詩とは何でしょうか。

古くは詩といえば「漢詩」で、明らかに韻文でした。けれども、現代詩は韻文といえるのでしょうか。現代詩は何をもって、散文と区別しているのでしょうか。
それから、「自由詩」、「定型詩」などの言葉もうろ覚えなので、説明していただけると大変助かります。

皆様のお考えをお寄せください。
また参考になる本などありましたら、それも教えてください。

よろしくお願い申し上げます。

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A 回答 (4件)

意識的に韻を踏ませたものや五七調などの定型に沿ったもの(つまり韻文)は別として,現代詩の見分け方というのは,書いた人が「詩」と称していればそれは詩である,というくらいしかないのではないでしょうか。

見たところふつうの文章となにも変わるところのない「散文詩」というのもあるくらいですから。形がなんでもいいということになれば,内容だけで詩かどうかを区別することは至難です。もちろん,それぞれの詩人や評論家や学者は「これは詩である」とか「こんなものは詩ではない」とか論じますが,万人に共有される基準はないと思います。

日本において伝統的な詩とはほぼ和歌のことですが,これは,神の言葉または神への言葉,すなわち日常の言語とは異なる言語表現として発生してきました。五七調という「型」をもつことがその最大の特徴です。使われる言葉も,現代短歌に至るまで,日常語とは異なる文語が中心です。和歌より後に発生した連歌や俳句も基本的にはその延長線上にあります。明治の最初の頃も,「文語定型詩」という形で詩の「非日常性」は保たれていました。それに対して,近代人の思想・感情をもっと自由に表現したいということから「口語自由詩」が生まれるわけですが,「口語」であり「自由」であることそのものが,ある意味で「詩」から遠ざかることであったと言えるのではないでしょうか。

『日本文藝史』(講談社)という本の中に,現代詩について次のように書かれています。

 欧米の自由詩は,定律詩の形にとらわれない別種の詩律をもつもので,無律詩
 とは違う。だから,聴受のばあい,みごとな効果がある。ところが,内在律を
 生かすと称する日本の自由詩は,それを額面どおり実現できている例が多いと
 は限らず,むしろ,たいてい行別けの散文でしかないことを残念ながら否定し
 かねると申したい。

それと,最後におおまかな言葉の定義を。

定型詩=短歌・俳句など,音の数や句の数の決まっている詩。
自由詩=特定の韻律や形式をもたない詩。

日本語でもラップなんかは脚韻を踏ませていますね。かなり無理をしているとは思いますが,その不自然さがむしろ詩としての「非日常性」は強烈ににじませていると言えなくもないような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「『口語』であり『自由』であることそのものが、ある意味で『詩』から遠ざかることであったと言えるのではないでしょうか。」

なるほど、と思いました。
詩は、その「非日常性」を失って、散文と区別し難くなってしまったのですね。
素晴らしいご指摘ありがとうございます。

ご回答の中で引用されていた『日本文藝史』を読んでみたいと思ったのですが、どうやら5巻に分かれているようです。何巻目に入っていた文でしょうか。頼りっぱなしで申し訳ないのですが、教えていただけると助かります。

質問をするのは初めてで、仕組みなどがよくわからないのですが、ポイントを発行すると、回答が締め切られてしまうようです。できれば、たくさんの方の意見を伺いたいので、ポイントの発行はもうしばらくお待ちください。最後には必ず発行させていただきます。

お礼日時:2001/05/06 00:16

> 現代詩は何をもって、散文と区別しているのでしょうか。



試みに、現代詩の分かち書きをなくして、散文のつもりで
読んでみると、それが「散文らしくない」ことに気づく
ケースが多いのではないかと思います。

ハッキリと言葉で定義できるかどうかは別として、
多くの詩は、「詩らしい」書かれ方をしているものです。
また逆に、たとえば、
詩を書く宿題がでたときに、「詩らしい」文句を書くことが
できるなら、その人は感覚的にそれが分かっていることになります。
だから、そうであるなら、詩とは何か? の答えを、その人は
実はすでに知っている、ということになるかもしれません。

とはいえ、
芸術には、形式破壊をするタイプの表現者がいたりするので、
詩なら詩の、明確な定義というのが、どんどんわかりにくく
なるでしょうし、

それにそもそも、
どうも芸術家というのは、定義がどうの、
というような杓子定規なことが大嫌いなようで、
詩とは「詩の精神による表現」のことだ、というような
いい加減なことを言って得意になったりするような(?)
ところがあるんじゃないか? と踏んでいます。
(ただ私が、物分り悪いという話もありますが)
だから、正攻法で答えを求めても、水面の月を
掬い取ろうとするようなものだ、くらいに
考えているのですが、

全然学術的な考えでなくて、すみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
お礼が遅くなって申し訳ありません。長く受け付けていればいい、というものでもないのですね。ここで締め切ることにします。
どなたにポイントを発行するのかには、ずいぶん悩みました。ご厚意に序列をつけるようで心苦しいのですが、どうぞお許しください。

この場を借りまして、ご回答くださった皆様に、改めて御礼申し上げます。

お礼日時:2001/07/04 00:37

補足説明です。



劇詩または詩劇はひとつの分類の仕方で、上演用の作品が韻文で書かれたものです。ギリシャ時代から日本の江戸時代まで多くの戯曲は長編の詩で書かれたものが多いので、あえて詩劇という意識はなかったと思われます。日本の能や浄瑠璃なども一種の詩劇だと思います。専門家ではないので深くは説明できません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
また、ご縁がありましたら、よろしくお願いします。

