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十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。

日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。
・恋愛の詩人
・メランコリックな詩人
・サディスティックな詩人
・宗教的な詩人
・魔術的な詩人
・政治的抵抗の詩人
・貧者の側に立つ詩人
・ダンディズムの詩人
・芸術至上主義の詩人
などなど、あるといえるでしょう。
上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。

ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。

ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。
個人的な感想、分析をお待ちします。

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A 回答 (89件中61~70件)

 No.24&25です。



 一点です。
 ★(No.25お礼欄) ・・・というのも最後に「何もしないが心意気」とおっしゃるのは、いくら私でも相手への配慮を欠いているだろうと感じました。
 ☆ 《「何もしないが心意気」》という復唱に対して 次のように確認します。

 ☆☆(【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】回答No.9お礼欄)~~~

 そして何よりも大事なことは 美は社会経済政治の矛盾を超えています。
 直観 つまりそういうひらめきがあるか無いか それだけで決まるとわたしは考えます。

  ★ 進む自由もあれば、止まる自由もあるのです。
  ☆ 《何もしないたたかい》 これが 井戸端会議のこころです。スサノヲの心意気です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 相手が勝手に じぶんから踊り出すときが来るという意味です。そして こちらの心には《たたかい》があります。《時が 時のほうで 満ちる》という意味です。


 山よ おまえはなぜ逃げるのか? 海よ おまえはなぜ・・・? の境地です。そういう芸術が好みです。
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いま私訳の詩が投稿されていることに気付きましたが、わたしの先の回答はそうしたご趣味の私訳を拝見して述べたものではありませんので、くれぐれもどうぞ誤解なきように。



さて、話を続けます。
わたしは、何の大義名分もなくボードレールは憂鬱と言うんだからロマン派ではないねと言ったつもりですが、ロマン派は憂鬱を書かないという話に聞こえたとしたら何が原因なのでしょう。
足の故障で窓から日がな雑踏を眺めるホフマンでもなければ、道ならぬ恋の末に殺人を犯した知人の二の舞を踏んでは志が廃るゲーテでもなく、ボードレールは、フラフラとフラヌールの身で、都市改造の共鳴とマザコンの病巣を抱え込んだ自我をもって日暮れの空を勝手に憂鬱にするのだから、ロマン派ではないやりかたではないかと思うのですが。

ご教示のスタロバンスキはボードレールのメランコリー分析ですね。講演に馳せるには若干わたしは渡仏が遅れ、出版物を読んでもいません。フロイトを敷衍して構造へ踏みこむ分析だろうと推察します。フロイトにおけるメランコリーというのは、人が喪失した対象とともに自己を部分的に捨て、そのように捨てられた対象である自己を審問にかけるサディズムがマゾヒズムと皮肉的契機に交替するさまです。疎外や無気力症の文脈へ発展する図式であり、それらにおける霊感的なもののうつろいやすさを支配しています。
これは当然アリストテレスが肯定的にとらえた憂鬱やルネサンスの精神史の延長あるもので、対比されるものではありません。そしてもちろん、憂鬱質と人類との長いつきあいは精神史と療法史のどちらにもわたります。

メランコリーの歴史については日本語のwikipediaがメランコリアを概説していますのでそちらに譲ります。補うと、マルクス・アウレリウスの不安をとくため解毒薬のテリアカを毎日処方したガレノスが、ヒポクラテスの黒胆汁説に基づく憂鬱を病気の体系に記述した最初の人物とされています。しかし中世に黒胆汁が体内にないことが分かると、人々は憂鬱の原因を気質説と生気説とすることに軍配をあげました。生気説によって死と隣り合わせの後期ルネサンス人の憂鬱質は煽られました。フィチーノにみるようなメランコリーは高尚さや洗練をめぐるヨーロッパの精神の一つの支えとなっていますが、そうした高尚さは、寓意に満ちた世界の表裏感、刹那感の表象に凝集したのでした。

