準・究極の選択

はじめまして。

似たような話題は「主観客観」等の
トピックスにて今までも議論しつくされて
いるのかもしれませんが、

この世界で現象することは全て
自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
自分の外に実在する存在者などない、とする
独我論は、
私がいままで経験してきた、自分と世界のあり方の
一つの説明としてある説得力をもつのですが、
日常的な感覚では、
自分と同じような「独我」が自分の外に存在していることを
前提してこのような質問などしており、

思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。

このような乖離に対して、どのような調停、
が可能でしょうか。

よろしければ、ご教示ください。

A 回答 (16件中11~16件)

私は「独我論」について学問的な知識を十分に持っている者では


ないので、やや気が引けるところもあるのですが、ちょっと
議論に加わってみようか、と思います。

serpent-owlさんが、ご回答に、
> 「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」
という問題を出して、そのお答えとして、
> これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。
とお書きになってらっしゃいます。
serpent-owlさんのお話は、興味深く学ぶところもおおいものでした
が、ここのこの一句については、やや「哲学的な考え方」に
過ぎるように、シロウトの私には思えました。
つまり、議論をぶち壊すことを恐れずに言うなら、
答えは、「そんなの分からないよ」であるはずでは?
と思ったわけです。(この答えが、一番正直でしょう?)

もっとも、私が述べているようなことは、serpent-owlさんが、
すでに上記引用部分に続く場所で書いてらっしゃいます
(というふうに理解しました)。

ですが、私としては、その「そんなの分からないよ」というふうに
議論を保留にしてしまう方が、(コギト的な意味での)
「独我論」としては重要だと思ったので、とくにここで
強調してみたかったわけです。

基本的に、「独我論」についてはこういう理解をしている
わけですが、それを踏まえて頂いた上で...

お題の問題に入るわけですが、
ここでは、ちょっと視点を少し変えて、
「記号」をキーワードに考えて行きたいと思います。

たとえば、一輪の花が咲いて「綺麗だ」と、(陳腐な)
感想を抱いたとします。そして友達がやってきて、
「綺麗な花じゃない」みたいなことを言ったとすると、
私は、その友達と共感できたと思うわけですが、

でも、よくよく考えてみると、

果たして、その「綺麗」という記号を生んだ感覚は、
同じものだったといえるのでしょうか?
この点については、「よく分からない」ということに
なりそうに思えます。

確かに、
友達が見ているものと、私が見ているものとが、
厳密に同じであるわけはないと思います
(少なくとも、多少の角度は違うでしょうし)。
私が、その瞬間、その角度、その光線、etc...で見た、その
「綺麗な花」は、おそらく他の誰も見てはいないでしょう。
だから、私と友達とは(厳密には)別物を見ているわけであり、
「綺麗」という感想を支えている内容には、ごく僅少の相違がある、
といったとしても、うなずけない話ではありません。
(もっとも、本当のところは分かりっこないのですが)

にも拘わらず、それがお互いにとって「綺麗」であるのは、
言葉というものが、「曖昧」であるからでしょう。
(もちろん、言葉の曖昧さは、感覚の曖昧さによるもの
なのでしょうが...)その曖昧さゆえに、
他人との不連続性が埋められているのではないか?
と思うわけです。
ただ、哲学的に考える場合は、その曖昧さは、必ずしも
ありがたくはないようですね。でも、あまり曖昧さを
なくしてしまうと、何時の間にか「独り」になっちゃう
ってこともあるんでしょうね。(^^;
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

おっしゃっておられることは、
>「複雑なものを複雑なままに見る」ということは、とりもなおさず「現実の具体>的な生活レベルの視点に立ち帰る」ということでもあります。
とserpent-owlさんがおっしゃっておられることとおそらく対応するのだと思います。

>哲学的な議論の最中に誰かが自分の胸を拳でたたいてこういうのを聞いたことが>ある。
>「それでも、やっぱりこの痛みは他人にはわからない。」
>ここで「この」という言葉をいくら強調してみたところで、さも言語としての痛>み以上の何かがあるかのように振る舞う、という以上の意味は無いのである。

というような文章(うろ覚えです、すみません)をみたことがあります。

いつの間にか「独り」になっちゃうとしても、どうしても言いたくなること、って
のがあるんじゃないでしょうか。

「曖昧」なレベルではおそらくそれは伝わってるし、他我も存在するんでしょうけ
どね。

「独り」になるほど、強く感じられることがあって、それが強く感じられるからこ
そ、誰かに正確に言いたくなるし、誰かに確実に伝わった、ということを確かめた
くなる、とか、そんな感じなのでしょうか。

