「仏に逢うては仏を殺せ」というこの言葉を画家の岡本太郎さんの著書の中でみつけました。
大変ショックに思い、少し調べてみたところ、もとの文章は、臨済宗の開祖・臨済のことばで、
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
というのが全文のようです。

この文章、意味があまり理解できません。 自分なりに無理矢理解釈すると「既成の概念や権威にとらわれるな」という意味なのでしょうか? でも、それで「父母を殺せ」だと、家族までも否定したクメール・ルージュ的臭いがします(たぶん、私だけだと思いますが)。結局、あまりわかりません。

この言葉の正しい意味は、どのようなものなのでしょうか? また、手に入りやすい参考文献などありましたらおしえてください。 お願いします。

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A 回答 (6件)

この言葉は有名ですね。

「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、善について考えることは悪を考えることと不可分ですし、美を論じることは醜を論じることに他なりません。

言いかえれば、我々の行う認識という作業は、そのままでは混沌である世界にかりそめの線を引いて、枠組みを与えるということに他ならないのです。我々人間が普通に生きていくうえでは、こういう二項対立を通じた認識を拒否することはほとんどできません。

実際に臨済の言葉のなかの「仏」という概念も、「衆生」つまり悟りを得ていない一般人との間に線を引いて生み出された概念です。悟りを求める僧侶にとってみれば、ひとまずこの「仏」はありがたい目標ですし、これがなければ修行もおぼつかない最重要の概念に違いありません。

けれども、特に大乗仏教では法界一如などといって、世界の全ての存在や現象に等しい価値があるのであって、人間が勝手に線を引いて区別する善悪や美醜、上下といった区分に価値を置かないのです。野に咲く名もなき一輪の雑草も、美しくあでやかな大輪の花も仏の世界にあっては優劣をつけられないものだし、世界をそのように見られる存在こそ真の仏である、とするのです。

従って、「仏を殺せ」というのは文字通り殺人を勧めるものではなくて、仏や衆生といった所詮はかりそめの区分にとらわれてはいけない、ということを強調したものなのです。そういう認識をすることが人間の常ではあるけれども、それを当り前と受け止めてはいけない、その認識そのものに安住することなく超える努力をすることこそが仏への道である、というのが臨済義玄の本意でしょう。

この言葉もそうですが、公案のように全く理論を外れていたり殊更に耳目を集めるような奇矯な言葉を弄するのは禅宗の特徴でもあります。少し難しくなるので詳しくは書きませんが、禅宗は、我々が当然だと思っている二項対立による世界把握が言語というものと密接に関わっていることに十分意識的だったので、言語による認識に疑問を起こさせるような言葉による指導を行ったのです。健康であることに意識を向けさせるために敢えて傷をつける指導を行ったようなものです。

「父母を殺す」という点は確かに心情のうえで引っかかりが大きいと思いますが、しかしこれも実際に殺すわけではありません(実際の「殺父母(=せつぶも)」は仏教ではもちろん大罪です)。言わんとするところは、法界一如の観点にたって血縁によって親・疎を分ける二項対立の生き方をやめよ、ということです。つまり、肉親を特別視することをやめ、父母から受けた恩愛を広く世界から受けたものと受けとめよ、という意味ですから、むしろ殺されるべきは自分の側の認識なのです。

臨済義玄から五代さかのぼる大鑑慧能(中国での禅宗の第六祖)はもともと薪を売って細々と老母を養っていたのですが、薪売りに訪れた町でふと金剛般若経の講義を耳にし、即座に出家してしまいます。今の感覚で言えば母を捨てたわけで誠に薄情なはなしですが、そこには仏教に対する揺るぎない信頼があったわけで、たとえ世間の価値観で不義理とされたとしても必ず自分の出家がより意味のある報恩になる、という確信があったのでしょう。この慧能の出家のエピソードは大変よく知られていましたから、臨済が「父母を殺す」と言った時にこれを踏まえていたことは間違いないでしょう。

曹洞宗の開祖である道元も、弟子から「出家は父母の供養をどのようにすべきか」と尋ねられた際、出家は父母からの恩を父母に限定せずに広く世間に返すことを心掛けるべきで、父母に限定した供養はするものでない、という意味の答えをしています。これなどは「父母を殺す」という臨済の言葉の意味をわかりやすく伝えるものだと思います。
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この回答へのお礼

うわぁ!!!
こんなに詳しく説明していただいて・・・、すごく嬉しいです!。 しかも、情報量は多くても、理解しやすい文章で、楽しく読むことができました。 もしかして、neilさんは研究職ですか?