お礼日時:2001/07/04 00:26

自然界のこと、人の思い、想像をあるリズムで表したものは全て詩だと思います。


単に気持ちを述べた文章でも区切り方次第ではりっぱな散文詩になります。
一方、行数や次数に一定の約束があり、その形式を守りながら書いたものは定型詩となり、多くの漢詩や日本古来の短歌や俳句は定型詩でしょう。定型で歴史や出来ごとを書いたのが叙事詩、作者が感じたこと、情感を表したのが抒情詩、詩で書いた物語の劇詩などに分かれると思います。現代では短歌、俳句以外は自由詩が主流ではないでしょうか。

教えてgoo
そこには現代の縮図がある
物を考えない若者
古い思考に拘る年配者
いつの時代でも
教えることは学ぶこと
教えてgooはインターネットの道場だ

これも私が詩だと言えば詩でしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

やはり、書かれた本人が「詩」と称するかどうかがポイントになるようですね。
叙事詩、抒情詩はよく耳にしますが、「劇詩」というのは初めて聞きました。意味は「叙事詩」に近いのでしょうか。

初めの方のところにも書きましたが、ポイントの発行はもうしばらくお待ちください。

お礼日時:2001/05/06 00:18

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Q現代詩について教えてください。

詩とは何でしょうか。

古くは詩といえば「漢詩」で、明らかに韻文でした。けれども、現代詩は韻文といえるのでしょうか。現代詩は何をもって、散文と区別しているのでしょうか。
それから、「自由詩」、「定型詩」などの言葉もうろ覚えなので、説明していただけると大変助かります。

皆様のお考えをお寄せください。
また参考になる本などありましたら、それも教えてください。

よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

意識的に韻を踏ませたものや五七調などの定型に沿ったもの(つまり韻文)は別として,現代詩の見分け方というのは,書いた人が「詩」と称していればそれは詩である,というくらいしかないのではないでしょうか。見たところふつうの文章となにも変わるところのない「散文詩」というのもあるくらいですから。形がなんでもいいということになれば,内容だけで詩かどうかを区別することは至難です。もちろん,それぞれの詩人や評論家や学者は「これは詩である」とか「こんなものは詩ではない」とか論じますが,万人に共有される基準はないと思います。

日本において伝統的な詩とはほぼ和歌のことですが,これは,神の言葉または神への言葉,すなわち日常の言語とは異なる言語表現として発生してきました。五七調という「型」をもつことがその最大の特徴です。使われる言葉も,現代短歌に至るまで,日常語とは異なる文語が中心です。和歌より後に発生した連歌や俳句も基本的にはその延長線上にあります。明治の最初の頃も,「文語定型詩」という形で詩の「非日常性」は保たれていました。それに対して,近代人の思想・感情をもっと自由に表現したいということから「口語自由詩」が生まれるわけですが,「口語」であり「自由」であることそのものが,ある意味で「詩」から遠ざかることであったと言えるのではないでしょうか。

『日本文藝史』(講談社)という本の中に,現代詩について次のように書かれています。

 欧米の自由詩は,定律詩の形にとらわれない別種の詩律をもつもので,無律詩
 とは違う。だから,聴受のばあい,みごとな効果がある。ところが,内在律を
 生かすと称する日本の自由詩は,それを額面どおり実現できている例が多いと
 は限らず,むしろ,たいてい行別けの散文でしかないことを残念ながら否定し
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定型詩=短歌・俳句など,音の数や句の数の決まっている詩。
自由詩=特定の韻律や形式をもたない詩。

日本語でもラップなんかは脚韻を踏ませていますね。かなり無理をしているとは思いますが,その不自然さがむしろ詩としての「非日常性」は強烈ににじませていると言えなくもないような気がします。

意識的に韻を踏ませたものや五七調などの定型に沿ったもの(つまり韻文)は別として,現代詩の見分け方というのは,書いた人が「詩」と称していればそれは詩である,というくらいしかないのではないでしょうか。見たところふつうの文章となにも変わるところのない「散文詩」というのもあるくらいですから。形がなんでもいいということになれば,内容だけで詩かどうかを区別することは至難です。もちろん,それぞれの詩人や評論家や学者は「これは詩である」とか「こんなものは詩ではない」とか論じますが,万人に...続きを読む

Q散文詩とは

散文詩とは小説やエッセイとは何が違うのでしょうか?
わからないのでよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

 
  小説や随想・エッセイの文章は、「散文」と呼ばれ、「散文詩」とは確かに区別されます。どこに区別があるのかは、あまり散文詩に関与していない人には、難しいというか、何が区別なのか、分からないとうことは当然だとも思います。
 
  少し、詩の歴史を振り返って見ます。元々、「詩」あるいは「歌」と呼ばれていた古代の文学は、宗教や共同体の儀式、祭儀などと関係し、朗詠や詠唱に適するように「韻文」で書かれていました。というか、朗詠や詠唱には、一定のリズムや、語尾の繰り返しや、頭音のリズミカルな反復などがあると、朗唱しやすいので、そういうリズム的な言葉になったのです。
 
  また、詩の技術で、古代の詩は、ホメーロスの詩にあるような、「定型修飾辞」、例えば、英雄アキレウスには、「神のような」とか「脚の速い」つまり、diios, ookys などが付くと言うような暗黙の規則がありました。これは、イメージを再現し易くすることと、アキレウスを特徴付ける、また「音調」を整えるという大きな目的もありました。日本の枕詞も、ほぼこれと同じ機能を持っています。
 
  古代の詩は、はっきりと、日常語とは違っていたと言えます。朗唱し、記憶し、リズミカルに、美しいまた雄壮な響きで、人々の前で、語るのに相応しいような、特別な「言葉の形式」でした。
 
  こう言った、広い意味の「韻文構造」は、その後の詩文学でも継承されます。日本の紫式部の『源氏物語』は散文作品とされますが、実際に原文を声に出して読むと、流れるように軽快で美しい言葉の響きがあります。これは、散文であっても、なお、韻律構造を備えていたからです。
 
