、
時には、久しく夢みてきた詩句に突き当りつつ。

こういう比喩は『剣客商売』など池波正太郎の世界を彷彿とさせます。ボードレールの時代なら、それこそ、ブラジュロンヌ子爵が登場するアレクサンドル・デュマが描いた三銃士らの世界でしょう。「私は強いんだ」と思えば、ちょっと愉快な気持ちになるでしょうね。
しかし私はどうも、言葉を刀に喩えるのはいただけないですね。経験則でいえば、言葉が刀であり凶器だと思えば、人を傷つける方向に行ってしまいます。なるほど凶器だから自己管理しようと気をつけるわけですが、どこかで「私が本気になればお前など……」という野蛮かつ残忍な思いがあって、何かキレていいと正当化する理由を見つけると、溜めていた鬱憤を放出して、叩き斬ってしまうわけです。こういう言葉は基本的には、溝を穿つだけの作用をします。「相違点を明らかに」などというのが不毛に私に思えるのは、溝は掘れば掘るほど深くなると思うからです。


外国にいて思いますが、案外、言葉は大量には要らなかったりするものです。YesとNoの表明がまず基本で、相手を不快にさせないために理由を説明する能力があると尚よい――それだけあれば日常生活は暮らしていけます。そこに加えてゴルギアスの如き弁舌があれば人をまとめることはでき、社会的にリーダーという優位な位置につくことができるでしょう。
しかし己の感情を過剰なまでに描写する必要はないわけです。逆に自分の感情の描写は抑制した方がいいかもしれません。ナルシスティックな人だと思われてしまいますから。生活における必要最小限度というものを考えていくと、文学の言語は不要のものです。ジャック・プレヴェールの「枯葉」の歌詞に、こんな一節があります。

>その歌は僕らに似ていたね。
君は僕を愛していたし、僕は君を愛していた。
僕らは一緒に生きていた。
僕を愛してくれた君、君を愛してくれた僕、
でも、人生が愛し合うものらを別れさせてしまった……

空想するに、若い二人は、歌のような感覚を共有していたのでしょう。これを広げて解釈すれば、お互い、美しいと感じるものがあって、それを前に「きっとあの人も私と同じようにそれが好きなんだわ」とでも思って、沈黙していたのかもしれません。その時が実は一番、溝が穿たれていなかったりするように私は思うのです。こうした幸福な沈黙において、言葉は何をできるでしょう。下手に「私はこう思うね」などと語れば語るほど、差異が明らかになって、溝を穿っていくだけではないでしょうか。むしろ「楽しいね」「美しいね」「いいと思う」――そんな抽象的な言葉の方が必要とされていたりするものです。最小限に必要な言葉という感覚があればこそ、実は淡い感覚を共有できたりするものです。

補足日時:2011/01/25 15:35
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この回答へのお礼

II

さて、文学の冗長さはどういうものでしょうか。たとえばフロベールの小説は、実はたった一パラグラフでまとまる事件を、長々と細部を加えて弁じています。『感情教育』も『ボヴァリー夫人』も、五行もあれば、レジュメできるでしょう。前者は青年の淡い恋の話、後者は人妻の不倫――どちらもよくある事件で、詳細に説明するだけ野暮かもしれません。こういう事例は、語らずともよい細部を語り、切り分ける言語と言えないでしょうか。フロベールは、わざとやっていたのだと思いますし、いわゆる「愚かさ」bêtiseと呼ばれる議論で、その真骨頂である『ブヴァールとペキュシェ』など、私は大好きなのですが。
ただマラルメの冗長さは逆のようです。彼がただの空想として、描いた詩は幻想であって何事も起きていません。人魚が溺れたのかどうかとか(à la nue accablante tue)、自分は美しいニンフを連れて来たのか、それとも連れてきそこなったのかとか(「牧神獣の午後」)などです。何も起きていないところで空想し、空想で白紙を黒く埋めたのです。

