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 関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。

 初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。

 むろん哲学としての問いです。


 たたき台としては:

 (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。

 (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。

 (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。


 (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。
 
 (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。
 
 (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。

 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。

 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。

 (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。

 (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。

 (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。




 ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

A 回答 (13件中1~10件)

Bragelonneさん



補足を頂きましてありがとうございました。cincinnatiに向かって書かれていますので、なにか回答をと思っておりましたが、ご質問や補足に対応した言葉が見当たりません。つまりBragelonneさんの論理や意図が実は正確にはcincinnatiは捉えられていないということが言えると思います。

しかし今回補足をいただきまして、やはりインスピレーションが与えられました。それで一言述べてみる気になりました。振り返ってみると、cincinnatiはbragelonneさんの実際の問いに答えることなく、インスピレーションのみを語ってきたように思います。そして今日も実はある聖書の箇所が浮かびました。それは以下の聖句です。

マタイによる福音書 / 10章 19ー20節
「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 」

このような箇所を思い出すというのはbragelonneさんとcincinnatiが極めて近いところにいるのだという事を理解させてくれます。従いまして、bragelonneさんに向かって何かを語る必要はないのだということにも気がつかされます。

cincinnatiにはいつも聖書について語りたいという思いがありますので、bragelonneさんの質問に乗っかってこれ幸いとばかりに聖書を語っているのが実情と思います。

今後も何か飛び込みやすい質問を投げかけていただければ幸いです。

さて補足にある(ヨハネの手紙一 / 2章 20-27とエレミヤ書31:31以降のくだりの対比ですが、おそらく35節当たりまでを指していると思います。

31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

補足部分に記載がなかったので、ここに貼り付けました。cincinnatiからは特別コメントはございませんが、エレミヤ31:34とヨハネ第一の手紙20:27は概ね同じことを述べていると思います。時代と言語と書き手が異なるにも関わらず供に一つの方を指し示しているということだと思います。
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この回答へのお礼

 なるほど。たしかにインスピレーションを記すご回答 お受け取りしました。

 つまり 哲学カテとしては 《信仰》とは 人間にとって どういう行為か? ですとか キリスト・イエスは その息吹きないし命をあたえることのために 十字架上に去って行くという手段を取ったのは どうしてか? またそれ以外にはなかったか? などなどといった問いを立てたりしますが そもそも《聖書とはなにか》と問うなら インスピレーションを受けることというかたちで答えることもありだなと思いました。

 今回は 争点はない模様です。


 
 考えてみれば ほかの聖書関係の質問に回答を寄せる方々が この質問については 沈黙をたもっておられる。これは 意外な事態であるかも知れないと思いました。

 そんなことを考えながら 主題をあらためて捉えることができるかをすすめて行くつもりです。

 そうですね。そろそろ閉めましょうか。

 お疲れさまでした。ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/12 23:00

>しんしなてぃさん しんしなてぃって オハイオ州の街のことですか? 思い出がお有りですか? といったことも いちどお聞きしておこうかと思いました。

(わたしはアメリカへは行ったことがありませんが)。

米国に住んでいた頃、友人がcincinnatiを呼ぶために勝手に付けた名前でほんの一時期面白半分に呼ばれていましたので、同様に面白半分に自分のハンドル名にしました。

>触発されて思い出したのは つぎのヨブについての批評文です。かかげてみます。

ヨブ記はなにか聖書に疑問を投げかけたい方や、教会に馴染んでいない人にはあまり読んで欲しくない部分です。ただ、苦しみの中にあっても神を見つめていたということに教えられます。


>▲ (ヨハネ福音1:16) わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
>☆ が気になっています。《恵み》の繰り返しです。

神様の恵みはある人に取り意味もないということであっても、それが実際に神様のなされたことであると知るならばすべて大いなる喜びとなると思います。例えば道を右に折れた途端に、ネズミが出てきて驚いたとします。しかしそれは神様がそのような場面を備えたと知ったら、どんな大きな喜びとなるでしょうか。この世で成功するとか、学業や研究で業績を残すという喜びも悪いものではございませんが、神を知るという特権は「恵みの上にさらに恵みを受けた」という状況に似ていると思います。


>いまあまり脈絡なしに ただしいくらか似た内容の次の聖句をも思い浮かべました。どうなんですかねぇ 関係していましょうか?

>☆  この中の《もっと大きな業を行なうようになる》という箇所です。
>むろんまづその《大きなわざ》がふつうの人間にも出来るようになるのは それもけっきょく キリスト・イエスつまり神の意志と力によって成すことができるようになるのだと思います。そして 《めぐみの上にさらにめぐみを受けた》にちょっと似ていますよね?

cincinnatiの見解では例の「高い丘の上の十字架」という比喩で説明できます。この高い丘は実は山ほど高くないので、人々が町中にあって、日常的な事柄に振り回されているときには、周囲の家の屋根や垣根が邪魔をして見えません。ある人はヨブ記のような道を通って丘の上の十字架にたどり着きます。またある人は律法の束縛から逃れようとして十字架を目指します。しかしながら町中にいる人々はそこに丘が存在することがわかりません。従って丘を目指すこともございません。またある人はご自分が丘を登っているのか、下っているのかも理解せず、ある日突然十字架に付けられた自分を発見するということもあるかもしれません。何を申し上げたいかと言いますと、人は丘の上の十字架に着くまでは色々な道をたどると申し上げたいのです。聖書の言葉はすべてイエスキリストの十字架からみればすべて関連していることがわかります。つまり丘の上の十字架に付きますと、全てを了解されるというわけです。