人間が陥りやすい
>二項対立を通じた認識
を戒めるための言葉だったのですね。

臨済義玄の考え方についても詳しく解説していただき、大変楽しい知識にふれられました。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/10/16 19:28

そして、殺す自分を滅す。


このことが、その言葉を放った背景に在ると私は思います。
いや、滅してしまう。ということでしょう。
 
全てのものは等しく無価値でしょう。
そして等しく無意味でしょう。
 
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貴方の「既成の概念や権威にとらわれるな」という解釈でよいと考えます。



禅でも,仏教でも,その他の学問や芸道において言えることですが,学んでいくにつれ一種の「アク」が出てきます。嫌味な感じですね。専門用語を連発し,いい気になるような段階は誰にでもあります。それを戒めて語られた言葉と私は解釈しています。

洗濯も「洗い」より「すすぎ」の方が大事だと言われます。それと同じで,学んだ仏の教え(「洗い」に相当)を一度離れ(仏を殺し),自分の頭で主体的に考えたり,仏の教えを実践したりしてみろ!(「すすぎ」に相当)という意味でしょう。

禅では一座七走と言って,座禅は基本で,理論より実践を重んじる伝統があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>専門用語を連発し,いい気になるような段階は誰にでもあります。
なるほど、「自分は全部知ってるんだぞ」って感じですかね?

>学んだ仏の教え(「洗い」に相当)を一度離れ(仏を殺し),自分の頭で主体的に考えたり,仏の教えを実践したりしてみろ。
いわゆる「守・破・離」に近い考えかたなのでしょうか?だとすると、よく理解できる気がします。「仏に逢っては・・・」の部分は、守・破・離の破の部分に近いのかもしれませんね。

参考になりました。

お礼日時:2003/10/16 18:50

え?という本で申し訳ありませんが「鉄鼠の檻」(講談社刊 京極夏彦著)なんていかがでしょうか。


 話そのものはミステリーなんですけど、そのなかで禅の教えについてかなり細かく書いてあります。「こんな感じなんだ」と分かりやすかったです。
 その中で、「悟りを悟ったと思い、言葉にした瞬間にそれは悟りではなくなる」そうで、言葉などで表現などしつくせないものが本物らしいです。だから、仏を仏と認識したとたん、それは仏ではなくなるのではないでしょうか。
 
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この回答へのお礼

え! 京極さんの本で解説してあるんですか?!
最近京極夏彦にはまって、2册ほどよみました。すごくおもしろく、かつ唸らされるお話を書くかたですよね。
紹介していただいた「鉄鼠の檻」、さっそく読んでみます。

お礼日時:2003/10/16 18:38

>自分なりに無理矢理解釈すると「既成の概念や権威にとらわれるな」という意味なのでしょうか?


 
 貴方の解釈は誤ってはいないと思います。
 実際に親を殺せとは説いていません。自分の宗派以外に対して攻撃的な宗派ですと,その言葉だけを取り上げて,親や仏や羅漢を殺せなんていう天魔の教えだなんて馬鹿なことを言っているところもありますが。
 既成概念,権威,しがらみを捨て去らねばならないというのが禅であり,最終的には禅そのものを否定してしまう奥深いものだそうです。
 まだまだ修行が足りませんので(修行してるの?),何が正答なのかわかりませんが,字面どおりの意味ではないそうです。

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>貴方の解釈は誤ってはいないと思います。
あ、そうですか(^^)

ネットでえらいお坊さんが解説しているページでは「父と母はそれぞれ愛欲や物欲を表している」なんて解説もあったんですが、それだと飛躍しすぎじゃないかな~、なんても思いました。 なんか、もっと素直に解釈できるんではないかと・・・。

>言葉だけを取り上げて,親や仏や羅漢を殺せなんていう天魔の教えだなんて
うゎ・・、これは極端ですね(^^;) あ、でも私のクメール・ルージュに近いものがあるな・・・。

情報ありがとうございました。

お礼日時:2003/10/16 18:34

講談社から発刊されている「あっかんべぇ一休」というマンガがあります。

一休和尚の生涯を描いたマンガですが、そこに禅宗のことが載っています。お役に立てると思います。禅宗に貫かれている思想ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
書店でさがしてみます!