  「詩」には、二つの側面があるということは、古くから言われてきました。一つは、「詩は音楽に憧れる」ということで、これは、詩の持つ韻律性、音楽的な言葉の持つ可能性を評価した側面です。しかし、他方、詩は、意味や心の思いや、精神が「凝縮された」「意味の結晶体」であるという見解があります。「意味の結晶体」とは何かということです。これは、とりあえず、わたしがこう言ってみたのですが、一般には、「詩の持つポエジー」ということになります。「ポエジー」は、フランス語で「詩」のことですから、同義反復となっておかしいのですが、日本語では、「詩の意味的本質」を、「ポエジーの有無」ということで考えます。
 
  「詩」が「詩であること」即ち「ポエジーを備えるかどうか」が実は問題になり、散文と散文詩の違いは、前者にはポエジーがなく、後者にはポエジーがあるということになります。では、その「ポエジー」とは何かということになります。「韻文構造」なら、言葉の発音上の特性として見分けることができます。しかし、ある文章に、「詩を感じた」「ポエジーがある」とは、どういうことなのか、これは難しい問題になります。
 
  散文詩の「ポエジー」は、言語や詩文の歴史にある程度通じている人のあいだで、初めて意味があるとも言えます。俳諧や連句の句の味わいも、或る程度の前提となる教養がないと、十分に句が味わえません。散文詩の場合、どういう言葉の使い方をしているか、その言葉のつながりによって、どういう言語空間・意味の空間が構成されているか、それなりに、言語や散文詩について、親しんできた人には、構成が「見える」と言いますか、詩的言語空間の構成が、感受できるのです。
 
  これは、相対的な感性の問題に、実は落下する可能性があり、一部の批評家や詩人たちが、自分たちで、勝手に、くだらない文章を、素晴らしいなどと褒めていて、ある期間、作品が優れた散文詩として評価されていても、時代が変わって来ると、ただの奇をてらっただけの無意味な言葉だという評価になることもあります。
 
  散文詩は、既存の、また伝統的な散文詩を多く読み、言語がどのように使われいるのか、そのことについての深い理解がないと、散文とどう違うのかの区別が難しいです。また、区別したつもりになっていて、上に述べたように、時代が変わると、ただの愚作だということにもなりかねません。批評家や詩人の「主観」のなかに、散文詩のポエジーはあるのだとも言えます。
 
  言語学的に「ポエジー」を解析することもできますが、それは、新しい言葉の結合がもたらす新鮮さ、新しい言語の意味空間の創出とうことになるでしょう。また「美」や「感動」や、様々な「感情」もまた、言葉の組み合わせなどで、新しく表現可能になるとも言えます。その新しい意味空間を鑑賞できるには、それだけ言語とその現在の流れを理解し、ポエジーの感性を持っていなければならないということになります。「散文詩」は、個々人の主観とも言え、しかし、また新しい意味の空間を切り開いている場合は、そこに客観的なポエジーの創造が成立しているのだとも言えます。
 
  言語は、その意味の表現方法や、意味そのものも、進化しているのです。日常的な表現や意味を越えて、言語の可能性を開こうとする試みで、新しいポエジーの可能性が試みられ、これが散文詩だと言えます。
 

 
  小説や随想・エッセイの文章は、「散文」と呼ばれ、「散文詩」とは確かに区別されます。どこに区別があるのかは、あまり散文詩に関与していない人には、難しいというか、何が区別なのか、分からないとうことは当然だとも思います。
 
  少し、詩の歴史を振り返って見ます。元々、「詩」あるいは「歌」と呼ばれていた古代の文学は、宗教や共同体の儀式、祭儀などと関係し、朗詠や詠唱に適するように「韻文」で書かれていました。というか、朗詠や詠唱には、一定のリズムや、語尾の繰り返しや、頭音の...続きを読む

Q現代詩を投稿できる本、賞を教えてください。

メルヘンチックな詩ではなく、恋愛や生活する中の目線で感じた事を
現代詩として書いています。他ジャンルで文屋をやっているのですが、
転向をまじめに考えている者です。
公募ガイドは購読していましたが、あんまり現代詩を投稿できる賞が
掲載されないので(俳句や川柳が多い)もっといろんな賞等の場を
知りたいと思っています。現代詩が投稿できる専門の本や出版社が
やっている賞などについて教えて下さい。職業柄、周りに投稿や
賞への応募をしていることを知られたくないのでこちらに質問しました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 「公募ガイド」はご覧になっているとのことで,参考 URL のウェブサイト「登竜門」はご覧になっていますでしょうか。「公募ガイド」にない公募も多数掲載されています(ジャンルによっては公募ガイドより多いものもあります)。

参考URL:http://compe.japandesign.ne.jp/

Q詩と散文などの違い

高校生の頃から、詩、俳句、短歌などを作って、同人誌のまねごとをして遊びましたが、よく考えてみると、それらについて正式な教育は受けたことがありません。最近考えるのは、詩って何だろうと言うことです。俳句などと違って字数の制限はありませんし、長いものになると40ページを越えるものもあると聞きます。散文などと詩では、何が違うのでしょう。詳しい方にお答えいただければ嬉しいのですが。