また「もっと大きな技をおこなう」ということに関して言えば、キリストを信じるものが100%、神様ができると信じて行うならばその通りになるであろうと考えます。聖書に「もしからし種ほどの小さな信頼が神様に対してあるならば、近くの山を動かして、海に移動してしまうことも可能だ」と述べています。

>つまりそこから 夢想が始まります。キリストは 神として これからは――つまりは キリスト・イエスの名が世界中の誰にでも知られたあとでは―― 舞台の奥にしりぞいていることになるのではないかです。

cincinnatiの考えでは実際は神様は今までも後ろに退いているように多くの人には見えました。それで神様は私どもを用いてご自分の計画を皆さんに広めようとしています。神様は惑星の運行や、自然界の物理現象にご自分を示すためや、ご計画を示すために割り込まれるのをあまり好まないようです。そのような物理現象を超越したような現象だけを奇跡と呼ぶのであれば、多くを期待すると多くの場合失望に終わるのではないかと思います。まさに神様が舞台の奥に退いているとしか見えない状況に直面すると思います。しかしcincinnatiの見解では罪あるものがその罪を許されるということは奇跡ではないかと思われますし、仕事を与えられ生活を維持してゆくことが出来るのも奇跡的なできごとと思われます。また街角を曲がったところ突然ネズミに出会った途端に、心的な転回を経験することも、それが人生観の180度の転回ともなれば奇跡としか言えません。つまりある人にとっては神様は前面にでて私どもに奇跡を起こし続けております。

この回答への補足

 ▲(ヨハネの手紙一 / 2章 20-27 )~~~~~

 20:しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

 21:わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。


 24:初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。

 25:これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。


 27:しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~


 あらためて 抜き書きします。エレミヤ書31:31以降のくだりに対応するところです。

 ▲ 2:20:しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

 ▲ 2:27:しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。

補足日時:2012/01/11 20:55
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 しんしなてぃさんというお名前は やはりアメリカの街でしたか。でもそう呼ばれていたという程度のことですとか。おしえていただきありがとうございました。



 そうですね。全体として――これまででも じつはそうなのでしたが―― 今回は はっきりと聖書についてのわたしのいまのクセが出てしまっていると思いました。
 ひとことで言えば 前史とそれを乗り越えた後史とを――むろん 信仰の動態なる歴史として―― 区別して捉えるというものです。

 そして しかも 個人の歴史に 信仰が与えられ始まった時点を境に前史と――そのふるき人を脱いだあたらしき人としての――後史が分けて捉えられるというだけではなく それだけではなく 言わばじんるいにもその歴史に前史と後史があるだろうと見るものです。

 まづ かの人に――高き丘をのぼるにあたって―― つまづくかどうかという問題がおっしゃるように確かに基本的にあります。
 しかもそのつまづきの石が 《ことばが肉となったすがた》においてだけではなくすでに復活のすがたにおいても 世界に成ったという段階とその舞台にあっては ここでエレミヤ書31:31以降の預言が活きることになると考えるのですが この躓きの石ないし高い丘というそのめぐみの方程式じたいが 背景にしりぞくであろうという見方を持つに到っています。

 どういうことか?
 躓きの石につまづかなかった人はそのまま そしてしかもつまづいた人も それでもすでに――信仰の出発をする前にすでに また言うなればアンチクリストでさえすでに――その身体は聖霊の宿る神殿であるということ。こういう位相ないし局面に 世界史の舞台は変貌をとげたのではないか? このような後史の段階に入っているのではないか? これです。


 めぐみの上にめぐみが与えられたは いろんなふうに解釈され得ましょうが ひとつには けっきょく《躓きの石につまづかなかったことにより信仰の人とされた恵みが 固まってその信仰動態が確立されていくこと》だとも考えられます。そういうかたちとしても 前史から後史へ――ふるき人を脱ぎ あたらしき人を着て しかもその着た状態が確定されていく段階へ――入ることとも受け取られます。

 そうなると いちど躓きの石につまづいた人の場合についても その過去はどうってことがなくなるのではないか? 後史に入った人にとっては 前史の状態にある人びとが 信仰の有る無しにかかわらず しかもすでに《聖霊の宿る神殿》としての身体の持ち主だと見られて来る。
 つまり 躓きの石は――キリストは―― 背景にしりぞいて行きます。すでにキリストが息づいているからです。ただし 聖霊としてということにもなります。


 世界史という舞台と言いましたが それほど大きく視野を広げなくても 個人としてのわたしと それを取り巻く人びとの《人間関係動態》といったふたつの局面を捉えればよいのではないでしょうか?
 そして特に 後者つまりいわゆるそれぞれの場における共同体という舞台が 信仰の後史の段階にあっては 前史とは違って見えて来る。こういった夢想です。

 極端な言い方をすれば こうです。
 キリスト・イエスの言うには はじめは躓きの石ないし十字架を背負ってあるきなさいであったものが 後史に入れば 背負った十字架はあまり表に出す必要はなくなる。つまりたとえ相手が 磔の姿に躓いてしまっている人の場合でも いちいちその過去について憶測をたくましくすることも必要がなくなり こちらも臆することなく相手も同じ《聖霊身体》であるとさとってあゆみなさい。こう言っているのではないかです。


 大胆に――ほとんどつねに わたしは そうなのですが――述べました。受けていただくお方として おあとがよろしいようで。

お礼日時:2012/01/07 17:25

bragelonneさん、



コメントをありがとうございます。cincinnatiが少しばかり語りますと、その10倍ぐらいの言葉でいろいろ書いてくださっておられますので、これは一般公開している討論なのではないかと思えるほどです。しかしながら、牧師でものなく、単に教会の椅子を週に1度温めているに過ぎないbench wormerでして、野球で言えば補欠選手のような存在でありますが、幸いなことにこのような場所では自分を顧みずに色々なことが気兼ねなく話せるので、少しばかり羽を伸ばしている者でもあります。そこで今回はご提示くださった以下の聖書箇所からインスピレーションを与えられましたので、今までのような説教でもしそうな熱心なクリスチャンではない別の自分の姿について一言述べてみたいと思います。

 ▲(パウロ:ピリピ書1:21~) ~~~~
 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
 〔けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 ・・・〕  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とまで言っているので まさに高い丘にはりつけられているような状態なのでしょうか?

