関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。
初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。
むろん哲学としての問いです。
たたき台としては:
(1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。
(1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。
(1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。
(2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。
(2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。
(2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。
(2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。
(2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。
(2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。
(2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。
(2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。
☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。
No.1
- 回答日時:
>聖書とは 何か?
ヨハネの福音書20章31節
「しかし、これらのことが書かれたのは,イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、またあなたがたが信じて,イエスの御名によっていのちを得るためである。」
しんしなてぃさん ご回答をありがとうございます。
そうですね。
正直に申せばまだ納得が行きません。いぢわるの虫が動き出して 次の次の聖句と照らし合わせると 全体としてどう捉えることになるか。そんなことを考えます。
すなわちまづは次の聖句をかかげて すくいとしての信じるという主題にかんしては同じ見方であろうと確認いたします。
▲ (ヨハネによる福音1:13) ~~~~~~~~~
この人びと(* 《〈ことば〉を受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血筋によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~
口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。
実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうして同じヨハネの福音からですが 次のくだりと照らし合わせるなら どういうことが 全体として捉えられるかです。
▲ (ヨハネによる福音1:1-18) ~~~~
1:1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
・・・
1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
・・・
1:16 わたしたちは皆、この方(* =肉となったことば)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち考えたいと思うところというのは こうです。次の一節に注目します。
▲ (ヨハネ福音1:16) わたしたちは皆、この方(* =肉となったことば)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
☆ すなわち
▲ 恵みの上に、更に恵みを受けた。
☆ このふたつの《めぐみ》とは 何を言うのか? です。たとえば
▲ (ヨハネ福音20:31) ・・・イエスの御名によっていのちを得るためである。
☆ この《いのちを得る》ことを言うのか? です。もしくは 《いのちを得る》とは どういうことか? です。
もしくは 《めぐみ》が なぜふたつあるのか? です。
どうでしょう? もしよろしかったら お考えをお聞かせください。
No.2
- 回答日時:
>聖書とは 何か?
一言で申せば、私を健やかな眠りに導く睡眠導入剤の如きもの。
かつてミッション系大学に学んだ私に課せられた「キリスト教概論」、講義に於いて聖書を開く度眠りに誘われ、1年生の必修科目ながら4年間の履修を余儀なくされてしまいました。
「蔦の絡まるチャペル~」と歌に詠まれた我が母校、しかしその礼拝堂にはついに一度も訪れる事無く過ぎ去った4年間、そして門を叩いたのは大学東門近くの雀荘ばかり、今振り返れば悔恨の極みです。
>むろん哲学としての問いです。
御趣旨に外れる投稿になりましたが、御容赦下さい。
そうですね。
ツタが歌に乗って絡まっていたまさにその時代に学生だった者です。
★ 「キリスト教概論」
☆ と聖書とはまた違うところがあるようですが――すなわち 特にきっかけとしては 人それぞれの聖書というかたちになって現われるということのようですが―― でもけっきょく四年間かけても履修なさったわけですよね?
だったら何かおっしゃりたいことはお有りだと思うのですが ここは控えるということでしょうか?
わたくしの余計な話を差し挟みますと:そのころ(学生のころ) 親鸞で行けると思い切っていましたので 聖書をぱらぱらっと読むと――そしてプラトンの著作を読んでもほぼ同じようでしたが―― からだが(胸がでしょうか)ちくちくと痛いという思いをしていました。ついに イエスはじんるいの歴史上最大最高のセールスマンであると考えました。
とは言っても 親鸞でひとつだけ都合がわるいことがありました。それは――わたしは 自分で言うのも変ですが 真剣に生きていましたから―― 肩が凝るということでした。どうしても肩が凝る。どうしようもなく肩が凝るのでした。ブディズムの先が 自分なりに見えたところで チクチクのほうへ浮気しました。うんぬんという経過です。
すやすやお休みになったそうで 今ではいい思い出でいらっしゃいましょうか? ありがとうございました。このあとのご投稿とともにあそんで行ってくださいませ。
No.3
- 回答日時:
キリスト教はユダヤ教から発達しました。
つまり、ユダヤ教がユダヤ人の為の宗教だったのを
全人類の為の宗教にしたのがキリスト教です。
だから広く布教する必要があります。
広く一般に布教するための道具として聖書が造られたのです。
これがある方が便利ですから。
なるほど文書化するということに目をつけられたのですね。
へきゆさん ご回答をありがとうございます。
それはそうですね。あるいは口承の物語としてそもそも初めは成り立っていたのでしょうが 口承よりうんと便利です 文書にすれば。
でも そのいわゆる原始キリスト教と言われるころ もしくは聖書としての成立をまだ見ていないころのことは どうでしょう?