ボードレールの言葉はどうなのでしょう。『悪の華』のソネットは、読者に与える刺激をよく計算し、もっとも強い形になるようにしたという意味では、冗長とは無縁であると言えましょう。また剣に喩えたという意味では、やはり切り分ける言語なのです。
しかし手術をするメスのように、必要範囲だけ切れれば、無駄がなく、よしとするというものでもないようです。猪突先生はよくおわかりでしょうが、散文詩集など、「どうでもよろしいこと」を細々と書いた詩もたくさんあるわけです。また「異教の香り」のように――それは恋人の胸で空想に耽ったというテーマをモチーフにしていますが――、「何も起きていない夢想」を細々と書いたものもあるのです。この意味では、橋をかける要素もあるわけです。

もちろんテーマの不在という問題は、父権の喪失、神の失墜などという文脈でまずは捉え、それを主体の解体などと広げて行くのが定石です。しかし私の個人的な感想という意味では、感覚の共有と冗長の問題を考える時に、有益な事例になるように思うのです。


パロディや冗談、あるいはリトルキスさんのような回答の仕方は、橋をかける言語だと思います。削除されてしまった設問にリトルキスさんは大量の回答を寄せたわけですが、どれも面白く、笑ってしまいました。要するに話の成立しないところに出かけて行って、元の主題とは関係ない話を開始しているわけですが、こうした冗長さこそ、橋をかける言語だといえるでしょう。お笑いだとか、大喜利の発想なのかなと思いましたが、かなり気が利いているなと思いました。私はそういう人は好きです。


――さて、私の気持ちとしては、研究としての文学にも、溝を穿つものと、橋をかける二様態があると、私は言いたいのです。しかし現状、文献学的文学とは、切り分ける学問であって、ぼやっとしたことは述べられません。つまり溝を穿つ言語なのです。
文献学的文学は、まず、規則を守らないと話が開始できません。私が博学の回答者を一人放りだしてしまいましたが、彼の裏の意図が何だろうと、関係ないのです。大学のゼミで、よく勉強していそうな学生が教官の怒りをかって放りだされることがしばしばありますが、これは相性の問題もある一方(相性が良ければ教官が学生をやんわりと諭せますから)、それ以前に規則を守らないと研究にならないからだと言えます。
ただそれとは別に、テーマの取り方としても厳しいものがあります。たとえば「ボードレールと~~という作家が関連あるのじゃないか」というときに、直接的な影響関係があるというのか、あるいは併置すると「面白く」読めるという問題なのか、単なるアナロジーの問題なのか――を厳密に問いますし、論者も自分で先にいうことを求められているのです。直接的な関係というのが最も手堅く、次に「面白さ」の意義が認められれば、ある程度、テーマの自由は許されもするのです。しかしアナロジーというのはよろしくないようです。ことによったら英米文学だと許される側面があるかもしれませんが、仏文学に関しては、かなり厳しいですね。これをどこまで許容できるかで派閥も決まってくるように感じています。

批判もされましたが、私は自分では、かなり緩いつもりなのです。というのも、溝を穿つ言語の暴力性なり排他性を私はよく知っているつもりですし、実際のところは反対でもあるのです。研究としての文学において、想像力や創造性がどう機能するかについては、追って、猪突先生の質問のお礼欄に投稿します。以上は、読み物的な前置きなのです。

お礼日時:2011/01/25 15:40

#79からの続き。



ここで改めて#61の最後の方で紹介した私の先生の言葉を引用します。

「若者に物理学を教えるのに、我々が今までに何が解るようになって来たかを教えるのは大変悪い教え方だ。そうではなくて、我々は未だ何が解っていないかを教えなくてはならない。さもないと、二流の学生だけが残って、何かを創り上げようとしている一流の学生たちは他の分野に逃げって行ってしまう」

その言葉と、

>文学は機転や発想という要素よりも、蓄積を重んじる分野なのでしょうね。

という言葉を比べてみると、文学は野心のある若者向きの学問と言うよりも、どうせ直に死んで行く年寄りの学問だと言うことになってしまいそうで、文学は危機的な状況に来ている学問ではないかと言うことが出来ませんか?