聖書のこの箇所は実は読むたびに自分は果たしてパウロのような心境で死を迎えることが出来るだろうかと必ずと言ってよいほど自問自答します。パウロは聞くところによりますと、ローマの牢獄に囚われの身であり、すでに死刑の宣告を受けている日々にこれを書いています。平和な世界におり、身の危険がなく、自由に信条を語ることができる場所と時間の中ではいえても、パウロのいた環境では「死ぬことは利益です」とは自分では言えないのではないかと思ってしまうものです。

つまり自分は十字架にかかりもしないで、皆さんに十字架に就きなさいとのたまうところのcincinnatiは実は信仰も生活もまだまだあやふやな求道者のようなものかもしれません。日本においては「私はクリスチャンです」と表明することがはばかられる場所と時が多々あります。それ以外の時であれ、クリスチャンであると表明することは何の得にもならない社会におりまして、やすやすとその状況を受け入れ、何の働きもしていません。そのような負い目がこの場所で聖書を語らせているのだと思わざるを得ないcincinnatiは「私はなんと惨めな人間でしょう」という独白になります。聖書にある通り:

「なんと惨めな人間なのでしょう、わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマの信徒への手紙7章15節)

罪の奴隷の姿がそこにあります。この言葉はcincinnatiの嘆きでもあります。しかしそのあとで聖書は:

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ローマの信徒への手紙7章24、25節)

律法はすなわち良いもので、私どもに罪の自覚を与え、その後、神を知る手助けとなるものでした。bragelonneさんが述べられましたように律法も神の愛のあらわれなんだという理解にいたりました。
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この回答へのお礼

 しんしなてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 しんしなてぃさん しんしなてぃって オハイオ州の街のことですか? 思い出がお有りですか? といったことも いちどお聞きしておこうかと思いました。(わたしはアメリカへは行ったことがありませんが)。

 触発されて思い出したのは つぎのヨブについての批評文です。かかげてみます。

 ▲ (アウグスティヌス:ヨブについて) ~~~~~~
 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~~~


 もう一点は やはり元に戻ってのように 
 ▲ (ヨハネ福音1:16) わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
 ☆ が気になっています。《恵み》の繰り返しです。

 いまあまり脈絡なしに ただしいくらか似た内容の次の聖句をも思い浮かべました。どうなんですかねぇ 関係していましょうか?

 ▲ (ヨハネ福音14:12-14) ~~~~~~~~
  ――はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を
  行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。
   わたしが父のもとへ行くからである。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
   こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえて
  あげよう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  この中の《もっと大きな業を行なうようになる》という箇所です。
 むろんまづその《大きなわざ》がふつうの人間にも出来るようになるのは それもけっきょく キリスト・イエスつまり神の意志と力によって成すことができるようになるのだと思います。キリストとは別様にではないわけです。
 そして 《めぐみの上にさらにめぐみを受けた》にちょっと似ていますよね?


 つまりそこから 夢想が始まります。キリストは 神として これからは――つまりは キリスト・イエスの名が世界中の誰にでも知られたあとでは―― 舞台の奥にしりぞいていることになるのではないかです。
 世界史の舞台は そのキリストがほかのいくつかの名前の神をすべてその風呂敷に包むように含み収めて あとは 人びとの生活の具体的な課題や問題についての話し合いが 始まる。
 わたしたちの側から見れば いわゆる宗教にかんしては 勝負あったという恰好になります。しかもその勝利者のキリストは 背後にしりぞく。そういうあたらしい世界が来るのではないかという夢想です。
 根拠は ありません。上の《めぐみ》や《大きなわざ》からの類推に過ぎないものです。ただ 或る種の仕方で予感があります。
 たぶん その世界に到るには まだまだ 道はけわしく長いかも知れませんが いまからたのしみではあります。
 と今回は 放言になりました。

 


 ここは つぎの問い求めの主題が思いつくまで 開けています。いつ思いつくかは 分かりません。

お礼日時:2012/01/05 22:38

bragelonneさん、コメントを重ねて頂きありがとうございます。



当方の最初のコメントにあるように「高い丘の上にある十字架」に戻ります。つまりcincinnatiはかつて、十字架にイエスと共に付けられてその高い場所からこの世の構造と天国の風景を眺めました。この世の構造とは生きる目的も判然とせず、日々生きることさえ苦痛であり、その苦痛のよって生まれるところさえ判然としないそのような苦しみを生む構造となっている場所であり、天国の風景とは強烈な歓喜に始まり、少しばかり落ち着くと自分が苦しみの構造からの開放されたことを知り、さらに冷静になると十字架上でこの世の苦しみが実は自分の罪ゆえの苦しみであった事を了解するといういくつかの不思議な心的な経過を経て、天国にある平安と喜びの世界が見えたと実感することが出来る風景です。

さてモーゼの律法により罪に定められた私どもの開放は「丘の上の十字架」につくことであるというのが、cincinnatiの見解です。しかしbragelonneさんの見解はどうも再度「そのまま聖霊としてはたらく神の律法が必要であった」というご主張があるように思います。たしかに旧約で語られた以上の事を地上にあったときに、イエスは述べております。たとえば、