また何かありましたらお願いします。

お礼日時:2001/05/08 15:40

 私は「独我論」とは、「私が考えるように考える者は私一人である」という解釈で認識しています。

ですから、これは、極めて当たり前のことで、日常から少しも
乖離していない、と考えています。「他者が存在しない」という解釈で使っているのでしょうか?「独我論」も「論」という認識行為である限り、「独我論」に辿り着く、という意識的出発があり、前提ではありません。つまり、他者は実在しない、と考える「独我論」ほど、他者の実在を意識する論理はなく、出発自体、「他我ー独我」の罠にはまっているのです。他者の実在を予想しない「独我論者」が、他者相手に「私は独我論者である」というのは、変です。「自己の意識における様々な認識は自己においてのみ意識される」というのが「独我論」ではないでしょうか?他者が実在しようがしまいが、「独我論」とは、少しも関係のない問題だと思うのですが。


 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、私の世界観の一つである独我論はそも
そもの出発自体、不連続性というか矛盾を抱えて、始まっているのかもしれませ
ん。

けれども、私が考える独我論では「実在ー非実在」という枠組みを問題としているのではなく、一切を自己意識とした上で、「感覚与件」の他者性(恣意的に変化させられないという意味で言っています)を説明できない、といった、ことが問題となっているように思います。
この独我論においては、「自己の意識における様々な認識は自己においてのみ意識される」という言明のなかで「のみ」に違和感を感じます。「自己においてのみ」という言明が意味を持たなくなるような世界観として、独我論を考えています。
こうはいってもやはりこの独我論は出発点で「他我ー独我」の罠にはまっているとの指摘があるかもしれません。それを出発点とするか、たどり着く不連続点とするかは、あまり大した違いでなく、そのような「論」がどうして説得力を持ち、その説得力を保ったままで、不連続点を解消する方法はあるのかないのか、問題設定自体に問題があるとしたら、どの辺にあるのか。そういったことをみなさんの意見を参考にさせて頂いて、考えて行きたいと思うのです。

また何かありましたらよろしくお願いします。

お礼日時:2001/04/30 22:25

補足を少々させていただきます。



>アーラヤ識は、アマラ識内の要素として
>「調停」されるのでしょうか。
>けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの
>一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も
>「独我」のなかのできごとなのでしょうか。

そういうことになります。
ウニのような物をイメージしてください。ウニ本体が第九識で、棘が個人で、根元のあたりが第八識で先の方が表層意識です。
つまり、独立した個人があると言うのはアーラヤ識以上の錯覚であって、本当はアマラ識に包含される一つのものだというのです。
ウニの棘一本一本が他の棘とは独立した存在だと勘違いしてるようなものです。

だから、「独我」の中の出来事ではあるが、「独我」の範囲は「一切」と言うことなのです。

なんだか詭弁のようですが、実際詭弁です(笑)。
ですから最終的に唯識は破綻してしまいました。

参考までに申し上げると、この中期大乗仏教の後に出てきた後期大乗仏教(密教・金剛乗)を更に三時期に分けたうちの中期までは唯識をベースにして儀式や教学に意義付け等がなされてましたが、最後期には見捨てられて上座部仏教の哲学に取って代わられています。
(ちなみにアマラ識が変質すると「法界体性智」という智慧に変わり、それを尊格化したものが大日如来です)

>このように、私の中で、「調停」はなかなか
>困難なようです。

所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出してください。

P.S Re;serpent-owlさま。私もヨーロッパ系の哲学はよく知りませんのでご回答勉強させていただいております。こちらこそよろしくお願いします。
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この回答へのお礼

御回答、ありがとうございます。

ウニのイメージは新鮮で面白かったです。

けれども、私の理解の限りでは、まさにこの「ウニ」こそ
「独我」であり、つまり、中期大乗仏教とは「独我論」
であったのだ、と考えます。
ここで話がおわるなら、たしかにこれは一つの調停として
納得がいくのですが、

serpent-owlさんとのやりとりで出てきているように、独我論は「克服すべきもの」とされることが多いです。何を克服すべきなのか、私もはっきり同定できているわけではないのですが、例えば、serpent-owlさんとの話に出てきた「他我問題」や、アーラヤ識の他者性(恣意的に内実を変化させられないこととして「他者性」という言葉を使っています)など、説明できないことがあると思うのです。

