プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

「おはよう ございます」もっと、元気よく!大きな声で!やりなおし!はい!
「おはようございます!」はい、よくできました。
「元気よくあいさつすると、気持がいいですね」と、教師が、言います。
本校の目標は、「あいさつできる子ども」ですとか。
朝、校門の前で並んで、あいさつ運動をしていることを、
りっぱな教育をしていると思っているようです。
「きをつけ!礼!なおれ!」号令をかけて、自分に礼をさせている教師。
あいさつって 気持ちの表現ではないでしょうか?
強要して、言葉を言わせて、形式をさせて、自己満足しているだけで、
本人は、ストレスで傷ついているだけかも知れません。
私がそうでした。内向性が強く、人前に出るのが苦手で、
隠れるようにしていました。また、ある保育園で、「いただきます」を強制されることが苦痛で、不登園になった子どもがいたそうです。
本当の教育は、しゃにむに「言わせる」「唱える」ことでなく、
朝、会ったら、自然に、心からほとばしり出る言葉が出るような相手に自分がなることでしょう。
「いただきます」が、食べ物の命を感じ、心から、食べ物さんのお命をいただいて、自分がその命をだいじに生きさせていただきますという気持ちを表現したものであるよう、感性を導き育てることでしょう。
日本人は、みんながしているからするという、そうではなく、もっと自分を信じたらいいと思います。
ほとんどの家にテレビがあるけど、私の家にはテレビはありません。いりません。
自立できないように育てられているからではないでしょうか?
自販機だって、だれも買わなくなって、水筒を持てば、ドイツやイギリス、いや、インディオやイヌイットのように、自販機のない風景になります。兵庫県のある町は、自販機の1台もない町になったそうです。その本を読んで、感動して涙しました。話がちょっとそれたかも。もっと、自分の気持ちをだいじにということです。

A 回答 (15件中11~15件)

ありますねー。



挨拶自体は社会において必要なものですが、
「過剰に元気な挨拶」が必要かというとそれは疑問です。


ただ、社会人になるにあたって、
大声で挨拶することは多くの企業で研修内に取り入れられています。

普段からそうする必要は無くても、
「必要を迫られたときに出来る能力」はあったほうがいいので
教育に取り入れることが悪いとは言い難いです。


「大は小を兼ねる」というやつですよ。

大声で挨拶出来る人間は大声でも小声でも出来る。
でも小声でしか挨拶出来ない人間は大声での挨拶が出来ない。


義務教育というのは社会生活に順応するための能力を得るためのものです。

現在の社会がそうである以上、それに順応する教育はあって当然。


もし保護者が「そんなの無くても生きていける」と思うのであれば、学校を変えれば良いのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。上の皆さま方へのお礼文に書いていますように・・・・・・
子どもに、強制して決まり文句を言わせるのでなく、子どもには自分の気持ちを表現することでいいと、
そして、家庭が、「おはよう!」「ありがとう!」と、自然に交わしているのを見て、聞いて、子どもは自然に学ぶ。これが人間関係なんだな、社会なんだなと。
肩をポンとたたきながら、「おはよう」と挨拶を交わす家庭に育ったら、子どもも、そんな挨拶をする子になるかも。という風にです。

子どもにとって「あいさつ」という決まり文句を 無理やり唱えさせられるということは、私にとっては、無理やりお経を唱えなさいと言われているようなことなのかなと思います。信仰しているわけでもないのに。
子どもには、それよりも、自分を表現することで、人間関係を学ぶ、成長していくことが大切ではないかと思います。
自分の気持ちを押し殺して、隠して、うそをついて、にこにこ笑顔を作って、そんな抑圧、強制、の中で育った子ども、自分は、あるがまま自然なままでは、この社会では、認められないんだと。
自分は、自分自身のあるがままで、だいじな存在なんだと、認められてこそ、社会性が育つ。
それをだいじにされて育った子は、大人として社会に適応して生きていける。
そうそう、(自分を信じる)自信のある子が、人を信じることができると聞きました。

お礼日時:2011/05/11 23:05

おっしゃる通りです。


あなたの言っている、至極当たり前の事が理解出来ない馬鹿が、教師の大半なのです。


>もっと、元気よく!大きな声で!やりなおし!はい!

ブラック企業や新興宗教団体がよくそんな新入社員研修してますね。
嫌なことを無理やり長時間やらせて思考能力を奪います。
結果「命令は聞くが自分で考えることのできない人間」に育ちます。




絵本でこういう話があります。

ある小学校の校長が校門の前に立ち児童に挨拶をする。
小さな声の児童には「もっと大きな声で」と。
そしてその校長が病気になり体力が落ち、大きな声がぜんぜん出なくなる。
その時校長は気付く 「出そうと思っても出ないということってあるのだな」と。
そしてその子供に謝る。
あるとき校長が山で倒れる。
声の小さな子供はその時、助けを呼ぶため初めて大きな声で「誰か~~」と叫ぶ。



大きな声ってそういう時のためにあると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
絵本のお話にとても感動しました。

「命令は聞くが、自分で考えることができない人間に育つ」
まさに まさに そうですね。

制服が好きな人もそうですね。決められたものが好き。
本当の自分を、底の方に押しやってしまっているので、
生まれてからこの方、教え込まれた(INPUTTされた)ものに、操縦されてしまった。

ブラック企業や新興宗教団体がよくそんな・・・・云々の節ですが、
軍隊って、そういう人間にすることこそが目的なんですよね。
自分の本当の気持ちを押し殺さないと、戦争、殺人はできませんもの。
なるほど・・・・・・・

