これ何て呼びますか Part2

十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。

日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。
・恋愛の詩人
・メランコリックな詩人
・サディスティックな詩人
・宗教的な詩人
・魔術的な詩人
・政治的抵抗の詩人
・貧者の側に立つ詩人
・ダンディズムの詩人
・芸術至上主義の詩人
などなど、あるといえるでしょう。
上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。

ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。

ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。
個人的な感想、分析をお待ちします。

A 回答 (89件中1~10件)

賽子さんに質問なんだが、あなた方が研究費を公的機関に要請するときは、どんな根拠で要請するんですか。

何故その質問が出て来たかの説明をします。

今から20年近く前に私の所属するアメリカの大学の物理のコロキュームで、人間のDNAの遺伝子の配列を読むと言うプロジェクトのボスが講演をしていたときです。私の脇に座っていた私の友人が、
「DNAの遺伝子の配列を読む方法は人間でもゴキブリでも全く同じ方法なんだよね。だけど、ゴキブリの遺伝子の配列を研究すると言ったんじゃ、絶対に予算は取れない。だから、この際人間の遺伝子の配列を読むと言っておかなくちゃならないんだ」
と言っていました。

他の例では、核融合の研究ではプラズマという物質の存在形態が本質的になる。これは、電子とイオンがドロドロと混じった状態です。ところがこの状態は、太陽風など、この惑星間でも普通に存在する物質形態で、この惑星間の物性を語るときにもプラズマが立派な研究対象になる。ところが惑星間の問題をやると言ってしまうと、国はお金を出してくれない。何故なら、そんなことを研究しても直ぐに産業界に役に立たないからです。そこで、プラズマ関係の研究者は、たとえ核融合に興味がなくても、お金を申請するときには、この惑星間のプラズマを研究しているとどのように核融合に役に立つかを、あることないことでっち上げて、申請することに大変な努力をしています。

理科系の人達は自分の研究を続けるために、このように涙ぐましい努力をしているのですが、ボードレールの研究なんかで、どうやって公の機関の人々を説得して、お金を出してもらえるのでしょうか。

やはり、理科系の我々のように、あることないことをでっち上げて涙ぐましい努力をしているのでしょうか。それとも、文学に興味のあるパトロン待ちなのでしょうか。
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この回答へのお礼

お返事の間が開いてしまい、ごめんなさい。最初はご研究への配慮のつもりでしたが、次に自分の研究に少し時間を注がなければならなくなりました。

文学のスポンサーは、フランスならば大金を投資する実業家がいないわけでもないようですが、日本では大きく分けて、商業誌と国といえます。商業誌の方は、文学ファンの読者が支えてくれているものですから、「おもしろい」ことが原則だと言えます。ただこれは派手さが必要です。文体が独特であったり、著者が分析ではなく自分の感想をどんどん書いた方が面白くはあるでしょう。澁澤龍彥は在野で仕事をした研究者ですが、彼など研究もしつつ、読者の興味を引くこともできたといえます。ただこういうタイプの研究者は、もう現代ではいないでしょう。というのも華麗な文体や印象批評は、アカデミズムの世界で受け入れられないからです。

国の方ですが、支援の仕方は、主にポストのある研究者に科研費を支給することです。私は科研費を獲得したことも、申請したこともないので、本当のところはわからないとお断りしないとなりません。しかしネットで公開されている文学の科研費の業績報告書を見て思うのは、どれも「文化の根幹にかかわる有為の研究である」と強調しているということです。つまり「ボードレール研究」と書くのではなく、もっと大きな何かのテーマを研究しており、その一例としてボードレールが有効であるという書き方です。これは猪突先生がお出しになったゴキブリの話と同じですね。つまり、ゴキブリが遺伝子を研究するにあたって好例となるという摩り替えの議論と同じことをしていると言えます。

しかし文学研究は、どれほどの研究費が必要なのでしょうか。実は研究者の生活費さえ支給してくれればよく、大金がなくても成立はするのかもしれないと思います。文学は本と資料があれば成立するのですし、基礎文献は大学図書館が既に所有していたりするものです。
未知の資料(たとえば手書き草稿)を求めて、旅行に繰り出し、レアな資料を買い取った先生というのも、私は一人しか知りません(草稿というのは極めて高く、一億円しても不思議ではないのです)。日本の場合、費用は大体、国際会議の類を開いたり、著作を出版したりするために使われるようです。社会に研究を広める際にはお金が必要でしょうが、研究の内実はあまり変わらないというのは、理系に比べて大きな差です。学問としては環境的な影響を受けにくい分野の一つであるのかもしれません。

お礼日時:2011/02/24 11:51

>ボードレール研究で、彼の詩想が、理想を掲げて高みに登り、突然、鬱へと沈みこむ様が、ブラウン運動に喩えられたことがありました。

、、、こういう比喩は知識人の軽いお遊びなのでしょうが、私はブラウン運動を理解することに、むしろ気を取られてしまった記憶があります。

中々良い筋の発想ですね。実は似たような発想をした方が19世紀の後半頃にいたとプリゴジン教授から聞いたことがあります。その人の名前は忘れましたが、その人は株の浮き沈みの動きをブラウン運動としてモデル化できないかと考えたそうです。しかし、そのモデル化で実際の株を予測しても全くうまく行かず、そのモデルは破棄されたそうです。ブラウン運動の基本は、その裏にある乱雑さがガウス分布に従う完全な乱雑さであることが前提なのですが、株の動きは人間の思惑が入るので全くデタラメと言うわけではなく、適度な秩序も入って来るからです。

その後1960年頃からカオス現象が注目を浴び始めました。この現象の存在は1900年少し前にアンリ・ポアンカレというフランスの大数学者によって発見されていたのですが、丁度その頃量子力学が発見されてしまい、物理学者達はカオスどころではないと、その問題に興味を示さなかったのです。ところが、それから半世紀以上経ち、最早並の物理学者では量子力学では重要な寄与が仕辛くなっており、さらに、皆さんそろそろ量子力学に飽きて来てきたころに、コンピューターによる簡単な数値計算で、驚くべき複雑なカオスの軌跡の絵を描かせることができる。丁度コンピューターが流行って来た頃だったし、一寸した簡単な運動方程式をコンピューターで解かせて、ただ絵を描かせるだけで論文が量産できるので、そのころから、カオスに流れる物理屋さんがどっと出て来たのです。

