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アメリカのビンラディン殺害は正義だと
いえない理由を教えてください。

正義であるという立場のかたはぜひなぜ正義であるのか
理由を教えてください。

A 回答 (5件)

ビンラディンが明確に9.11事件の首謀者であり、国際テロの親玉であったと言う前提なら、「正義」と言えると思います。



なお、人の命を奪うか救うかは、必ずしも「正義」それ自体とは関係ないと思います。

良く引き合いに出されるのが、1977年10月に起こった「連合赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件」と、その一カ月後に起こった「テロリスト『黒い九月』によるルフトハンザ機ハイジャック事件」。

前者は、当時の福田首相の「一人の生命は地球より重い」と言う超法規的処置で、犯人の要求どおり、刑務所に拘留されていた連合赤軍は解放され、犯人は600万ドルの身代金を得て逃走。その代り、人質の生命も全員無事でした。

後者は、西ドイツの特殊部隊が機内に強行突入。機長がテロリストに射殺され犠牲となりましたが、犯人は全員逮捕されました。

どちらが正義かは、今も異論があるところですが、世の中の大勢は、後者の方が正義の遂行だったと認めています。前者の行動は、その時は人道的に見えても、結果としてテロリストによる模倣犯を増やしただけだったからです。
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というか、「正義」は固定観念であって共通の概念ではない。




「アメリカにとっての正義」なのは間違いないし、
「イスラム国家にとっての悪」なのも間違いない。


テロもイスラム過激派にとっての正義なわけ。
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ビンラディン殺害はアメリカにとっての正義なのです.


なぜ正義かといえば,生かしておくと,アメリカに対して,テロを続行する可能性が否定できないからです.ですから,これは,人類全体に対する正義とは違います.あくまでも,アメリカの正義なのです.

「正義」という言葉は,全ての事柄に対して通用するものではありません.
常に対象があっての「正義」なのです.「何に対する正義か?」を論じなければ・・・,「正義」という言葉を振り回すだけでは,すべて空論になります.

歴史的な「正義」の実例は沢山あります.
例えば,「出エジプト記」でモーセは,イスラエル人を救うためにエジプト人を湖で死なせました.これは,モーセが率いるイスラエル人にとっての正義なのです.

また,エルサレムの神殿でイエス・キリストは,商人たちを追い払いました.これを現代風に言えば,暴力で追い払った事になります.しかし,これが,当時のイエス・キリストの正義なのです.

或る独立國の人々が他国の侵略者から殺害されれば,侵略者と戦って独立國の人々は侵略者を殺します.これは,独立國の人々にとっての正義です.

こういうことが,人類の歴史上,数え切れないほどありました.

理由もなく人を殺せば不正義です.しかし,正当防衛で人を殺しても不正義ではありません.これが,地球上の生物の掟なのです.正義のあり方です.

ですから,私は,ビンラディンの殺害がアメリカの正義であることを認めます.
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生かして身柄拘束し裁判にかけたとします。

当然死刑でしょうが、判決が出るまで数年かかります。
その間に、アルカイダの残党或いは支持する国は身柄奪回のために新たなテロや誘拐を企むことは明白です。

例えば、我々日本人が海外で或いは国内で誘拐され、身柄交換の取引を要求されたらどうしましょう?…当然米国がその要求に応じるはずもありません。誘拐された日本人は処刑されます。そしてあらためて再度日本人が誘拐されます。エンドレスです…。
日本政府或いは日本国民はどうしたら良いのでしょう?…どこに怒りをぶつけましょうか?

マドリッドで、ロンドンで、パリで、NYで、爆弾テロが続発しアルカイダが犯行声明を発表します。『我等が父を解放するまでテロは続く』と…。
全世界の人々が同じ危険性を持つことになります。

米国に解決策はありません。解放するしか罪のない命を守る手段がないのです。こうなると元の木阿弥。妥協が遅れた分の命が無駄になるだけです。
生かしておけば余計な災いが降りかかることは自明の理です。

さて、「正義」とは何を守るのでしょうか?
殺人者であろうと人の命を故意に断ち切ることは「正義」ではありませんが、罪のない人々の命を守ることはきっと「正義」です。

私は結果的に「正義」(正しい選択)だったのではないかと無理矢理思っています。
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こんにちは。

初めまして。

私観です。
正義の『 概念 』も個々に差異が在ると思いますので、
お許しください。

>正義だといえない理由を教えてください。

今回の 『 殺害 』 は見方を変えれば、
邪魔者の“ 排除 ”に過ぎません。

排除が正義であるなら、
『権力と言う名の横暴』も正義となってしまいます。

善だろうが悪だろうが、
『時の権力、多数派の意見』と感じます。

大統領の承認式、裁判の法廷で、
『 汝、隣人を愛せよ 』と言う
“聖書”に手を置き宣誓する国家の
することではありません。

『 正義 』に大切なのは、
『 赦し、悔い改めの機会を認め与える 』、
そして、『 共栄共存の核(コア)としての役割 』のように思います。

正義と言う名の下では、如何なる理由があっても
殺戮、戦争…排除、排斥等の行為はタブーと感じます。
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