★ 広く一般に布教するための道具として聖書が造られたのです。
☆ という情況になる前の時代は どうでしょう? パウロなどは
▲ 宣教というおろかな手段
☆ というように布教のことを言っていますが まづは当然のごとく――旧約の聖書は書物としてすでにあったわけですが―― キリスト・イエスの物語は 〔まづは〕面と向かっての語りとして伝えられたとも言わねばならない時期もあるでしょうね。
そうしますと ご回答の重心はむしろ
★ ~~~~
つまり、ユダヤ教がユダヤ人の為の宗教だったのを
全人類の為の宗教にしたのがキリスト教です。
~~~~~~
☆ ここにお有りだと見るべきでしょうか。
質問者の言葉で表わすなら 次のようにはなりました。つまり趣旨説明の中でたとえば次のあたりでしょうか。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~
(2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って その〔旧約聖書に伝えられたところの〕アブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。
(2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。
~~~~~~~~~~~~
言葉が違う人びとへ伝えられるにしても 翻訳の問題はもちろん 文書化は便利だと思われます。上に取った見方をくつがえすように あらためてそう考えられます。
そして ユダヤ民族というひとつの民族の宗教が その枠を乗り越えたとおっしゃるとおりの内容だと質問者としても考えます。
★ 宗教
☆ ですらなくなった。つまり――もとは アブラハムというひとりの個人に神の信仰が芽生えたというからには そのあり方に戻ったとも考えられますが―― 集団としての規則をもった運営がなされるような宗教ではなくなり 一人ひとり良心および信教の自由のもとに抱かれる信仰というあり方におさまった。
実際の情況は まだそうはなっていませんが おそらく二千年という時間は ただ単なる時差が起きたようなものでしょう。いづれ 組織宗教は 自己解体して行きましょう。
と余分なことも述べましたが おおむねこのように反芻しつつお受け取りしました。
No.4
- 回答日時:
私は言葉遊び(哲学)を好みませんので、簡単に「聖書とは」についてのみ答えます。
聖書には旧約聖書と新約聖書があります。
旧約聖書は概ねユダヤ教やイスラムでも似たり寄ったりの共通のもので元はユダヤ教です。
これはいわば「風土記」とお考えになればいいでしょう。日本で言えば古事記に当たります。
歴史を元にした言い伝えなどに脚色したものという感じです。
新約聖書はキリスト教の伝記、あるいは宣材図書です。
偉人の伝記が脚色されているように、キリストの伝記も大いに脚色され、更に教会が権威を誇れるように書き換えや加筆がされています。
それだけのものですよ。真実は行間にありです。
ちなみに私はカトリックです。
誰が神のごとくあるか?さん ご回答をありがとうございます。
★ 真実は行間にありです。
☆ のその《真実》 しかもそれは一人ひとりにとってそのクセ(エートス)や経歴にしたがって或る程度は違って来ているとも見られるその真実 これが知りたいです。訪問者の方々も同じ思いでありましょう。
とひとことでのお応えになるのですが?