カオスで描かれる絵を見ていると、その絵は全くデタラメでもなく、秩序がきちっとあるわけでもないその中間です。そこで1980年ごろになって、今度はカオスの理論を使って株の動きをモデル化できないかと考える方が出て来ました。その先覚者の一人は私の所属した研究所の一員の中国人の方でした。実はこの頃、数百万年に渡っての地球の気温の変動や、人間の各種の脳波に遷移する脳の動きを、カオスの理論で言うストレンジ・アトラクター上の動きであると仮定した場合、そのアトラクターは何次元の空間の中に埋め込まれるか、という発想が出て来た時でした。そして、私の研究所の人達は過去のデータをコンピューターで処理するアルゴリズムを開発して、それを次々の明らかにしました。

地球の温度の場合には確か4.5次元当たりだと出て来ました。これは重要な結論で、長期的な地球の気温の変化は高々五つの独立変数の変化で決まっていることが明らかになったのです。ただし、この分析ではその独立変数が何であるかを言い当てることは出来ません。しかし、五つだと解ったら、それは何かと言うことは他の資料から推定できないこともないから、大変な進歩ですね。

また。各種の脳波は、眠りが深い場合や、脳障害のある人ほどアトラクターの次元が低く、眠りが浅くなる場合ほどその次元が高くなり、目をさますと10何次元だった20何次元だったか忘れましたが、その次元は大分高くなるとの結論を出しました。この結果は、脳障害の判定に使えそうだと、それを見付けた人は興奮していました。

この話の数学的な面白さの一つは、ストレンジ・アトラクターが整数次元を持たずに、小数点以下が零でない実数次元を持っていることです。数学者達が次元に対するこんな拡張で遊んでいた物が現実のこの世界に在ったと言うことで、このアトラクターは随分持て囃されています。

ところが、その私の友人の中国人に、株はどうだったと聞いたら、株はどうもストレンジ・アトラクターで捉えられないらしい。詳しいデータを入れれば入れるほど次元が大きくなって、どうも次元が発散しているみたいだ。その証拠に、これが巧く行っていば俺はもう疾っくに金持ちになっているよ、って言っていました。

これもやはりプリゴジン教授から聞いたのですが、カオスの驚きは、驚くほど簡単は運動方程式が驚くほど複雑な解を持っているところにある。要するに、驚くほど簡単な原理が驚くほど複雑性を生み出すと言うことだ。ところが、人間の複雑さは、驚くほど複雑な原理が驚くほど複雑性を生み出しているのだ。だから、最近多くの連中がカオスの理論で人間の振る舞いを定式化できないかと問うているのは、人間や自然界を深く理解していない単純な頭の持ち主なんだろう、てなことでした。確かに、脳波の例でも、脳障害者と言う常人と比べて超単純な脳に関してうまく言ったようですからね。

文学者がやっていることは、驚くほど複雑な人間を驚くほど複雑な原理から理解しようと言う立場なんでしょうね。
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雨合羽さん、オギュスタン・ベルクの本を紹介して下さって有り難うございます。

また、サイコロさんの言葉の解説有り難うございます。

私の読書範囲は、若い頃乱雑に読んだ和洋の小説(フィクション物)と、その後20代中頃に偶然にモンテーニュに出会ってから目覚めたたギリシャ ローマの古典(特に歴史書が主)と、高校の教科書に出てくる中世から近代にかけてのノンフィクションの西洋の古典や、書店で偶然に読む気になった岩波文庫のノンフィクション物、それに、40代過ぎになって目覚めた日本の古典(平安期の女性の書いた物は僅かな例外を除いてほとんど含まない。また、江戸時代の僅かな小説を除くと、圧倒的にノンフィクション物です)、それに柳田國男の全集や南方熊楠の全集が主です。現代の物は敗戦直後までのノンフィクション物を除いては、これも例外を除いて殆ど読んでおりません。

私が文学に触手を動かさなかったばかりでなく、このような近現代の西洋の本を読んで来なかったことも原因して、あなた方の言葉の使い方に戸惑うことが多いのかもしれません。同じ言葉を使っていても、業界によって意味が随分違っているのかもしれません。だから、他の業界の人と話すのが面白いと言う側面もあります。物理屋は、近傍、絶対値、微係数、漸近線、内積、直交、関数、汎関数、解析接続、等々の数学用語を日常会話の中に一杯取り込んで冗談を言い合っています。そんな言葉を端から聞いていると、あなた方のデコードだコードだオマージュだなんて聞きながら、私が目がくらくらしているのと同じ気持ちになるのぢゃないかしら。

でも乗りかかった船だ。この夏にはまた日本に行くので、そのときにオギュスタン・ベルクの本を探してみましょう。でも正直に言うと、今、南方熊楠の知識の源泉であった『今昔物語』を何とか読破したいと思っているので、どこまでそちらの本を読み進めることができるかは、保証の限りではありません。もっと正直に言うと、2年位前に折角『今昔物語』全巻を手に入れて重たい思いをしながらアメリカに持って来たのに、インターネットのこの「教えて欄」に引っ掛かったりして、読書時間が激減してしまったことを最近反省し始めているくらいです。

他にも、私が暖めて来た物理のあるテーマの計算を仕始めなくちゃ、なんて反省しています。そのアイデアたるや、もしかしたらここ150年来の大問題が解けてしまうかもしれないとも考えているのですが、今のところ、ここに中毒になっているようなので、その大問題に取りかかれず、あーどうしよう、と言うのが正直な気持ちなんですよね。これがもう10年若かったら、きっと数日で計算が終わっているはずなのに、仕切り直しばかりして、もう既に1年ほど計算をほったらかしております。でも、今までもケセラセラで生きて来たので、今後もケセラセラで行くと思いますよ。
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この回答へのお礼

>インターネットのこの「教えて欄」に引っ掛かったりして、読書時間が激減してしまったことを最近反省し始めているくらいです。

猪突先生は、回答欄を集めたら、読み応えのある、エッセイ集が刊行できるのではないかと思っています。それくらいクオリティの高い回答ですから、どれほどのお時間を割いているか、と思います。
猪突先生も雨合羽さんも、どうぞご自分のペースで参加してください。研究やご家族のことを優先してください。これは生死に似に関わるような質問欄ではないのですから。「閉めてください」と運営者に言われるまで開けておきます。だから、研究や日々の出来事で、おや、面白いことがボードレールだとか詩に引きつけていえそうだと思ったら、思いだしたあたりに投稿してください。

私が理系だった昔、マクスウェルの逸話を聞いたことがあります。――ある時、講義で質問されたことがあったけれど、彼は応答しなかった。質問が聞こえない風でもあった。しかし一カ月後に突如、「質問があった~~の問題ですが」と答弁を始めた、と。私はこのマクスウェル流の会話でこの欄を維持したいと考えています。ですから、どうぞ、どなたも、そんな気持ちでやってください。