ボードレール談議の脾臓に触れるところで、何かの参考になるかどうかわかりませんがご返答まで。

この回答への補足

(お礼からの続き)
Dans la culture d’Occident, et durant des siècles, la mélancolie a été inséparable de l’idée que les poètes se faisaient de leur propre condition. Il m’est apparu fructueux de confronter les textes des poètes ou des théoriciens de la littérature avec un certain nombre de représentations picturales. Et surtout, la conjonction que la tradition philosophique établit entre mélancolie et réflexion m’a incité à examiner le thème de la mélancolie au miroir, et à prêter attention, dans le domaine littéraire, au motif de la figure penchée, que les historiens de l’art connaissent bien.(J. Starobinski, La mélancolie au miroir, Paris, Julliard, 1997, p. 12)

お分かりのように議論の主要な目的はイコノロジーの捉えなおしです。フロイト的なボードレール解釈は、レオ・ベルサーニの業績です。

(3)感性と解釈ついて
解釈にもさまざまなレヴェルがあります。子供が読むのと、文献学者が読むのは違うわけです。またフランスの子供が感じるように詩を感じるべきだ、という提案ですが、私にはそもそもの真意をはかりかねます。なぜなら、このご意見には、日本人がフランス人のものの見方に同化するという前提が含まれているでしょう。しかし所詮は外国語です。コノテーションもコンテクストも、辞書を引き、註釈を読んで、段々とわかっていくものです。
直感的にフランス人のように感じられるのは、異文化理解として幸福であったといえるでしょう。ただし「いつから日本人は粋を忘れたか」というのは、無い物ねだりではあります。そして学者が感受性の必要性を訴えるにしても、文献学的に網羅した議論を提示して高みに立ってから「私は勉強したけれど、結局は感受性が基本だという結論に戻ってきた」とおっしゃってこそ、粋でしょうし、説得力を持たないでしょうか。

雨合羽先生は文献学者であり、肝心なところでは学者のスタンスを取られます。私はそれに対して敬意を欠いていたと思います。失礼お詫びいたします。しかし同時に、私はこの質問欄で雨合羽先生は学者であるという一方、感性に基づいた記述をなさっているなと一貫して感じていました。それで私としては、どう接したものか、決めかねています。
文献学者であると仰るのなら、「その言説の出典はどこですか?」と問わなければなりませんが、雨合羽先生は一切書いておられません。しかし感性に基づいた議論なら、それは学術的な問題は横においていてもいいはずです。これで顔が見えていれば、頃合いもわかって議論できるのでしょうが、なにしろ匿名の議論ですから……。
私としてはそもそも肩書など無く、ざっくばらんに話す機会として、この質問欄を使わせていただいているつもりでした。私自身、自分の到らなさを承知しており、ここでは身の丈に合った楽しみ方をしたいと思っています。また雨合羽先生にもストレスをかけたくないと考えておりました。ご無礼前もってお詫びいたします。

補足日時:2010/12/07 05:55
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。猪突先生に続いて、雨合羽さんも大学の先生だったのですね。それも文献学の先生ということになりそうです。コレージュ・ド・フランスのスタロバンスキーの講演の時期(1987-88)にご留学が差し掛かりそうだったということから判断すると、もう五十に差し掛かってらっしゃるかもしれません。となればご謙遜を含めて「大先生」では無かったとしても、もう教授職でらっしゃるか、それに手が届く頃でしょう。
率直に私は議論の仕方に少し戸惑っております。というのも、雨合羽先生は学者ではらっしゃるでしょうけれど、ここでは学者としてのスタンスで記述はなさっているのではないと思うからです。理由は以下に書きます。

(1)翻訳について
まず翻訳の問題ですが、いくつかのレヴェルがあります。目的や責任の取り方などTPOで変えるべきです。私の訳出が学会で出てくると、減点の対象になるでしょう。しかしここは楽しみで「ゆるい文学談義」をしているのです。私なりの理由づけがあり、フランス語のコノテーションがわからない人向けの訳なのです。散文の訳出にもスタンスはいろいろあるのは承知しています。