Aベストアンサー

 言葉の元来の意味で言えば、韻文とは「定型詩」のことであり、散文とは『定型詩以外」です。日本の伝統的な韻文は、(広義の)「和歌」(「今様歌」「連歌」なども含む)「俳句」「川柳」「都々逸」などであり、これは音数や使える語などに規定がありました。特に和歌は、音数以外にも、漢語を使ってはだめだとか「馬」は俗語だから「駒」を使えとか、非常に細かい制約の中での創作だったのです。
 明治になって西洋流の詩が輸入されたわけですが、欧米でいうpoetryとはまさに韻文で、一行の音数やら頭韻・中韻・脚韻やらの規則が厳然としたものでした。40ページを超えるような詩ですら、ひたすら音数と韻を守って書かれているわけです。こんなのは日本語ではことばの仕組みとして無理でしたので、せめて音数を一定にするといったくらいの制約の中で書けばよかろうという感じで新しい「定型詩」が生まれました。もちろん、定義からして「和歌」「俳句」なども「定型詩」の一種です。なお大正から昭和にかけて、日本語でも厳密に脚韻を踏んだ定型詩を作る運動として「マチネ・ポエティック」という運動があったそうですが、成功はしませんでした。話が飛びますが、現代のラップ音楽の歌詞は、あれは音数に制約があってかつ韻を踏んでますから立派な定型詩というべきですね。マチネ・ポエティックの失敗は、20世紀末になって達成されたとも言えるわけです。
 話を戻して「自由詩」は、一行の音数にも、韻にも何らの制約をなくしたものです。これは伝統的な「韻文」の定義を根底から覆すものですから、形式的には「散文」に属すると言うべきものです。実際に「自由詩」のことを「散文詩」と言うこともあります。形式的には小説やエッセイなど他の文体と区別することは不可能ですので、ある文芸を見て「自由詩」と判断するか「小説」と判断するかは見る者の主観でしか決められません。何を以て詩情とするか何てのは、決めようがないことです。
 なお論文や説明文などを散文ということはないようです。
 まとめますと次のようなところです。

韻文(定型詩)  和歌
         俳句
         川柳
         都々逸など
         狭義の定型詩  文語定型詩、ラップ音楽など
境界上      自由詩(散文詩)
散文       小説・エッセイ・紀行文など

 言葉の元来の意味で言えば、韻文とは「定型詩」のことであり、散文とは『定型詩以外」です。日本の伝統的な韻文は、(広義の)「和歌」(「今様歌」「連歌」なども含む)「俳句」「川柳」「都々逸」などであり、これは音数や使える語などに規定がありました。特に和歌は、音数以外にも、漢語を使ってはだめだとか「馬」は俗語だから「駒」を使えとか、非常に細かい制約の中での創作だったのです。
 明治になって西洋流の詩が輸入されたわけですが、欧米でいうpoetryとはまさに韻文で、一行の音数やら頭韻・中...続きを読む

Qお勧めの現代詩を教えて下さい!

お勧めの現代詩を教えて下さい!
お願いします。
私は特に吉野弘の「I was born」や宮沢賢治の『夜鷹の星』など哲学的な詩が好きです。

Aベストアンサー

『よだかの星』は童話として読まれている作品のことですよね。
それとも行分けで書かれた同名の「詩」もあるんでしょうか。
質問者さんはあれは散文の形式で書かれた詩である、散文詩であるという認識なんですね。
なるほど! そう言われれば、まさにその通りかもしれません。

ということで、私も無性に散文詩をあげてみたくなりました。

◆『折々のうた』でよく知られた大岡信氏に、『彼女の薫る肉体』という散文詩があります。

「水の底で空気がアオミドロにとらえられたまま凍りついたとしたら、こんな微光を発するであろうか、と思われるような夕暮れ、私はひとりの女に出会」います。
墓石の語るところによると、彼女は狂女であり透視者であるらしい。
「私」は彼女の問に答えてるあいだに、いつのまにか彼女に支えられ空を翔んでいます。
彼女がさししめす黙示録的な光景、彼女からもたらされる啓示、「私」はたちまち恋に落ちます。

実は彼女は、過去、夢中になった男たちのことごとくが「狂人になり、廃人になり」
その瞬間から「わたしの内側に入ってしまう」激越な存在(笑)
この女性は古代人から「うた」と呼ばれた、どうやら、現実と同等の重さを持つ詩、の化身のようです。

「私」はこのあと、視覚になったり、聴覚になったり、虫の触角になったりします。
天地開闢の光景とは、われわれが今ある世界を初めて見たときの驚きと恍惚のことでしょう。
エネルギーとは、それ自身の中には不在で、それが及ぼすものの中にあるのでしょう。
「美しい瞬間」はそれがとどまることがないことによって私自身になるのでしょう。
「私」はやがて日常の世界へ還ってきますが、かつての「私」ではありません。


◆同じく大岡氏の『螺旋都市』は「あなたがたの街とほんの少しちがう」街からの報告。
音楽的で中性的で思索的で、清潔な静謐が支配しているような夢見ごこちな街。
住民の暮らしやエピソードのさまざまが、引用や箴言のオブリガートをともなって語られてゆきます。
「あなたがたの街」と隣接していて、いつも微妙に揺れている、玉葱のような都市?

◆入沢康夫氏の『ランゲルハンス氏の島』は比較的短い28の章から成っていて、
それぞれの章で語られる島の人々の生活や生態は、いずれも面白いのですが、いつも少しずつ奇妙です。
しかもそれは現実のパロディでも諷刺でも批判でもなく、いかなるメタファーも負っていないらしいことがやがて了解されてきます。
いくら話が積み重ねられ進められていっても、どんな統一的な全体像も浮かび上がってこないありさまです。
これは、いかにも物語めかしたニセものの物語、ナンセンスきわまる擬似にすぎない。
という、そういう構造の詩になっているようです♪