ところで、私はルドンのホウネンエビになったわけですが、何だか銭湯の管理人として、なかなかふさわしいイメージであるような気がしています。

追記)文学と自然科学の用語について
ボードレール研究で、彼の詩想が、理想を掲げて高みに登り、突然、鬱へと沈みこむ様が、ブラウン運動に喩えられたことがありました。いや、彼が街を散策する無目的さそのものが、ブラウン運動的なのです。こういう比喩は知識人の軽いお遊びなのでしょうが、私はブラウン運動を理解することに、むしろ気を取られてしまった記憶があります。
他には一般的に、いつまでも帰着しない地点を漸近線と呼ぶとか、不可能な議論を円積問題になぞらえるなど、結構、文学研究では使うのですよ。文学研究は、隙間産業という要素はあって、言語学・心理学・社会学の見方を借りたり、めずらしいところでは、経済学の見方を借りたりします。
ただ自然科学の見方を借りるというところまでは、まだ至っておらず、ブラウン運動などは「効果的な比喩」に過ぎないのではありますけれど。それに、これは大家に許されるレトリックであって、私が使ったら、怒られてしまいます。そもそも私は、正確に語を使えるかどうか、ちょっと自信がありませんけれども。猪突先生がお使いになったら、ウィキペディアなどを引き引き、勉強させていただこうと思います。

ご研究、うまくいきますように。

お礼日時:2011/02/12 09:13

何か書き忘れたかなと思ったのですが、デコード・オン・デコードと言った様態についてでしょうね。

猪突さんは、「多分、自分の直感と日常言語で論理を展開する過程のこと」とおっしゃっています。物理屋さんの話なら、うん、そのとおりだ、とも思いますし、ブンガク屋さんの話なら、ちょっと違うかなと思います。
先に挙げた著者のギリシャ・ローマ神話ですと、本流オイディウスやヴェルギリウスの詩の訳と解説が本軸であるわけなのですが、ゾロアスター、仏教、ヒンドゥー、ダライ・ラマ、ワルキューレ、トール、アイスランド神話、ケルト神話と風呂敷を拡げて幕を閉じます。

これがブルフィンチにとって、直感と論理の展開する過程に起きたことであるのは確かです。でもその展開の過程で、一人の神様だか人間だかの話をするのに、旧約聖書や、ミルトンや、トマス・ムア、バイロン、ワーズワースなどを縦横無尽に引いてきて、この話についてこんな詩があるよとブルフィンチは書きます。
ローマ詩人の世界、その世界を覗いたスコットランド詩人、その世界を覗いたブルフィンチ、その世界を見るわれわれであるように本が作られているので、まあ、デコード・オン・デコード・オン・デコードと呼んでみてます。
文学が民俗学と接近しているときに起こる豊かな感触なのではないでしょうか。つまり、さきほどの話を思い出すなら、コードが、民俗や社会や人類へと見通せそうな役割だとか、類型だとかの要素として透けてくる。この要素が仕事している体系というものが感じられるようになる。どうでしょう。

、、、蛇足ながら、ルドンは、自然観察を基本姿勢として幻想の枝葉末節を拡げていたと自著していたのを記憶しています。元がホウネンエビかどうかはわかりませんが、もしかするともしかしてホウネンエビなんじゃないでしょうか。それはさておき、マラルメがアタマの中の想念や情報だけを往来させ交換できるというビジョンを持っていたので、その世界をイメージした同時代の画家たちのなかでは、ルドンは比較的このイメージに苦労した人のようですよ。
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猪突さんのご反応に頻脈をおぼえつつ感謝しております。

数日前から感謝しているのですが、子供は母親のスカートの中にいたまま外遊びからは帰りたくないという歳になってしまい、わたしは戸外で寒さに足踏みしながら猪突さんにどんな返信をさしあげられるだろう、と頭の中でまとめたりほどいたりしているのです。
コードといったのは、門をくぐる学生であったなら、舌足らずを呟くな皆まで言えと喝を入れられたところでしょう。構造分析用語でした。文化人類学者のレヴィ=ストロースとか、批評家のロラン・バルト、記号学者のグレマス、ブレモン、文芸理論家のジュネットなどが、かつてのわたしのレポートの類に際して横積みとなった構造分析家なのですが、ナラトロジーというジャンルがありまして、和語で何でしょう、物語論かな、そこで用いられる〈コード〉がわたしの抽斗にあったものでした。
体系(system)に仕事する要素、といえばうまく言えているのではないかと思います。
とすると当然、要素とその仕事意義がみつかるに足るだけの体系も、一斉に図式化されるといえそうです。
するとやはり、もしかすると、猪突さんが教えてくださった物理屋さんの過程では、体系に仕事する要素はこれだな、という直感があり、この直感は一体何であるかと、直感するわれを慎重に解読し、なればこの図式でいけるかという数学のエンコードをたびたび破棄しながら、要素の仕事意義も体系図式も、都合をみて転げ回し、ある段階で図式の確定にいたる。そうして要素もエンコードできて歴としたコードに、つまり体系に仕事する要素をことごとく数式で定義するにいたる。という感じになりますでしょうか。
いや、そういうことではないのかしら。ややこしいな、要素というのが。

数学っていうのは、体系に仕事する要素と考えていいものですか? いつもただ何かの役立つ要素であると。そうであれば、物語構造分析と物理ないし数学の話があいそうです。
構造の話から離れますと、物語のほうでは、体系に仕事する要素としてコードのほかに、コンテクストがじつに重要で、日本語がコンテクストの仕事率の大きい言語だというのはよく言われることですが、これを露化率の高い言語だと呼んだ面白いおじさんがいます。「空間の日本文化」「風土の日本」「都市のコスモロジー」などをもうお読みかもしれませんが、オギュスタン・ベルクという、ただならぬ風土地理学者を、猪突さんにおすすめしたくなりました。
感覚からコードへ、という問題を、文化論の洞察の深いところで見せてくれると思いますから。
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この回答へのお礼

>コードといったのは、門をくぐる学生であったなら、舌足らずを呟くな皆まで言えと喝を入れられたところでしょう。構造分析用語でした。

すみません、コードの話を理系の問題として振ったのは私でした。皆さま、ごめんなさい。もちろん、構造主義の理論は一通り読んでいますが、そういう発想に切り替わらず、私の頭が固いと思ってください。猪突先生のお役にたてばと思って私からも補足をします。雨合羽さん、差し出がましいかもしれませんが、少しお話に混ぜてくださいね。