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

このような命令を律法と解釈すればたしかに、イエスの語られたことは新しい律法と呼ぶことが出来るかもしれません、以下のように述べているからです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17).」

結論としてcbragelonneさんとcincinnatiは少しばかりちがうより、むしろ多くの点で共通点があるといま了解しています。ご質問が多義にわたっておりましたので、的はずれな印象は否めませんが、まとめさせていただきました。
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この回答へのお礼

 しんしなてぃさん あたたかなご回答をありがとうございます。

 ★(しんしなてぃさん:十字架の高い丘) ~~~~
 当方の最初のコメントにあるように「高い丘の上にある十字架」に戻ります。

 つまり cincinnati はかつて、十字架にイエスと共に付けられてその高い場所からこの世の構造と天国の風景を眺めました。

 この世の構造とは生きる目的も判然とせず、日々生きることさえ苦痛であり、その苦痛のよって生まれるところさえ判然としないそのような苦しみを生む構造となっている場所であり、
 天国の風景とは強烈な歓喜に始まり、少しばかり落ち着くと自分が苦しみの構造からの開放されたことを知り、さらに冷静になると十字架上でこの世の苦しみが実は自分の罪ゆえの苦しみであった事を了解するといういくつかの不思議な心的な経過を経て、天国にある平安と喜びの世界が見えたと実感することが出来る風景です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたくしも パウロの文章を介して おっしゃるような高い丘の主題は親しんでいるつもりです。ただ自分ではあまり――ほとんど――述べません。ひとつは 筆の運びがうまく行きません。ひとつは そのありさまは 結果としてその丘に連れられて行っているというように理解していて 自分の文章ではなかなか書けません。
 それで パウロを参照します。しんしなてぃさんは このくだりをご自身の言葉で表わされたのだと思います。

 ▼(パウロ:罪に死に、キリストに生きる――ローマ書6:1-14)~~~
 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。  
 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた〔* わたくし=ぶらじゅろんぬの場合は 聖霊によるそれです――〕わたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
 
 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 死んだ者は、罪から解放されています。

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ やはり《いのちを得る》のテーマでした。パウロは 何と言っても
 ▲(パウロ:ピリピ書1:21~) ~~~~
 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
 〔けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 ・・・〕  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とまで言っているので まさに高い丘にはりつけられているような状態なのでしょうか?

 それから わたしは 《律法》という言葉にこだわり過ぎたようです。モーセの律法は アブラハムの信仰を凌駕しないと思います。
 ▲(パウロ:ガラテヤ書2:19) わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
 ☆ こう見てこう言っていたほうがとよいと考えます。





 時差の問題をすこし考えましたので 表現してみます。

 けっきょくイエス・キリストの出現というのは 超新星の爆発のごとくあまりにもまぶしいので そのあと人びとの目がふつうに見えるようにその新しい世界の風景に慣れるまで 準備の時間――二千年ほど――が必要であった。のではないか?

 あたらしい契約にかんするエレミヤの預言は その内容が イエスの登場をもってそのまま実現した。ただしその時刻は たとえば経験思想で人びとがふつうに考えることのできるようになるまで 延期された。人びとが 身分制などの人間の存在にとって外的な制約から自由になりいわゆる民主制のもとに社会をいとなむようになるまで その発効が延期された。

 あたかもパウロが あのダマスコへ向かう街道の途中で 突然の光に見舞われしばらく目が見えなくなったように そして目が見えたときには 目からうろこが取れたと言ったように じんるいも 視力が回復するまで軽く目隠しを与えられていた。のかも知れません。

 そうでなければ たとえばいかにローマ教会が腐敗していたとしても そしてそれに対する抵抗とあたらしい運動が起きたのもよいとしても 互いに殺し合いをするまでに到るなどということは 考えられません。常軌を逸しているとしか考えられません。目が痛んでいたのでしょう。

 モーセを出すはめになってしまいますが:
 ▲(出エジプト記33:20-23)~~~~
 また言われた。
   「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
   人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 21: 更に、主は言われた。
   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。

 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。

 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ この二千年を経たあとも その神についてはわれわれはその背面を見るが 顔と顔を合わせて見ることは あとに取っておかれているとでも解釈すればよいでしょうか?
 二十一世紀を生きるわたしたちは そろそろ 目からうろこが落ちたでしょうか?





 この質問は もう少し開いていましょうか。
 補遺などありましたら よろしくどうぞ。

お礼日時:2012/01/01 22:44

bragelonneさんがお書きになっていることに関しては概ね同意します。

しかし以下のコメント>>について少しばかり同意を保留する必要を感じました。

>>時間差を別として イエスの磔の死とそのあとの復活によって人間は アダムの原罪があがなわれただけではなく 神の律法すなわち愛がわれらが心にすでにそのまま刻まれているという《めぐみ》があたえられた。と言っているようなのです。

聖書にあるとおり私どもの時間がたとえ1000年であったとしても、神様にとっては1秒でもないことと思いますので、聖書の言葉は時間を超越していると言えます。従いまして十字架のイエスの死が私ども2000年代の人類にも適用されることは何ら疑問の余地はございません。その結果私どもは「命を得る」ことができるということになります。

アダムとエバの背きの罪のため、人類は神と隔絶されましたが、イエスにより元の状態に戻ることができた、あるいは神様との関係を取り戻したといえます。

同意を保留しなければならない点はbragelonneさんが「神の律法すなわち愛が....」と律法=愛と並行関係に置かれたことに関しては神は愛ゆえに律法を人類に与えました、また愛ゆえに律法を無効とされる手段を提供したのではないかと推察しておりますので同意することをこの点に関して保留致します。律法はつまり十戒として表現されていることと、心のうちにある良心により律法が書き込まれていることで知ることが出来ます。しかし愛そのものではないというのが当方の見解です。しかし愛も私どもの心に書き込まれていることは否定しません。

>>もしその読みが受け容れられるのでしたら この世界は――いまの教会制のもとにある信徒たちの世界は―― がらりと変わる。驚天動地のどんでん返し なのではないでしょうか?

