出産前後の痔にはご注意!

たとえ不完全性定理が認められていましても、
聖書の教えの中から誤謬を探してはいけないのでしょうか?

A 回答 (7件)

 BuffaloAndJtpさん


 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%9F%B3% … は閲読しました。使用のタームと表現の運び方には疑問が残りますが、概ね理解しその通りと存じます。

【信仰心の維持の為の暫時的な建て前を諒察して、信者達は布教・精進に取り組んでいるのでしょうか?】とのコメントを戴きました。

 1. 党勢拡大をする革新政党の活動には参加しており多少は致しましたが、布教(行為や活動)をする集団に属したことはありませんので布教ということでは判りません。
 その党での少ない経験ですが、拡大においては理論的に答えられない人も自分が正しいと思うことを判ってもらうように参加します。
 そして帰ってきてこんな質問や意見があったという勉強会を開きます。
 どんなことも答えられる人は多くはないと存じます。しかし正しいことであるという自分の本音、本心の気持ちで活動します。
 党の方針や理論に齟齬や疑問があれば、納得しないと行動できません。その点、この党派の方は真に単純といえば単純です。裏と表がないのです。率直です。
 そんなことは私の小さな経験の範囲でのことかもしれませんが、そういう出会いと経験の話はたくさんあります。
 でもその齟齬と疑問が小さく、基本でなければ、暫時的な建て前を諒察して行動することもあります。それは後で解決します。解決しなければ出るだけです。
 2. 私たちの信仰と精進のSelf-Realization Fellowshipでは、一定の実現段階になった方以外は他人に教えを語る事は、教えのオリジナル性の保持のために許されません。
 本部内の機関紙の投稿して、採用される事はあります。精進においては、齟齬と疑問が一点でもあれば、自己を全面的に傾注することはできません。
 一粒の砂の齟齬と疑問は精進を阻みます。本音しかありません。暫時的な建て前を諒察の曖昧さはありません。
 無論、なにもかも理解と到達しているから信仰し、精進するというのではありません。
 未熟で低いレベルの自分でしかなくても、無条件(理由や理論もなく、根拠もなく、直接)に、これが真理だということだけで信仰し精進しています。
 この団体のアクティヴなる会員はまだ数万人ですが一応、インターナショナルです。そして本部との交信と本部からの指導はありますが、日常は個人自身の世界です。
 そして週単位の一定時間の個人の家庭での数人の会合での行を本体としています。
 ここでこの教え以外の交際はいけない。その範囲でのお付き合いです。
 勝手に教えの解説などをしてもいけない。そういう会ですので個人の本音しかありません。
 無論、人間ですから現実に着物はきており、共通の日本語で話す、礼儀とエチケットはありますが、建て前の暫時的な諒察の介入する場面はありません。

この回答への補足

有り難う御座います。

確かに、たとえ怪しくとも、各団体の教義が秘伝であれば、他の団体の教義との比較は難しいでしょうから、日常の振る舞いの機軸にもなり得るのですね。

但し、異教徒達の折伏の際には、裏切りさえもが歴史的に存在し得たのではないでしょうか?そうなりますと、自ずから修正の価値が見出されてき得る筈です。

因みに、所属団体は野蛮な政治結社ですか?

補足日時:2011/07/27 18:43
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この回答へのお礼 お礼日時:2011/07/31 01:44

 ANo.3


 聖書で生きようとしている人は、今は判らないことだというでしょうし、或いは、もっとレベルが高度なら整合的に判断したり、矛盾と受け止める必要がないというでしょうね。
 自らには、矛盾のほじくりは認めないと存じます。

この回答への補足

有り難う御座います。

信仰心の維持の為の暫時的な建て前を諒察して、
信者達は布教・精進に取り組んでいるのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%9F%B3% …

補足日時:2011/07/27 00:59
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聖書は人が書いたものであり、それを伝承するのも人、通訳するのも人なので、そこに数々の間違いがあることは否定できません。

しかし、聖書を通して伝えたい何かを心情的に受け止めた上で、間違いを検証し、本来の意味、在り方を検証・理解することは大切だと思います。

この回答への補足

有り難う御座います。

そもそも、【聖書無謬性】の考え方は存在しなくても良かった、
という事なのですね。

補足日時:2011/07/26 04:10
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この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6985389.html
http://okwave.jp/qa/q6988591.html
http://okwave.jp/qa/q6988817.html
http://okwave.jp/qa/q6930809.html
http://okwave.jp/qa/q6988614.html
此方でも御協力を賜れますと、非常に幸いに思われますから、畏れ入りますが、若し支障が御座いませんでしたら、御覧になって下さいませ。

お礼日時:2011/09/04 22:15

いけないというより終末期における根源的な誤謬といった事に関わる指摘の必然性



粗さがしといったこととは次元を異にする
誤謬を指摘する意味がどういうところにあるか ということに帰着するのではないかな



この回答への補足

有り難う御座います。

【聖書無謬性】の発想は、
聖書の粗探しを否定していないのでしょうか?