質問者も同じく
★ 私は言葉遊び(哲学)を好みませんので
☆ ということになります。
★ 哲学が言葉遊び
☆ だとは考えませんが そのご主旨に沿って そういう狙いとお願いということになります。
もう少し中身にかかわろうと思えば:
★(要約) 旧約聖書は 神代の大昔のことを扱った風土記や古事記にあたり 新約聖書は 宣教材料が詰まった――またそのために脚色のほどこされた――図書である。
☆ おそらくこの規定については 大方の批判をあびると思います。わたくしも不満です。
ですが この規定は むしろ分かりやすく喩えとして触れておられる。こう受け取ります。ので そこまでとします。
★ ちなみに私はカトリックです。
☆ ラッツィンガーさんのあの貌 あの目つきは どうにかなりませんか? (冗談半分ですが)。
No.5
- 回答日時:
bragelonneさん
以下の質問は要約しますと、1)恵みと2度記載されているがなぜか、2)恵みの一つが「命を得る」ということなら、「命をえる」とはどうゆうことか、という2点と理解しました。
>▲ 恵みの上に、更に恵みを受けた。
>☆ このふたつの《めぐみ》とは 何を言うのか? です。たとえば
>▲ (ヨハネ福音20:31) ・・・イエスの御名によっていのちを得るためである。
>☆ この《いのちを得る》ことを言うのか? です。もしくは 《いのちを得る》とは どういうことか? です。
>もしくは 《めぐみ》が なぜふたつあるのか? です。
>どうでしょう? もしよろしかったら お考えをお聞かせください。
1)に対する個人的な答えとしましてはおそらく恵みがくり返し与えられたということだと思います。原文はギリシャ語で書かれているようですが、わかりませんので英語の聖書を眺めてみましたら、"one blessing after another"あるいは"grace upon grace"または"grace for grace"などと記載されています。どの語法も強調となりますので、イエスキリストのめぐみが繰り返し与えられたということになろうかと思います。
2)に対する同様に個人的な解釈は人間として我に帰るということかもしれません。聖書では人は生きているようで実は死んでいると述べております。つまり私どもは罪を犯しておりますので、「罪の支払う報酬は死です」とあるとおりその結果として死んでいます。死んでいたものが新しい命を得るというのは罪により死んでいたものが新たに命を得て生まれ変わるということになると思います。
最初の「聖書とは何か」と関連するのですが、聖書を読み始めると一つの風景が浮かび上がってきます。どのような風景かと申しますと、高い丘の上に立っている十字架が見える風景なのです。この高い丘のふもとに自分は立っており、足元を見ると大小様々な石が転がっっています。聖書を読みながらその丘を登り始めると、想像以上に厳しく、よろめきつつ、転げ落ちながら、実は十字架の下にたどり着く前に、諦めてしまう方が実はほとんどと言えると思います。しかしある人々は労苦の末に十字架の下にたどり着き、幸いにも十字架にイエスキリストと共に十字架に付けられます。十字架の上から見える景色は今まで見たこともない天国の風景といってよいものだと思います。
聖書は素晴らしい逆説の世界です。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2章19-20節
十字架上にてイエスと供に死ぬことにより、私どもは「命を得る」という経験をすることが出来ます。これがbragelonneさんの経験となることを希望いたします。
○ 《 1) 恵みと2度記載されているがなぜか》:イエスキリストのめぐみが繰り返し与えられたということになろうかと思います。
○ 《 2) 恵みの一つが「命を得る」ということなら、「命をえる」とはどうゆうことか》:死んでいたものが新しい命を得るというのは罪により死んでいたものが新たに命を得て生まれ変わるということになると思います。
しんしなてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
(2)は おっしゃるとおりに受け取りました。その上にたとえば イエスが――物語としては〔と哲学の体裁をほどこしますが〕―― 死から復活したというのなら
★ 十字架上にてイエスと供に死ぬことにより、私どもは「命を得る」という経験をすることが出来ます。
☆ ということは わたしたちもそれぞれ 復活の身体に成るというところまで進むのかなとも思いますが 言わば永遠の現在にあるという《われに還る》ことではないかとわたくしも考えます。
(1)は 異議があるというのではなく まだ分かりません。しっくりとした受け留めが出来ません。
そこでもう一点のみ よろしかったらお考えをお聞かせ願えればという主題があります。
イエス・キリストの名を受け容れ神の子と成る=信仰をあたえられる=すくわれる=いのちを得る〔⇒復活?〕のその同じ内容として 次の聖句は かかわっているか? どうかかわっているか? なのです。
エレミヤ書の預言する《あたらしい契約》による――おそらく――めぐみの中身であるのかどうか? です。
ヘブル書が そのエレミヤ書のくだりを引用して論じています。
▲(ヘブル 書8:7-13)~~~~~
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。
「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。
「それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。
「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
(エレミヤ書 31:31-34)
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
~~~~~~~~~~
☆ すなわち 趣旨説明として提出したたたき台の次のあたりとわたしはかかわると見るのですが その点いかにご覧になるか? なのですが いかがでしょう?
☆☆(趣旨説明欄におけるたたき台) ~~~~
(2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。
(2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわちあらためて引いておきますが:
▲ (エレミヤ書31:33-34) ~~~
( a )すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
( b ) わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
( c ) 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
( d ) 小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《聖書とは何か?》の内容として このくだりも触れることを欠かせないと思うのですが どうでしょう? 《いのちを得る》の内容として――もしくは その理由として―― ( a )から( e )までの全部が 重要であるように思いますが いかがでしょう?
