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因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。
例外は沢山あるのではないですか。

A 回答 (30件中1~10件)

>例外は沢山あるのではないですか。


→そうかもしれんが、自分に理不尽をしてくるような相手に報いがあるよと
思わないと社会人やってられないですね。
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この回答へのお礼

>自分に理不尽をしてくるような相手に報いがあるよと
思わないと社会人やってられないですね。

しかし、そういう悪い奴に中中報いが来ないのよ。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:03

善行を推進し、悪行を戒めるための教条ですから、当然例外が有ります。



色々なケースを探してゆけば、悪高ばかり繰り返しながら、人もうらやむ幸せな一生を送った人物を探すことも不可能ではないでしょう。また、善行をつんでいながら、誰からも尊重されずに孤独死してゆく人を探すことも可能だと思います。

教条に対して本当か、本当でないか、という疑問をもってはイケないのです。
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この回答へのお礼

>教条に対して本当か、本当でないか、という疑問をもってはイケないのです。

教条主義!
マルクスレーニン毛沢東金日成様の教えに逆らってはいけない。
こういうのみな同じ(o^∇^o)

お礼日時:2011/01/28 08:35

因果応報は本当のことですか



○ 本当のことですよ。例外など一切ありません。
因果の理法は眩ませる(不落因果)といって畜生道に落ちて狐になった坊さんに、因果は眩ませられない(不昧因果)、それが宇宙の理法であると説く話が有名です。『無門関』第二則に「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」参照
この話は過去も現在も未来も同じく正しいのですね。何故ならこの理法で世界が成り立っているのですから。
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この回答へのお礼

>それが宇宙の理法であると説く話が有名です

なるほど、「話」では成り立っているが、実際は?
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:06

人によって因果の現れるタイミングや時間差などの開きがあるでしょう。



早い人はそれこそ次の日、次の瞬間にそれを感じることもあると想いますよ。

一方で、何年も、何十年も何百年もたってから現れる場合もあるでしょうね。それが、「例外はたくさんあるように見える」と感じる理由でしょう。

それらの差は、資質や全体性の獲得度合いとか責任の自覚度合いなどで違って来るんでしょう。

もし例外があるとすれば、それは完全な死を迎える人だけでしょう、しかしそれが因果応報であるとも言えますが。
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この回答へのお礼

>何百年もたってから現れる場合もあるでしょうね

これは検証できない。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:07

(因果応報を言い出した賢人は分かっていたとは思いますが)


超自然的な力による因果応報はありませんが、人々の自己
中心的な意識に対する、社会的生命(分業化・組織化による
集団的生命)としての補正(=自己チューな行動で社会を劣化
させると、最終的には自分が損)として、因果応報は必要な
存在なのです。

もちろん、超自然的な力ではない以上、100%ではないし、
即効的ではありませんが、だからといって自己チューな衆愚
に向かって「因果応報は確率的なもの」と言ってしまっては、
我も我もと悪事を働き、今度は即効で『応報』をもたらします。
例外はありますが、「例外がある」と言ってしまってはダメで、
「恐ろしい応報がある」と言わないといけないのです。
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この回答へのお礼

>「恐ろしい応報がある」と言わないといけないのです。

ははん。古人も現代人もそういって脅かす。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:10

私の聞きかじりを申します。


因果応報を「もたらす」の主語は誰でしょうか。神様や仏様でしょうか。どうもそんなことをいちいち記録・評価・実行する手間が大変でしょうね。また手抜かりもありそうに見えることもあるでしょう。
 「もたらす」の主語を「自分」とします。自分の意識の奥深くに記録された「悔悟の思い」「清らかな思い」が心の奥底で私を「後悔」「激励」をし続けるのでしょうか。忘れ去ることの出来ない思いです。それらがいつの日か私の意識界での行動選択に再現するとご想像ください。これが「因果応報を私が迎え寄せる」手続きだそうです。「意識の底での薫習(蓄え成長)がやがてげんぎょう(現業)するのだ」との説明があるのだそうです。ご検討ください。
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この回答へのお礼