補足に成りますが、物理学にも、観測の問題や、紫外線発散の除去に関する繰り込みの問題や、時間の対称性の破れの問題などの有名な難問の大問題が幾つかあります。それに関して、私は多くの研究家達からしばしば次のようなことを聞いて参りました。曰く、
「これらの問題は大変難しい有名な問題であるから、もし貴方がその問題に取りかかりたいならば、過去の業績を徹底的に理解して、大変慎重にやらなければならない。このような有名な問題で貴方が間違ったことを言ってしまうと、そのレッテルを貼られてしまうから気を付けなさい」

実は、この忠告は余りにも馬鹿馬鹿しい忠告なんですね。学問をトコトンやっている人達は皆頭が良いんですよ。だから、慎重にやっていれば答えが出て来るような問題で重要な問題は、もうとっくに解決しているのです。このような問題が未だに解決出来ていないのは慎重さが足りないからではなくて、その反対に思い切った大胆な発想や視点が欠如しているからなんですね。その発想や視点がまだ見付かっていない。だから、どんなに慎重にやっても答えが出て来ないのです。したがって、このような大問題をやるときの基本的な態度は、間違いを怖れること無く、大胆に新しい発想や機転を導入してみる態度の筈です。

事実、もしそんな大問題で、間違った発想を導入した結果、間違った答えを出したとしても、それは、慎重過ぎて何もやらなかったその他大勢の人や、あるいは慎重にやり過ぎて結果を出せなかった人と比べて、その問題が未だ解決できなかったと言うことに関しては同じです。それれどころか、大胆な人は間違っていたとは言え提案をしただけ称賛に値します。何故なら、その大胆な提案でもまだ問題が解けないことを明らかにしたのですから。だから、失敗を怖れず、また過去の経緯に余り拘り過ぎずに、どんどん大胆なことを言って、間違う必要がある筈です。そうすれば、そのうちに何かが出て来るかもしれない。#66で触れたゼベヘリー(V. Szebehely)教授の「大きなテーマ」の話しも思い出して下さい。

その反対に、我々が慎重に物を言わなければならない状況とは、余りにも簡単な問題やどうでも良い問題で間違ったことを言ってしまうことです。そんな状況で間違ったことを言ってしまったら、それこそ単に馬鹿だと言うレッテルを貼られてしまうからです。大切な問題で間違った提案をした方は、その大胆さ故に賞賛されることはあれ、馬鹿にされる筈はありません。そのような大胆な方に変なレッテルを貼る人達がいることは私も承知しています。そかし、それは、単にそのような人達には生産的であることがどう言うことであるかが解らない程度が低い人達であることが証明されただけです。

ですから一見行き詰まって見える状況にたいしてより生産的であるためには、大胆な発想や機転の方が、慎重さや知識の蓄積よりも遥かに重要なのはではないかと思っております。だから、若者にも出番がある。貴方のやっている学問では、その辺りはどうなのですか。
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気になったことを述べてみます。



私は文系の専門家ではありませんので、外国の古典とされている本は日本語の翻訳で読みます。そして、その経験から、若い連中に古典とされている作品を読む時には、いつも次のように忠告して来ました。

「いきなり本人の書いた物を読みなさい。名著全集などで、しばしば、その作品の前に訳者による前書きや、その作品の解説をその作品の前に書いてある物がしばしばあるが、そんな物から読んでは駄目だ。そこを読まずに、いきなり本人の作品を読みなさい。何故なら、余りにも当たり前なことなのだが、その作品が古典とされて残ったのは、そんな解説者や翻訳者の解説があったから残ったのではないからだ。解説者がどんなに優れていようが、作品その物はそんな解説よりも桁違いに優れているから、その作品が歴史の中を生き残って来られたのだ。そして、その作品を読んでいて、時々気分変換が必要となった時にでも、その解説を頭休めのつもりで、そして、はぁー、そんな解説をする奴もいるのかと言う程度の気持ちで読みなさい」

このように読んで見ると、その作品が直接私の頭に訴えかけて来て、私なりに個人的に感心したり目から鱗が落ちたりの経験をする。私にとっては、その個人的な経験が最も重要なことであり、解説者によると、ここはそのように解釈するものだとか、いいえ違うのだと言われるよりも、私の生き様に多大な影響が得られるのです。そして、古典の使命とは、そのような物だと私は考えているのです。実は、これは私の物理の研究でも同じで、ある問題を論じるときに、私はいつも、それを最初に提唱した方の論文だけを読み、それに関して解説している他の論文や教科書は滅多に読みません。殆どの場合、後からそれを再導出した人の論文の方がエレガントなのですが、それでも、それを提唱者の論文を読んだ後で、ほんの参考程度に読むことがときどき有る程度です。その結果、その問題に関連した何かを私が述べる時には、殆どの場合、何処かの教科書に書いてあるようなことを書かずに論文が出来ていると言う自負があります。