No.6
- 回答日時:
手短に、軽めのお答えご容赦。
『聖書』とは、考古的、人類学的興味の対象です。さらに、今だに発行部数トップの世界のベストセラーだと聞きます。
各物語が世界の共通言語化しているため、ジョーク・小説・映画などから政治に至るまでを理解するのに知らざるをえません。
『新約』は弱気になった時グラ~と来る時がありますが・・それ以上ではありません。議論もむなしく感じてしまう。
正直な感想では、無神論が正当かと。宇宙論で神の存在は必要としません。デカルトが神の存在を証明したように、狂信者が全ての現象の裏に神の存在を見たと言うように理屈を捏ねれば幾らでも理屈は付きます。でも、止めておきます。無駄ですから。
勝負はすでに付いていると思います。
人は自分が死ぬことに強い不安を抱きます。痛みと言うより自己がなくなる事が耐え難い。そこで、その不安・恐怖を埋めるため、あらゆる理屈をこね回し虚構を創り上げ、もがきます。虚無・空・無価値に耐えられない。死とともに金も名誉も地位も業績も生きる意味もみんな消えると思えるからです。
私見ですが、ここが私の出発点です。安易な意味付けはしないように。
ありのままを受け入れて考え(?感じてかもしれない)ようと。
そうですね。まづは 次のくだりを再度かかげなくてはならないでしょうね。
なおいがさん ご回答をありがとうございます。
つまりたたき台から次の部分です。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~
(2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。
(2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。
~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち
★ 正直な感想では、無神論が正当かと。宇宙論で神の存在は必要としません。
☆ という命題について どちらも正当であると質問者は 考えます。おそらく これで――或る意味では――言い尽くしたと言えるのではないでしょうか?
☆☆ 無神論も 信仰のひとつの形態を成しており 実際 信仰である。
☆ と。
おそらくここまですすまなければベストセラーである意味が半減すると思われますが いかがでしょうか?
★ 人は自分が死ぬことに強い不安を抱きます。痛みと言うより自己がなくなる事が耐え難い。
☆ おそらく人は 志の半ばで朽ち果てるということ これが悔いの残ることであり なかなか受け入れがたく しかもじっさい こわい。おそろしい。ということではないかと わたしの場合 考えます。
これこれのことを わが仕事 わが生涯のつとめとしてやったんだというときには そろそろお迎えが来るであろうと思うようになるのだと思います。どうでしょう?
No.7
- 回答日時:
bragelonneさんのご質問は聖書が与えようとしている「命を得る」こととエレミヤ書31:33-34とが大いに関係していると思うがどうだろうか、というご質問と思います。
>☆ 《聖書とは何か?》の内容として このくだりも触れることを欠かせないと思うのですが どうでしょう? 《いのちを得る》の内容として――もしくは その理由として―― ( a )から( e )までの全部が 重要であるように思いますが いかがでしょう?
前回「高い丘」について書きました。聖書はそのうえに立つ十字架に至る丘および十字架が聖書そのものであると例えることが出来ます。
つまりエレミヤ書31:33-34も十字架に至る丘の一部を構成しているということが言えます。この部分がなくなりますと丘の形が変わります。しかし丘は十字架に至る他の道も提供しています。ある方にとってはエレミヤ31:34-35は頂上に至る重要な手掛かりとなり、足場となったかもしれませんが、他の人にとってはその場所に気づきもしない場所であったかもしれません。
ただしご指摘の以下の箇所は極めて有名な箇所ですので、多くのクリスチャンがこの場所を通ってきたと思います。
(エレミヤ書31:33-34) ~~~
( a )すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
( b ) わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
( c ) 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
( d ) 小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
私どもは教えられていないにも関わらずなにか悪いことをすると良心が痛みます。これは心に律法がかかれていると解釈することも出来ます。その結果、心の平安をもとめて私どもは自分の神を探しに出かけます。その結果神を知ることが出来る場合があるといえるでしょう。
その結果イエスキリストを知った人々はその不義は赦されるという事を多くのクリスチャンは体験してきました。いま上の箇所をこのように単純に解釈する危険を感じますが、今の自分にはそのように聞こえるということであり、他の人にはあるいは別の解釈があるということも十分ありえることと思います。
しんしなてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
こう申してよければ 正直にお考えを傾けていただけたかと思います。
すなわちこのエレミヤ書31:31以降のくだりは そのあたらしい契約が イエス・キリストの登場を預言し そのおっしゃるとおりに《十字架の高い丘》での出来事が果たされたとき その契約の内容も成就すると読めます。しかも
★ ~~~~~
(あ) その結果イエスキリストを知った人々はその不義は赦されるという事を多くのクリスチャンは体験してきました。
(い) いま上の箇所をこのように単純に解釈する危険を感じますが、
(う) 今の自分にはそのように聞こえるということであり、
(え) 他の人にはあるいは別の解釈があるということも十分ありえることと思います。
~~~~~~~~
☆ とお書きのように 一抹の不安も残るといった情況だとおっしゃっています。特に (い)のように《危険》さえともなうかも知れないというかたちであるところが そうだと思います。
言ってみれば きわめて――その新しい契約の中身は――明らかではっきりしていつつ しかもそのまま受け取ることに躊躇してしまう。といったところでしょうか?