>所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出>してください。

ありがとうございます。大変参考になっています。結論が出るものではないのかもしれませんが、もっといろいろな方からいろいろな意見をお聞きしたいと思っています。

お礼日時:2001/04/30 22:44

 「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。

そのうちお見えになるでしょう。

 「独我論がなぜ説得力をもつのか」から。それはやはり、デカルト的な「考える我」、「認識主体としての私」に立脚しているためでしょう。「確実に言えることは自分が知っていることしかない」、そうでないものは確実とは言えないということで。
 「独我論」というと、どうしても否定的なニュアンスで用いられがちな言葉なんですが、なかなかどうして克服困難なものでもあります。また哲学史的に見ても、精緻に練り上げられた独我論には大変おもしろいものもあります。
 そこらへんのことは後で「他我問題」に絡めて述べるとしまして、まずは素朴な、あんまり意味がなさそうな独我論から見ておきましょう。
 「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」とか、そういう禅問答みたいな議論をなさったことはありませんか。私は中学生か高校生かの時に、友達とこのネタで議論したことがあります。いやぁ、悩みました。
 これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。独我論の勝利です。客観論サイドは「いや、木は確かに倒れた」と主張しようとしますが、その確実性を確保することはできません。これに対し、主観論サイドは「その出来事は認識されていない」ことを確実なものとして主張できます。
 ただ問題はここから先です。勝った勢いでか(?)、独我論はこの先で論理の飛躍をやらかしがちです。今の「誰もいない森の中で…」の話で独我論が主張できるのは「木が倒れたことは認識されていない」ことだけです。このことは「現に木は倒れていない」ということと、必ずしも等価ではありません。「実は倒れているかもしれない」という留保を含みます。にもかかわらず素朴な独我論は「私が認識している限りでは」という但し書きをいつの間にか忘れて、「事実、木は倒れなかったのだ」という主張まで走ってしまうことがあります。
 「意識内容のみ」に立脚する独我論の前提からして、これは越権行為です。言えるのは「木が倒れたとは認識していない」までが限界であって、「事実、木は倒れていない」という事実述定まで踏み込めば、それは越権なのです。また同時に、認識している限界外のことについて、それを客観的事実として言い立てているわけですから、自己矛盾でもあります。ですから、独我論に主張できるのは「木が倒れたことは認識されていないが、実際はどうだかわからない」というところまででしかありません。
 要するに、素朴独我論の内実というのは「知ってることは知ってるけど、知らないことは知らないよ」という、実につまらないものでしかありません。しかも、この内実そのものの中から「知らないことは存在しない(事実として)」とか「知らないことは知りえない」とか、そういうような客観論の息の根を止めるような論点を演繹・導出することはできません。「オレが知らないんだから、存在しないんだ」なんて言ったって、「キミが無知なだけだよ」と言われてしまうかもしれません。そう言われないためには、独我論者は思考停止せずに歩きつづけるしかない。独我論者もつらいものです。
 つまるところ、独我論は独我論単独の力では、対抗原理たる客観論を否定しきれないのです。したがって独我論は貫徹されえず、完結もされえません。「今この時の私」は「まだ知らない外側」を、常に意識しなければなりません。「客観的なもの」の存在を、です。

