運動会でやった4人一組でやる騎馬戦ですが、ルールからみても

戦国時代の合戦がベースになっていると思われますが、子供の遊びとして

はいつころから起こったものなのでしょうか?

江戸時代の祭りで大人が創めたのかなという気もしますが。

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A 回答 (1件)

明治時代、学校単位で運動競技会を開くように国から指示がだされ、


パン食い競走など、住民参加の行事が行われ、地域の祭りの様相を呈していたそうで、
その祭りに自由民権運動をするいわゆる壮士たちが参加して始めた
政権争奪騎馬戦が騎馬戦がであり、圧制棒倒しが棒倒しになったと、
玉木正之氏の著書『スポーツとは何か』 (講談社現代新書)に書いてあるそうです。
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戦国時代の日本人口は1000万人くらい。

少なく見積もっても800万人。

で、大名に万石という土地を分け与えて国を管理していた。

そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

天下人と天皇の朝廷は大名に年貢を納めさせたので大名の万石から譲り受けたわけだからノーカウントとして、残り714万石。

あとの大名は10万石とかですよね。

当時の大名ってそんな数いませんよね?

おかしくないですか?

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競技自体は特にどうもならないですよ。
学校側が私服を認めるかは何とも言えませんが…

それと周囲と違うことをやって結果が出なかった場合、クラスメートから糾弾される可能性は高いです。
小学校だとクラス対抗の団体戦の意味合いが強いですから、イレギュラーなことをした挙句クラスのポイントになりませんでしたでは、文句を言われても仕方ないです。

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中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

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元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

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春秋戦国時代について書かれた本は、それほど多くないのですが、次の本はお勧めできますね。

司馬遷(著)/小竹文夫、小竹武夫(共訳)『 史記 』(ちくま学芸文庫)全8巻

参考URL:http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E8%A8%98%E3%80%881%E3%80%89%E6%9C%AC%E7%B4%80-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%

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破れるのは、私服でも運動を想定してつくられていないもの。
伸縮性の小さい素材だったり、縫製が強固ではなかったりで、激しい動きの負荷には耐えられない。
だから自前のジャージ… 制服でないものは全て私服なのでこれも私服に入るわけだけど、そういうのなら破れる危険性は激減する。

汚れるのは、土の上で競技をやる限り、私服だろうが制服だろうが同じ。

Q戦国時代の不思議、合戦のシーンを見ていて?なこと

たとえばこんなシーン。
「真田殿には兵3000を与える。右翼から攻めよ」

その兵3000ですが、きっと誰かが点呼を取って、「君たちは今から真田様の配下になれ」などとやるのでしょうね。きっと。
そうすると今まで、義理も何にもなかった真田様の配下に臨時徴収された兵士が家来になるわけです。当然、そんなに恩義も義務感も感じないでしょうね。負けそうになるとすぐ逃げちゃったり敵に寝返ったりするのではないでしょうか? どうなんでしょうか。

あともう一つは食料です。その3000人の兵隊を食べさせるには大変な食べ物や水が必要ですね。食料を戦地まで運んで料理する。兵隊にとってこれが一番の仕事だったんじゃないかと思うのです。たとえば関が原の合戦では、どれくらいの量の食料を運んで行ったのでしょうね。やっぱり兵隊が一生懸命運んでいったのでしょうかね?

Aベストアンサー

まず大前提として、真田を指揮官として兵士が付けられたわけですので、兵士は真田の指揮に従う義務があるだけで、家来(主従関係)となるわけではありません。あくまで指揮下にはいるだけです。

次に兵士の意識の問題ですが、これはいくつかのケースによって異なります。
質問の例は大坂の陣と推測すると、真田に付けられたのは豊臣方が寄せ集めた牢人衆ですので、真田とはもちろん豊臣家とも主従関係にありません。したがって恩義も義務感もないわけですが、牢人衆にとっては自身の進退を決める最後の機会と思って豊臣方に参陣していますから、それなりの戦意があったと考えられます。

大坂の陣ではなくて、それ以前の合戦となると、軍勢動員体制が整備された北条家などの大名の場合ですと、
大名が武将に知行に応じた軍役にあわせて軍勢動員をかけます。武将は軍役に応じた軍勢を準備します(北条氏の場合は装備まで規定)。集まった軍勢を大名は解体し、再編成して有力武将に率いさせます。軍勢を解体された武将は、身軽になって供回りとともに個人の武功に励みます。
武将が率いた軍勢ももともとは臨時に雇い入れた者が多かったようですから、踏みとどまって戦うほどの忠誠心は期待できません。有力武将(指揮官)のもとに再編成された臨時の軍勢がどんぱちやっている側で、敵の軍勢を崩す機会を狙う歴戦の武将たちといった図となります。

軍勢動員体制が整備されていない大名の場合は、他の方も応えているような与力となります。
たとえば、武田氏が真田氏に配下の東信濃国衆を与力として付けます。東信濃国衆は、それぞれが小部隊の指揮官となりながら、真田氏の指揮下に入ります。この場合、信濃国衆は武田氏の従属化ですから、武将自体の戦意はもちろんあると思われますが、動員してきた兵士については前の事例の場合と同じくあまり踏みとどまって戦うほどではないでしょう。

詳しくは、西股 総生『戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』(学研、2012年)をご一読ください。兵粮についてもしっかり書かれています。

まず大前提として、真田を指揮官として兵士が付けられたわけですので、兵士は真田の指揮に従う義務があるだけで、家来(主従関係)となるわけではありません。あくまで指揮下にはいるだけです。

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