▲ ( c )・・・『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
☆ パウロは 宣教という愚かな手段と言って ともかくケーリュグマのパウロとなりました。でもそれはあたかもキリスト・イエスのこの世界への登場の時点は 人間にとって時差をともなっていたかのように たとえば二千年〔より少し少ない時間〕のあいだは 所謂る布教とその契約の中身を人びとが消化するための時間が備えられたとでも ひとつの解釈として 受け取られます。
▲ ~~~~
( e ) わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
~~~~~~
☆ つまり文字通りに受け取れば おっしゃるところの《高い丘》は すでに――時間差を経たあとの世界史においては――贖罪の完成というあたらしい姿をしていると言っているようなのです。
時間差を別として イエスの磔の死とそのあとの復活によって人間は アダムの原罪があがなわれただけではなく 神の律法すなわち愛がわれらが心にすでにそのまま刻まれているという《めぐみ》があたえられた。と言っているようなのです。
もしその読みが受け容れられるのでしたら この世界は――いまの教会制のもとにある信徒たちの世界は―― がらりと変わる。驚天動地のどんでん返し なのではないでしょうか?
このことを もしよろしければなお しんしなてぃさんにお尋ねしてまいりたい。この質問は 趣旨説明に述べましたとおり ひとえに この問い求めが真骨頂になっています。
むろん《いのちを得る》ないし《めぐみ》の問題であるとも考えます。
一気に問い求めるところについてお伝えするかたちになりました。
この問いが わたしにつき纏っています。どうでしょう?
No.8
- 回答日時:
相対的な神々の存在を信じて仰ぐ崇拝の価値を押し付ける為に、
営業トークがそこへは盛り込まれていますね。
りとるきっづさん ご回答をありがとうございます。
そうですね。微妙に表現を言い変えてみましょうか。
○ ~~~~~
1. もし聖書を 組織宗教が教典として扱いこれに書かれている教義をこそむしろ神だとしているとするならば
2. その宗教の布教ないし所謂る勧誘においては
3. 《相対的な神々の存在を信じて仰ぐ崇拝の価値を》――《押し付ける為に》ではなく そうではなく その価値をも―― みづからの教義の普及やそれを目指す組織運営のために みづからの仲間であると言って丸め込むか それとも徹底的に排除するかといういづれかの形において
4. 《営業トークがそこへは盛り込まれていますね》と。
5. ただし 異教の絶対的な排除の場合には 《営業トーク》とは言わないかも知れません。それは《侵略》ですから。
~~~~~~~
☆ ということは そういった現実社会における人間の為すわざのほうに重心を置かないで 聖書の伝えようとしていることそのこと こういった中身についてお考えになるところをおしえてくださるとありがたいと思います。どうでしょう? それとも 聖書には それを運び伝える人間たちの手垢がついて消えないまま こんにちに到っているといったふうにお考えなのでしょうか?
No.9
- 回答日時:
bragelonneさんがお書きになっていることに関しては概ね同意します。
しかし以下のコメント>>について少しばかり同意を保留する必要を感じました。>>時間差を別として イエスの磔の死とそのあとの復活によって人間は アダムの原罪があがなわれただけではなく 神の律法すなわち愛がわれらが心にすでにそのまま刻まれているという《めぐみ》があたえられた。と言っているようなのです。
聖書にあるとおり私どもの時間がたとえ1000年であったとしても、神様にとっては1秒でもないことと思いますので、聖書の言葉は時間を超越していると言えます。従いまして十字架のイエスの死が私ども2000年代の人類にも適用されることは何ら疑問の余地はございません。その結果私どもは「命を得る」ことができるということになります。
アダムとエバの背きの罪のため、人類は神と隔絶されましたが、イエスにより元の状態に戻ることができた、あるいは神様との関係を取り戻したといえます。
同意を保留しなければならない点はbragelonneさんが「神の律法すなわち愛が....」と律法=愛と並行関係に置かれたことに関しては神は愛ゆえに律法を人類に与えました、また愛ゆえに律法を無効とされる手段を提供したのではないかと推察しておりますので同意することをこの点に関して保留致します。律法はつまり十戒として表現されていることと、心のうちにある良心により律法が書き込まれていることで知ることが出来ます。しかし愛そのものではないというのが当方の見解です。しかし愛も私どもの心に書き込まれていることは否定しません。
>>もしその読みが受け容れられるのでしたら この世界は――いまの教会制のもとにある信徒たちの世界は―― がらりと変わる。驚天動地のどんでん返し なのではないでしょうか?