    *

 では「他我問題」との絡みを。
 これに関して私が比較的まとまった形で言及しているところがあります。「社会」>「医療」のところにある「クローン人間はなぜいけないか」という質問のところです。回答No.23。「アンドロイドだって人権を認められるべきだ」なんて、みょーな話をしております。下にURLを貼っておきます。
 そこでは「痛み」を例に挙げてますね、ちらっと。そうなんです。おっしゃるように、「他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と同じものをともなっていることの最終的な確認」は決して得られないのです。他人の苦しみを見て「心の痛み」を感じたとしても、その痛みは他人の痛みそのものではない。決して感じることはできません。このことは、「クローン…」でも書いたのですが、「隣人が人間であることの証明不可能」にも通じます。
 ここでは別な例を挙げましょうか。例えばここ、インターネットにおける「ネット人格」です。
 面倒ですから、舞台は「教えて!goo」にしときましょう。ここで、「A」というハンドル名で質問や回答をしている人がいるとします。この「A」さんが、ある日「B」という別のハンドル名で会員登録を行い、その名前で質問や回答をしはじめる…としましょう。
 この場合、Aさん(Bさん)以外の人が、「AとBとは同一人物だ」と確実に証明することはできません。両者の書き込みにたとえ何らかの証拠があったとしても、苦しいでしょう。いくらでもごまかせますから。何の証拠もなければ、なおのこと証明不可能です。
 逆に、Aさん自身が、「私はBさんとは別人だ」と証明することもできません。たとえ事実そうであったとしても、です。たとえ同時刻のタイムスタンプで両者が同時に書き込みをして「ほら、別人だ」と言っても、何のことはない、端末を2台用意して友人に操作してもらうなり何なりすれば簡単にできることです。何の証明にもなりません。
 管理スタッフにはわかるのかもしれませんが、まず教えてくれないでしょう。つまり、われわれ一般ユーザーには証明不可能です。

 要するに、客観的に観察できる行為や行動(上記の例では文字と言葉のやりとり)からでは、その人の「心の内実」を確実に把握することはできないということです。言い換えれば「私」と「他者」との間には克服不可能な不連続性が深い溝として横たわっている、ということでもあります。これが「他我問題」。
 そうしますと、「心」を考えようとする際に確実な基盤となりうるのは「私の心」だけということになります。他者に心があるかどうかは証明不可能な、したがって不確実なものですから。すると、これは独我論となります。
 この独我論は克服不可能だと思います。特に、「証明できる確実性」にこだわる限りは。が、それではにっちもさっちもいきません。ですから実際には「他者にも私と似たような精神がある」と「推定」してやっていくことになります。
 例えばヘーゲル。ドイツ観念論を貫く最大のテーマは「自由」でしたが、ヘーゲルもカント以来の「自律としての自由」を軸に考えています。彼は「自由」を「絶対的な他者を持たないこと」と定義しています。「自律=自分が決めたルールに、自分がしたがう」ことが自由なのですから、たとえ他者であっても何らかの意味で「自分の一部として連続している」と考えないと、それは貫徹されないことになる。だから彼は自他の不連続性を超えて(つまり独我論を越えて)、「《われわれ》である《われ》、《われ》である《われわれ》」という形に連続化させています。
 が、しかし、「自他の不連続性」を彼が本当に突き詰めて考えたかというと、少々あやしい。むしろ「てきとーに素通りしてしまった」と言える部分があります。彼が素通りした部分にはやはり問われなければならない問題がある。だからこそ、サルトルやバタイユやフーコーやレヴィナスといった人たちは「他者とは何か」を改めて問うているのです。またそうした言説から、「自と他の統合による自律的自由」という一歩間違えばファシズム転落の危険性を孕む自由観とは別の、「~からの自由、消極的自由の保護」という、決定保留や拒否、多様性の余地を認めた自由観も汲み出されてきます。

 ですから、よく練り上げられた独我論というのは、決して捨てたものではありません。デカルトしかり、フッサールしかり、考えてみれば哲学史のターニングポイントには、ある意味で独我論ぽいインパクトが大きく作用しています。どのような知であっても、やはり「オレ自身に立ち帰る」ことが大切なのだと思います。(てなわけで、私も「実存主義者」を僭称しております。)

    *

 それと…「二元論的枠組み自体を解体する調停法」ですが、「言語ゲーム」とか「内部観測」とか、そんな話になります。これは機会を改めて。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=48422
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この回答へのお礼

とてもわかりやすい回答をありがとうございます。哲学史的に、私の求める調停
が、「他我問題」の「推定」によらない克服を目指しているのだという事が分か
り、とても参考になりました。アンドロイドの件、私も全く同感です。痛みを
「私」なら感じるべき状況で、アンドロイドが痛みの振る舞いをするとき、彼が
「私」と同じ痛みを感じていることを絶対に確認できないという点において、彼は
私にとって他の「他我」と同等であり、それゆえ、社会生活の上では、彼に人格を
認めるべきだと思います。

