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かつて中学二年生だった頃、同い年の男の友人がいた。
彼は代々男性にしか発現しない遺伝疾患を抱えていた。
家系の男性はみな、彼の父親・祖父・伯父全て同じ病気で中年期に命をうしない
本人と弟もその病気とのこと。
思春期をすぎて青年期から徐々に発病し、歩行が困難になり全身が麻痺して死ぬ
というのが一般的な経過だという。
たまに夜泣きながら電話してきたり、ヤケになって芋焼酎を飲んだりしていた。
「今から自殺する」と騒ぎ他の友達と組んで必死に止めたこともあった。彼を慰めようと
「倒れたら私が介護してあげるよ。こわがらないで。」とか何の責任も取れないことを言ってもみた。他の友達は「病気でなくても人はいつ死ぬか分からない。俺だって明日事故に遭うかもしれないんだよ。」と自分も泣きながら慰めていた。

しかし彼にある時「人はなんのために生きるの?」とズバリ聞かれ
私は「・・・ニーチェでも読んだらいいよ!」しか答えられなかった。
何故ならそこには「真実」が書いてあると権威主義的に考えていたからである。
ニーチェなら答えを持っているはずだ、と。ツァラトゥストゥラを数ページで投げ出した
のに、である。

私は成人した今も、あの時の彼に何と答えれば良かったのか分かっていない。
皆さんなら彼に何て言いますか?

A 回答 (12件中11~12件)

もし、「生きる理由などない」としても、それによって生じる「生きる必然」があるとしたら、それこそ否定できない=絶対的な『生きる理由』になります。



我々を形づくる物質に、「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、どうであれ進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする方向性に変わりはない)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れる事はできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束するのです。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
「生きる意味を知らなくても生きられる」というのは、物質的に生存できるという事であって、真の生きる目的である精神的充足において、非自覚的に生かされる事による損失は否定できません(知らない成果は充足にはつながらない)。

人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうため(他律的生)ではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働く事(自律的生においては愛する事)が生きる事なのです。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

本来お金は、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々が)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらっている=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。
その結果としての“自己チュー”な意識において、生きることは弱肉強食の中での孤独となり、死は絶対的な敗北となる。

そうした自己存在の本質と遊離した“馬車馬の目の前のニンジン”から覚醒し、社会生命としての自覚=助け合いとしての社会を認識ができれば、その愛において「個人の死」は乗り越えられる。
死とは、生の対立概念ではなくなり、いかに有効に死に至るかが、最良の生となる。
目的を即物的自己に拘束すれば敗北に尽きる生も、肉体を超えた他我(=愛)のために生きるならば、それは永遠の未来に連なる“成果”を信じられる事なのだ。

「求めれば孤独 愛すれば全て」
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物理学者のホーキンス博士。


21歳のときに発病した。
筋肉がどんどん壊れていくという病気で、最終的に呼吸筋がやられ窒息死する病気。
発病から5年で死ぬ。

21歳で徐々に体が自分の思い通りに動かなくなっていき、意識がありながら棺おけに入れられたような状態なわけで、その恐怖たるや、想像を絶するものがあると思う。

日本でも同じ病気の人が意識ははっきりしているのに、体は一切動かせず、言葉も発することができないことに将来なり、それでも生きさせられるのは受容できないとして、裁判を起こしてました。


で、ホーキンス博士、先日も「あの世というのは生きている人の妄想」みたいな発言をしたことを、ここに質問されたのを読んで知りました。

あいかわらず 元気な人ですね。笑

難病 つまり 治療法が無い病気で5年で死を迎えると宣告されたのに、あのあと50年以上生きている。
人によって 進行速度が違い(時間が違う?)、彼の場合 突如進行が止まったらしい。

だから人工呼吸器無しに生きていられるわけです。
しかも、ただ寝ているのではなく、わずかに動く指を使って、まだ人と会話して研究を続けている。


彼は庭で車椅子に座っていて、家族が彼とケンカをしたのかわらないが 一日庭に放置されていたことがあるそうです。
まさに棺おけにいれられ 何もできない状態。
いつかは死ぬではなく、まもなく死ぬと 死と直面したと思います。


そんな経験をしながら、まだばく進してますね。

ということで、ホーキンス博士は偉大が物理学者で、「理論的にはタイムマトラベルは可能になるが、現実では不可能と言っているが、どう思う?」とか聞いてみたら。

あーたら こーたらって話をして、「ところでホーキンス博士ってどんな人か知っている?」って聞いてみる。
そして車椅子の物理学者だって教える。
彼は人生今からってときの21歳で、不治の病をわずらい、どんどん体が思い通りに動かなくなっていったが、頭だけははっきりし続けており、その頭で現代の最先端の物理の研究をしているんだよ」って言ってみたら?

あ、今調べたら69歳ですね。
宇宙船の乗って宇宙に行く計画があるらしいです。
いってらっしゃーい!

宇宙だとどうなるんでしょうね。
重量の影響を受けないので 床ずれがなおる?
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