この箇所に付きましてご質問の趣旨がはっきりしませんが、「イエスの十字架での死と復活によりアダムとエバの犯した最初の罪及び私どもの罪が赦されるというならば、この世界の制度としての教会およびその下にある信徒の世界はガラリと変わるのか」というご質問でしたら、当方の答えは「もし人々が文字通り信じ始めたらガラリと変わる」と躊躇なくお答えできると思います。とはいえ教会を否定するものではなく、むしろ神様が「集まれ」と命じておりますので、その命令を成就する意味でもクリスチャンは供に集まり、過ごすべきと思います。人がそれを教会と呼ぶかどうかは問題ではございません。キリストを頭とする集団を私どもは教会と呼んでおります。ただし、教会に集うことにより人はクリスチャンになるのではなく、聖書の言葉を真摯に受け止めるときに各人が天地がひっくり返るような経験をすると申し上げたいとおもいます。
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この回答へのお礼

 しんしなてぃさん 渾身のお答えをありがとうございました。
 
 1. 《宣教》がイエスのあとでおこなわれたという《時差》の問題。
 2. 《神の律法》と《愛》の問題。
 3. 主の家として人びとの集まる教会の問題。

 みっつそれぞれにおいてわたくしも 詰め切れていない部分があるかと感じています。
 そもそもの人間存在に立ち帰るとでも言いましょうかそのような《いのちを得る》の主題を立てこれをめぐって大筋で合意が成ったと受け留めています。そこから個々の具体的な副主題の問い求めに入る。こういった第二幕かと思います。
 この【Q:聖書とは 何か?】で全部をあつかうということは 煩雑になったりしてかえって得策ではないと思いますが まづはこれらの副主題についても 大筋の問い求めになるかと考えます。

    *

 ただいまの考えとして割り合いかんたんな(3)から入ります。
 これは明らかになさったお考えにそのままわたくしも同意いたします。
 ★ ~~~~~~~~~~
 (あ) 「イエスの十字架での死と復活によりアダムとエバの犯した最初の罪及び私どもの罪が赦されるというならば、この世界の制度としての教会およびその下にある信徒の世界はガラリと変わるのか」というご質問でしたら、
 (い) 当方の答えは「もし人々が文字通り信じ始めたらガラリと変わる」と躊躇なくお答えできると思います。

 (う) とはいえ教会を否定するものではなく、むしろ神様が「集まれ」と命じておりますので、その命令を成就する意味でもクリスチャンは供に集まり、過ごすべきと思います。人がそれを教会と呼ぶかどうかは問題ではございません。キリストを頭とする集団を私どもは教会と呼んでおります。
 (え) ただし、教会に集うことにより人はクリスチャンになるのではなく、聖書の言葉を真摯に受け止めるときに各人が天地がひっくり返るような経験をすると申し上げたいとおもいます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ニュアンスとしては わたしは次のような傾きがあります。すなわち 
 (お) 社会そのものが 主の家であり
 (か) 主なる神は あらゆる名の神を包み無神論の無い神をも含み しかも生活の背景にしりぞいている。
 (き) 言ってみれば 人びとにとって見えざる教会である。
 (く) ご回答の(え)が成るならば それは聖書から言えば キリスト・イエスのこの世に対する勝利であり――すでに成った勝利の実現であり―― おそらくそのときには 聖霊なる神の時代と特には呼びうる世界となり 言わば表面では神の無い世界となるであろうと見ます。

 ☆ ご覧のように憶測や予感が入っています。と告白しておきます。

    *

 (1)の時差の問題です。
 エレミヤ書の預言が 《神を知れといっておしえることはない》と言うとき パウロらは イエスのあとで 宣教をおこなった。聖書記者マタイもそのことをはっきりと記しています。すでに復活したイエスが語ることばとしてです。
 ▲(マタイ福音 28:18-20) ~~~ 
 イエスは、近寄って来て言われた。
  「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
   だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
   彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
   あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
   わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ いまの段階の結論としてですが。神にとっては千年が一日とも言われますので このキリスト紀元からの二千年は ひとつの解釈としてキリスト・イエスの登場についてその意味を人びとが精神の胃袋で消化するための時間が必要であったというかたちにおいて 時差が介在したと解釈したわけです。

 ★ 十字架のイエスの死が私ども2000年代の人類にも適用されることは何ら疑問の余地はございません。その結果私どもは「命を得る」ことができるということになります。
 ☆ この見方と矛盾するものではないとは思っています。

     *

 いまの(1)の《神を知れと言っておしえる》ことが要らなくなることの時差をめぐる主題は 《神の律法》――それは《愛》か――の問題をめぐっても パウロによって展開されていると見ます。長いですが まづそのくだりをかかげます。《律法》と《神の律法》とが対比されていると見ます。また《いのちを得る》の主題をもパウロは語っていると思います。
 
  ▲(ローマ書8:1-17――霊による命) ~~~~~~

 1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

 2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

 3 肉の弱さのために≫律法≪がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

 4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、≫律法≪の要求が満たされるためでした。

 5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

 6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、≫神の律法≪に従っていないからです。従いえないのです。