この箇所に付きましてご質問の趣旨がはっきりしませんが、「イエスの十字架での死と復活によりアダムとエバの犯した最初の罪及び私どもの罪が赦されるというならば、この世界の制度としての教会およびその下にある信徒の世界はガラリと変わるのか」というご質問でしたら、当方の答えは「もし人々が文字通り信じ始めたらガラリと変わる」と躊躇なくお答えできると思います。とはいえ教会を否定するものではなく、むしろ神様が「集まれ」と命じておりますので、その命令を成就する意味でもクリスチャンは供に集まり、過ごすべきと思います。人がそれを教会と呼ぶかどうかは問題ではございません。キリストを頭とする集団を私どもは教会と呼んでおります。ただし、教会に集うことにより人はクリスチャンになるのではなく、聖書の言葉を真摯に受け止めるときに各人が天地がひっくり返るような経験をすると申し上げたいとおもいます。
しんしなてぃさん 渾身のお答えをありがとうございました。
1. 《宣教》がイエスのあとでおこなわれたという《時差》の問題。
2. 《神の律法》と《愛》の問題。
3. 主の家として人びとの集まる教会の問題。
みっつそれぞれにおいてわたくしも 詰め切れていない部分があるかと感じています。
そもそもの人間存在に立ち帰るとでも言いましょうかそのような《いのちを得る》の主題を立てこれをめぐって大筋で合意が成ったと受け留めています。そこから個々の具体的な副主題の問い求めに入る。こういった第二幕かと思います。
この【Q:聖書とは 何か?】で全部をあつかうということは 煩雑になったりしてかえって得策ではないと思いますが まづはこれらの副主題についても 大筋の問い求めになるかと考えます。
*
ただいまの考えとして割り合いかんたんな(3)から入ります。
これは明らかになさったお考えにそのままわたくしも同意いたします。
★ ~~~~~~~~~~
(あ) 「イエスの十字架での死と復活によりアダムとエバの犯した最初の罪及び私どもの罪が赦されるというならば、この世界の制度としての教会およびその下にある信徒の世界はガラリと変わるのか」というご質問でしたら、
(い) 当方の答えは「もし人々が文字通り信じ始めたらガラリと変わる」と躊躇なくお答えできると思います。
(う) とはいえ教会を否定するものではなく、むしろ神様が「集まれ」と命じておりますので、その命令を成就する意味でもクリスチャンは供に集まり、過ごすべきと思います。人がそれを教会と呼ぶかどうかは問題ではございません。キリストを頭とする集団を私どもは教会と呼んでおります。
(え) ただし、教会に集うことにより人はクリスチャンになるのではなく、聖書の言葉を真摯に受け止めるときに各人が天地がひっくり返るような経験をすると申し上げたいとおもいます。
~~~~~~~~~~~~
☆ ニュアンスとしては わたしは次のような傾きがあります。すなわち
(お) 社会そのものが 主の家であり
(か) 主なる神は あらゆる名の神を包み無神論の無い神をも含み しかも生活の背景にしりぞいている。
(き) 言ってみれば 人びとにとって見えざる教会である。
(く) ご回答の(え)が成るならば それは聖書から言えば キリスト・イエスのこの世に対する勝利であり――すでに成った勝利の実現であり―― おそらくそのときには 聖霊なる神の時代と特には呼びうる世界となり 言わば表面では神の無い世界となるであろうと見ます。
☆ ご覧のように憶測や予感が入っています。と告白しておきます。
*
(1)の時差の問題です。
エレミヤ書の預言が 《神を知れといっておしえることはない》と言うとき パウロらは イエスのあとで 宣教をおこなった。聖書記者マタイもそのことをはっきりと記しています。すでに復活したイエスが語ることばとしてです。
▲(マタイ福音 28:18-20) ~~~
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いまの段階の結論としてですが。神にとっては千年が一日とも言われますので このキリスト紀元からの二千年は ひとつの解釈としてキリスト・イエスの登場についてその意味を人びとが精神の胃袋で消化するための時間が必要であったというかたちにおいて 時差が介在したと解釈したわけです。
★ 十字架のイエスの死が私ども2000年代の人類にも適用されることは何ら疑問の余地はございません。その結果私どもは「命を得る」ことができるということになります。
☆ この見方と矛盾するものではないとは思っています。
*
いまの(1)の《神を知れと言っておしえる》ことが要らなくなることの時差をめぐる主題は 《神の律法》――それは《愛》か――の問題をめぐっても パウロによって展開されていると見ます。長いですが まづそのくだりをかかげます。《律法》と《神の律法》とが対比されていると見ます。また《いのちを得る》の主題をもパウロは語っていると思います。
▲(ローマ書8:1-17――霊による命) ~~~~~~
1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3 肉の弱さのために≫律法≪がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、≫律法≪の要求が満たされるためでした。
5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、≫神の律法≪に従っていないからです。従いえないのです。
8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち こうでしょうか?