◆あと一つ、岩成達也氏の散文詩は、まるで理数系の学術書のような記述。
けれどもこれも奇妙なことに、鳥なら鳥の羽の仕組みが記述されてゆくとして、
細部になればなるほど、具体的になればなるほど、逆に何が何だかわけがわからなくなってきます。
しかもその記述のあいだに、マリアとかヨハネとか昇天とか、
おおよそ「理数」的であるものと縁遠い言葉がまぎれこんでくるのです、しばしば唐突に。
客観的で自明と思われたものが、だんだん「私」という主観の襞のなかでさまよいはじめる。
これは論理を模した擬似論理、論理の構築ではなく脱臼、全体はいつも「断片」に留まるのです。
それでいて読む者の眼前に、時として至高なものが現れてくるという体験は、いかなる魔術によるものでしょう。


付記:
詩はそれぞれ、思潮社刊 現代詩文庫の、
31 入沢康夫詩集
58 岩成達也詩集
131 続大岡信詩集
で読むことができます。

思わず長文、しかも相当かたよった回答かも。ご寛恕のほど。

『よだかの星』は童話として読まれている作品のことですよね。
それとも行分けで書かれた同名の「詩」もあるんでしょうか。
質問者さんはあれは散文の形式で書かれた詩である、散文詩であるという認識なんですね。
なるほど! そう言われれば、まさにその通りかもしれません。

ということで、私も無性に散文詩をあげてみたくなりました。

◆『折々のうた』でよく知られた大岡信氏に、『彼女の薫る肉体』という散文詩があります。

「水の底で空気がアオミドロにとらえられたまま凍りついたとしたら、こ...続きを読む

Q散文詩と小説の違いについて

私は今、中学生なのですが、国語で授業で詩について勉強しています。
そこで、疑問を持ったのですが、外国人の作った詩はリフレインが続いていたりしてとっても長いですよね。詩と小説の境目はどこにあるのでしょうか。もしかして、外国では散文詩と小説の区別がなかったりするんですか?

特に、音楽で出てきたヴォルフガング・ゲーテのドイツ歌曲=リート「魔王」なんかになると、どこか詩なんだと叫びたくなってしまいます。ちゃんとストーリーがあるし、叙情詩ではなく叙事詩といったような趣きがあるのですが……「古池や」とか「雨にも負けず」が詩だというのが普通だった私にとって、理解しがたい点です。

Aベストアンサー

中学生さんが、学校の国語の授業だけでは理解できないのも当然でしょう。
たぶん、ですが、指導要領にそこまで教えるように書いてないんですね。
で、「短い行を幾つも並べたのが詩だ」なんて誤解が生ずるのです。
長くなりますが、覚悟はいいですか?(笑)

詩は韻文で、小説は散文ですね。
では、韻文と散文の違いって何でしょう?
小生も義務教育の頃、「自由詩」「散文詩」ってのが出てきて、何だか分からなくなった覚えがあります。
韻文とは、韻律を具えた文のこと。散文は、韻律を具えていない(のではなく、韻律を気にせずに作った)文のこと。

では、韻律とは何であるか。
ヨーロッパの詩(古代ギリシアを除きます)、中国の詩(これは全時代に共通)において、韻律とは押韻のことです。
押韻というのは、詩の一行一行の出だしかお終いの発音をそろえること。
小生の師匠は、「語呂合わせですから」って身も蓋もないことを仰有ってましたが。
例えば、例に挙げておられる「魔王」。日本語の訳詞を見てたんでは、それこそ散文との区別が付かないですね。
原文の冒頭はこんなです:
Wer reitet so spat(aの上に¨がつきます)durch Nacht und Wind?
Es ist der Vater mit seinem Kind;
Er hat den Knaben wohl in dem Arm,
Er fasst ihn sicher, er halt(aの上に¨がつきます)ihn warm.
各行のお終いを見て下さい。ドイツ語が分かんなくても、同じ綴りが繰り返されてるのは分かりますね? 一行目は「ヴィント」(風)、二行目は「キント」(こども)。ヴィントとキントとで、押韻(語呂合わせ)。三行目と四行目も、「アルム」(腕)と「ヴァルム」(温かく)とで、語呂合わせ。
こんなふうに、語呂合わせを繰り返してどこまでも行くのです。押韻をしている限り、どんなに長くても「詩」です。
押韻のやり方には、幾つか種類があります。「魔王」は一行目と二行目、ですが、ベートーヴェンの「交響曲第九番」の歌詞は、一行目と三行目、二行目と四行目、という具合に押韻してます。3の倍数の行だけ押韻する例もあったはずです。

アクセントの規則というのもあります。アクセントには、言語によって「高低」「長短」「強弱」などの種類がありますが、例えば母音の「長」「短」を、ある規則に従って並べなければならないのです。古代ギリシアの詩、すなわちホメロスの「イーリアス」「オデュッセイアー」などは、押韻はしていませんが、アクセントの並べ方が規則的なので、韻文、つまり「詩」に分類されるのです。岩波文庫で何冊にもなるほど長いですが、長くたって「詩」です。ちなみに、(日本語訳だけ見てるとそういう誤解があって当然ですが)、「長いから叙事詩」というわけではありません。叙事詩は長くなりがちですが、叙情詩だって長くなっていけない訳ではありません。

日本では、アクセントはまず気にする人はいませんね。百人一首を読むときに、係り結びや縁語・枕詞については注意するでしょうが、「アクセントに注意して読みなさい」なんて聞いたことないですよね。日本語ってアクセントには鈍感な言語で、昔のテレビアニメのロボットや特撮の宇宙人は(ああっ、トシがバれる!)、みんなアクセントの高低のない、真っ平らな日本語をしゃべっていました。日本語って、それでも分かっちゃう言語なんですよね。例えば現代中国語では、真っ平らに(高低をつけずに)しゃべったんでは意味不明になります。だから「アクセントの規則」なんてこだわりがあっても、誰にも分かってもらえない。わかってもらえないんじゃこだわっても仕方ないですね。
押韻の方はどうでしょう。語呂合わせですから、誰でも簡単にできちゃいますね。オヤジギャグって言ってバカにされるくらいで。で、誰でもできることを文学者がしたって誰も褒めませんよね。日本では、谷川俊太郎さんと井上陽水さんとが、押韻に挑戦して成功した例外的な人です。