お礼日時:2003/10/16 18:29

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東京のキャバクラに行きたいのですが、無料案内所は何処の地区にありますか?

地方出身者です。

東京の都心にある無料案内所の場所を全部教えて下さい。
無料案内所がない地区には怖くていけません。
池袋、渋谷、六本木、歌舞伎町、五反田にはありました。

それ以外の地区で無料案内所があってキャバクラがたくさんある地区は何処になるでしょうか?
池袋、渋谷、六本木、歌舞伎町、五反田以外で教えてください。

ぜひ、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

上野の仲町通りには何軒かありますね。

Q殺されても死なない。殺されても殺さない。

ここの所 集団的自衛権とか日本に軍隊を認めるとか

命が惜しくなったから 殺される前に殺せるような体制が取られて来てますが

簡単に言って キリストも死んでも死んでないと言ったし 老荘思想でも生死に拘らない

たとえ殺される事があっても、人間的に生きていると言うような心で生きているか?

ガンジーの無抵抗主義やキリスト教の敵をも愛する愛を持って 

たとえ殺されても殺さない と言う覚悟があるか?これも命をかける事になりますが

殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?

Aベストアンサー

お礼、ありがとうございます。


☆アメリカと安保を結んでいて 集団的自衛権と言うのも多分アメリカとの関係上必要になると思います。
アメリカのやり方を見てどう思いますか?
◇わたしは、アメリカの外交・戦略が正しいとは言っていません。
わたしの主張は、
「ヒトを殺さない、ヒトが殺されない体制を作ることが重要だ」
です。
「ヒトを殺す、ヒトが殺される」状況が現出したら、その時点で負けなのです。

集団的自衛権や武器という高価なオモチャで、
戦争が抑止できるのであれば、
必要悪として認めてもよい、
と思っております。


☆日本に原爆二個も落としておいて あれは必要だった 正しかった
◇正しいとは思っていません。
非戦闘員である市民を無差別に大量殺害しているのですから、
人道に対する罪、戦争犯罪であり、
いかなる理由があっても正当化できないと考えております。



☆そんな国に軍事加担してたら 日本の立場はどうなるでしょうか?
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◇この主張がよく理解できません。
日本さえ戦争に巻き込まれなければよい、とおっしゃりたいのですか。
他国のヒト同士がいくら殺しあっても、日本だけが平和であれば、それでよいと。

集団的自衛権を認めようが認めまいが、
朝鮮半島で戦争が起きれば、
日本の米軍基地に北朝鮮のミサイルが飛んできますよ。



☆私の意志で食料のない国を虐げてる訳ではありません
貴方は違うのですか?
◇わたしは、自分が文化的な生活を送ることによって、他国のヒトが戦争などによって傷つき、死んでゆくことに対して罪悪感をいだいています。
直接であろうが、間接であろうが、わたしの購買行為などが、こうした虐げにつながっていることを自覚しています。
こうした現実から目を背けないことが大切なのではないでしょうか。

気休めにしか過ぎませんが、
チョコレート1枚の購入からでも、
世界平和の活動に参加できるんですよ。

http://www.sizen.net/tane23.html


☆人は精神です。牛は精神はあまりありません
◇ここでいう精神とは何ですか?
なぜ、牛や人以外の動物には精神がないと断言できるのですか?
大切なのは、精神の有無よりも、生や生の尊厳、命ではないのですか?

質問者は、
犬には精神がないから、殴ろうが蹴ろうが、いかなる虐待を加えようが構わない、とお考えなのですか?
質問者は、「こんなものには理性がないから」と、デカルトのように犬を蹴るのですか?



☆1001回目の回答が良くなる為には 我々が同じ人間存在として同じ目的を持ってる事を認識してはどうでしょうか?
◇ここでおっしゃっている同じ目的とは何ですか?
ヒトを殺さないことですか?
平和であることですか?
幸せ〔を追求すること〕ですか?
ともに幸せに暮らすことですか?