《肉の思い》あるいは《必然性の王国》とも言われる《この世のならわし》に対して 倫理規範としての――または社会集団ないし民族宗教の集団にとって戒律として作用する――モーセの律法(条文)がまさに戒めとしてはたらく場合と そうしてさらには《霊》とも言われる《神の律法》が《肉の思いやこの世の必然性の支配》から自由な状態へとみちびく場合とを示したと。
モーセの律法も それは罪のあることをおしえるかたちで広くは神の律法ですが その契約の中身を実行する仕方は そのまま聖霊としてはたらく神の律法が必要であった。つまり人は そのまま自分の人間としての力だけではモーセの律法を守ることは出来なかった。
したがって 肉の思いに対する悩みや苦しみを人が モーセの律法なる倫理規範そのものの支配によって解決しようとする時代も この二千年のあいだ 《神を知れと言っておしえる》行為が始まりそれが果たされたのと同じように 続いていたと見られます。
この神の律法を ただちにそのまま《愛》と言ってよいかですが たぶん――《聖霊》というはたらきのことでもありましょうから―― 言えるのではないかとは思います。
たしかにおっしゃるように モーセの律法との区別が必要であり そのことは大切だと思います。
ちょっと ごちゃごちゃしてしまいました。たぶん思っていることは述べ伝ええたかと思います。あえて混沌のままですが吟味していただければまことにさいわいです。
このあたりの副主題についてあらましをまとめることが出来たとき いちおうこの質問は閉じて いつかまたつながりのある問い求めをして行きたいと考えますが 全体としていかがお考えになりましょう?
* 《肉の思い》と《心の法則》との葛藤は パウロが 《内在する罪の問題》と表題が与えられたくだりとして ローマ書7:7-25に書いていましたね。有名でした。こちらを出せばよかったでしょうか。
No.10
- 回答日時:
bragelonneさん、コメントを重ねて頂きありがとうございます。
当方の最初のコメントにあるように「高い丘の上にある十字架」に戻ります。つまりcincinnatiはかつて、十字架にイエスと共に付けられてその高い場所からこの世の構造と天国の風景を眺めました。この世の構造とは生きる目的も判然とせず、日々生きることさえ苦痛であり、その苦痛のよって生まれるところさえ判然としないそのような苦しみを生む構造となっている場所であり、天国の風景とは強烈な歓喜に始まり、少しばかり落ち着くと自分が苦しみの構造からの開放されたことを知り、さらに冷静になると十字架上でこの世の苦しみが実は自分の罪ゆえの苦しみであった事を了解するといういくつかの不思議な心的な経過を経て、天国にある平安と喜びの世界が見えたと実感することが出来る風景です。
さてモーゼの律法により罪に定められた私どもの開放は「丘の上の十字架」につくことであるというのが、cincinnatiの見解です。しかしbragelonneさんの見解はどうも再度「そのまま聖霊としてはたらく神の律法が必要であった」というご主張があるように思います。たしかに旧約で語られた以上の事を地上にあったときに、イエスは述べております。たとえば、
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
このような命令を律法と解釈すればたしかに、イエスの語られたことは新しい律法と呼ぶことが出来るかもしれません、以下のように述べているからです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17).」
結論としてcbragelonneさんとcincinnatiは少しばかりちがうより、むしろ多くの点で共通点があるといま了解しています。ご質問が多義にわたっておりましたので、的はずれな印象は否めませんが、まとめさせていただきました。
しんしなてぃさん あたたかなご回答をありがとうございます。
★(しんしなてぃさん:十字架の高い丘) ~~~~
当方の最初のコメントにあるように「高い丘の上にある十字架」に戻ります。
つまり cincinnati はかつて、十字架にイエスと共に付けられてその高い場所からこの世の構造と天国の風景を眺めました。
この世の構造とは生きる目的も判然とせず、日々生きることさえ苦痛であり、その苦痛のよって生まれるところさえ判然としないそのような苦しみを生む構造となっている場所であり、