>日本語の形成地層を利用しようとするか、または削ろうとするかによって、翻訳の姿勢がすっかり違うから心されよという話なのです。

私もよく承知していますし、同意するところです。ですぎず、さりげない、没個性の訳が学者の訳としては理想なのです。

(2)メランコリーなど
Harmonie du soirのコモンテール・コンポゼですが、もっともクラッシックなストローフごとにコメントするというやり方です。
率直にいうと、書いてくださったことは、不親切ではあるなと思いました。パントゥムの説明も無しですが、あれは厳密にはパントゥムの亜種です。そしてラストを締めるにあたって重要なostensoirが太陽の形をしているかどうかもよくわからないと感じました。
さらにメランコリーについては、次の文章からでは、補足してくださった意味にはとりかねます。

>お花が茎をゆらゆらして寺院のお香みたいに香気を放っている時間だと言って、音と香りが夕暮の空気にめぐるのがつまりね、ときて「憂鬱なワルツで物憂い眩暈」だと言うんですから、やはりロマン派ではありませんね。個人の事情がたっぷりあって悲哀に満ちた気分なんですね。

ロマン派とは何かの定義が入っていないので、「やはり」の意味がとれないのです。私の不勉強を棚にあげると、ロマン派要素は諸説ありますから、誤読が起きそうな箇所では、定義は必要だろうと感じたのです。ただし私は補足も、あまりわかりません。上述では、書かれていないが「個人の事情がたっぷり」あると認めてらっしゃるわけで、それでは理由のないメランコリーという区分には入らないのではないでしょうか。それに伝記的な問題や、太陽の詩というだけでも、理由はあるわけですから。
メランコリーについて、ウィキペディアは匿名の記事ながら、なかなか網羅的な記述をしているなと感じました。しかし肝心なところまでは触れていませんし、おそらく専門的な勉強をしたものにとってみると、あれは当たり前すぎて、何も書いていないのと同じことでしょう。またスタロバンスキーの論考はご関心あるかもしれないので、パースペクティヴが示されている箇所を序文から引用しましょう。

(補足に続く)

お礼日時:2010/12/07 05:36

何から書いたらいいかなと考えているところなのですが、、、まず駆けつけにdeposoirの打ち間違えを再三コピー&ペーストした謝罪です。

パントウムは打ちこみが楽でいいやなんて貼り付けしている場合ではありません。申し訳ありません。

あとは、「晩秋の黄色いやわらかい光線」と同じように、もういちど、外国語を日本語に置き換えるときは字面にない喚起はできるだけしないほうがいいでしょうというわたしからのメッセージをお伝えすることになりそうです。

散文にはそんな気遣いは滅多にいらないどころか裏を読みつづけることを余儀なくさせる強い構造がありますが、詩の表現は字面を捉え損ねると精神を捉え損ねますから、「表面」を慎重にくずさないようにしなければならないでしょう。この、表面を崩さないというのが、大先生の文学者でもなかなか翻訳はうまくいかない、とわたしが言った事柄です。

というのも、まあ詩じゃないですが精神科の患者のフランス語を大量に学生と読むことがあります。文学科の学生ではないから読書量が絶対的に少ない弱みがあると思いますが、漠然とイメージを膨らませた読解が多く見受けられるので、語句をもっと表面的即物的、クリアーに読もうとさせなければならず、さらに驚くなかれ日本人にはベタすぎるほどの寓意によって表現が整合している可能性に目を向けないとならない、という事態を前にしばしば考えさせられるわけです。

念のためにいうと外国語のパラダイムをまるごと翻訳しないといけないという話に聞こえないでほしいのですが、概念スキーマの広さや質が、外国人と日本人とで違っているので、日本人が暗黙裡に合意する心象映像群が、書かれたものを原語と別の含蓄にしてしまう。
そうした日本語の形成地層を利用しようとするか、または削ろうとするかによって、翻訳の姿勢がすっかり違うから心されよという話なのです。なにしろ日本人が語を読むときのスキーマは超大です。語源でも歴史でもない同時代的余剰に浸されていますが、けっしてそれは作用からいって寓意ではありません。翻訳が、ある程度鈍感に、かつ慎重になるべきところかなと思います。

