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偽善や独善であるということを自分で認識しつつ、それを実行する人はいますか?

たとえば「これを言ってしまったら相手を傷つけるだろう」と思えるのに、
そう思いつつ言ってしまったりするようなことですが、問題は、それが瞬間的なものではなく、その人の人格的なもので持続性があるということです。

いじめやモラハラなどがそうですが、つい、うっかりというものではなく、相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか?

A 回答 (8件)

自分にとっては悪ではないからです。


人をいじめることはとてつもない慰めがあるのです。
他人をいじめることで自分が慰められるのです。
自分を慰めるという良いことを行っているのですから自分にとっては悪ではないということになります。
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No.3です。


誤解を与える書き方だったみたいですみません。
質問者さんがそう思った、と申し上げたのではなく、そういう場面を見た第三者は質問者さんと同じ疑問を抱くだろう、という意味でした。
仰る通り、そういう疑問を抱くのは何もその場面を見た時だけではないだろうと思います。

客観性こそが善だ、というのは仰る通りだと思います。逆からいえば、それがわかっているからこそ、悪徳を実行する者は自己の正当化を必要とするのかもしれません。
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>偽善や独善であるということを自分で認識しつつ、それを実行する人はいますか?



自己保存本能のあるおおかたの人間が多かれ少なかれそうなのではないでしょうか。
殆どの人間が本能的に利己主張をします。他人との間に多少の齟齬があっても、自分の主張を押し通すという現象は日常のことだと思います。非力な人間は更に非力な人間へその連鎖を遂行して行きます。
>相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか?

それをしなければ逆にこちらがされるからという認識がそうさせるのでしょう。これはノーマルな人間関係の中での現象ですが、他に、その行為自体が快楽になるという悪しき習慣を覚えた人間もそれを更に大々的に意識的に行うようです。これは普通ではないと思いますが。
更に特殊な一般例として、軍人が挙げられます。軍人は敵とみなす対象が最もされたくない悪を彼らになす職業です。
>相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか?

小異はあってもおおかたは、相手の立場や心や苦痛を心底から理解はできないという人間本来の性質からだと思います。
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相対的価値観に漬かっている度合いが高い人ほど、そういった傾向は顕著になると思います。


相対的価値観の基本は没自我、あるいは弱自我とでも表現できるでしょう。
対義語としては強い自我があげられます。

強い自我とは自己中という意味ではなく、あくまで自らの(精神的)足で、しっかりと地面を踏みしめている状態を指します。
他者を頼ったり甘えたりすることはあっても、基本、自分の力で(精神的に)立てる状態のことです。
自我の弱い人ほど、自立の度合いが低い人ことになり、こういった人は他者をいじめたり貶めたりすることによって、自らの安定を図ろうとします。
相手が自分より下位にあることを再確認したくて、いじめやモラハラは行なわれるはずです。
相対的にしか、自信を保つことができない人と言っても良いでしょう。
攻撃的なので、一見自我は強そうに見えますが、内情は全く逆です。

なぜそうなってしまうのかというと、端的に言えば人は常に過去の精算をし続けている、ということになるでしょう。
「過去に受け取ったものをお返ししている」ということで、エネルギー量的な理屈としては不合理性が殆んどないので、ごく当たり前のことのように日々、社会のあちらこちらで行なわれています。
いじめにせよ、モラハラにせよ、虐げにせよ、悪徳にせよ、それを他者に与える人は必ず、自分が過去に同じようなものを受け取った経験のある人です。
そして、それがあまりに苛烈で(あると感じたので)あり、自分ひとりでは受け止めきれないものとして、ずっとその本人の記憶の内部に留保されてきたわけです。
生体の安全を維持するためには、その場で吐き出すのが一番良いのですが、通常、それらの悪徳を受ける側というのは弱者の立場ですから、当事者としての相手に直接吐き出すことが難しい状況にあります。

そして、適切な対象を見つけると、嬉々として、その対象に向けて吐き出すことになります。
「適切な対象」とは、嘗て(被害者であった)自分がそうであったような、力の弱そうな、そして何より、自分に似ている人です。
理不尽であると同時に、相手を取り違えているわけで、ある意味での精神疾患とも言えるでしょうが、いわゆる錯綜が自己の内部で起きていることに気づく場合は稀です。
広い意味での自己防衛機制と言っていいでしょう。

防衛機制の、もっとも高度な形態は昇華ですが、この段階にまで至れないゆえに残念な人ではありますね。
と同時に、その人の受けてきた(であろう)過去の苛烈な体験に対して思いを馳せる余裕を持つことも大事です。
負の連鎖を断ち切るためにですが、これは個人のキャパシティの問題が絡んで来るでしょう。
  
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善悪は、社会(や、流布している価値観)が決めるのに対し、