 8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

 10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

 11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

 13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

 14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

 15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

 17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち こうでしょうか? 
 《肉の思い》あるいは《必然性の王国》とも言われる《この世のならわし》に対して 倫理規範としての――または社会集団ないし民族宗教の集団にとって戒律として作用する――モーセの律法(条文)がまさに戒めとしてはたらく場合と そうしてさらには《霊》とも言われる《神の律法》が《肉の思いやこの世の必然性の支配》から自由な状態へとみちびく場合とを示したと。

 モーセの律法も それは罪のあることをおしえるかたちで広くは神の律法ですが その契約の中身を実行する仕方は そのまま聖霊としてはたらく神の律法が必要であった。つまり人は そのまま自分の人間としての力だけではモーセの律法を守ることは出来なかった。

 したがって 肉の思いに対する悩みや苦しみを人が モーセの律法なる倫理規範そのものの支配によって解決しようとする時代も この二千年のあいだ 《神を知れと言っておしえる》行為が始まりそれが果たされたのと同じように 続いていたと見られます。

 この神の律法を ただちにそのまま《愛》と言ってよいかですが たぶん――《聖霊》というはたらきのことでもありましょうから―― 言えるのではないかとは思います。

 たしかにおっしゃるように モーセの律法との区別が必要であり そのことは大切だと思います。





 ちょっと ごちゃごちゃしてしまいました。たぶん思っていることは述べ伝ええたかと思います。あえて混沌のままですが吟味していただければまことにさいわいです。

 このあたりの副主題についてあらましをまとめることが出来たとき いちおうこの質問は閉じて いつかまたつながりのある問い求めをして行きたいと考えますが 全体としていかがお考えになりましょう?



 * 《肉の思い》と《心の法則》との葛藤は パウロが 《内在する罪の問題》と表題が与えられたくだりとして ローマ書7:7-25に書いていましたね。有名でした。こちらを出せばよかったでしょうか。

お礼日時:2012/01/01 06:05

相対的な神々の存在を信じて仰ぐ崇拝の価値を押し付ける為に、


営業トークがそこへは盛り込まれていますね。
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この回答へのお礼

 りとるきっづさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。微妙に表現を言い変えてみましょうか。

 ○ ~~~~~
 1. もし聖書を 組織宗教が教典として扱いこれに書かれている教義をこそむしろ神だとしているとするならば
 2. その宗教の布教ないし所謂る勧誘においては
 3. 《相対的な神々の存在を信じて仰ぐ崇拝の価値を》――《押し付ける為に》ではなく そうではなく その価値をも―― みづからの教義の普及やそれを目指す組織運営のために みづからの仲間であると言って丸め込むか それとも徹底的に排除するかといういづれかの形において
 4. 《営業トークがそこへは盛り込まれていますね》と。
 5. ただし 異教の絶対的な排除の場合には 《営業トーク》とは言わないかも知れません。それは《侵略》ですから。
 ~~~~~~~

 ☆ ということは そういった現実社会における人間の為すわざのほうに重心を置かないで 聖書の伝えようとしていることそのこと こういった中身についてお考えになるところをおしえてくださるとありがたいと思います。どうでしょう? それとも 聖書には それを運び伝える人間たちの手垢がついて消えないまま こんにちに到っているといったふうにお考えなのでしょうか?

お礼日時:2011/12/31 12:44

bragelonneさんのご質問は聖書が与えようとしている「命を得る」こととエレミヤ書31:33-34とが大いに関係していると思うがどうだろうか、というご質問と思います。



>☆ 《聖書とは何か?》の内容として このくだりも触れることを欠かせないと思うのですが どうでしょう? 《いのちを得る》の内容として――もしくは その理由として―― ( a )から( e )までの全部が 重要であるように思いますが いかがでしょう?

前回「高い丘」について書きました。聖書はそのうえに立つ十字架に至る丘および十字架が聖書そのものであると例えることが出来ます。

つまりエレミヤ書31:33-34も十字架に至る丘の一部を構成しているということが言えます。この部分がなくなりますと丘の形が変わります。しかし丘は十字架に至る他の道も提供しています。ある方にとってはエレミヤ31:34-35は頂上に至る重要な手掛かりとなり、足場となったかもしれませんが、他の人にとってはその場所に気づきもしない場所であったかもしれません。

ただしご指摘の以下の箇所は極めて有名な箇所ですので、多くのクリスチャンがこの場所を通ってきたと思います。

   (エレミヤ書31:33-34) ~~~
   ( a )すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
   ( b )  わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    ( c ) 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    ( d ) 小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    ( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」

私どもは教えられていないにも関わらずなにか悪いことをすると良心が痛みます。これは心に律法がかかれていると解釈することも出来ます。その結果、心の平安をもとめて私どもは自分の神を探しに出かけます。その結果神を知ることが出来る場合があるといえるでしょう。

その結果イエスキリストを知った人々はその不義は赦されるという事を多くのクリスチャンは体験してきました。いま上の箇所をこのように単純に解釈する危険を感じますが、今の自分にはそのように聞こえるということであり、他の人にはあるいは別の解釈があるということも十分ありえることと思います。
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この回答へのお礼

 しんしなてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 こう申してよければ 正直にお考えを傾けていただけたかと思います。
 すなわちこのエレミヤ書31:31以降のくだりは そのあたらしい契約が イエス・キリストの登場を預言し そのおっしゃるとおりに《十字架の高い丘》での出来事が果たされたとき その契約の内容も成就すると読めます。しかも
 ★ ~~~~~
 (あ) その結果イエスキリストを知った人々はその不義は赦されるという事を多くのクリスチャンは体験してきました。
 (い) いま上の箇所をこのように単純に解釈する危険を感じますが、
 (う) 今の自分にはそのように聞こえるということであり、
 (え) 他の人にはあるいは別の解釈があるということも十分ありえることと思います。
 ~~~~~~~~
 ☆ とお書きのように 一抹の不安も残るといった情況だとおっしゃっています。特に (い)のように《危険》さえともなうかも知れないというかたちであるところが そうだと思います。

 言ってみれば きわめて――その新しい契約の中身は――明らかではっきりしていつつ しかもそのまま受け取ることに躊躇してしまう。といったところでしょうか?