(1)ナラトロジーについて
物語論(ナラトロジー)は、ナレーションnarrationという語の派生語であるように、とある物語について、その語り口を研究するというものです。
たとえば同じ中身を語るにしても、語り口で様々な色がつけられますね。人が殺されたという話も、ニュースのように淡々と語ることができれば、推理小説の出だしのように語ることもできるし、壮大な人生の終わりという風にも描ければ、場合によってはコメディにもできるでしょう(たとえばレイモン・クノーという作家が『文体練習』という作品で、短い話を、これでもか、これでもか、と何十通りもの方法で書き分けています)。
これらは一見まったく違う装いなのですが、同じ中身を言っているじゃないか?!ということは多々起きるわけです。このようにみると、話には、大きく二つの要素があることになります。
・話し方(ナレーション)
・中身(物語内容)
それで、あるテクストを分解し、その話し方が何を意味するかを読み解くことをデコードであるという風に私は理解しています。無機質な話しぶりなのか、侮蔑的なのか、オマージュなのか、という風に話し方そのものに何か意味付けがあるのではないか?と考えてみようというのがナラトロジーの根幹でしょう。そこで次のように言えるわけです。

>(……)その展開の過程で、一人の神様だか人間だかの話をするのに、旧約聖書や、ミルトンや、トマス・ムア、バイロン、ワーズワースなどを縦横無尽に引いてきて、この話についてこんな詩があるよとブルフィンチは書きます(No89)。

雨合羽さんの上述の言葉を、例をあげて膨らませてみたいと思います。たとえば熾天使ルシフェルの失墜を旧約聖書もミルトンも語っています。しかし旧約聖書では傲慢の罪で落とされたという神の側の視点で書かれているのに対し、ミルトンでは悪魔の視点から敵わないながらも高慢な神に抵抗するという語り口に変わったという違いがあります。同じことを語っていても、二つの記述では語り方が異なるわけです。

(2)本歌取りの連鎖、間テクスト性
こうしたテクストの連関は脈々とつながっているわけです。聖書のテーマを模倣したミルトンがいれば、それをさらにボードレールが真似し(「白鳥」など)、ボードレールを他の詩人らが真似し、……など脈々とつながっていきます。
文学の用語だと、こうした繋がりを間テクスト性といいますが、日本文学でいえば、本歌取りといってもよいものでしょう。それを雨合羽さんは次のようにデコードが繋がる形で、説明したのだろうと私は思います。

>ローマ詩人の世界、その世界を覗いたスコットランド詩人、その世界を覗いたブルフィンチ、その世界を見るわれわれであるように本が作られているので、まあ、デコード・オン・デコード・オン・デコードと呼んでみてます。

このように間テクスト性の網の目が明らかになっていくとき、何かしら、一つの物語内容に関して、全体の様子が見えてくることになるでしょう。こうした全体に通底する問題に関心を持つという研究のありようは、なるほど、民俗学に近いと私は思います。
実際、たとえばボードレールが神に立ち向かう堕天使の姿を崇高と捉えたのは、十九世紀前葉におけるフランスの社会が圧政に対する抵抗を求める風潮にあったからだと言えます。ある語り口が成立したのは、時代背景や環境など、コンテクストと無縁ではないといえるわけです。

舌足らずなところもありますが、雨合羽さん、大丈夫だったでしょうか。おそらく、あまりお時間がなかったのだろうなと思ったので、差し出がましいと思いつつ、私の理解のあり方を示しつつ、少し補足めいたことを書きました。猪突先生にとっても、参考になるようなものであったらいいのですが……。

お礼日時:2011/02/11 09:41

#86からの続き。



想像の世界と現実と言うことに関して序でに似た話しを紹介しましょう。人間は羽根を使わずに空を飛ぶ方法を見付けていますね。それは気球です。ヘリコプターもどうだと言う方もいるかもしれませんが、あれはハチドリの飛び方と本質的には同じなので、やはり羽根を使っていると言えましょう。しかし、気球は全く違った原理で空を飛んでいますね。これは人類だけが見付けたことでしょうか。実はそうではなく、自然界の動物は疾っくにこのことを利用して空を飛んでいます。賽子さんは蜘蛛が空を飛べることを知っていますか。たとえそれに気が付かなかったとしても、「蜘蛛の子を散らす」という言葉は知っていると思います。子蜘蛛が母親の巣から巣立つときに、あの小さな蜘蛛が尻から糸を吹き、その糸にぶら下がって風と共に空を飛んで行きます。だから、蜘蛛は生まれたところから何百キロも離れたとことまで移動することもあります。

これも私がヨーロッパに住んでいたときですが、夏でも肌寒い北海の海岸に家族と海水浴に行ったときです。引き潮だったので、海岸から2百メートル位沖の砂浜にゴザを敷くいて子ども達が水浴びをしているのを見ていたときでした。突然気が付いたのですが、きらきら光る細い糸と共に小さな蜘蛛が私たちの周りに何匹も絡み付いたのでした。私は、あっこれだ、と直ぐに合点しました。子蜘蛛の集団が自分の尻から出した気球に乗って、この何もない砂浜を飛んで来たのです。

他にもカタパルトを使って空を飛ぶ方法は、コメツキムシがもう既にやっています。勿論バッタもカエルもカンガルーもカタパルトですね。また、ジェット噴射だったら、イカやタコがやっている。トビイカなどはジェット噴射で空中に飛び出した後、50メートル位の距離を飛びますね。

前にも書きましたが、我々人間が頭の中で想像が付いたり、論理をひねくり回しているよりも、自然界ってよっぽど先を行っているのですね。だから、私はフィクションの世界よりも人間の営みも含めてノンフィクションの世界の方が桁違いに奥が深いと思っているのです。

ここで、またいつもの身に纏った刺を出すと、文学ってそんな人間の頭でも創り出せるような底の浅いフィクションがテーマになっているような気がするのですが、このことに関してどうお考えになりますか。
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この回答へのお礼


ただ、これは作家の想像力を自然の力と対立させるようなものではないという気が私はしています。やはり作家も、自然を参考にして創作しているのでしょう。ゼウクシスの故事が示すように、何かを創造するにあたっては、ゼロから全てを構想するのではなく、様々な自然の諸要素を貼り合わせて作るところがあるのだと思います。
これはまさに、前のデコードに関するご回答に引きつけて考えられると思うのです。物理学者はインスピレーションが先にあって、それをどう表現しようかと模索して行くとおっしゃいましたが、同じことは芸術の表象においても起きているようだと私は思います。自然現象なり、いろいろな表象を参考にしつつ、練り上げて行くというプロセスがあるだろうと思えるのです。