補足日時:2011/07/26 04:10
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この回答へのお礼

古代の社会でも、異教徒達への布教の都合の為の微調整が、全く行なわれ得なかったのでしょうか?

お礼日時:2011/07/27 18:49

 他の尺度との比較の行為が既に禁じられているのでしょうか?


 いえ、それは何禁じることはありませんよね。
 しかし、聖書も一応聖典なのでして、それはそれなりのレベルと相での判断がひつようでしょうね。
 わたしは聖書がどこまで私たちの頼りになるのか、わかりません。しかし聖典なのだろうとは推測します。

この回答への補足

有り難う御座います。

【聖書無謬性】の発想は、
聖書の矛盾点の探求を否定していないのでしょうか?

補足日時:2011/07/26 04:10
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キリスト教の神は全知全能ですから、間違いが存在


することは背理になります。あり得ません。

しかし、現実には聖書と事実が食い違う現象が
発生します。それは当たり前です。
キリスト教が説明している神なんかは人間が勝手に
造り上げたものだからです。
しかし、信者はそうはいかない。
なんとかしなければならない。

方法はいくつかあります。
1,聖書が正しくて、現実が間違っているのだ。
  これはキリスト教原理主義者の立場です。
  彼らは進化論を否定します。

2,聖書は人間の不完全な言葉で書かれているのが原因だ。
  だから、解釈によって適合するようにしてしまう。
  これは聖書の自由な解釈を認めようとする立場です。

3,食い違っているように見えるだけで、本当は食い違って
  などいないのだ。
  科学がもっと進歩すればそれが解るだろう。
  これは永遠に使える言い訳です。

信者以外には、バカらしい問題のようにも思えますが
このキリスト教神学から、法解釈学が発達したのですから
一概に否定するのもなんです。
つまり、法は所為として、正しい。
しかし、これをそのまま適用したのでは妥当な結果を
得られない場合が必ず生じる。
そこで解釈でそれを補う、という技術です。

この回答への補足

具体的な回答は有り難いのですが、
2番の内容が分かり難いです。

不完全に綴られているという事実の指摘は、
誤謬の認知になりませんか?

因みに、下記のページにも関連の質問を提出させて頂きました。
http://okwave.jp/qa/q6896380.html
http://okwave.jp/qa/q6895607.html

補足日時:2011/07/24 16:17
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 BuffaloAndJtpさん、悩ましい問題ですね。


 でも一つ誤謬を見つけて、それが誤謬だとされるとどうなんでしょう?
 聖書って空っぽになりませんか?
 科学から、理論演繹から、倫理学から。あれは誤謬だこれも誤謬だってなったら。
 そして理論や理性で、或いは現代の科学精神から信仰に合致するように聖書を考えると、無数の人が無数にあれもこれも誤謬だとなりますね。
 信仰って個人的なものだからそれでいいんですが、聖書は空っぽになりますね。
 
 聖書を聖書なるが故に、それを一体として受け入れるべきだ、ということの対置的な問題ですよね。
 聖典を読み解くということには一定の自己の経過が必要かと存じますが、その上で記述や内容に修正や削除をしなければならないものがあれば、認められると存じます。
 聖書には宗教に必要な信仰と指導、そして一定の精進と行の仕方は記載されていません。しかしそういうものがあって、始めて納得できるものもあります。
 ですので宗教生活をしないで、修行や勉強をしないで、(具体的な肉体的存在でなくても)指導者もいないで、のんべんだらりの生活をしてきた経過で、理屈と思いつきで誤謬を指摘することは軽はずみになる気がします。
 賢者の徹した眼光でも、一定期間の修行や指導者から一定の存在性と環境情況をもてないで決める事は難しいと存じます。 
 

この回答への補足

有り難う御座います。

他の尺度との比較の行為が既に禁じられているのでしょうか?

補足日時:2011/07/24 13:15
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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。


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