 ▲ ( c )・・・『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
 ☆ パウロは 宣教という愚かな手段と言って ともかくケーリュグマのパウロとなりました。でもそれはあたかもキリスト・イエスのこの世界への登場の時点は 人間にとって時差をともなっていたかのように たとえば二千年〔より少し少ない時間〕のあいだは 所謂る布教とその契約の中身を人びとが消化するための時間が備えられたとでも ひとつの解釈として 受け取られます。

 ▲ ~~~~
 ( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
  もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
 ~~~~~~
 ☆ つまり文字通りに受け取れば おっしゃるところの《高い丘》は すでに――時間差を経たあとの世界史においては――贖罪の完成というあたらしい姿をしていると言っているようなのです。

 時間差を別として イエスの磔の死とそのあとの復活によって人間は アダムの原罪があがなわれただけではなく 神の律法すなわち愛がわれらが心にすでにそのまま刻まれているという《めぐみ》があたえられた。と言っているようなのです。

 もしその読みが受け容れられるのでしたら この世界は――いまの教会制のもとにある信徒たちの世界は―― がらりと変わる。驚天動地のどんでん返し なのではないでしょうか?


 このことを もしよろしければなお しんしなてぃさんにお尋ねしてまいりたい。この質問は 趣旨説明に述べましたとおり ひとえに この問い求めが真骨頂になっています。

 むろん《いのちを得る》ないし《めぐみ》の問題であるとも考えます。
 一気に問い求めるところについてお伝えするかたちになりました。
 この問いが わたしにつき纏っています。どうでしょう?

お礼日時:2011/12/30 22:19

 手短に、軽めのお答えご容赦。


 『聖書』とは、考古的、人類学的興味の対象です。さらに、今だに発行部数トップの世界のベストセラーだと聞きます。
 各物語が世界の共通言語化しているため、ジョーク・小説・映画などから政治に至るまでを理解するのに知らざるをえません。

 『新約』は弱気になった時グラ~と来る時がありますが・・それ以上ではありません。議論もむなしく感じてしまう。

 正直な感想では、無神論が正当かと。宇宙論で神の存在は必要としません。デカルトが神の存在を証明したように、狂信者が全ての現象の裏に神の存在を見たと言うように理屈を捏ねれば幾らでも理屈は付きます。でも、止めておきます。無駄ですから。
勝負はすでに付いていると思います。

 人は自分が死ぬことに強い不安を抱きます。痛みと言うより自己がなくなる事が耐え難い。そこで、その不安・恐怖を埋めるため、あらゆる理屈をこね回し虚構を創り上げ、もがきます。虚無・空・無価値に耐えられない。死とともに金も名誉も地位も業績も生きる意味もみんな消えると思えるからです。

 私見ですが、ここが私の出発点です。安易な意味付けはしないように。
 ありのままを受け入れて考え(?感じてかもしれない)ようと。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは 次のくだりを再度かかげなくてはならないでしょうね。

 なおいがさん ご回答をありがとうございます。

 つまりたたき台から次の部分です。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。
 
 (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち
 ★ 正直な感想では、無神論が正当かと。宇宙論で神の存在は必要としません。
 ☆ という命題について どちらも正当であると質問者は 考えます。おそらく これで――或る意味では――言い尽くしたと言えるのではないでしょうか?

 ☆☆ 無神論も 信仰のひとつの形態を成しており 実際 信仰である。
 ☆ と。

 おそらくここまですすまなければベストセラーである意味が半減すると思われますが いかがでしょうか?




 ★ 人は自分が死ぬことに強い不安を抱きます。痛みと言うより自己がなくなる事が耐え難い。
 ☆ おそらく人は 志の半ばで朽ち果てるということ これが悔いの残ることであり なかなか受け入れがたく しかもじっさい こわい。おそろしい。ということではないかと わたしの場合 考えます。
 これこれのことを わが仕事 わが生涯のつとめとしてやったんだというときには そろそろお迎えが来るであろうと思うようになるのだと思います。どうでしょう?

お礼日時:2011/12/30 19:08

bragelonneさん



以下の質問は要約しますと、1)恵みと2度記載されているがなぜか、2)恵みの一つが「命を得る」ということなら、「命をえる」とはどうゆうことか、という2点と理解しました。

>▲ 恵みの上に、更に恵みを受けた。
>☆ このふたつの《めぐみ》とは 何を言うのか? です。たとえば
>▲ (ヨハネ福音20:31) ・・・イエスの御名によっていのちを得るためである。
>☆ この《いのちを得る》ことを言うのか? です。もしくは 《いのちを得る》とは どういうことか? です。
>もしくは 《めぐみ》が なぜふたつあるのか? です。

>どうでしょう? もしよろしかったら お考えをお聞かせください。

1)に対する個人的な答えとしましてはおそらく恵みがくり返し与えられたということだと思います。原文はギリシャ語で書かれているようですが、わかりませんので英語の聖書を眺めてみましたら、"one blessing after another"あるいは"grace upon grace"または"grace for grace"などと記載されています。どの語法も強調となりますので、イエスキリストのめぐみが繰り返し与えられたということになろうかと思います。

2)に対する同様に個人的な解釈は人間として我に帰るということかもしれません。聖書では人は生きているようで実は死んでいると述べております。つまり私どもは罪を犯しておりますので、「罪の支払う報酬は死です」とあるとおりその結果として死んでいます。死んでいたものが新しい命を得るというのは罪により死んでいたものが新たに命を得て生まれ変わるということになると思います。