たとえば河童の表象についてですが(雨合羽さん、すみません、私が知っている好例がこれだったので)、聞いた話によると、頭に皿を載せて水掻きをもっている人間のような生物というイメージが成立したのは、実は日本で近世のことのようです。中国では沙悟浄などいますが、水の精であって、頭に皿を載せた生物ではなかったのだそうですよ。
こうした「モンスター」の表象は、大体、ゼロから新しいものをつくったのではなく、スフィンクスのように、既存の要素を貼り合わせるのですね。

天使も同様だといえるでしょう。理屈からすれば、猪突先生のおっしゃるように、私もこれは羽ではなく、翅なのではないかと思ったことがあります。虫の方が天使に近いように私には見えます。実際、異教的な意味での天使がはやしている翼は、翅であったりするものです。
なぜ鳥の羽根でなければならないのかといえば、鳥が西欧的な意味での神を象徴するからなのだろうかと、私は首をひねってみたりします。虫より、鳥の方が、何か人間にとって近しいような気がするかもしれません(という感覚自体が人間中心主義だという指摘を生物学者ならするかもしれません)。
要するに神に近い存在であることを示そうとしたら、神の一要素である「鳥」を合体させたということに思えるのです。

こうした表象の生成過程について、バルトルシャイティスは面白い議論をしています。様々な表象を集めてみて、その共通点を浮かび上がらせているのです。人間が重要だと感じる形は、実はどこかで通底しているものがあるのかもしれません。

さて、私のトレードマークとなったルドンですが、マラルメの詩に即すると、あれは人魚でしょうね。人魚といっても、サイレーンといって、歌を歌って海難事故を勃発させる生物です。マラルメの詩はサイレーンをしばしばモチーフにします。しかし私は当初、何か人間になり損ねた微生物のようなものかと思いました。人魚といっても妖艶ではないし、女性らしくもありません。
ただ、勝手に深読みをして、今ではそれが逆に味があるなと思うのです。ルドンもマラルメも、子供を亡くした時期なのです。だから人間のようでいて、人間になり損ねた「何かの生物」の姿は、どこかで大人になれなかった子供の姿を反映しているように思えるのです。

お礼日時:2011/02/11 08:18

ルドンの挿絵を見て私が思い出したのは、何とホウネンエビでした。

ブライン シュリンプとかシーモンキーなどとも言います。鑑賞者から見ると一見超現実的な世界や構図に見える物が、実は現実の忠実な写実だったりすることもあるのですね。SF映画の宇宙人や怪奇な想像生物の絵を見ていると、人間の想像力の貧弱さが良く判る。どういうわけか宇宙人は皆、地球上の生物の寄木細工だったり、未来の宇宙人が中世の人達の服を着ていますからね。

ブリュッセル暮らしをしていたときに私の好きだったマグリットの絵:

http://www.google.co.jp/imglanding?imgurl=http:/ …

が実はシュレリアリズムでも何でもないことを発見したときには驚きました。日が一番延びる6月の遅い宵にカンブレの森を散歩しているときでした。未だ明るい広場から森に入って行ったら、ベルギーは緯度が高いためにもう森のなかは真っ暗で、街灯も点いていました。そのまま前を見て歩いていたら何でもなかったのですが、どういうわけかふと空を眺めたんですね。そしたら空は明るい青空でした。そのとき、何だマグリットのあの絵は彼の頭が創り出した世界でも何でもなく、この辺りに住んでいれば誰でも知っている景色を写実しただけだったのかと知ったのです。実際私が見た景色はこのマグリットの絵で家の部分を街灯に入れ替えた景色その物だったのですから。

ついでに、私の持論である天使昆虫説を紹介させて下さい。これも人間の想像力の貧弱さを良く物語っていると思うからです。鳥は羽根を手に入れて空を飛ぶことができるようになりました。しかし、それに払った犠牲も大きかった。何故なら鳥はそのために手を失ってしまったからです。ところが天使には羽根もあるが手もある。だから、これが鳥類である筈がない。さらに天使はあの羽根で空を飛べる筈がない。鳥を良く観測してみて下さい。ニワトリを食べるとわかるように、胸骨が人間のように胸に平についているのではなくて、胸に直角の方向大きくせり出している。あの部分に巨大な筋肉が付いています。だから鳥は皆鳩胸ですね。そして、そこにあれだけの肉がついているので食べがいがる。鴨の肉も同じです。あれだけ巨大な筋肉を付け、あれだけ鳩胸になってやっと空を飛べるのです。でも、鳩胸の天使を見たことがない。

しかし人によっては、そもそも天使は神秘的な能力があるので、物理学の法則に従う必要はない。だから鳩胸にならなくてもあの羽根で空を飛べるのだ、と言う方もいるかもしれません。でも、その論理は駄目ですね。もしそんな神秘的な能力があるのなら羽根なんかなくても空を飛べる筈でしょう。羽根を付けたと言うことは、天使にも物理学の法則が適用できるからだと暗に考えているからでしょう。だから、支離滅裂ですね。日本の神通力では空を飛ぶのに羽根を使っていない連中がいっぱい居りますね。どうやら、日本人の想像力の方が西洋人のそれよりも合理的だったと言うことらしいですね。

まあ天使が飛べるかどうかは横に置くとして、羽根も在るが便利な手も同時に持っているとなると、やはり昆虫でしょう。だから、私は天使は昆虫の一種だと言っているのです。でも、これを書きながら思い付いたのですが、天使昆虫説と呼ばない方が良いことに気が付きました。そうではなく、私の説は、昆虫天使説と呼ぶべきではないのか。だって、私たちの願望の中には、空を飛べるような神通力を持って、更に私たちのような手足を持った者が存在していて欲しいと言うのが在るんじゃないですか。その夢を叶えているのが、昆虫だった。だから、天使が昆虫なのではなく、昆虫がその夢を叶えてくれた天使だった。だから昆虫天使説です
「ボードレールの魅力?」の回答画像83

この回答への補足

P.S. 1
画家の名前を「マルグリット」と書きましたが、マグリットの間違いです。すみません。私はよく誤字をやります。お許しください。

P.S. 2
非現実だと思ったものが、実は現実であったという問題は、外国の芸術作品を受容する際に、自然現象に限らず、常に起きうる問題だという気がします。たとえば村上春樹の世界観は奇妙だなどと評されますが、その理由の半分は、日本の生活について想像ができないためだと思えます。『ノルウェイの森』など、七十年代の風潮を理想的に描いたものであって、村上にすれば現実に即して描いたわけでしょうが、背景を知らない者にしてみると何かモラルが消滅した奇妙な世界に思えることでしょう。私の世代でさえ、日本ではない別のシュールな世界に見えるのです。