ただ、私の求める調停は、他人に「心」があるか、という問題と言うよりは、自分
の中に二つある世界観の、あまりにも両立しがたい、その不整合性をなんとかした
いという気持ちなのです。おっしゃるとおり、私はデカルトの方法的懐疑のその確
実性から出発し、確実性を失わずに世界観を構築しようとして、その不連続性に突
き当たったのですが、その不連続性を「推定」で超えるしかないのであれば、現在
までの状況とそれほど変わらないのです。

serpent-owlさんがおっしゃるところの説明可能性、この部分を考えた方がいいのか
もしれません。結局なにを説明しようとしているかという方向で私の二つの世界観
の不整合性を考えるなら、

独我論の立場からの世界観は「まだ知らない外側」も含めて、全て私の意識に立ち
現れる限りのもので構成されており、全てが私にとっての内実=「クオリア」「感
覚与件」(これらの用語の意味を私はまだ体得していないのでずれていたら申し訳
ありません)から構成されており、これら内実にリアリティーを与えることのでき
る世界観といえます。しかし、「感覚与件」「まだ知らない外側」に関して何の説
明可能性も与えず、偶然、もしくは単なる事象の連続ということになり、それで、
「つまらない」ということになるのかもしれません。

客観論というか日常感覚的な世界観から行くと、この私の前に立ち現れる世界がど
うやって立ち現れてきたかがある程度、整合性のある形で説明できます。「他我」
たちを想定することによって、私は自分が言語を習得する過程で、世界から無造作
に与えられる「感覚与件」の中から、分節化し、自分が共同体の中で利用していけ
る意味を取りだしてきた、などという説明は非常に説得力があります。しかし、こ
の世界観では、この私に生じている「クオリア」「感覚与件」も生理学的には脳神
経細胞間の伝達物質の移動、細胞内の電気的変化で構成されているはず、とされ、
発達心理学的には遺伝的形質、幼児期の体験、教育、により、私の自我は構成され
ており、「コギト」や「クオリア」という概念との間に不連続性がある、もしくは
説明可能性がなくなるような気がします。

このように書き直してみたところで、最初の質問を言い直しているだけのような気
もするのですが、私の感覚としては、どちらの方向にも、「説明」の必要があり、
かつ、どちらの方向からでも必ず、不連続性に行き当たってしまう、という感じ
で、それをなんとかしたい、ということなのです。だから、他我問題、つまり他者
に「心」はあるか、という問題は私の問題の中で重要なポイントとなっているかも
しれませんが、ちょっと問題意識としてずれる気もするので言い直してみました。

ですから、二元論的枠組み自体を解体することには興味があります。「言語ゲー
ム」という言葉は永井均のヴィトゲンシュタイン解説書でみた覚えがあります。あ
まり、理解できてないと思うので、また、お時間があるときにでも解説お願いしま
す。

お礼日時:2001/04/30 22:18

 これまた発展性のある話題ですね。

たしかに類似の問題は今までにもここで語られていますが、やはり質問者の問題意識の持ち方によって微妙な違いが出てくるようです。

 独我論は主観主義的な認識論の徹底として現れてきます。質問にお示しのように、うんと手短に言ってしまえば「オレに見えているものがすべてだ」という考え方です。
 これに対して、客観主義的存在論が対峙しています。「物が存在するから、認識が成り立つんじゃないの?」みたいな。
 この両者の水掛け論は、ある意味で今でも継続しています。なんだか「鶏が先か卵が先か」のような議論でもあります。でも、これら両者が相撲をとっている「土俵」は一つ。半ば無意識に前提された、二元論的枠組みです。
 客観主義的存在論は、徹底すれば唯物論になります。物があるから認識できる、いや、意識自体にも「脳」という物質的基盤がある、と。一方、主観主義的認識論は徹底すれば独我論、または観念論になります。物があるのはそういうふうに見えているからだ、意識が物をそうあらしめているのだ、と。
 かたや「物」、かたや「心」という二元論的枠組みの中で、前者を後者に還元すれば観念論、後者を前者に還元すれば唯物論になります。そしてこの枠組みに留まる限り、両者の対立は互いに「切り抜け可能な批判」をぶつけあうだけで解決しません。
 さて、お尋ねは「思考上の世界観と日常の世界観との乖離にどのような調停が可能か」とのことでした。上記の「二元論的枠組み」そのものを解体してしまう調停法もあるのですが、ややこしいのでとりあえず説明しやすいのからまいります。ただし、これは「厳密な証明」を経た「結論」ではなく、「推定」に基づいた「提案」の域を出ないものです。
 それは「日常の世界観を承認し、独我論を放棄する」というものです。…ということは、あんまり「調停」ではないんですが。
 何と申しますか、「オッカムの剃刀」的な論法になりますが、「そう考えた方が面倒がなくてよい」のです。そしてそう考えた方が、すべてを意識内容に還元しておしまいにしてしまうよりも説明可能性が広がります。生産的ということです。自然科学の持つ広範な説明可能性に象徴されるように。これに対し独我論は、えてして経験的知識を軽視して思弁的になり、妄想の生産性を高めてしまう状態に陥りがちです。現実を踏まえて堅実に推論を進めるには不向きと申せましょう。