最初の「聖書とは何か」と関連するのですが、聖書を読み始めると一つの風景が浮かび上がってきます。どのような風景かと申しますと、高い丘の上に立っている十字架が見える風景なのです。この高い丘のふもとに自分は立っており、足元を見ると大小様々な石が転がっっています。聖書を読みながらその丘を登り始めると、想像以上に厳しく、よろめきつつ、転げ落ちながら、実は十字架の下にたどり着く前に、諦めてしまう方が実はほとんどと言えると思います。しかしある人々は労苦の末に十字架の下にたどり着き、幸いにも十字架にイエスキリストと共に十字架に付けられます。十字架の上から見える景色は今まで見たこともない天国の風景といってよいものだと思います。

聖書は素晴らしい逆説の世界です。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2章19-20節

十字架上にてイエスと供に死ぬことにより、私どもは「命を得る」という経験をすることが出来ます。これがbragelonneさんの経験となることを希望いたします。
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この回答へのお礼

 ○ 《 1) 恵みと2度記載されているがなぜか》:イエスキリストのめぐみが繰り返し与えられたということになろうかと思います。
 ○ 《 2) 恵みの一つが「命を得る」ということなら、「命をえる」とはどうゆうことか》:死んでいたものが新しい命を得るというのは罪により死んでいたものが新たに命を得て生まれ変わるということになると思います。
 
 しんしなてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 (2)は おっしゃるとおりに受け取りました。その上にたとえば イエスが――物語としては〔と哲学の体裁をほどこしますが〕―― 死から復活したというのなら
 ★ 十字架上にてイエスと供に死ぬことにより、私どもは「命を得る」という経験をすることが出来ます。
 ☆ ということは わたしたちもそれぞれ 復活の身体に成るというところまで進むのかなとも思いますが 言わば永遠の現在にあるという《われに還る》ことではないかとわたくしも考えます。

 (1)は 異議があるというのではなく まだ分かりません。しっくりとした受け留めが出来ません。

 

 そこでもう一点のみ よろしかったらお考えをお聞かせ願えればという主題があります。
 イエス・キリストの名を受け容れ神の子と成る=信仰をあたえられる=すくわれる=いのちを得る〔⇒復活?〕のその同じ内容として 次の聖句は かかわっているか? どうかかわっているか? なのです。
 エレミヤ書の預言する《あたらしい契約》による――おそらく――めぐみの中身であるのかどうか? です。
 ヘブル書が そのエレミヤ書のくだりを引用して論じています。

 ▲(ヘブル 書8:7-13)~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
      (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 趣旨説明として提出したたたき台の次のあたりとわたしはかかわると見るのですが その点いかにご覧になるか? なのですが いかがでしょう?

 ☆☆(趣旨説明欄におけるたたき台) ~~~~
 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。

 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ すなわちあらためて引いておきますが:
 ▲ (エレミヤ書31:33-34) ~~~
   ( a )すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
   ( b )  わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    ( c ) 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    ( d ) 小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    ( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《聖書とは何か?》の内容として このくだりも触れることを欠かせないと思うのですが どうでしょう? 《いのちを得る》の内容として――もしくは その理由として―― ( a )から( e )までの全部が 重要であるように思いますが いかがでしょう?
 

お礼日時:2011/12/30 00:13

私は言葉遊び(哲学)を好みませんので、簡単に「聖書とは」についてのみ答えます。



聖書には旧約聖書と新約聖書があります。
旧約聖書は概ねユダヤ教やイスラムでも似たり寄ったりの共通のもので元はユダヤ教です。
これはいわば「風土記」とお考えになればいいでしょう。日本で言えば古事記に当たります。
歴史を元にした言い伝えなどに脚色したものという感じです。

新約聖書はキリスト教の伝記、あるいは宣材図書です。
偉人の伝記が脚色されているように、キリストの伝記も大いに脚色され、更に教会が権威を誇れるように書き換えや加筆がされています。

それだけのものですよ。真実は行間にありです。
ちなみに私はカトリックです。
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この回答へのお礼

 誰が神のごとくあるか?さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 真実は行間にありです。
 ☆ のその《真実》 しかもそれは一人ひとりにとってそのクセ(エートス)や経歴にしたがって或る程度は違って来ているとも見られるその真実 これが知りたいです。訪問者の方々も同じ思いでありましょう。
 とひとことでのお応えになるのですが?

 質問者も同じく
 ★ 私は言葉遊び(哲学)を好みませんので
 ☆ ということになります。
 ★ 哲学が言葉遊び
 ☆ だとは考えませんが そのご主旨に沿って そういう狙いとお願いということになります。



 もう少し中身にかかわろうと思えば:
 ★(要約) 旧約聖書は 神代の大昔のことを扱った風土記や古事記にあたり 新約聖書は 宣教材料が詰まった――またそのために脚色のほどこされた――図書である。
 ☆ おそらくこの規定については 大方の批判をあびると思います。わたくしも不満です。
 ですが この規定は むしろ分かりやすく喩えとして触れておられる。こう受け取ります。ので そこまでとします。


 ★ ちなみに私はカトリックです。
 ☆ ラッツィンガーさんのあの貌 あの目つきは どうにかなりませんか? (冗談半分ですが)。

お礼日時:2011/12/28 16:41

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