☆殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?
◇そもそも、
目前まで殺されるような状況が迫っていて、そこに、守る平和などあるのですか?
まず、ここでいう《平和》を定義してください。

お礼、ありがとうございます。


☆アメリカと安保を結んでいて 集団的自衛権と言うのも多分アメリカとの関係上必要になると思います。
アメリカのやり方を見てどう思いますか?
◇わたしは、アメリカの外交・戦略が正しいとは言っていません。
わたしの主張は、
「ヒトを殺さない、ヒトが殺されない体制を作ることが重要だ」
です。
「ヒトを殺す、ヒトが殺される」状況が現出したら、その時点で負けなのです。

集団的自衛権や武器という高価なオモチャで、
戦争が抑止できるのであれば、
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Q無料案内所について

繁華街で見かける無料案内所について気になったので調べてみました。

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同じ「悟り」なのに一方は「如来」で一方は「羅漢」なのはどういうことですか?
あくまで大乗仏教で、「解脱」「悟り」や「如来」や「羅漢」という存在があるという仮定でお答え下さい。乱文失礼しました

Aベストアンサー

こんばんは。。

 自分の個人的な考えなので、きちんと仏教教理を踏まえているかどうかは自信ないのですが・・・

 大乗仏教までの「悟った人」が羅漢までなのは、釈尊を神聖化しすぎた結果、とても同じ境地まではたどり着けないと思い込んでしまい(=信じてしまい)、自身で自縛して留まってしまったことが大きいのではないかな、と思います。

 大乗仏教で「菩薩」は、修行者の理想像として、また「如来」は仏教の考える理想的人格像として、たくさん想定され、経典に説かれるようになり、信仰を集めるようになりましたが、数々の如来・菩薩は、人々を仏教に引き入れるための「方便」だと思います。
 (大乗仏教以降で説かれる菩薩は、悟りを開くと「如来」になるとされていると思いますが・・・)

 仏教の信奉の対象は「法」(=真理)であって、如来や菩薩のご利益や救済、そしてその存在自体が「客寄せパンダ」であり、「お手ごろなバラ売り」でしょうね。(←けっして悪い意味で言っているのではありませんが・・・だいいち、仏教の「法」は極めてミもフタも取り付く島もないほど厳然としたものですから・・・「方便」というのは、実に素晴らしい発想だと思います。)

 少し脱線してしまいました・・・要するに、弥勒菩薩の救済と、それまで仏が出ないという話しも、額面通りには受け取れないと思うわけです。
 悟りは悟りであって、自ら得た境地に満足して自縛し立ち止まるか、魔境に陥るか、妙なカン違いをしていない限り、仏教の悟りは釈尊の悟りであり、「如来」の境地だと思いますけど。

 即身成仏は釈尊の悟りと同じだと言えると思います。

 大乗仏教の論師たちを「菩薩」と呼ぶこともあります。
 ご質問文にも触れておられるように、悟りに至ることが十分にできるのに、他者救済の行を続ける修行者が「菩薩」ですから、そのあり方に、仏法を解き明かそうと努める論師たちをなぞらえているのだと思います。

 論師たちや祖師様方を「如来」と言えるかどうかは、信仰している宗派の違いなどで、見解の分かれるところですし、経典に説かれる少々現実離れした理想像としての如来と単純に比べられないですけど、到達した境地は、「如来」と言って差支えないとは思います。(←個人的には。)
 また、大乗仏教の経典の作者たちにも、釈尊の同じ境地に至った方がおられると思います。
 
 他のご回答の方に対するコメントに割り込んでしまったかっこうになり、すみませんです。
 自分の思ったところは、こういうところです。では。

こんばんは。。

 自分の個人的な考えなので、きちんと仏教教理を踏まえているかどうかは自信ないのですが・・・

 大乗仏教までの「悟った人」が羅漢までなのは、釈尊を神聖化しすぎた結果、とても同じ境地まではたどり着けないと思い込んでしまい(=信じてしまい)、自身で自縛して留まってしまったことが大きいのではないかな、と思います。

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QWILLCOMで使える無料の乗換案内

WILLCOMで使える無料かつ軽い乗換案内(JRや私鉄や地下鉄)

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有料のものならたくさんあるのですが

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現在、ジョルダンのPCサイト用乗換案内を使っていますが

WILLCOMは通信速度が遅いため、難儀しています。

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iPhone用のジョルダンtouch!をおすすめします。ウィルコムでもパソコンでも使用可能です。
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Qお釈迦様の解脱について

生物は輪廻転生を繰り返すが、お釈迦様は悟りをひらくことで、その輪廻の輪から解脱したのだというよなことが、ものの本に書かれていますが、一方で、お釈迦様は呪術や神秘的なものごとを一切禁じ、形而上的な質問には答えなかったとも言われます。
お釈迦様自身が輪廻転生を肯定したり、自身がそこから解脱したことについて語った記録はあるのでしょうか?それとも弟子や後世の創作なのでしょうか?