 とりあえず、ご挨拶のつもりで、今回はこのくらいでやめておきます。またお邪魔します。この次は…「他我問題」との関係…あたりでお答えしようかと考えています。独我論とは表裏一体の問題です。

P.S.nekoucchaliさま。御回答、勉強になります。今後ともよろしくお願いします。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。

私の問題点としていることをいろいろな形で捕らえなおしていただき、
とてもありがたいです。たしかに私の問題設定は
水掛け論的な二元論の問題をどう解決するか、という風にいうこともできます。

ご提示いただいた、「提案」には非常に納得がいく気もするのですが、
「説明可能性を広げる」というときにはどの方向への説明を
求めているかという前提によって、どちらを承認し、どちらを放棄するかは
変わってくると思うのです。

ここで「現実」というときにはすでに日常の世界観を承認した上で、
話を展開している、「他我」の存在を承認した上で、このような
質問をしているので、こちら側を承認せざるをえない、のですが、

例えば、私が赤い色を見ているときのその「赤さ」は
「他我」の見ている「赤さ」と同じだろうか、
(こういう見えているその「見え」のことをクオリアとかいうそうですね)
とか、いま私が感じているこの痛さは誰にも分からない、
といったことを説明する際には、どうしても、
独我論の放棄をして、話を進めていくことは
できないのではないか、と思うのです。
自然科学の持つ広範な説明可能性は、
他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と
同じものをともなっていることの最終的な確認を
可能とはしてくれないのではないかと
思います。

うまく表現できずにすみません。
私が求める、「調停」とはむしろ、
独我論になぜ説得力があるのか、
どういう説明可能性が広がるから、
独我論などというものは存在しているのか、
ということになるのかもしれません。

「二元論的枠組み自体を解体してしまう調停法」
にも興味があります。
よろしければご教示いただけないでしょうか。
「他我問題」にも興味あります。
お時間があれば、よろしくお願い致します。

お礼日時:2001/04/27 01:04

kabalahさん初めまして。

中期大乗仏教(お釈迦様の仏教ではありません)である
「唯識」を応用してお答えしようかと存じます。
唯識では心の階層を九つ(内五つは並列なので実際は五層ですが)に分析し、
八番目のアーラヤ識を「カルマの貯蔵所」と定義し、すべての事象の原因と結果の
貯蔵所であるアーラヤ識がただ一つの存在であり、
>この世界で現象することは全て
>自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
>自分の外に実在する存在者などない、とする
>独我論
といっています。言わば、独我=唯識です。

しかし、そうすると、
>思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。
ので、宇宙意識というか、一切衆生共通の意識みたいな「第九識」(アマラ識)を
立てるのです。それによって「独我」が他の「独我」と繋がってると説明します。
これが、精一杯の「調停」と思われます。

ただし、唯識にも流派があり、第九識を立てずに第八識だけでがんばる学派も
あります。「すべての存在は自分のアーラヤ識の中にあり、自分以外の存在は
存在しないのだ!」と。(汗)

謂わゆる「自業自得」の思想を突き詰めすぎてこういう結論になったようです。
他者と自分を厳密に分けると、確かにこうなるでしょう。しかし現実には存在は
他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法)

独我論は、どこまでが自分でどこからが他者であるかの線引きを、非常に厳しく
する、一つの極論でしょう。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
全く知らない分野で非常に勉強になります。

でも、
アーラヤ識は、アマラ識内の要素として
「調停」されるのでしょうか。
けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの
一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も
「独我」のなかのできごとなのでしょうか。

>しかし現実には存在は
>他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法)
これも現実世界を私が想起するときに
確かに納得できる気もしますが、
それはやっぱり「独我」のなかの出来事とも考えうるのです。

このように、私の中で、「調停」はなかなか
困難なようです。

また、なにかありましたらお願いします。

お礼日時:2001/04/27 00:23

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