フランスに暮らしていると、特に十代の日本の生活など、想像ができなくて仕方ないかなと思うのです。外食は高いので、高校生では、外で集まるなど、そうそう、できないでしょう。カフェでお茶でしょうか。またちょっと通俗すぎる例ですが、ラブ・ホテルもないので、男女の交際の仕方は、相当変わるでしょうね。相手の家に行って、挨拶しないと、場所が確保できないだろうなと思います。すると交際も、投げやりなものではありえなくなるでしょうね。この点、日本は学食産業が盛んでレストランなど閉まりはしないし、ホテルもいくらでもあるわけです。二つは村上春樹的な世界で重要な要素ですが、まったく別世界のことに思えるだろうなと私は推測するのです。

補足日時:2011/02/11 08:30
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この回答へのお礼



どうもありがとうございます。とても興味深く拝読しました。

>私はフィクションの世界よりも人間の営みも含めてノンフィクションの世界の方が桁違いに奥が深いと思っているのです。

おっしゃるお話、同意するものが多くあります。

マルグリットの絵はいいですね。昼と夜を接続したのは、「解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の出会い」(ロートレアモン)というシュルレアリストの始祖の言葉を地でいって、一見取り合わせの異なるもの同士を接続させてみせたという結果なのでしょう。
こうやって矛盾する要素を取り合わせることで、理論的に、シュルレアリスムは普通にありえないことを描いていると言われます。しかし、それが現実にありうるものにヒントを得ているというのは、まさに私も思っていたところです。
マルグリットの絵に関して言えば、猪突先生のお話で思い出したのは、白夜です。私はレンヌで白夜に似たものを体験したことがあるのですが(厳密には夜が一時間程度あるので白夜ではない)、あまりのことに呆然となりました。夜が消えたと思ったものです。これは聞いてみると、「ふんふんそうですか」としか思いませんが、実際にそこで暮らしてみると、ものすごくインパクトがありますね。体内時計を調節できなくなってしまいます。
こうしたことが起きるなら、マルグリットの絵の中の世界は、十分起きえるのではないかと思います。

他にシュルレアリスムの系譜に連なる例を挙げれば、たとえばガルシア・マルケスの魔術的な世界、実は南米に行くと、いくらもあるのだそうです。旅行嫌いの私は残念ながら目撃したことはありませんが、蝶の群れが砂浜でジュースに群がってくるという幻想的な場面を、私にスペイン語を教えてくれた先生は体験したらしいです。
案外、シュルレアリスムの奇妙な世界は、どこかに行けば遭遇しえる現実なのではないかと私は思っています。大人になると、案外、ちょっとやそっとのことでは驚かないつもりでしたが、不思議なこととはあるものです。

お礼日時:2011/02/11 08:15

84はサイコロさんにでした。

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この回答へのお礼

次の問いについて、私も考えてみました。例の欄は消滅するようですが、何かの慰めになるかもしれないと思って。一般論として考えていますので、誰か個人の問題ではないです。私も同じ要素はあるでしょうから。

Q1
なぜ人は、問い求めた自分の言葉通りに解説されるにとどまるものを喜ばず、自分の考えと突き合わせることを望むのか。

A1
他者を自分の鏡として捉えるからであり、他者の異質性を認めないからだと考えます。あたかも西洋が自分を理解するための鏡としてオリエントを用いたように(サイードの議論です)、他者は自己理解のための材料でしかないのです。こうやって自分中心主義で考える時、他者とは自分の可能性を引き出すための付随物でしかないのです。

Q2
なぜ人は、発言の意味を問い返されて、〈矛盾とわかってはいるけれどもみづからの立場だけは守りたいというところだとお見受けします〉と言うことができるのか。/なぜ他者が聞き返し、補足しても、上記のような姿勢というものは頑なであるか。/なぜ人は、他者の聞き返しや補足説明に、自分の古い文章をただ繰り返すのか。/一体他者から答えてもらっていないと思うのは、他者の言葉を無視することと、関係があるのか。/時系列を逆に遡って、発言の原因をいちいち確かめるという説明方式が、なぜ「やっと書いた」ような新たな説明に見えるのか。

A2
自分にとって議論の余地なく明らかだと信じることが、なぜ他人に理解できないのか、その発端さえもわからないということが起きうるからだと考えます。たとえば論文でも十全に説明したと本人は思っていても、何か抜けていて、根本的なところで理解の道筋が間違っていたということはあります。テクストの読み間違い、参考文献が偏っていた、などなど、自分では気づかないところでミスを犯してしまったりもします。
ただそれは、認めるのが精神的に辛いことです。「自分は一生懸命やってきた。なぜそれを評価せずに、あげつらうのか」という気持ちになるでしょう。私は学部の頃、始終、そういう気持ちになったものです。この時、次に似た態度もとってしまったりもします。

>他者が非人間的なことをしたという考えを持ったならそれを保ち、当事者は被害者であり天使的嘘をついたものとふるまう。
>向き合う他者の説明を聞いても、自分があてこすられた誹謗中傷が過去にあった可能性があると思い続ける。

私に言わせると、要するに、自分の労力や発想に対する承認が欲しいのです。だからこそ、相手を悪く言って挑発したり、従属を強いるような言い方をしたりしてみせるのでしょう。

Q3
他者の誠意が、誠意に見え聞こえるときと悪意に見え聞こえるときの、差を生むものは、いったいどこに潜んでいるのか。

A3
人は一端、疑心暗鬼になると、敵か味方かだけでしか考えられなくなってしまうのだと思います。私は様々な学生のチューターをやりましたが、厳しく接することもありました。「その研究は全くダメだからやり直せ」とも言いました。私が時間をかけて資料を読みこんで別の研究の方向を提案することもありました。
こうやって、チューターはうまくいっていると私は思っていたのですが、しかしある時、相手が「何でもいいから謝って」というのですね。プライドが傷ついたのだし、自分に対する承認が欲しいのだと言うのです。相手はかなり悩んだというので、私は気の毒だと思って「言い過ぎたのは悪かった」という形ではあるが、謝りました。すると、かなり相手はすっきりしたようです。
相手が謝罪を求めた中には、自分のキャパシティを超える議論をされて、不安に陥ったところもあったようです。雨合羽さんは優秀ですが、その優秀さを相手が自分と異質なものとして認められないうちは、一般論として、相手を逆上させることもあるのだろうかと思います。私は、さして優秀ではありませんが、そういう思いを友人らにさせてしまうことがあったようですし、今もあるのかもしれません。