Aベストアンサー

釈尊が成道において何を悟ったかについて、『阿含経』には種々なる説明がありますが、その中で四禅三明により悟ったことが今日においては優勢であることを、インド仏教史の大家である平川彰先生が指摘されています(『インド仏教史』上巻49頁以下 春秋社)。四禅はダイナミカルな精神集中であり、そこに生み出された智慧は、神秘的な直感でなくして、自由にして理性的な如実知見であるとしています。禅から生み出された悟りの智慧は「法を見る」智慧であり、初禅から四禅に深まりゆく「心集中」の形式は、釈尊の長い修行の間に、その生まれつきの瞑想的な素質が、アーラーラやウッダカの指導や、あるいは苦行における正念の習得などを助けとして、自然に発揮されたものと見てよいと述べられています。三明とは、最初は、過去世をさかのぼって自分の生まれを計り知れない先まで見通しています。これが一つの明智です。に、未来を見通して多くの人々がその行為によってそれぞれの境涯をうるさまを知ります。これが二つめの明智です。最後に、煩悩を滅ぼす智を得ます。これが三つめの明智です。この四禅三明の悟りについては、今日、上座部仏教も固く保持している教えです。

阿含部経典においては、仏教学者の見解はさまざまですが、おおむね釈尊の前生譚以外の経文については、一部に禅定の修行の成果の反映等による変更はあるにしても釈尊の直説として信じてよいのではないかと思います。但し、増谷文雄先生が指摘されているように釈尊は対機説法で深遠な宗教的真理は智慧第一と言われたシャーリプトラに説いたのですが、シャーリプトラに説いた深遠な宗教的真理は、今日、阿含部経典にはほとんど残っていなくて、実際には阿含部経典よりも相当多かったに違いないという見解もあります。シャーリプトラは釈尊の入滅前にお亡くなりになっていますので、第一回経典結集の時にはいようはずもなく、おそらく釈尊もシャーリプトラにしか理解できないとした上での説法と思いますので、シャーリプトラ自身も他の修行僧に釈尊の教えを説いたかといいますと疑問の残るところだと思います。いずれにしましても、釈尊が説いた法とは何かを見る上では、まず阿含部経典を見ていかなくてはならないと思います。

釈尊の無記の形而上学的な問題に対する無記の態度は、弟子の修行の妨げになるので、そのような問題に関わることなく「最初の清浄行」という禅定の修行に弟子達を導くためのゆえであったことが、『マッジマ・ニカーヤ』第63経で明確に釈尊は述べられています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html
釈尊はくどいくらいに形而上学的な問題に関わることが清浄行の妨げになることを語るのは、修行の浅い弟子であるマールンクヤプッタ尊者にこのことを自覚させるためです。修行の進んだ弟子についていえば何も語らなくとも釈尊の真意がわかるのです。また、これらの形而上学的な問題について釈尊は、その内容について自ら了解していることを『アングラッタラ・ニカーヤ』3.67.3で語っています。(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』)

釈尊が涅槃の解脱の境地を得たことは、『マッジマ・ニカーヤ』の『聖求経』において説かれています。
「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見が生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない」と。」とあります。ここでは解脱の自覚と、不生・不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の涅槃を得ることが、一つのこととして説かれています。また、原始経典の最古層である『スッタニパータ』にも「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたりに体得されるこの理法を、私はそなたに説き明かすであろう。」と述べ、釈尊は古来の言い伝えではなく、「いま、眼のあたりに体得された法を語ろうとします。それは、同じくスッタニパータ』に、「心を統一されたサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、-その理法と等しいものは何も存在しない。」と説かれ、不死の境地を獲得したことが述べられています。この不死の境地の体得は、他にも『スッタニパータ』635、514、500にも説かれています。