近代になって、既存のことをやっていたんではつまらない、って考える人が現れて(何の分野でもそうですが)、韻文で小説を書いたり、散文で詩を書いたりし始めました。例えばプーシュキンの「イェヴゲニイ・オネーギン」は韻文で書かれています。そこで「韻文小説」と言われますが、「物語詩」って書いてある本もある。「詩」の定義からすると「イェヴゲニイ・オネーギン」は「詩」なんですが・・・。この辺は作者のネーミング(カテゴリー分類)に従うしかないんでしょうね。

日本の「詩」には韻律らしい韻律はありませんから、小生は「日本には詩はない。日本語は詩には向かない」って立場です(ああっ、国文の人から雨霰の非難が・・・)。平安朝の人々もそう思ってたみたいで、古文で「詩」と言えば漢詩のことに決まっていました。和歌はその通り「歌」。
明治になってpoemが入ってきたときに、これを「詩」と訳した。この「詩」が漢詩だけを指すのなら、大して問題はなかったのです(どっちも韻律を具えているから)。問題は、「詩」に和歌や俳句を含めてしまったこと。当時の文学者たちのヨーロッパへの対抗心のなせるわざだと思いますが、お陰で今の中学生が悩まなきゃならない。現代日本文学における「詩」の定義、分かり易いものがあれば小生もうかがいたいです。

長々と失礼しました。読むだけでも辛かったでしょう。文意が伝われば幸いです。

中学生さんが、学校の国語の授業だけでは理解できないのも当然でしょう。
たぶん、ですが、指導要領にそこまで教えるように書いてないんですね。
で、「短い行を幾つも並べたのが詩だ」なんて誤解が生ずるのです。
長くなりますが、覚悟はいいですか?(笑)

詩は韻文で、小説は散文ですね。
では、韻文と散文の違いって何でしょう?
小生も義務教育の頃、「自由詩」「散文詩」ってのが出てきて、何だか分からなくなった覚えがあります。
韻文とは、韻律を具えた文のこと。散文は、韻律を具えていない(...続きを読む

Q現代詩?探しています!「できると思えばできる。できないと思えばできない」

記憶が定かではありませんが、「できると思えばできる。できないと思えばできない」みたいな内容の現代詩?を探しています。17年前、NHKで流してたようですが、作者等がわかりませんでした。その詩?の後に武者小路実篤の名前がながれたので、ひととおり探していますが、17年間見つけることができません。作者が違うのかもしれません。ご存知の方がおられれば、教えていただけないでしょうか?宜しくお願いします。

Aベストアンサー

私もいい言葉だなと思って検索してみました。
その結果、どうやらアオキという会社の社長である青木豊彦さんの言葉(格言?)みたいです。

青木氏のインタビュー記事
http://toyro.wombat.or.jp/business/dengonban/essay/0309.html

出来る 出来る 必ず出来る
やる気があれば 必ず出来る
出来ないと思えば 出来ない
出来ないと考えず 出来ると信じ
永遠に(自分は)進歩したい
出来る 出来る 必ず出来る 

※このインタビュー記事では、「永遠に 進歩したい」となってますが、
他のサイトに載っている言葉には「永遠に 自分は 進歩したい」となっているので括弧に入れてます。

〔参考〕
高知新聞記事抜き出し(?)
http://hb5.seikyou.ne.jp/home/Tetsulow.Tomita/3-2.htm

株式会社 アオキ
http://www.aoki-maido.co.jp/index.html

HPやブログを見た限りでは、何度か新聞やテレビで取り上げられているみたいです。
ちなみに#1さんの言葉との関連は分かりませんでした。
内容的にはほぼ同じなので、引用でしょうか?

ただ、この青木さんの言葉というのも確実に青木さんが考えて言ったという証拠みたいのがないので、もしかしたら誰かの他の言葉なのかも知れません。
新聞の記事自体は見つからず、青木さんが考えた言葉です、という風に明言しているサイトも見当たらなかったので…。

私もいい言葉だなと思って検索してみました。
その結果、どうやらアオキという会社の社長である青木豊彦さんの言葉(格言?)みたいです。

青木氏のインタビュー記事
http://toyro.wombat.or.jp/business/dengonban/essay/0309.html

出来る 出来る 必ず出来る
やる気があれば 必ず出来る
出来ないと思えば 出来ない
出来ないと考えず 出来ると信じ
永遠に(自分は)進歩したい
出来る 出来る 必ず出来る 

※このインタビュー記事では、「永遠に 進歩したい」となってますが、
他のサイ...続きを読む

Q野球(ソフトボール)をテーマにした散文詩

ソフトボールをしている子供の写真に散文詩を添えて子供に差し上げたいと思います。
野球関係、ライバルをテーマにした散文詩を教えてください。
子供たちには無料で配布しているので、著作権等は侵害しません。

Aベストアンサー

 野球といえば正岡子規ですね・・・。散文詩ではありませんが多くの俳句、短歌を残しています。

「若草や子供集まりて毬を打つ」・・他にも下記参照

参照:http://www.city-matsuyama.net/yakyu/


 個人的には夏の高校野球甲子園大会歌の「栄冠は君に輝く」はいつ聴いても感激します。

参照:http://www2.asahi.com/koshien2004/song.html

Q現代詩の読み方(鑑賞方法)について

先日ふとしたきっかけで現代詩の詩集を手にしました。
杉本徹『十字公園』という詩集です。
 http://po-m.com/inout/4_01ogasawara.htm#4 に一部の引用があります。