>「意識の底での薫習(蓄え成長)がやがてげんぎょう(現業)するのだ」

はい、はっきりしないものというのはわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:14

私は善人として生きたところ酷い仕打ちを受けて非常に苦しみました。


また、『正直者は馬鹿を見る』や『いい人は早く死ぬ』という言葉があります。
私の知人は素晴らしい人間でしたが、早世して夫と息子が残されました。
善人の奥様は夫と息子に『苦』を与えました。
『憎まれっ子世にはばかる』という言葉もあります。
太宰治は良い人なのに自殺しました。
ゴッホも芥川龍之介も。
素晴らしい人間はこの世では破滅していきます。
恐らく。
私も善人として生きたいのですが、そうは問屋がおろさぬようです。

他の方に失礼ですが、書かせていただきます。
畜生道は人間道より下というのが定説です。
しかし人間は畜生よりも地球を破壊しています。
地球にとっては人間が最悪の生物です。
となると、私は畜生が人間より下というのは矛盾している気がしてなりません。
すみません。

私は因果応報は無ければ良いと思っています。
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この回答へのお礼

>『正直者は馬鹿を見る』や『いい人は早く死ぬ』

この方が真理だと思います。
しかし、いかにも言い方がわかり易過ぎて有難味なく、
為政者に媚び諂う曲学者の言葉ではありません。

>畜生が人間より下というのは矛盾している気がしてなりません
おっしゃいます通りです。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/27 19:24

NO.7です。


昔は聖職者の方が悪いことをしていました。
私は因果応報だけでなく教理というものは一般民衆を操る良い手段でしかない、と考えています。

聖職者は来世ではほぼ全員が苦しむはずです。
逆に農民として生まれた大多数の人は来世では素晴らしい人生を送るはずです。

あなたの近所にはゴミが落ちていますよね?
空き缶なども少し遠出すれば沢山転がっていると思います。
では何故因果応報を唱える人(は日本中にいるはずです)はゴミ拾いをしないのでしょうか。
因果応報を唱える良い人が多いはずなのにゴミだらけの日本には矛盾を感じずにはいられません。
日本には宗教が沢山あるはずです。
しかしボランティアとしてゴミ拾いをしている人は私は今までほとんど見た覚えがありません。
因果応報を唱える暇があるならゴミ拾いをしたほうが善行が増えて来世は素晴らしくなりませんか?
そうしてゴミ拾いをする姿を見て因果応報を信じる人も増えるはずです。
と、なると私は因果応報を唱える人は怪しいと思ってしまいます。
因果応報を唱える人自身はゴミ拾いという善すら行っていません。
これは……どうなっているのでしょうか?
因果応報を唱える人は今まで街のゴミ拾いしたことがありますか?
ホームレスに施したことがありますか?
私は偽善者にはなりたくない、と考えています。
因果応報を教える人はまず街のゴミ拾いをして下さい。
そうすれば来世は明るくなるはずです。

ちなみに私はゴミ拾い、しています。
そろそろ1年位は続けています。
今までに2500個ほど拾ってきました。
道端のゴミ、どぶのゴミまで拾いました。

皆様も因果応報を教える暇があるならゴミ拾いをしてくださると嬉しいです。
ゴミはあらゆるところに驚くほど落ちています。
論より実行です。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りです。
因果応報なんて無関係に善行積むのが人の道!
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/28 08:39

他の方の回答や、それに対する質問者のコメントを読んでいません。



因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。
 ⇒ 本当のことです。

例外は沢山あるのではないですか。
 ⇒ 例外というか、因果応報にならないことも山ほどあります。
 
何でも同じですが、一つのセオリーがすべてに通用し、例外が起きないことは、社会生活や人生で遭遇するものありません。
(形あるもの必ず滅す、人間は死ぬなどについては、例外もないと言えます)

「勉強や学習することが、知識を増やし、判断力を養う」というのは本当です。
勉強や学習したのにだめな人もたくさんいます。 歳をとればほとんどぼけます。

「トレーニングを続けることが上達の道」というのは本当です。
ある程度の腕前までだと、素質でうまい人もいます。
いくらトレーニングしてもまるでだめな人も大勢います。

