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仏教聖典では執着をはなれよと教えていますが、学校の勉強をするためや、仕事をこなすためには、どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか?どう考えれば勉強や仕事と仏教を両立できますか?
どなたか教えてください。

A 回答 (16件中11~16件)

実際には複雑ですが、簡単な例で説明を試みます。



「正解したいとか」、「正確に業務を遂行したい」では、仏教の言う執着に当たらないと思います。
執着とはもっと、思想が染みついた(他人を差し置いて)自分に益を持ってきたいような欲望を指すと思います。

例えば数学の問題を解く場合、人間には子供が分からないことを「何故空は青いの?」と聞くように
分からないことを理解したいという、自然な心の働きがあります。
この様な心の動きで、正解したい、問題を充分に解きたいという「欲」なら純な心の動きでしょう。
これは、執着と言わないと思います。

しかしそうではなく、他人に自分の優秀さを見せつけたい。
他人を排しても自分の益を求めるような欲を、執着と言うと思います。

ですから、欲と仏教は充分両立できると言えるでしょう。

簡単な例ですが、イメージで理解できるでしょうか?
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古来から伝わってきた教えは、未来に生きる者のために説かれたものじゃなく、今生きる者のほうから説かれている者の意義に歩み寄らなければいけないものだと思う。

現代を生きることにその教えをいかに活かすかが第一義なものだと考える。生きる中で直面するものごとにこれが必要だ、とかこうしなければならない、などと囚われているうちには心の平穏はなく、自らの意思でこうする、こう手を施すことが望ましい、とわかった上でことに処す、悠然とした心持で判断、行動の決定をする、そういった生き方が好ましいということを表してるように解釈できると思う。この教えに殉じなければいけないという観念自体そのことにすでに執着してることになってるとは考えられないかな。この教えに従おうとしてるだけではすでに間違っていて、それを自らの価値観に取り込んで消化し、主体的な生き方を歩みゆくことが望ましいということに最初に気付いた人の言葉でもあると僕は思う。
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中道、すなわち何事もほどほどがよいということです。


「正解しなくては」、結構です。
しかし常に100点を目指すのでなく、80点も取れたら良いやと思ったら気が楽になりませんか。
「正確に業務を遂行しなくては」、結構です。
しかし完璧を求めるのならロボットかコンピュータにやらせればいいのであり、人間である以上間違える事もあるよね、というスタンスなら気が楽でしょう。
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執着しなくたって仕事はできるでしょ。


もっと収入を増やしたい、もっと出世したい、もっと人から尊敬されたい・・・
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと・・・
これが執着でしょ。

この回答への補足

私にとっては「正確に業務をしなければ」も執着なんですが。

補足日時:2011/02/17 20:54
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仏教聖典という名の書物は存在しません。

釈迦が説いた経もたくさんある。
具体的なソースを提示しましょう。ちなみに、執着とは欲望(煩悩)の類義語と考えても
いい。欲望から離れるようにという教えは、釈迦の説く仏教の中では一部の物だけです。
寧ろ、欲望を善なる価値に向ける(解放する)ようにという教えもあります。実生活を
送る上では、後者の方が正しい事が分かります。食欲を無視して断食すれば餓死します。
こんな単純な矛盾があるようでは、「執着をはなれよ」という教えには明らかな矛盾が
あります。

より正確なソースを確認して、仏教各派にもさまざまある事を認識しましょう。

この回答への補足

ありがとうございます。より勉強になる書物、サイトがあれば教えてください。

補足日時:2011/02/17 20:06
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この回答への補足

創価学会は異端視されていますので、参考になりません。

補足日時:2011/02/17 20:03
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