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太平洋戦争末期、出征兵士の派手な見送りは自粛されていましたか。
一説によれば、スパイが見ると出征の情報が知れるので自粛するよう命令が出たとのこと。
一方そんなことはなく、田舎では昭和18年末でも派手に見送ったという人がいました。

A 回答 (1件)

 軍隊に入るための見送りと軍隊が戦地へ出陣する場合とは様相が異なっていたようです。

 

 一般人が兵隊になるというのは、大まかにいって徴集と召集があります。

 徴集は、兵役適齢になった者が軍隊に入るもので、これは戦時、平時を問わず必ず実施されていましたから、平時であれば二年辛抱すれば満期除隊になるわけで、入営するときも派手な見送りはありませんでした。しかし、戦時の場合は現役兵として部隊の根幹となるので入営即出征と覚悟しなければならず、近隣や在郷軍人会、婦人会、青年団などの壮行をうけました。1943年(昭18)6月に海軍特年兵(志願兵)として海兵団に入団した方の手記には、当時岐阜駅は見送り人で大混雑であった、とあります。

 召集というのは、部隊に動員令が下り戦時編制となるに伴い兵隊を補充するため令状を発し部隊に集めることをいい、つまり近い時期確実に外地(戦地)へ出征する事になります。このような意味合いで召集されて入営する人へは、近隣や団体の人々が集まり旗や幟を立てて見送る風景がみられました。

 このように軍隊へ入るときの見送り風景は、そう変わらなかったようです。


 部隊の編成が完結して、出陣が決定すると兵営から最寄の鉄道駅や港へ行進して盛んな見送りを受けることになりましたが、このような出征風景はもっぱら支那事変ごろまでで、大戦で戦局が悪化し輸送船が途中で撃沈されるようになってからは出征自体が自粛というより機密扱いとなりました。

 1941年(昭16)11月広島県福山から出征した歩兵第141連隊の場合、大勢の群衆が福山駅までつめかけたが、大々的な見送りはそれが最後であったと『バターン・ラバウル 夏部隊の足跡』(夏友会)に記されています。

 42年3月鹿児島から出征した第58師団野戦病院のケースでは、営門から鹿児島駅前まで見送りが付いてきたものの、駅構内に入ることは禁止されたと回想されています。

 44年1月に長野県松本から出征した歩兵第150連隊に至っては、出発は午前1時過ぎでほとんど見送る人がいなかったと『松本連隊の最後』(山本茂実 角川文庫)のなかにあります。

 ただ、各停車駅には国防婦人会による湯茶や味噌汁の接待が行なわれました。それは、朝鮮や満洲、中国の一部でも行なわれました。また、なかには家族や妻が出発港まで追いかけてきたこともあったようです。

 戦時下映画『陸軍』(44年公開)や『指導物語』(41年公開)では出征シーンを見ることが出来ます。これらは特に映画撮影のために行なわれた、という記事を読んだ記憶があります。(真偽不明)

  
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