ところが、貴方のやっていることを聞いていると、その解説が適切に書けるようにならなければその分野で一人前として認められないと言う印象を受けました。だから、

>結局、文学は発想の応用よりも、読みこなした文献の量が物をいうから、時間が必要なのでしょう。そして熟知すればするほど、身動きが取れなくなるというより、自分に好都合な例証を引いてこれることになります。文学は機転や発想という要素よりも、蓄積を重んじる分野なのでしょうね。

という言葉が出てくる。私から見ると、文学の方法論が、私にとって危険な方向に行っているように見えないことも無い。あるいは、文学者達は、人間は文学に関して殆ど行き着く所まで行き着いてしまっており、今更全く新しい発想や機転が重要な役割をする場所は残されていそうも無いので、過去の知識の蓄積で勝負する以外に方法は残されていない、とでも言うのでしょうか。

私にはどうも訳が解らないのですが、自然科学の歴史を見て来ると、人類は繰り返し同じ間違いをして来ているようです。アリストテレスにとっては自然界は全て解っていました。バチカンもそれを受け継ぎました。しかし、ガリレオやニュートンが出て来ました。その後、ラプラスと言う18世紀の数学の天才がラプラスのデーモンという概念を導入して、ニュートン力学によって人類は自然界の全ての情報を手に入れている、と豪語しました。しかしその後、アインシュタインとマックス・プランクが出て来て、相対性理論と量子力学によって自然界の世界観が一変しました。ところが最近では、またまたスティーヴン・ホーキングが、人類は神の書き給うたシナリオをもう一歩で読めるような所まで来ている、と私に取ってはとんでもないことを豪語しております。これと殆ど似たような主張を、素粒子に於けるパリティ対称性の破れで有名なリー博士や、弱い相互作用と電磁相互作用を統一する電弱統一理論で有名なスティーヴン・ワインバーグ博士からも私は聞いて居ります。彼等に言わせると、自然界を理解するには、今更全く新しい発想や機転が必要は訳ではなく、今までの理論をより精密にして行けば良いとのことです。何かこれは、貴方の言う文学系の人の言いそうな危険を感じます。人類の歴史って決してそうではありませんでしたよね。なのに、この方達は、歴史的経験を理解していないのかどうか解りませんが、現在がどうも特別で、自然科学も殆ど終焉の状態に来ているとでも言っているようです。

ところで、文学ではもう新しい発想や機転では世界がひっくり返ることが起こらないほど終焉の状態に来ているのでしょうか。
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たったこれだけの情報のやり取りで何かの結論を導き出すのは無謀だと知りつつ遊んでみます。

これも私の先生から学んだことなのですが、その方は今の時点で与えられている情報だけで押し切れる所まで押し切ることをいつもしていました。勿論情報量も限られて居り、また、自分自身が現在立っている立場が未知なことだらけであることを百も承知しているのですが、敢えてそれをやるのです。ほとんどの人は、たったそれだけの情報量で何かの結論を引き出すことを躊躇致します。それどころか、結論を導くことを非難することすらあります。しかし、私の先生はそれでも暫定的な結論を引き出そうとトコトン努力していました。私は、そこに生産性の奥義の一つを見たのです。

私は何とか自分の経験に重ねながら、文系のあなた方の営みを理解したいと思って居ります。だから、私の議論に牽強付会な所があっても、それはお遊びと思って自分ではそれを許してしまうことにします。

さて貴方の文章によると、詩を分析するということは、その時代背景や歴史的背景を理解しないといけない言うことらしいですね。そして、それに関して、経験的に専門家達を説得させる方法論が確立している。それが文献学としての方法だと理解しました。ところが、詩を詠むには必ずしもそのような訓練がいるわけではない。その辺が、私のやっている物理学とは違うような気がします。何故なら、物理学では先ず物理学特有の方法論を理解できていないと、何も出来ないからです。