生きる目的が、そうした集団的なマジョリティに一致しなければ、
意識、無意識に偽善や独善を為すでしょう。
価値観=善悪の分別は相対的であり、偽善そのものが善である
(=一般常識の善悪自体が悪である)という考えも成り立ちます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

つまり絶対的な価値観=独善ということなのですね。
としても、人は一人では生きていけませんし、社会的な存在ですから、どんな絶対者(という思い込み)も、相対性の世界で生きていかなければなりません。

社会性を身につけるというのはそうした相対性の世界の、たとえば親などからの教育や環境ですが、そのようなことを教え諭されない絶対者も存在します。反社会性人格障害者や、自己愛性人格障害者、また心がないモンスターと称される一部の存在もいます。
それは善悪に対する客観性の認知の問題となるのですがが、彼らを例にとるのでしたら、善か悪かをそもそも判断できているのか?という疑問も生じます。

社会性が客観性を諭すのであれば、このような者は心を改めるはずです。

>集団的なマジョリティに一致しなければ

マジョリティに一致することで偽善が成立しないのであれば、彼らは己れの客観性を生かせないマイノリティであるといえます。

精神疾患ということに限定されていきますが、それも含め、客体が神のような絶対者であるという仮定を設けた場合、一般的にもそれが見ているにも関わらず、なぜ主体の方が客体を忘れることができるのだろうか?という疑問です。。。

お礼日時:2011/02/28 22:54

目的を達成する手段として実行する人はいるだろうと思います。


例えば、物の言い方がきつい相手に対して、同じ言い方をして傷つけば、自分の非に気づくだろう、という目的のために、意図的に傷つく言葉を選ぶ。
そうした目的を持つ場合、相手が傷つく必要があるわけですから、意識的にその方法が選ばれるということになるでしょう。

そうした手段を継続的に用いる人というのはいると思います。
そういう人は、自分は弱者であり、非力であるから、我が身を守るために必要な手段だ、と考えているんじゃないでしょうか。
偽善や悪徳が正当防衛だと認識されれば、実行をためらうことはなくなるでしょう。
我が身を守る武器ですから、自分が攻撃されたと感じた時には、躊躇なく実行されるだろうと思います。

ただ、問題なのは、攻撃されたという理解が過剰反応である場合ですよね。
誰も攻撃してはいないのに、攻撃されたと思いこみ、悪徳を実行する時、防御すべき攻撃は存在せず、その人が一方的に相手を虐げる事実があるだけになります。
そういう場面を第三者として見た時に、質問者さんのような疑問を抱くのだろうと思います。
でも、悪徳の実行者の中では正当防衛だという理屈がある、ということになるんじゃないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そういう場面を第三者として見た時に、質問者さんのような疑問を抱くのだろうと思います。

いえ、特に過剰反応している人を見てそう思ったのではなく、人という存在に共通するもの、傾向として質問をしました。

人はなかなか自分がしていることや考えていることが悪いということを認めたがらない生き物のようですから、正当化するためには悪い事をしている自分を見る能力、客観性があったとしても、抵抗するのはよくわかります。弱いということも認めたくないのでしたら、フロイトが掲げたような、さまざまな防衛規制が生じるのも無理からぬことです。

ですが、やはりその客観性こそが、善だと私は思うのですね。それがなければ社会性や共感性、思いやりなどをもつことができないのですから…。

どんな人にでもある過失ではなく、故意、意図的な悪意について疑問に思ったしだいです。

お礼日時:2011/02/28 22:33

 哲学っぽい、あるいは理知的な回答?でなく、おおまかな感覚的意見なので物足りないかと思いますが、述べてみます。



 人間以外の動物はともかく、人の心はこの身に執着する心と、この身を離れようとする心とがあるようです。
 これを“私流”ですが理的に「個に引かれる心」と「全体に向かう心」なんて言葉を使って自身の心を見つめたりしています。

 言い換えて、神や仏にあこがれる心と煩悩に執着する、あるいは引かれる心がありますが、人によりその惹かれる“ちから”の度合いが違うようで、「個」への執着心が「全体」を志向する“力”より大きすぎると、その心の中に質問にあるような「いじめ心」も働きだし“活発化”してしまうのでしょう。

 ★ “悪を楽しむ心”あり、・・・・・心は使うほどに育ちます。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

大変深遠なご回答だと思いました。

「個に引かれる心」、つまり「自我」ですよね。
「全体に向かう心」、つまり「自己」ですが、それは「自我」が目指すところであり、誰かにとっては帰依するところだとしたら、そのベクトルの違いを生むもの…なんというか…心がそれを選択させる意志のようなものはどこからくるのかなあと思いました。

お礼日時:2011/02/28 21:48

います。

育ちの問題ではないですか?

常に競争の中で育ったとか、

可愛がられなかったなど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答者様の知るところでも、現実に「いる」ということで、納得しました。

お礼日時:2011/02/28 21:08

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