「高気圧のときは晴れる」というのは本当です。
しかし曇りのときもあります。

格言や常套句が本当かどうかは、次のどちらかの基準で判断します。
1)そういうケースが多い場合
2)努力しないと良い成果や結果が得られないことが多い場合、努力を薦める方が適切な社会的行為と見なせる場合

質問の「因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)」は1)と2)の両方に合致します。
 
行為が他人に知られたケースで
 [ 善い行いが幸福もたらす]_>_[善い行いが幸福もたらさない]
 [ 悪い行いが不幸もたらす]_>_[善い行いが不幸もたらさない]
行為が他人に知られないケースの場合に次のようなことはどれも言い切れません。
 [ 善い行いが幸福もたらす]_>_[善い行いが幸福もたらさない]
 [ 悪い行いが不幸もたらす]_>_[善い行いが不幸もたらさない]
 [ 善い行いが幸福もたらす]_<_[善い行いが幸福もたらさない]
 [ 悪い行いが不幸もたらす]_<_[善い行いが不幸もたらさない]

可能性が相対的に多い:少ないだけで、辺の両側が実際に起きます。
可能性をいうなら、「善い行いが幸福もたらす」方が多いのです。
 
[善い行い]は自然にできるでしょうか。
 自然に[善い行い]ができる場合もありますが、意識して[善い行いをしよう]とした場合の方が[善い行い]ができる件数や機会が増えます。

[善い行い]の件数が多い方が、[善い行い]が少ない場合よりも、[善い結果に]遭遇する可能性は高まるでしょう。

そうであれば、「因果応報(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)」と幼少期から教えた方が良いでしょう。 
そう教えず[人間は善い行いをしなさい]というだけよりは、「因果応報(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)」の方が、説得力があります。

[善い行いをしなさい]と教えず、全く文化を伝承しないか、[自己利益を追求しなさい]と教えて幼児期から成人まで経過すれば、おそらく自分本意で利己的でと社会から蔑まれる人に育ちます。 その人がタマタマ金と権力と知力と健康にすべて恵まれれば、何とかやっていけるでしょう。 しかし他人からの蔑みや敬遠をものともしないほどのものを持っていなければ社会的には色々なことがうまくいかないでしょう。
一般的には、金と権力と知力と健康にすべて恵まれて一生過ごせるのは非常に希です。
大人になってから[善い行い]を心がけても、子供のときから自己本位でやってきた習性がありますからうまくいかないことも多くなるでしょう。

ずるいやつ、自己本位なやつ、悪徳の権現が社会的に成功して本人も幸福そうなまま人生を終えるケースがたくさんあったとしても、それを自分や自分の後輩、子供に教え、人生訓にするのは、失敗する危険が相当に高くなります。
 
「因果応報(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)」というのは、本当です。
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この回答へのお礼

>「因果応報(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)」というのは、本当です。

しかし、例外はいっぱいあるということですか?
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/28 11:48

私はプロテスタントのクリスチャンで、統一教会、エホバの証人、モルモン教とは関係ございません。



因果応報というのは正しいことを目指してきた方々にとっては当然そのようであるべきことというお気持ちはわからなくもありませんが、私のように罪人は因果応報の思想からしますと、将来は暗いという予想をたてざるをえない心境になります。

聖書のなかに以下のような文章があります。イエスが弟子と共に歩いているときに目の見えない人に出会いました。そこで弟子が尋ねたのです。ラビとは先生という呼びかけの言葉です。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

つまりイエスは目が見えない人や足に障害がある人が何かの悪いことをしたために罰としてそのようになっているという考えを明確に否定した言葉と取ることができる箇所と言えます。つまり因果応報は決定的に誤っております。

感謝すべきことにそれ故に罪人の頭であるようなこの回答者も、毎日楽しく生きることができるのだと思っています。聖書の別の箇所ではイエスは次のように述べています。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイの福音書9章12-13

私に罪があるために招かれたことは実に幸いなことでした。悪いものであったからこそ現在の幸を手に入れることができたということを述べておきますます。また自分の過去の過ちに顔もあげられない方はぜひ聖書をお読み下さい。
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この回答へのお礼

>目が見えない人や足に障害がある人
・・・この人たちは「気の毒な人」なのでしょうか?
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/28 11:52

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