寓意と言えば、詩の読み方に答えはないというような考えがもしかすると世に憚っているのではないかと薄々感じますが、少なくとも文化が要請する読み方というのはあると思いますね。日本人なら滅多にしない、欧米の美術史家なら絵を見てしばしば行う、一対一対応の寓意の照合などはそうですね。
Harmonie du soirをフランスの小学生が読んで褒められるような読み方は、叙景と五感の修辞的表現を読むことでしょう。視界が暗くなった夕方はお日様の葬儀で、西空は緋色のカーテンを垂らした祭壇、繊細な心はうつろいやすい夕空、昼は夜に呑み込まれるのに抗っているが昼の輝きを詩人は覚えている、といったものでしょう。
あるいは、つまり太陽ってのは女のことさ、昼の輝きってのは女との情事で、そのほかはあれさ、という社会経験者の読み方は、フランスという国が一種脅迫的に要請する方向で賛意をとりつけるでしょう。ところで日本人はいつから簡素な判じ絵を粋な遊びと呼ばなくなったのでしょうね。

もうひとつ、メランコリーのことを後に続けます。
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 No.24です。



 ★ 二編の詩のどういうところが魅力だとお感じなのですか?
 ☆ ひとまとまりの思想を――その内容をうんぬんする前にになりますが―― 表現しきっているところです。
 その点で 作者は横着していませんね。そこが魅力です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。しかし魅力を語ろうという質問欄で、詩の内容はさておいて「横着していないからです」はないでしょう……。Bragelonneさんは、他の項目での議論をここでもなさりたいか、ここで私を挑発することによって、私にその項目への再回答を求めてらっしゃるのかと思います。

そちらの議論は進んでらっしゃらないようですね。私の回答で止まっています。再回答すれば私はBragelonneさんのお考えなり、議論を整理することはできるかもしれません。しかし後はご自分でお考えになる方がいいだろうなと思います。というのも最後に「何もしないが心意気」とおっしゃるのは、いくら私でも相手への配慮を欠いているだろうと感じました。開き直るのは、あれでもう何度目でしょうか。
失礼ながら、ご自分が相手を追い詰めるのはまったく頓着しないどころか愉快に思ってらっしゃるのに(「いぢわるをいうと」などという表現や「剥き出しの表現による表明であるほうが 良心的」など――私以外の相手にも常習的にやってらっしゃいますね)、自分が不利になると「井戸端会議」「スサノオ」「学者では無い」「持ちこたえている」と言って逃げるのが癖だなと思いました。
しかし私としたら論破するつもりも最初からないのです。私はディベートが趣味ではありません。それに回答者に時間と知恵を使わせておきながら、何もBragelonneさんが得たものは無いように見えるのです。ここは大学ではありませんし、当然ながら私はBragelonneさんの講師ではありません。したがって啓蒙する義務も権利もなく、むしろ双方が議論してえられるものがあると思えばこそ、というつもりでした。それが無いようなら議論は終わってしまうのです。ネットだと良くも悪くも、肩書やステータスがわかりません。信頼関係は赤裸々なのですし、書いてあることでしか、相手を判断できないのです。

それから、ひとついえば、Bragelonneさんが「横着」だと思ってらっしゃるところは、省略であったり、技巧であったりするのです。それが技巧であることを把握するためには、「ありうるべき姿」を想像する力が必要になります。「あれ変だぞ?なぜこの箇所はこうなったんだ?」と気付けるだけの力が無いとなりません。
このように想像力が働く時、省略は注目をひくための技巧だと申せるでしょう。レトリックでは、レチソンス(沈黙語法)など、名称もあります。これがわからないと鑑賞していても面白くはありませんが、この省略に気付くのは、感受性で一気に到達するというより、コンテクストを把握するための経験と教養も大切です。観衆が作品を選ぶだけでは無く、作品が観衆を選ぶこともあるのです。時代も国も違うと、なおのことです。「横着」か否かを判断できる人とは、おそらく当該分野の専門家だけでしょう。
ボードレールはその点、かなり親切に説明していると思います。

お礼日時:2010/12/07 06:58

【アブサン】


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96% …

【熊本大学学術リポジトリ(Kumamoto University Repository System)】
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/22 …

ニガヨモギ
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 こんにちは。



 ◆ 読者に(Au Lecteur )  ~~~~~~~~

 愚かさやあやまち 罪また吝嗇が
 こころを占めて人を悩ませる。
 人は乞食が覚えず南京虫を飼うように
 ほほえましいほど悔恨に餌を絶やさない。


 罪は頑固で人の悔いはだらしがない。
 人は告白の報酬をたっぷりととりながら
 その安っぽい涙で汚点はすっかり洗い流したと信じつつも
 道のぬかるみに陽気にもまた足を踏み外す。