釈尊が説かれた輪廻転生の教えは、阿含部経典の大縁経に説かれ、この釈尊の輪廻転生の教えは龍樹により引き継がれています。釈尊は最古層に位置する『スッタニパータ』によるところによると、弟子達を導く修行にはニ段階あり、最初の清浄行の段階では、言葉による識別作用は残し、すべての煩悩を滅尽させる段階、次に、私たちがりんごと皿をみて、言葉の働きにより、それらを実体あるものとして執着するという、この言葉の働きを止滅させる無所有処という空の境地に導く階梯があったことを石飛道子先生が『ブッダと龍樹の論理学』で明かしています。この原始経典の最古層にある記述は、『マッジマ・ニカーヤ』第121経にある空の悟りの段階とも符号するものであり、釈尊の悟りの境地の深さは私たちの思議の及ばないものであることがわかります。釈尊の悟りの境地とは、言葉の識別作用が止滅した無所有処定の禅定の境地をはるかに超えた非想非非想処定、無相心三昧定の境地を超えるものと言えるかと思います。これらは自らの境地を説いたものではなく、弟子達の禅定の修行のマニュアルであるからです。このことは四禅三明の悟りを根拠づける経でもあると思います。

大乗経典について平川彰先生は『法華学報・第四号』において、次のように述べられています。
「私は大乗経典に殆ど例外なく附されている「如是我聞」(聞如是)の語に注目したい。これは第一結集のとき阿難が釈尊から聞いたことを述べたときの言葉とされる。故にこの場合の経典の作者は阿難であるが、その内容は釈尊の説法を主としているから、経の説者は釈尊と観ることができる。大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。大乗経典が三昧の体験に基づいて説かれたものであることは多くの学者が認めているところである。そして三昧における「見仏」の体験が種々の経典に説かれている。例えば華厳経の「十地品」では、不動菩薩地の菩薩が三昧において、無辺の諸仏を見、これらの仏から教授を受けることが知られる。」

大乗仏教においては、その大乗の基本となる法理を説き明かした経典については、大乗の修行者の覚体験を信じるか否かにかかっていると思います。また阿含部経典においては、古代インド人の想像を超える記憶力等も鑑みると、直説と捉えてよいと思います。したがって、そこに説かれた輪廻転生の教えも釈尊の直説と捉えてよいと思います。もっとも大縁経にこだわらなくても原始経典に説かれた釈尊の涅槃の境地、禅定体験の信じられないほどの深さ等を考えれば、四禅三明の悟りが真実であることが導きだされると思います。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html,http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

釈尊が成道において何を悟ったかについて、『阿含経』には種々なる説明がありますが、その中で四禅三明により悟ったことが今日においては優勢であることを、インド仏教史の大家である平川彰先生が指摘されています(『インド仏教史』上巻49頁以下 春秋社)。四禅はダイナミカルな精神集中であり、そこに生み出された智慧は、神秘的な直感でなくして、自由にして理性的な如実知見であるとしています。禅から生み出された悟りの智慧は「法を見る」智慧であり、初禅から四禅に深まりゆく「心集中」の形式は、釈尊...続きを読む

Qミナミの宗右衛門町などにある無料案内所について

大阪のミナミの宗右衛門町などにある無料案内所は何をしてるところなのでしょうか?

Aベストアンサー

風俗店の近所にある「無料案内所」は風俗店を紹介する
だけの店です。
風俗店が客を送り込んできた案内所に手数料を支払う
事によって利益を出しています。

少なくとも観光案内所ではありません。

Qむしろ解脱したところから

こんにちは。
解脱とは一般に、苦しみからの解脱、世間からの出離などと言われますが、むしろ、解脱した所から世間に入る、世間にある、と言った形が正しいのではないかと思いました。
十牛図の最終段階にもそのような表現がありましたが、そんな感じです。ただ、誰かを救おうなんて気を起こすのではなしに。
わかりにくい表現で申し訳ないですが、別の言い方をすれば、地上から天へ昇るのではなく、天にあって地上に降るという形、其れが無為なのではないかと。
色々のご感想などお待ちしています。どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

方便として解脱では様々に言われていますけど、解脱というのは苦しみではなく全ての迷い、執着から解き放たれる事です。苦しみというのは執着、迷いから発する感覚で、根源ではありません。
つまり執着がなくなるのですから衆生救済などという業もなくなります。

コレに対し狭義の解脱があります。これは人間界以下の存在の世界を巡る輪廻から解き放たれるという意味です。転生とも言います。この輪廻を解脱して仏界に生まれる事をこの場合、往生等とも言います。
しかし仏界も天部から菩薩界、如来界と行くそうにも分かれているという考え方があり、この考え方によって仏界では衆生救済、菩薩行、観音行などを行なっていくとする考え方です。