例の議論は、相手のキャパシティを超えて、器を叩き割ってしまったと私には見えています。こういう行き詰まりは雨合羽さんのように優秀な方だと何度も行きあたったことがあるのではないでしょうか(かくいう私も、子爵を放り出してしまいました)。私の持論では、深刻に悩む必要はなくて、縁がなかったものと思い、他に知識の容量が大きい相手を探すしかないような気がします。雨合羽さんにとっては私を役不足に思うかもしれませんが、気が向いたら、遊んで行ってください。来訪される限り、歓迎します。

お礼日時:2011/02/11 11:10

ご返信は期待していませんでした。

ありがとうございます。なにしろ、大切な時期に大切な時間を潰してたしまったと後悔して断食しているんじゃないかな、と思っていましたから。
外科医は仁科君のジョークだと思いますよ、細かくメスをふるっているという。彼はマゾだと思われ。
妖艶なる美少女のおもかげは風前の灯です。博士は学術とpsychanalyseで横断性がありますが文系といえます。アカデミズムからはみ出すうちに現場サポートが増えて、自分の研究の一貫性は弱くなりました。東洋に触発された近代神秘思想の精神史の大著をてがけたいのですが、いつになるやらわかりません。サイコロさんは象牙の塔に入るチャンスをぜひ逃さないようにしてください。教職は休みが多くてやっぱりいいものだと思います。
それから表の教授は金と時間をかけて50歳になると申請でき、由緒正しさはいらないんです。わたしは末っ子で年寄っ子だったため、小学3年で母が教授になりました。そういうわけですから、わたしを在パリマダムブルジョワーズだと幻想してはいけません。

少しはまた、ボードレールの話をしようと思ってレオ・フェレをかけようとしたら、ケースの中身が何故か空なので、デュパルクを手に取りました。バリトンのブルーノ・ラプラントが高音気味に歌っています。L'invitation au voyage とLa vie anterieureの二つが入っています。
詳しくは次の機会に送ろうかと思いますが、
デュパルクの甘美な感傷のせいで、スノッブな不倫の恋愛をしながら聴くのでなければ味わいが半減してしまうだろうと思われたのは確かです。

サイコロさんがパリで歌曲の夕べなどに人妻と繰り出す喜びと苦悩をこれから味わうのか、人生を手に入れてから若い娘とスリルを楽しむのかわかりませんが、
まあ、こう言うことを許していただけるなら、こうしたボードレールの詩は、経験と表現の幸福な結婚ではないかと思われたのです。何か恋愛にひそむ崇高で傲慢な感情をやるせない夢であるように想っているという醒めたジレンマの匂いが込められているのを、デュパルクは感得して引き出したのかな、、、と思って聴いているわけでした。
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この回答へのお礼

雨合羽さんは、私の立場をよくおわかりなのですね。ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。

雨合羽さんが美女だというのは、言葉の使い方からわかります。着かず離れず、焦らすというのが非常に上手いように私には見えるのです。つまり概ねではAと解釈できるが、BやCという伏線もあるという風に見えるのです。一種の謎かけできるのはご自分の魅力に自信があるからでしょう。男性の注目を引いてきた方なのだなと、わかります。
そうした駆け引きのうまさが、もって生まれた優雅さなのか、それとも、人生で培われたものなのか。ともあれ私のような者は直球型の言葉しか許されてはいないのです。相手が強い関心を抱いてくれるなら、謎をかけてもみましょうが、下手に出て寛容さを請うのが上策であるわけですから。

このような朴念仁の私に恋の話題を振っても満足いくお話になるかわかりませんが、やってみましょう。現実と詩の二つを重ねてらっしゃいますね。現実の世界のことから話すと、私の歳では、恋は単純なものなのかもしれません。フレデリック・モローのように、ただ求めて、待って、期待するというだけ。「美とは幸福の約束である」と純朴に期待することができるのは若さの特権なのかもしれません。
ボードレールも期待して待ってはいるのです。しかし、期待しきれないという悲観が彼にはついて回ります。まず彼は相手を崇め、褒め、期待します。これにはサバティエ夫人に贈った詩の中でも、「讃歌」Hymneを思い返してみれば十分でしょう。サバティエ夫人の存在そのものが彼の心をさわやかにし、永遠を感じさせるのだと述べます。しかし、愛が永遠化するとは述べません。「バルコン」などでは思い出が残るだろうとは述べますが、それは刹那的な刺激が詩人の心に深く刻まれたという意味に過ぎません。思い出がかくも大切なのは、それが過ぎ去っていくものだとわかっているからです。そうした関係の儚さが、不倫的な淡さと重なるといえば、その通りですね。

しかし、ボードレールは、どうせダメなら強く求めようというところがあるように思います。だから、相手を褒めに褒めるが、失望も隠さないという風に、思いやりに欠けるものを感じます。たとえばユゴーの恋愛詩Puisqu’ici bas toute âmeが「受け入れて欲しい」という動詞を強調すると同時に、相手の心を察しつつ求めるのに比べたら、ボードレールの求めが一方的であるのは明らかです。
二人とも不倫なわけですが、この差は一体何でしょうね。ユゴーが相手を察することができたのは、彼には詩人として国から受け取る年金もあり、アカデミーでの立場もあったのに対し、ボードレールは無職無収入であったためでしょうか。私には、彼の場合、本当に口説いたりできないし、関係をもっても一時のみ、という諦めがあったように思います。

見込みがないのを承知なうえで愛を捧げ続けたというのなら、不倫と言っても、現代的な意味合いではなくて、身分の高い姫君に愛を捧げた騎士の宮廷風恋愛の延長にあるといえるでしょう。そして母性的な女性ならば、気の毒に思って、ボードレールの求愛を受け入れられるかもしれません。レオン・フェレがボードレールを愛唱したのは、彼もまた、愛が受け入れられないかもしれないと思ったためだろうと思います。容姿がコンプレックスだったそうですから。

デュパルクを今、聞いてみています。私の持っているのはFelicity Lottの歌謡ですが、雨合羽さんに言われて考えてみると、高音の上り下りが、気怠い官能を刺激するものですね。微睡のように緩やかな曲は、表題が「旅への誘い」L’Invitation du voyageでありながら、現実に旅立つのではなく、心の内を旅し、一時の幸福を味わいつくすという詩人の世界観をよくあらわしています。留まり続けるという行為は、不倫的な刹那観に基づくといえるかもしれません。勉強になりました。

もっとも、こういう気怠さについて、私は不倫とはまた違った観点で、子供の夢想という一面を見ていたのです。私が連想するのは、バルテュスの「黄金の午後」でした。
http://kitten.blog.ocn.ne.jp/kitten_diary/2008/1 …
眠りの中で少女の心が幸せに満ちて行く様相は、遠近法か崩れた構図によって、部屋の外と内が、合一していく過程にあるように、私には見えるのです。バルテュスは、ご存じのように、ボードレールに親しみを感じた画家の一人でした。詩人は自分が夢想する姿を描き、画家は少女が夢想する姿を好んだという差はありますけれども。