 病める人の枕元に来てその魔法にかかった心をいつまでも
 寝かしつけるのは魔王トリスメヂストである。
 人の貴き鉄の意志も
 すべてこの大化学者の手にかかれば蒸気と化す。


 糸をつけて人を操るのはこの悪魔だ。
 人からはずれる事ごとに人は誘惑を覚え
 嫌な顔ひとつせず悪臭を放つ闇を渡って
 一日一日地獄へとその歩をすすめて行く。


 老いた娼婦の苦しみにひからびた乳房を貪る
 貧しくも放蕩を重ねる者と同じく
 その途上で人は一個の古いオレンジをきつく絞るように
 秘密の快楽を盗み取る。


 蛆虫が数えきれずうようよひしめくように
 人の頭の中では悪魔の一団が酒盛りをする。
 人が息をしようものなら鈍い呻き声とともに
 いとも密かに死神が呼気を伝って肺の中へもぐりこむ。


 もしまだ強姦や毒 短刀 放火などがその快い模様で
 諸君の運命の平凡な麻布に
 刺繍を施していないとしたら
 それは諸君の魂はあわれ本当は大胆自由でないということだ。


 それにもかかわらず人の悪徳の汚らわしい家畜小屋の中の
 鳴き吼え立て唸り這い回る怪獣
 山犬 豹 猟犬
 猿 蠍 禿鷹 蛇の中で


 それはひときわ醜く悪意を持ち汚らわしいものだ。
 それが大きな身振りもなく大きな叫びも出さないからといって
 それは訳も無く天地を引っくり返して残骸のみとし
 ひと欠伸のうちにこの世を呑み込んでしまえるものだ。


 それとは倦怠である。心ならずも一滴の涙を目に浮かべ
 それは水煙管を吹かしながら処刑台を想い浮かべている。
 諸君はこの気むづかしい怪物をご存じであろう。
 偽善者の読者――私の同類――私の胎(はら)からよ。



 ◆ 鬱(Spleen:Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle) ~~~~~

 倦怠の永きに捕らわれ呻くこころに
 天空が低く重たく垂れかかるとき
 天地(あめつち)の端線残らず取り巻きながら
 昏黒の夜より暗く陽ののぼるとき


 この土地がじめじめ濡れた土牢と化し
 こころ期す望みもいつしか蝙蝠と化し
 舞い往くも臆する翼壁に突き折れ
 飛び立つも軒の腐敗に頭打つとき


 降る雨が千条(ちすぢ)落として格子張り
 広漠の獄をこの世に現じ出すとき
 一群の唖の卑しい蜘蛛が巣を張り
 奥深く私の脳に網を打つとき


 鐘々が怒り極まり突如爆裂
 恐るべき怒号響かせ天に刃向かう
 頑なに萎れながらも啼き呻き出す
 祖国なく彷徨い歩く精霊とともに。


 鼓なく楽の音もなく柩車の長蛇
 緩やかに私の心を練り歩く。希望
 拉(ひし)がれて沈み 残忍暴虐の苦悶
 弔黒の旗を私の頭蓋に飾る。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

コメント、ありがとうございます。おそらくご自分で、お訳しになったのですね。二編の詩のどういうところが魅力だとお感じなのですか?

お礼日時:2010/12/05 18:31

こんばんは、iacta-alea-estさん。


No.4この回答のお礼でかいておられた
●おっしゃる通りですね。その闇の果てには「新しいもの」があると彼は信じていたのですが、
これはマラルメやランボーに、近代の詩人の信条表明として大きな影響を与えたでしょう。
「旅」の末尾、すなわち『悪の華』の最後は次のように締めくくられます
(このサイトではイタリックは反映されないようですが、「新しいもの」nouveauが斜体です)。


「旅」の末尾にひっかかりをおぼえたんですよ。

Verse-nous ton poison pour qu’il nous réconforte !
Nous voulons, tant ce feu nous brûle le cerveau,
Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel qu’importe ?
Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !
我らに汝の毒を注ぐがよい、毒が我らを力づけるが故に!
我らは望む、この炎に脳髄を焼かれたとしても、
裂け目の奥へ潜ることを。「地獄」だろうと「天国」だろうと構いはしまい?
「新しいもの」を見つけるために、いざ「未知」の奥深くまで。(「旅」)


この旅ってのは、現世から来世への旅立ちか???