ベストアンサーにと思いますが、そうすると、締切になってしまうようなので、
もっと、多くの方に 考えていただきたく、時間を置かせていただきます。

お礼日時:2011/05/11 23:21

社会人だったら挨拶もできないものは使えない奴として相手にされません。


教育の場で挨拶もできないものが社会に出て挨拶できるようになるんですかね。
社会人になるまでに挨拶くらいはできるようになった方が良いですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
上の皆さま方へのお礼文をお読みいただければ幸いです。
子どもに 人間関係を学ばせること、「社会とあいさつ」を学ばせるその育児の道をテーマに、
質問を書かせていただきました。

「あいさつ」は、能力ではないと思います。もちろん、技術でもない。
挨拶するのは簡単です。
「おはよう」と言うのは、お経を唱えよと強制されるよりずっとたやすいこと。

上に書いておりますが、強制でなく、自然に、自分を表現して、認められた子どもは、
社会性が育つち、大人として、社会に適応していける。
私も、小学生の頃まで、内向性強く、恥ずかしがり屋の性格で、緘黙と通知表に書かれ、
「声が小さい!」と先生から怒られ、
ますます引っ込み思案な子どもになっていきました。が、中学生になって、ある先生が、おとなしく目立たない透明な存在だった私を引き出してくださって、クラスみんなから私を認められ、生徒会長に立候補までするようになっていきました。
今では、あの時の私が、正反対の 積極的、自主的、社交的な性格になり、昔の私を知る友人は、びっくりします。
それで、教師になろうと思ったのです。声が出せない子どもの立場になれる私だからこそ。
クラスで一番弱い立場にいる子を、引き出す。障がいのある子どもの教育にも長年携わってきました。そして、非行、犯罪をおかす子どもの、奥にある根本原因、背景を知りたいと思うようになりました。

お礼日時:2011/05/11 23:51

まっとうな社会人なら、たとえ心がこもっていなかろうが、条件反射だろうが、「あいさつ」一つまともに(声に)出せない人が、どんな評価をされるか、知っています。



心を込めてあいさつをするのが大事なのは当たり前ですが、それすら出来ない人になってもらいたくないからなのではないでしょうか。
おはようという気持ちを持っているけど、無言の人と、心が無いけど、「おはよう」と発音する人、どっちが人に受け入れられるでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
上の皆様方へのお礼文をお読みいただければ幸いです。
小学校の時の怖かった先生を思い出しました。ますます萎縮して、声が出せませんでした。ますます心をぎゅっと閉じてしまうのですね。
中学生になって、恩師に巡り会って、「心を開く」、ほんとうに、まさに、そんな感じでした。

社会は人間関係の場ですね。
それを学ぶ道筋を、申しております。
結果でなく。
無言の人・・・どうしてなのかな?と私は思います。原因があるからこそ結果があります。
だからこそ、いっしょに 考えていただきたい。

教師の頃、緘黙の子どもを担任したことがあります。(待ってました!って感じ。待ってはいませんでしたが)当時の私そのものの子でした。
数ヶ月後には、言葉を話すようになり、挙手して、発表するようになり、
音楽会で全校父兄の前で、長いセリフを上手に言いました。

頭ごなしに、子どもを指示、命令、叱責すれば、ますます 心を閉じるだけ。
非社会か反社会に 逃げ込むだけです。
非社会は、緘黙、ひきこもり、不登校など、反社会は、非行、犯罪、暴力など。

「そうでない。最近は、厳しさが足りない。もっと子どもに厳しくしつけるべき」
「甘やかしている」と よく言われます。

私は思うのです。
親(教師)が、自分に対して厳しさ(親として教師としての役割、責任)が足りないと。
安易に子どもを産みます。(できてしまったというのも多い)
そして、自分の母乳でなく異種たんぱくの牛の乳で、紙(本当はポリマー化学物質)おむつで、ねんねこでなくベビーカーで、テレビを見せて、手作り弁当がめんどうで、給食をありがたがって、(一応)大きくしています。

今、上に書いたこと、全部、私は逆をして、つまり自然育児をしてきました。
経験と実績と学びをもとに 書いております。
マスコミや世間の常識でなく、自分の経験と直感と学びからです。

お礼日時:2011/05/12 00:36

質問者さまの地域の教育委員会と


市長と、校長に内容証明郵便で
この質問文と同じ文面の手紙を
書いて出しましょう。

それと同時に、朝日新聞の「声」、
讀賣新聞の「気流」に、同じ内容の
文章を掲載するようにしましょう。

他、弁護士さんと相談して
訴訟を進めてください。

以上のようなことで
闘ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうしますね。で、訴訟って、だれを相手に?それに、訴訟は、費用も時間も心労も大変かかるそうなので、私には、どれもありませんので、無理です。だれかがしなければと思います。元気のない子には、その子への手当て、カウンセリングが必要でしょうに、「元気よく!」と、元気なふりをさせると、それは、ストレスですね。例えば、朝、お母さんが、お父さんとけんかして、出ていくとか言ってたのを、学校へ早く行けと、出てきた子だったら、「元気がない!もっと元気よく!」と強要されて、私だったら、泣いてしまいます。傷ついて、傷ついて・・・・それで、我が校は、だれもがあいさつをしっかりできると自慢するのです。そして、たまらず、事件を起こしたら、「本校にはいじめはありません。」と。自分がいじめていたのに。

お礼日時:2011/05/10 23:52

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