「東洋に触発された近代神秘思想の精神史の大著」、面白いですね。どういう思想家が考察の対象となるのですか。機会があったら、ぜひ教えてください。

お礼日時:2011/02/08 21:21

雨合羽さんからの反応があって嬉しいです。



デコード、エンコードと言うと私にはコンピューター屋さんの使い方しか知りませんが、それを物理屋流に解釈してみるのも面白いかも知れませんね。前にも言ったかもしれませんが、私は物理屋とはこの宇宙に統一原理が存在してるという、未だ誰も確認できていないことを信じ、それだけに生きている物理教の信者だと思っています。その統一原理のことをコードとでも言うと、

>デコードに命を賭けるべくコードを信じなければならず、そんな信念から本当にコードが世界に存在してくるという様態を生きているんじゃないかなと思うことがあります。

という言葉とぴったり重なりますね。

また、コンピューター絡みのコードという言葉で思い付いた別の意味は、コードとは数学による論理展開という側面もありそうです。勿論、これは上で言う統一原理とは全く違う意味ですが。

私が何かの現象に興味を持つのは、その現象が自分のやっている物理学のある特殊な側面を通して、もしかしたらその現象が物理学の第一原理に直接繋がっているかもしれないと思える場合です。しかし、勿論そう思えるだけで、未だそれが正しい見方だとは解ってない。だから、自分で使っている言葉の意味も解っていない。要するに、興味は持ったが、自分では何に引きつけられたのか、そして自分で何を言っているのか解らない。そんな状況で役に立つのが日常の言葉なんですね。私の場合にはときどき英語で考えることもないわけではないですが、その言葉は主に日本語です。だから、私は日本語で考える。そして、自分の経験に照らして、自分の心に浮かんだ直感を頼りに、その日本語を数学の言葉に翻訳しようとします。この過程を、エンコードとでも言えるかも知れません。

ところが、自分で何に興味を持ち、何を言っているのか解らない状況ですから、そんな物を数式で表現しても、とんでもない頓珍漢な表現している可能性がある。だから、その先を数学の論理に頼って何か導き出しても、そんな物全く意味をなさないことがいくらでもあります。

また、自分の直感と日常言語で展開する論理的な帰結と、それを数学にエンコードして出て来る結論が、まるで違っているなんてこともいくらでもあります。多分、自分の直感と日常言語で論理を展開する過程のことを雨合羽さんは「デコード・オン・デコード」とでも表現しているのでしょうか。

で、そのような自分の直感に基づいた結論と、数学的論理を使って得られた結論が互いに矛盾していた場合にはどうするか。直感を信用するのか、それとも数学と言うコードの方を信用するのか。それには、少なくとも私にはきちっとした方法論が確立しています。まだ自分で何を言っているのか何を問題にしているのかが解らない初期の段階では、数学を信用することは私には出来ません。自分の直感を頼りに、自分の直感に整合するように数学的な定義を修正して行くのです。そうすると、段々自分で何を言っているのかが解って来る。要するに、デコード・オン・デコードで日本語を頼りに先に進むのです。そして、それをまたエンコードして数学的な論理を展開してみる。そうすると、段々と数学的な定義が曖昧さなしに解ってくる。だから、この段階では、物理屋は数学を使いながら途中でどんどん定義を変えて行ってしまいます。面白いことに、この部分で数学屋さんは物理屋に着いて行けなくなるようです。数学屋さんは、一度定義をした物を途中で変えてしまったら、そんなもの数学ではないと激怒します。でも物理屋ははじめから自分で何を言っているのか解っていないので、都合が悪くなったら途中でどんどん定義を変えてしまいます。

そうこうしているうちにやっと、定義がしっかりして来る。その段階が来たら、私は前と180度ひっくり返った判断基準を採用し始めます。最早、自分の直感も日常言語による論理展開も信用しない。この段階でもし数学の論理から出て来た結論と自分の直感が矛盾していたら、自分の直感を修正します。すなわちこの段階では、雨合羽さんの言葉では、コード・オン・コードで先に進みます。そして、最後にそれをデコードして、世界が日常言語でも表現可能になる。それが出来たときに、コードが仕組み上がったと確信が持てるようになる。だから、この最後のデコードに到達した段階でコードの存在が確信できると言う転倒した世界が現れる。

そのことを、雨合羽さんは

>触れられないコードにデコードをかける、デコードが出来たときにコードが仕組み上がる、という転倒した世界に浸かっているのではないかしらと。

と纏め上げてみせたのかしら。工学屋さんははじめから世界をどう見るかに付いては自分の研究の中心テーマでは在りませんので、多分この見方は物理屋特有の見方なのかも知れません。
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この回答へのお礼

猪突先生の説明、いつもながらクリアーですね。コードの話ではあるが、数学者が物理学者に激怒する理由が角度を変えて、よくわかりました。数学者は一度定義したことは変化させず、シェーマなりを選んだら変えてはならないわけですね。物理学者は定義そのものを模索しているのであって、変化させても構わないという風に言えそうです。

文学研究も大家が打ち出した定説というのはあっても、決定的なシェーマというのはありません。だからインスピレーションがあって、それを形にして練り上げて行くというのは、文学研究も同じだろうと思います。
最初は直感的にパースペクティヴを決めて、それに沿って資料を読んでいくわけです。しかし読んで行くうちに、何かが違うなと思えば、最初の案はやめて、資料にあわせて、パースペクティヴの方を次々と修正して行きます。修正する中で、主要な文献の揃いが変わってきて、それが一揃いした後に参考文献一覧を作ります。そこで一端整理し直して、自分の問題的とは何だったのだろうと考え直し、枝葉を斬って捨てます。

最初からすべてを見切って議論できるのとは違います。そうできる人もいるかもしれませんが、それは既に蓄積がある大家が研究しているとか、まぁやっつけ仕事でいいかという時のように思います。ただ蓄積があると「おそらく~~辺りに目当ての資料があるはずだ」という感は働くので有利ですし、指導教官にパースペクティヴを最初は決めてもらった方がいいと私は思っているのです。何も知らない中で局所的に注目して、「ボードレールは~~だ」といっても、実は同時代の他の作家を見回したら、それは当たり前だったんじゃないの?ということは発生してしまうわけです。

――逆に数学はそれが可能な学問なのですね。いや、それはすさまじいものだと思います。私はその点を味わうほどに数学を学びませんでしたが。

お礼日時:2011/02/08 20:51
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