とすると…

これは、ある意味遺書か?と、おもいつつ

こっちをみると


Le Mort joyeux Charles Baudelaire
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/sangos …
蝸牛葡ひまはる粘りて湿りし土の上に
底いと深き穴をうがたん。泰然として、
われ其処に老いさらぼひし骨を横へ、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべう。

われ遺書を厭み、墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。

おお蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
君が為に腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来る。

わが亡骸にためらふ事なく食入りて
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よわれに問へ。猶も悩みのありやなしやと。


と、あります。が中で“われ遺書を厭み”とのたまっておられる。

ってことは、遺書じゃなく覚書(メモ)。

なぜ、メモ書きをしたんだろう?

メモ書きは誰が誰にあてて?

何のために?


Back to the Futureにでてくる

タイムマシンDe Loreanに乗って

時代を行き来するがごとく

他者にこの身を食わし

他者の体をDe Loreanにみたて

永遠を謳歌しようとの考えがあったとしたら…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅れてすみません。面白いご指摘ですね。ズバッと答えられるかわかりませんが、イメージを膨らますお手伝いをしたいと思います。

まず韻文詩「旅」からですが、ボードレールにとっての旅はいろいろ意味があるでしょうね。ご存じの通り、詩集では旅のモチーフが何度も反復されています。それは二十歳の時の旅行の追憶、来世への旅、未知の模索――など、様々に読み解けると思います。
私自身は韻文詩「旅」を未知の模索であり、生還するものだと考えています。というのも深みに潜るという表現は、オルフェウスが地獄くだりと重なるからです。オルフェウスは抒情詩の始祖ということなのですが、彼が帰還したように、詩人は深淵からつかみ取るものがあるのだ、という宣言に考えました。ただ詩集の最後ですので、遺書的な意味合いを看取することもできるでしょうね。

Le Mort joyeux「陽気な死人(阿部訳)」の「遺書」はtestamentです。この語には「旧約聖書」という意味合いもあるのですが、ここでは墓の話をしているので、やはり「遺書」が正解なのでしょう。
旅、死、遺書のイメージは一つに結べると思います。たとえば「死にたる日は生まれたる日よりも悲しからずや、吠える犬は老いた獅子に勝り、墓石は貧困より好まし」という金言は破産した若きシンドバッドを七つの航海に駆り立てたのでした。墓や遺書を退けるからこそ、旅に打って出るという要素はあったのです。
しかし現実は甘くありません。ユゴーのOceano Nox「くらき海より」でも、成功を夢見て海にのりだしたが、返ってこなかったというモチーフが扱われます。ヴィニーには航海の途中で遭難し、瓶に遺書を託す船長が登場します。
こうした海難事故の最後になった時に、船乗りたちが詩を残すであろうというモチーフの詩は同時代的に多くあったのです。現代と異なり、本当に海難事故が多かったのでもあります。

『悪の華』もそれと無縁ではありません。これが一番如実に表れているのは、第二版の39番目の位置におかれている「私がこれらの詩句を与えるのは――」と始まる詩です。ここでは船の比喩が出た上で、あたかも首からぶら下げて記念品をしまうロケットであるような、詩が夢想されます。「これらの詩句」という指示語ですが、詩集の一部ととっても差し支えないでしょう(場所的にはジャンヌ・デュヴァルにあてられた詩群の締めくくりとされるのです)。
おそらくボードレールの詩は、思い出を保管するタイムカプセル的な要素があるのでしょう。旅に出た最中、帰りたいけれども、それはできないかもしれないから遺書を残す――という要素はあるかと思います。そしてそのタイムカプセルを開いているのは、読者である私たちなのです。