「失くした眺望、その手摺で光る「銀の鋏」よ、いつ、どんな理由で、おまえの継ぎ接ぎの航跡はあの気象台の壁へ、おお懐しい亀裂の巣へ、転写された?」

読んでみると、普通の散文や大方の近代詩のように、語意や文法に則って理解することができないことが分かりました。
そこで、綴られる語のイメージを点々と追っていく読み方をしたのですが、
これだと単に同じ単語を羅列したものでも同じ内容の詩になるような気がします。
このような詩を読むとき、皆様はどのような仕方で鑑賞されているでしょうか。
もとより詩の読み方に「正解」は無いはずですから、皆様それぞれの鑑賞方法を教えていただければと思います。

Aベストアンサー

詩は一編をまるごと読むのが最低条件ではないかと思います。
あるいは場合によっては詩集全体からある詩句を鑑賞する、それが本筋なのかもしれません。
ところが当方、作者も詩集も存じ上げません。
ですから以下、かなり無謀な試みです。
あくまで、こんなふうに読んでいく、という自己流の一例として。

まず、眺望を失くしたといっています。「眺望」とは何でしょう?
私にとっては「眺望」とは、はるか遠くにある好ましいものを望み、眺めることです。
それははっきりと見えているが手に届かないもの、けれどもそこまで行けば手に取ることができるかもしれないもの、現実であって理想のもの、そんなふうなものです。

いやいや「眺望」とはそうではなく、もっと別のことだろうという意見はもちろんあります。
ひとそれぞれのイメージがあるでしょう。それはそれでいい。
それならそれをとりあえず胸に置いてください。
先に書いたことは私にはそうである、ということに過ぎません。
しかも私の抱いたイメージ、あなたの抱いたイメージは、一瞬後、次の言葉によってひっくり返され、はぐらかされ、裏切られるかもしれないのです。
でもとりあえず何か確定しなければ先に進めませんから、ひとまずわれわれ各個のイメージを置きます。

その「眺望」を失くしたといっています。
失くするとは、以前にはあったということです。以前からなかったのなら、失くするとは言いません。

次に「その手摺」と出てきます。なるほど眺望するとは広く眺め渡すことでもありました。
作者は手摺に手を置いているのでしょうか。
「その」手摺とはすこしあいまいな言い方ですが、作者が手を置くその手摺ということでしょうか。
また、詩を書いている作者からすれば「眺望」という言葉を据えた関係から「手摺」が出てきたのかもしれません。

そこに光る、括弧つきの「銀の鋏」。金でも鉄でもセラミックでもない、「銀」というもののイメージ。
高価で冷ややかで静かな感じ。あるいは高貴なきらめき。
作者にとってキーポイントにしたい言葉のようです。
「鋏」によって「継ぎ接ぎ」が導き出されます。

「おまえ」は銀の鋏のことではなく、作者が作者自身を客観視して、あるいは作者の記憶、過去を「おまえ」と呼んでいると捉えた方がよさそうです。
なぜなら「航跡」とは空間的であると同時に、時間性を帯びた言葉だから。時間の経過とともに拡散してゆくもの。

「気象台」がまた多義的です。時々刻々変わるものを扱うところ。またはそのアナロジー。
私は、どういうわけか白亜の清潔な建物というイメージも抱いてしまいます。
その壁のヒビ、「亀裂の巣」ですから細かく亀裂がはいっているのでしょう。
それがまるで「失くした眺望」を引き写しているようだ、思い出させると言っています。

以上、あくまで私の読み方。
あとはそれらを総合して、いいと思うか、つまらないか。
惹きつけられるものがあるか、魅力がないか。
好ましいか、わからないか。
共感できるかできないか、などなどだと思います。

詩を読むとは、現代詩に限らず、自分の経験と知識を総動員し、感覚を全開にして望むもの、
言葉の一つ一つのイメージを増幅させ、(日本語の詩では助詞に代表される微妙な方向性を暗示されながら)、
イメージにイメージを突きあわせ、重ね、総合してゆく。
結局はそれは自分の心の襞をまさぐり見ることのような気がします。
詩を介して自分自身と向いあうというのでしょうか。
これは作者の方も事情は同じで、いや、そうであるからこそ、読者のほうも、そうするよう促されてしまうといったほうが適切かもしれません。

ほかの詩句も、3の『肩ごしに陽の差す坂道』も面白いですね。
「凹凸の刻み」とは路面に映る作者の影のことでしょうか。
「踵だけでも青ざめていよう」とは、洒落ていてモダニズムな表現です。
「梢の撓み」は直接頬に触れるわけではなく、その影でしょうが、
主観的であると同時に客観的なふしぎな言い方、しかもそれがある人の面影へ飛躍し、
「葉越しの縮れ毛」はエロティックで、禁断のリンゴを食べた後のイヴのよう。

作者は自分の詩的世界にふさわしい言葉を、
ちょうど蓑虫が好みの葉だけでみずからの巣を作ろうとするかのように選択し、
作者の心の中にすでにあるイメージと、言葉による連想を使って、タペストリーを織ってゆく人のようですね。
西欧風に瀟洒に、静的で澄んだ世界の構築者だと思いました。

以上すべて、あてずっぽうで恣意的な個人的解釈です。お含みおきくださいますように。

詩は一編をまるごと読むのが最低条件ではないかと思います。
あるいは場合によっては詩集全体からある詩句を鑑賞する、それが本筋なのかもしれません。
ところが当方、作者も詩集も存じ上げません。
ですから以下、かなり無謀な試みです。
あくまで、こんなふうに読んでいく、という自己流の一例として。