実際物理学には、やはり確立した方法論がある。それは、どんな現象を論じるにも物理学の基本法則との関係を眺めながら、一元論的に世界を再構築する態度が要求されることです。余談ですが、ここが、工学とは違う所で、工学では役に立つものを作るのが至上命令ですから、それが基本原理とどう関わっているかを知ることは本質的ではありません。だから、基本原理との関係はまだ解ってはいないが、しかし誰にも否定できない経験的事実から出発して、論理なり機械を構築すれば良い。この方法を理系の専門用語では現象論的方法と言います。現象として否定できない経験的事実は幾らでもある。だから、工学は物理学とは対照的に、本質的に多元論的なのです。それに対して、物理学ではこの基本原理からの視点ないし関連で現象を論じないと説得力がない。だから、その訓練が必要なのです。

文学の研究に於いて、それが多元論的か一元論的と言うのは多分余り意味がないことだとは思いますが、少なくとも貴方及び貴方の周りの先生方は、文学系の専門家を説得する方法論なるものが存在ており、それが文献学的な手法であると言って居られるようですね。


>あらゆる議論は多かれ少なかれ、文献学「的」です。しかし文献学者となると少し違います。

この微妙な表現を私なりにこう解釈してみました。たとえば、物理学でも物理学その物を研究している人(これが大多数の物理学者です)と、科学史としての物理学を研究している人がいます。前者は、物理学の方法論を使ってこの世界を自分の中で再構築しようとしていると言う意味で、あたかも詩人のようなことをやっている。この行為を賽子さんは、文献学「的」行為とでも言うのでしょうか。一方の科学史家は自分で物理学的寄与をしようとはしていない。そう言う意味で、あたかも、自分で詩を詠むのではなく、他の人の詠んだ詩を分析してる文献学者の様な者だと言っているように思えました。そう解釈して、だから何なのだと言われても困りますが、まあ、そう解釈出来そうです。

ところで、好奇心からの質問をしてみます。上で述べたような物理学的な方法論を自分の物にした後で、いろいろな分野の問題に取りかかってみると、大抵の場合、まだその分野の人達にとっての常識を私が理解できていない取りかかりの始めの時に、自分でも満足できる斬新な良い仕事ができた経験を何度もして来ました。その反対にその分野での常識が解り過ぎると、斬新な仕事をするのが難しなってくることもありました。だから、良い仕事をすることと、その分野のことを知り尽くすと言うことの間には強い相関があるように思えない。それどころか、場合によっては、知ることが害に成ることすらある様です。物理学の歴史を見ていると、殆どの重要な仕事は、年寄りではなくて若い連中によってなされて来た理由が、どうもこの辺りにありそうです。貴方の分野ではどうなのでしょうか。そして、そのことと、文献学的手法の間の関係はどうなっているのでしょうか。
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この回答へのお礼

おっしゃることを考えてみました。まず限られた情報を吟味するというのは、私もよく教えられました。すべての資料を読むことは不可能である以上、確固としたものだけをまず吟味するようにとのことでした。そこでおっしゃる手法は、非常に納得できるものです。

専門家同士を納得させる方法である文献学に、パロディが含まれないというのは、確かにその通りかもしれません。ただ文献学というのは総称で、文学のみならず、哲学、法学、言語学など、全ての人文学の基礎になっているものです。
文学における文献学にはいろいろ規則があります。たとえば「Aという文献は別の文献Bと関係がある」という時に、内容が似ているというだけではなく、AとBに共通する語彙が出現しないとなりません。また辞書の引き方も一風変わっていて、語源を徹底的に調べたりもします。たとえば象徴symboleは「割符」を意味するギリシア語が語源であるとかです。これによって、symboleとは双方があたかも割符と割符をペタッとあわせるように、直接的に理解できるコミュニケーションの手段を示すとみなすわけです。他には手稿を研究するというものです。ボードレールは決定稿ではCと書いたが、それまでにはDと書いているから、きっと彼の脳裏にはCではなくDに関連するものが潜んでいたに違いないと仮説を立てたりします。
これらは規則であって原理となるには至らず、おっしゃるように、多元的ではあるでしょう。原理を研究したからといって何が起きるわけでもありません。確かに語源学とか、生成研究学という分野もありますが、これは原理を探求するというより、個々の事例をまとめ、技術を伝達するという範囲です。手稿研究をやるにしても、フロベールやプルーストのようにそっくりそのまま手稿が残っている作家もいれば、ボードレールは手稿の大半を処分してしまった可能性があります(少なくても見つかりません)。では、どうしようか?という個々の問題です。また、たとえば、ボードレールとマルクスの関係は薄らとは推測されているけれど、ボードレール自身がMarxと書いたことはありません。そうしてみると、どう議論するかといえば、ボードレールとマルクスの社会的な背景は共有されていたはずだ、と視点を少しずらすのです。