このタイムカプセルをうまく開くことができたら、ボードレールに感銘を与えた女性たちのイメージが、鮮烈に浮かび上がるといえるでしょうし、それが彼の願いでもあると言って差し支えないでしょう。詩とは記憶の芸術であるとはよく言われます。芸術の女神たちミューズは、ゼウスが記憶の女神ムネモシュネと交わって生まれたのでした。韻文は音数が決まっていて、韻も規則がありますから、歌謡曲のように覚えやすいものです。昔の記憶術であるとも言えるかもしれません。Back to the Futureにたとえるのは、ありだと思います。陽気な外人の先生が、昔、同じ喩えでムネモシュネの話を教えてくれましたよ。

お礼日時:2010/12/07 08:46

#20に誤植がありました。



第四段落目のは最初の行:

物理学を見ていると第一の仕事には => 物理学を見ていると第一級の仕事には

です。
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他での賽子さんの遣り取りを見ていて、以下の表現に出会いました。



>しかしそもそも最前線の研究は教科書など無く、自問自答です。問題提起だけがあり、それに向き合い、苦心して模索して行くものです。学者はそれをまとめます。芸術家は投げ出す形で問題提起するのです。どちらがいいかといわれると、学者の方が親切であり明快かもしれません。しかし問題は論理でさばききれるものではないかもしれません。だからこそ芸術もまた大切な問題提起の表現手段なのです(この意味は非常に重要ですが、ご自分で考えてみてください。教えることではないので)。

私とのここでの会話でもこのこと認識は大変重要だと思いますので、今までの会話の前後の脈絡なく、ここで私の意見を入れておきます。

まず、本質的に貴方の意見に賛成です。しかし、物理学を見ていると第一の仕事には「まとめる」仕事と、「投げ出す」仕事が両方ともあります。私は、常々「まとめる」仕事のことを、「ドアを閉じる」仕事、「投げ出す」仕事を「ドアを開ける」仕事と表現しています。具体的にはスティーブ・ワインバーグの仕事のようにその仕事で決着がついてしまう仕事がドアを閉じる仕事であり、イリヤ・プリゴジンのように、今まで誰も気が付かなかったような全く新しい世界を提示する仕事が、ドアを開ける仕事です。

私は相変わらずの物理屋ですから、多元論では気持ちが悪い。何でもありの民主主義では虫酸が走ってしまうのです。従って一元論的に序列を付けたくなってしまいます。その私の個人的な序列では、ドアを開ける仕事、すなわち投げ出す仕事に軍配を上げてしまいます。まとめる奴なんて太てえ野郎だ、と思っているんです。だって、まとめられちゃったんじゃ、やることが残ってない。だから、世の中の物理屋とその家族が食いっぱぐれて路頭に迷ってします。でも、誰かがドアを開けて、新しい世界を皆の前に投げ出してくれたら、世界中の物理学者にやることができる。その家族も路頭に迷うことはない。だから、私は出来ることなら学者として、まとめる仕事はしたくない。芸術家のように投げ出す仕事がしたいと心から思っているのです。勿論、偶々まとめる仕事が出来たときには、それはそれで嬉しいと感じることは出来たのですが。

余談ですが、前世紀の同時代の数学の巨匠に、フォン・ノイマンとノーバート・ウィーナーという方が居りました。フォン・ノイマンの仕事の仕方の特徴は、その時代の論理で答えが出せることを自分の問題のテーマに選んで仕事をするところにありました。ですから、彼の名の冠した定理が一杯残っています。この人の仕事の仕方は「まとめる」仕事です。一方のウィーナーは、いつも未来を見ていた。だから、彼はいつもその時代の論理ではまだ解けない問題に精力を注いでいた。貴方の言う「投げ出す」仕事です。だから、彼の名前の冠した定理は、フォン・ノイマンと比べて遥かに少ないです。しかし、彼は数学の世界に一杯新しい見方を導入し、数学者達が食いっぱぐれないようにしくれてた。だから数学者達はウィーナーをフォン・ノイマンに勝るとも劣らない巨匠として讃えられていると聞いております。

こうなって来ると、賽子さんの言う学者と芸術家の間が曖昧模糊となって来ているようです。賽子さんは貴方の言う学者肌なのですか、芸術肌なのですか。私は芸術肌でいたいと思っております。
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