これは全ての仏教に共通した考えではありませんが、時に宗派を超えて説かれる事もあります。
仏界でも寿命は存在しますが人間世界から見れば、何百年、何千年、或いは何万年という長さです。
この仏界の輪廻を経て、漸く悟りを得るとしています。

ちなみに十牛図は悟りを得る、それが内にあることを表していますが、涅槃或いは入滅は悟りに入ることを言います。
悟りを得て、悟りに入るのです。

方便として解脱では様々に言われていますけど、解脱というのは苦しみではなく全ての迷い、執着から解き放たれる事です。苦しみというのは執着、迷いから発する感覚で、根源ではありません。
つまり執着がなくなるのですから衆生救済などという業もなくなります。

コレに対し狭義の解脱があります。これは人間界以下の存在の世界を巡る輪廻から解き放たれるという意味です。転生とも言います。この輪廻を解脱して仏界に生まれる事をこの場合、往生等とも言います。
しかし仏界も天部から菩薩界、如来界と行くそう...続きを読む

Q無料の路線案内

ガラケーで利用していたYAHOOの路線案内が終了となってしまいました。

ガラケーで利用可能な無料の路線案内で使いやすい(便利)なものがあれば教えてください。

Aベストアンサー

此れは?

http://www.gnavi.co.jp/mobile/ekikara/

Q既成宗教なんぞクソ喰らえ

 
奇跡を説くキリスト教はただのオカルトである。
ジハードとテロに明け暮れるイスラムはもはや救いようがない。
ヒンズーに至ってはレイプ事件ばかり起こしており、もはや畜生と変わりはない。
かろうじて無を説く仏教だけが信仰としての体裁を保っているが、無を説くばかりでは思想的に弱すぎる。
結局のところ既成宗教なんぞどれもクソ喰らえである。
やはり宗教とは自らの思想と哲学に基づき自分で築きあげてこそ意味があるのではなかろうか。
 
 

Aベストアンサー

奇跡を信じない人は、クリスチャン、キリスト教徒と言うことができない。
少なくとも、その人は、カトリック教徒でも、プロテスタントの信者でもない。
神の存在と同時に、悪魔の存在も信じないと、クリスチャンとは言えない。

キリスト教徒は、
どんなに荒唐無稽に思えても、非科学的に思えても、
イエスの起こした奇跡を信じないといけない。
「イエスは神の子で、
処女・マリアから生まれたし、
水の上を歩いたし、
死んでから3日後に復活した。
これは、すべて、事実である」
と、
このことを信じて疑わない人がキリスト教徒。
信じない人は、異端です。火あぶりです。
そして、ゲヘナの炎で焼き尽くされる。


イスラームは、一神教の中では、最も平和な宗教。
歴史的に言うと、野蛮で残虐な行為を繰り替えしてきたのは、クリスチャンの方。
クリスチャンの《隣人愛》は、クリスチャンにしか向けられないし、異教徒はこの対象外。
少なくとも、イスラームは、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも寛容なんでございます。
ヤーウェもアッラーも同じ神さまなんでね。
イスラームは、モーゼもイエスも預言者として、尊重しているんですよ。
旧約・新約聖書もね。
この三つの中で、最も、平和な宗教がイスラームです。
───平和のためにヨイショしておこう!!───


ヒンズー教徒の中には、そんな人もいるんでしょうね。
ヒンズー教にはいろんな神様がいますんで。
殺人やレイプを薦める神様もいらっしゃるようで・・・。
有名なところでは、カーリー女神。


日本の仏教、宗派仏教は、形骸化し、もはや死んでいる。活力がない。
Sは、IKEDA教で、仏教ではないし・・・。


確かに、既成宗教には、碌なものがないですね。

奇跡を信じない人は、クリスチャン、キリスト教徒と言うことができない。
少なくとも、その人は、カトリック教徒でも、プロテスタントの信者でもない。
神の存在と同時に、悪魔の存在も信じないと、クリスチャンとは言えない。

キリスト教徒は、
どんなに荒唐無稽に思えても、非科学的に思えても、
イエスの起こした奇跡を信じないといけない。
「イエスは神の子で、
処女・マリアから生まれたし、
水の上を歩いたし、
死んでから3日後に復活した。
これは、すべて、事実である」
と、
このことを信じて疑わない...続きを読む


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