こうした経験則は、工学に近いやり方かもしれません。文学研究における文献学者を私の一存で喩えたら、美術館の修復家のようなものです。つまり作品は、時代とともにニュアンスが変わるけれど、その作品の原状を回復しようとするものです。そのためには注釈をつけたり、解釈をつけたりと、補助する部品を補ったりするわけです。ここに創造的な営みがあるかといえば、難しいところです。創造するのではなく、修復家なわけですから。翻訳はさしずめ、複製をつくるようなものです。修復する対象が個々の一篇の詩作品だと、あまりに社会的意義はないかもしれません。しかしこれが習熟してくると、一作家に関する研究ができ、さらに複数の作家をやれば流派に関する研究となり、もっと進めば時代という大きなスパンを対象とすることもできるでしょう。時代の一部を、文献を集めて分析することによって、再現してみた結果、社会的な意義を問う発見が生まれることもあるでしょう。

さて、文献学の性質と、仕事の成否の関係ですが面白いですね。私は考えたことがありませんでした。若い天才文献学者がいるかというと、文学の分野では聞いたことが無いです。しかし文献学でも、言語学では、シャンポリオンやバンヴェニストがいます。となると言語学が物理学に近いのでしょうか。実際、言語学には原理といってよいものがありますから。
結局、文学は発想の応用よりも、読みこなした文献の量が物をいうから、時間が必要なのでしょう。そして熟知すればするほど、身動きが取れなくなるというより、自分に好都合な例証を引いてこれることになります。文学は機転や発想という要素よりも、蓄積を重んじる分野なのでしょうね。
ところで話の目先は少し変わりますが、名探偵もので主任警部モースは、比較的、文献学的な捜査手法を使いますよ。モースの設定はオクスフォードでプラトンを学んだ大学院生が、恋愛で学業をおろそかにして落第したというものです。話はモースが中年になったところから始まります。モースの推理は、ホームズなどに比べたら地味です。原理的に犯人を特定するのがホームズだとすれば、モースは経験則で犯人を探しています。これは時間がかかって、連続殺人犯が全員標的を殺し終えてから捕まえるという失態をやったりしています。が、捜査手法のリアリティも人気もあったようです。個人的に文献学を習熟した人は、他分野でも活躍できるのかなという気がします。猪突先生が整理した見方を膨らませる方向で回答してみましたが、いかがでしょうか。

お礼日時:2011/01/13 04:54

賽子さんにお聞きしたいことがあります。



詩人による創造的な営みと、文献学者による緻密な分析とは脳味噌の使う場所が違うのではないかと思えるのですが、如何なものでしょうか。また、緻密な文献学者で同時に偉大な詩人であった方は珍しいのか、それとも結構居られるのか興味があります。その辺りを分析すると、詩とは何なのだ、文献学とは何なのだ、あるいは詩人と何なのだ、文献学者とは何なの考えるヒントが得られるのではないかと思えますので、ご意見をお聞かせ下さい。
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この回答へのお礼

体調の不良を理由に休んでいたわけですが、どうもすみません。一対多数になったBragelonne裁判は彼と美学と文学の議論をした私の責任もあるでしょうから、出て行かざるをえませんでした。ただし自分の質問欄のお礼もせず、申し訳なかったと思います。また残念に思いましたが、私のサイトでもいろいろ消えてしまいましたね。OKWaveでは、よく発生することのようです。「Q&Aについて」という欄では、抗議してもとり合ってもらえなかったという愚痴があります。私が回答者として参加した質問欄も、丸々一つ消滅したという通知も受けたことがあります。猪突先生のことも心配はしていました。