まず、眺望を失くしたといっています。「眺望」とは何でしょう?
私にとっては「眺望」とは、はるか遠くにある好ましいものを望み、眺めることです。
それははっきりと見えているが手に届かないもの...続きを読む

Q詩と散文の違いについて

 日本語を勉強中の中国人です。小説より、詩と散文のほうが好きです。最近、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を読んでおります。詩と散文の違いを知りたいのですが、どなたか教えていただけないでしょうか。

 また、質問文に不自然な日本語の表現がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

詩と散文の違いについてよく引きあいに出されるのがポール・ヴァレリーの喩え「舞踏と歩行」だと思います。
舞踏は何か目的があって舞踏するのではなく、舞踏することそれ自体が目的です(詩)
一方、歩行はある目的のために、それへ向かって進んでゆくことであって、歩行自体が目的ではない(散文)
とするものですが、ヴァレリー自身が詩から一切の夾雑物(説明にしかなっていない語句など)を取り除こうとした純粋詩の提唱者、サンボリスト(象徴主義者)でしたから、自分の理想を言っているに過ぎないともいえそうです。

詩にも小説にも造詣が深かった文芸評論家の篠田一士が下記のような喩えをしていて、個人的には一番すっきりします。
氏によると、詩も小説も地上から出発して天空へ駆け昇って行く。
そして小説が、それがたとえ奇想を凝らした大長編ロマンであろうとも、やがていつかは地上へ還ってこなければならないものであるとするなら、それにひきかえ、詩は雲を貫き気層を抜けて蒼穹のかなたへ飛び去っていってしまうものである、というものです。

芭蕉も「ゆきゆきてかへらぬこころ」と言いました。この言葉には多面的な意味がこめられていることを承知の上で、いまこの文脈に沿った理解で言えば、一度発砲されたポエジーの弾道は「ゆきゆきて」もとの場所には還ってこない。詩とはそうあるものだということになるかと思います。

 ※

ところで、ご質問文中、『小説より、詩と散文のほうが』というくだりがよく分りません。
きっと、エッセイとか随筆、紀行文が念頭にあって、『散文』とは、そういうことを指していらっしゃるのでしょう。小説も散文のひとつではないでしょうか。定型とか韻律というものを持たない(配慮しない、あるいはそれから免れた)文全般が散文です。

韻文は散文に対する概念で、ふつう韻律のあるものを言います。
「韻律」というと、同一もしくは類似の音声の響きあいである「韻」(代表例が頭韻とか脚韻と呼ばれる押韻)ばかりが強調される傾向にありますが、「律」すなわちリズム、律動感のほうがより本質的な問題です。

それぞれの国語の特質の違いによって「韻律」はさまざまです。中国の旧詩である絶句や律詩、ヨーロッパのソネットやバラッドを代表とする定型詩を思い浮かべれば、そのあたりの事情は察せられるのではないでしょうか。
イギリス、フランス、ドイツなど、それぞれにソネットの規則の違いが見られます。これはそれぞれの言語の特質の違いを表わしています。

日本の詩の場合は、音韻が単調という日本語の性格のため、韻律ではなく「音数律」でゆきますので、多くは、二音・三音のまとまりである五音・七音の音数を基調として律をつくりました。

厳密に言うと、詩と韻文とは必ずしも一致しません。英雄譚である叙事詩(イリアスやオデュセイなど)や運命劇である劇詩(ファウストなど)も韻文で書かれました。しかし現代ではおおむね叙情詩(lyric リリック)のみを指して「詩」と言い、ほぼ「詩」イコール「韻文」という扱いです。

日本では江戸時代までは「詩」と言えば「漢詩」のことでしたが、
それとは別に伝統的な定型詩である短歌や俳句、
明治時代以降、ヨーロッパ詩の決定的な影響のもとに試みはじめられた新体詩(それはやがて近代詩、現代詩となって進化してきたもの)
これらすべてをひっくるめて「詩歌(しいか)」と言っていて、これはなかなか美しい名称と思います。

詩は広義には、少なくとも現代の日本ではこの「詩歌」のことを指しますが、狭義には、新体詩及び近・現代詩のことを言います。

現代の詩は、行(ぎょう)分けをしない「散文詩」というものが典型的であるように、また在来の「行分け詩」にしても、従来の「韻律」という概念から遠ざかる一方であるように見えます。つまり、散文との区分けがますますつかなくなっています。

「口語の時代はさむい」と言ったのは1970年代半ばの荒川洋治でした(詩集『水駅』)。
以来、寒さは募るばかり。
思想はすべて相対化され、均一な情報化の現代社会にあって言葉は屹立性を奪われ、詩は垂直の力を喪いました。
朽ちた柱廊が横倒しになるように瓦解し風化し、広告文(いわゆるコピー)との区別ももはやつかなくなっています。中島みゆき や さだまさし の歌詞の方が、一般にはよほど身近で説得力を持っています。最初に記した詩と散文の違いなど、今やいかばかりの有効性があるかおぼつきません。

以上です。参考にしていただければと思いました。なお、
ご質問文は完璧です。文章として、よけいなものはいっさい省かれ、簡潔で美しい日本語による散文と私は思います。

詩と散文の違いについてよく引きあいに出されるのがポール・ヴァレリーの喩え「舞踏と歩行」だと思います。
舞踏は何か目的があって舞踏するのではなく、舞踏することそれ自体が目的です(詩)
一方、歩行はある目的のために、それへ向かって進んでゆくことであって、歩行自体が目的ではない(散文)
とするものですが、ヴァレリー自身が詩から一切の夾雑物(説明にしかなっていない語句など)を取り除こうとした純粋詩の提唱者、サンボリスト(象徴主義者)でしたから、自分の理想を言っているに過ぎないとも...続きを読む


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