天国の風景とは強烈な歓喜に始まり、少しばかり落ち着くと自分が苦しみの構造からの開放されたことを知り、さらに冷静になると十字架上でこの世の苦しみが実は自分の罪ゆえの苦しみであった事を了解するといういくつかの不思議な心的な経過を経て、天国にある平安と喜びの世界が見えたと実感することが出来る風景です。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたくしも パウロの文章を介して おっしゃるような高い丘の主題は親しんでいるつもりです。ただ自分ではあまり――ほとんど――述べません。ひとつは 筆の運びがうまく行きません。ひとつは そのありさまは 結果としてその丘に連れられて行っているというように理解していて 自分の文章ではなかなか書けません。
それで パウロを参照します。しんしなてぃさんは このくだりをご自身の言葉で表わされたのだと思います。
▼(パウロ:罪に死に、キリストに生きる――ローマ書6:1-14)~~~
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた〔* わたくし=ぶらじゅろんぬの場合は 聖霊によるそれです――〕わたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
~~~~~~~~~~~~~
☆ やはり《いのちを得る》のテーマでした。パウロは 何と言っても
▲(パウロ:ピリピ書1:21~) ~~~~
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
〔けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 ・・・〕
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ とまで言っているので まさに高い丘にはりつけられているような状態なのでしょうか?
それから わたしは 《律法》という言葉にこだわり過ぎたようです。モーセの律法は アブラハムの信仰を凌駕しないと思います。
▲(パウロ:ガラテヤ書2:19) わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
☆ こう見てこう言っていたほうがとよいと考えます。
時差の問題をすこし考えましたので 表現してみます。
けっきょくイエス・キリストの出現というのは 超新星の爆発のごとくあまりにもまぶしいので そのあと人びとの目がふつうに見えるようにその新しい世界の風景に慣れるまで 準備の時間――二千年ほど――が必要であった。のではないか?
あたらしい契約にかんするエレミヤの預言は その内容が イエスの登場をもってそのまま実現した。ただしその時刻は たとえば経験思想で人びとがふつうに考えることのできるようになるまで 延期された。人びとが 身分制などの人間の存在にとって外的な制約から自由になりいわゆる民主制のもとに社会をいとなむようになるまで その発効が延期された。
あたかもパウロが あのダマスコへ向かう街道の途中で 突然の光に見舞われしばらく目が見えなくなったように そして目が見えたときには 目からうろこが取れたと言ったように じんるいも 視力が回復するまで軽く目隠しを与えられていた。のかも知れません。
そうでなければ たとえばいかにローマ教会が腐敗していたとしても そしてそれに対する抵抗とあたらしい運動が起きたのもよいとしても 互いに殺し合いをするまでに到るなどということは 考えられません。常軌を逸しているとしか考えられません。目が痛んでいたのでしょう。
モーセを出すはめになってしまいますが:
▲(出エジプト記33:20-23)~~~~
また言われた。
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
21: 更に、主は言われた。
「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
あなたはその岩のそばに立ちなさい。
22: わが栄光が通り過ぎるとき、
わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
わたしが通り過ぎるまで、
わたしの手であなたを覆う。
23: わたしが手を離すとき、
あなたはわたしの後ろを見るが、
わたしの顔は見えない。」
~~~~~~~~~~~~
☆ この二千年を経たあとも その神についてはわれわれはその背面を見るが 顔と顔を合わせて見ることは あとに取っておかれているとでも解釈すればよいでしょうか?
二十一世紀を生きるわたしたちは そろそろ 目からうろこが落ちたでしょうか?
この質問は もう少し開いていましょうか。
補遺などありましたら よろしくどうぞ。
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