さてご質問の件ですが、まず文献学とはアプローチの仕方を示すもので、すべての基礎になっています。あらゆる議論は多かれ少なかれ、文献学「的」です。しかし文献学者となると少し違います。
詩人であり研究者という人は近年増えています。イヴ・ボヌフォワがその典型でしょう。彼は詩人ですが、一番フランスで権威あるコレージュ・ド・フランスで文学の講義をしていました。ボードレールやランボーに関する論考も多くあらわしていますし、それは重視されるものです。他に日本ではあまり知られていませんが、詩人アンリ・メショニックもそうです。彼はシェークスピアの翻訳家であり、言語学者のバンヴェニストの研究からキャリアを出発しました。珍しいことではありません。
彼らの議論は最低限の文献学の作法を守り、引用もしているし、フィクションを並べているわけではないのです。ただし全体としては「従来Aと解釈されてきた文献について、Bと読んだら面白いのではないか?」という仮説の提案であって、「いや、面白くないね」と言われたら、それで話は終わりというところはあるのです。

これをする学者は通常、「理論」家と呼ばれます。ポストモダンの時に若干ふれましたが、文学理論は、他の分野の議論を借りてもっともらしく語っているが、実際は証明できないものが多いと言えます。二例あげれば、文化人類学的にも人類は普遍的に同じ感受性をもっているとか、精神分析学的にも主体の形成に社会が彼の無意識に刷り込んだイメージが当人の意図と関係なく関与している――というようなものです。ただし前者を証明するためには、全人類を無数のタイプに分類し、調査しないとなりません。後者に関しては、無意識に社会の刷り込みが入っている人もいれば、それがほとんど関係ない人もいる、というケース・バイ・ケースの議論になりはするでしょう。普遍的なものとして証明できないのです。これは「世界への見方を変えたら面白いのではないか?」という遊び心に基づく提案です。文献学はこういう証明不可能なもの言いを避けるのです。

しかし私は今よりも青い頃、こうした究極の問題は二流の学者が聞きかじって説明しているから証明できないのであって、当の発案者はこれが証明できるに違いないと思っていました。そこで一度、フランスで高名な教授を質問攻めにしたことが私はあります。
教授曰く、「いや、証明できない。ただこれは議論の問題提起に意義が認めるべきであって、論証できないものは存在しないという議論ではないんだ」。さらに私が追及して曰く、「では、大学院生が、先生のおっしゃる理論家のように論文を書いてもいいのですか?」――教授が即答して曰く、「絶対にダメです。文献学的に書いてください」――「しかし教授の講義が文献学的でないのに、なぜ学生にそれを求めるのですか」。ここで教室中が笑いの渦に包まれ、フランス人の学生らが「よくぞ言った」と騒いでいました。私が無神経だと言っているようなものですが、言い訳すると、実際、他の教授に聞いてみましたが、この教授のゼミ生が書く博士論文は、どうも文献学と理論の区別がついておらず、これが要因で評価が低かったのだそうです。これは教育者としてはジレンマです。先生当人は文学理論家だとしても、文学部は文献学的議論に対して評価を出すのであって、学生には文献学者になるように指導しないとなりませんから。

ともあれ、詩人が学者である場合、文献学者ではなく、文学理論家であるか、理論家が大袈裟であったにしても近い位置にあると私は考えています。文献学について疑問は大きな問いですから、私の方から先走らず、ここで一端、擱筆して、次なる質問をお待ちします。

お礼日時:2011/01/11 09:05

何はしゃいでるかね?目出度いって、映画マスクでもみたのかね?(目が飛び出す)



もしもし

●リトルキッスさんに不愉快な思いをさせたんじゃないかと恐縮

スカタン!
恐縮する先を間違えてやしませんか?
あちきにじゃなくて、iacta-alea-estさんへ言葉送るのが礼でしょうに

iacta-alea-estさん、気ぃ悪うにしたらごめんやで
お礼に書いていただいた言葉は、まだキャッシュで見れるから保存しておきました。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=c …


●No.81―――自分を磨いておいた方が良いと思うんだがねえ。

「~したほうがいいよ」
「シェイプアップ」 英語
http://www.talkles.com/care/20063611733.php
と、受け取っていますのであちきは不愉快ではないです

しかし、まあ、もののみごとに身ぃもってかれたなー、笑うしかない。ぶる)))さぶ。ちびっこたちわんさか家に来た。来たら来たで出さなあかん。出した出した吐き出した。アホほどお年玉を吐き出した。スッカラカーン。懐もさぶい、そのうえ今夜はまたよう冷えるときている。家の室内エアコンはヒートポンプ式のせいか外気温が今夜みたいにアホほど下がると突如ピタッと止まる。止まるだけならまだしも、しばらくすると冷たい冷たい風が吹き出し口から出てくる。ホンマ、極寒。身縮こまる。さぶ。おお、さぶ。


おおさぶ、こさぶ、山から小僧がやってきた~♪





写し鏡でこの状況は何かなと?
『十九世紀芸術精神小史(VI) ーレアリスムの変貌―』
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstre …

『蒲原有明に帰れ』萩原朔太郎 著
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/44428 …
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正月早々また目出度いことが起こってしまったようですね。

折角のゆるい文学談義だって云うので、ボードレールの本歌取りをして「濡れ落ち葉」っていう詩を生まれて初めて作ったら、その詩がいきなり幻の詩に昇格してしまった。10個ぐらいの投稿が没だとは、きっと記録達成に限りなく近いかもしれませんね。この教えて欄でも珍しいんじゃないかな。お屠蘇が入るとどうも制御できなくなってつい私の地を出してしまって、ゆるいはずがきつくなってしまい、リトルキッスさんに不愉快な思いをさせたんじゃないかと恐縮して居ります。これも運命あれも運命、やはり与えられた運命を楽しまなきゃいかんのでしょうね。

私の和歌や俳句は皆狂歌や川柳から入ったんで、詩でもその手があるって云うことに気が付いた。この手で少しは詩を楽しめるようになってくれば、そのうちに幻なんて言わずに、その筋の連中を唸らせ詩も歌えるようになるんじゃないかと、今から楽しみにして居ります。

まず掻き初めし 赤恥の
林檎のごとく 見えしとき
前にさしたる扇子にて 顔を隠すと 思いけり
あかぎれに凍む 手をのべて
林檎の頬を さすりては 
薄くれないの 顔いろに
詩を恋い初めし はじめなり

ってなことで楽しむことにしましょう。
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何じゃ、#71で入ろうと思っていたら、いきなりキッスさんから横は入りされた。

で番号が一つ狂っちまった。あれは#72からの続きってことだ。ってえのはこちとたの言い分だが、キッスさんに言わせりゃ、横入りをしたのはこのあたしなんだろうね。#72は推敲している間に間違って回答ボタンを押しちまって、いつもに増して誤字が多い。まっ、我慢して読んでね。
「ボードレールの魅力?」の回答画像71
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#71からの続き。



では、何が起こってしまったのか。私には明治維新とこの間の敗戦という二つの歴史的な出来事と、更にマスメディアがこれに関して多大な影響を与えたのではないかと考えています。何時の時代でもまたどんな国でも、新しい政治体制が出来るとその新しい体制はそれ以前の体制を糞味噌に貶めて自分たちを正当化する。だから、明治政府は江戸時代とそれ以前の体制のあらゆる物を時代遅れなものし、それに対する欧米の文化の優位性を国民に向かって喧伝してその洗脳に精力を注ぎましたね。同じようなことが今度は敗戦後に起こった。アメリカの息のかかった体制を根付かせるために、戦前の文化を否定しまくった。そこへ持って来てマスメディアによる新たな娯楽の洪水がやって来た。カタカナ文化の氾濫は最も分かり易い現象面での現れです。

もしかしたら私が日本の古典に目覚めたのは、外国生活のために私の母と同じように極端に娯楽の少ない状況に置かれてしまったからなのかもしれません。そんな時に、私の母が百人一首を見付けたように、私はアメリカの大学の図書館で日本の古典を見付けてしまった。だからこの方法以外に日常生活を楽しむ方がなかったのかもしれませんね。

こんなことばっかじゃないんだが、私のプロフィールで書いてあることは本当なんで、私は塞翁の生まれ変わり、権現様、現人神、武州多摩郡中野村の百姓源蔵の倅勝五郎なんで御座るのだよ。わかったか~~~~。
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