プロが教えるわが家の防犯対策術!

 関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。

 初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。

 むろん哲学としての問いです。


 たたき台としては:

 (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。

 (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。

 (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。


 (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。
 
 (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。
 
 (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。

 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。

 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。

 (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。

 (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。

 (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。




 ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

A 回答 (13件中11~13件)

キリスト教はユダヤ教から発達しました。



つまり、ユダヤ教がユダヤ人の為の宗教だったのを
全人類の為の宗教にしたのがキリスト教です。

だから広く布教する必要があります。

広く一般に布教するための道具として聖書が造られたのです。

これがある方が便利ですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 なるほど文書化するということに目をつけられたのですね。

 へきゆさん ご回答をありがとうございます。

 それはそうですね。あるいは口承の物語としてそもそも初めは成り立っていたのでしょうが 口承よりうんと便利です 文書にすれば。

 でも そのいわゆる原始キリスト教と言われるころ もしくは聖書としての成立をまだ見ていないころのことは どうでしょう?
 ★ 広く一般に布教するための道具として聖書が造られたのです。
 ☆ という情況になる前の時代は どうでしょう? パウロなどは
 ▲ 宣教というおろかな手段
 ☆ というように布教のことを言っていますが まづは当然のごとく――旧約の聖書は書物としてすでにあったわけですが―― キリスト・イエスの物語は 〔まづは〕面と向かっての語りとして伝えられたとも言わねばならない時期もあるでしょうね。

 そうしますと ご回答の重心はむしろ
 ★ ~~~~
 つまり、ユダヤ教がユダヤ人の為の宗教だったのを
 全人類の為の宗教にしたのがキリスト教です。
 ~~~~~~
 ☆ ここにお有りだと見るべきでしょうか。

 質問者の言葉で表わすなら 次のようにはなりました。つまり趣旨説明の中でたとえば次のあたりでしょうか。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~ 
 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って その〔旧約聖書に伝えられたところの〕アブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。

 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。
 ~~~~~~~~~~~~




 言葉が違う人びとへ伝えられるにしても 翻訳の問題はもちろん 文書化は便利だと思われます。上に取った見方をくつがえすように あらためてそう考えられます。
 そして ユダヤ民族というひとつの民族の宗教が その枠を乗り越えたとおっしゃるとおりの内容だと質問者としても考えます。

 ★ 宗教
 ☆ ですらなくなった。つまり――もとは アブラハムというひとりの個人に神の信仰が芽生えたというからには そのあり方に戻ったとも考えられますが―― 集団としての規則をもった運営がなされるような宗教ではなくなり 一人ひとり良心および信教の自由のもとに抱かれる信仰というあり方におさまった。
 実際の情況は まだそうはなっていませんが おそらく二千年という時間は ただ単なる時差が起きたようなものでしょう。いづれ 組織宗教は 自己解体して行きましょう。
 と余分なことも述べましたが おおむねこのように反芻しつつお受け取りしました。

お礼日時:2011/12/28 10:33

>聖書とは 何か?



一言で申せば、私を健やかな眠りに導く睡眠導入剤の如きもの。

かつてミッション系大学に学んだ私に課せられた「キリスト教概論」、講義に於いて聖書を開く度眠りに誘われ、1年生の必修科目ながら4年間の履修を余儀なくされてしまいました。

「蔦の絡まるチャペル~」と歌に詠まれた我が母校、しかしその礼拝堂にはついに一度も訪れる事無く過ぎ去った4年間、そして門を叩いたのは大学東門近くの雀荘ばかり、今振り返れば悔恨の極みです。

>むろん哲学としての問いです。

御趣旨に外れる投稿になりましたが、御容赦下さい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 そうですね。
 ツタが歌に乗って絡まっていたまさにその時代に学生だった者です。

 ★ 「キリスト教概論」
 ☆ と聖書とはまた違うところがあるようですが――すなわち 特にきっかけとしては 人それぞれの聖書というかたちになって現われるということのようですが―― でもけっきょく四年間かけても履修なさったわけですよね?

 だったら何かおっしゃりたいことはお有りだと思うのですが ここは控えるということでしょうか?

 わたくしの余計な話を差し挟みますと:そのころ(学生のころ) 親鸞で行けると思い切っていましたので 聖書をぱらぱらっと読むと――そしてプラトンの著作を読んでもほぼ同じようでしたが―― からだが(胸がでしょうか)ちくちくと痛いという思いをしていました。ついに イエスはじんるいの歴史上最大最高のセールスマンであると考えました。
 とは言っても 親鸞でひとつだけ都合がわるいことがありました。それは――わたしは 自分で言うのも変ですが 真剣に生きていましたから―― 肩が凝るということでした。どうしても肩が凝る。どうしようもなく肩が凝るのでした。ブディズムの先が 自分なりに見えたところで チクチクのほうへ浮気しました。うんぬんという経過です。



 すやすやお休みになったそうで 今ではいい思い出でいらっしゃいましょうか? ありがとうございました。このあとのご投稿とともにあそんで行ってくださいませ。

お礼日時:2011/12/28 10:13

>聖書とは 何か?



ヨハネの福音書20章31節

「しかし、これらのことが書かれたのは,イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、またあなたがたが信じて,イエスの御名によっていのちを得るためである。」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 しんしなてぃさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 正直に申せばまだ納得が行きません。いぢわるの虫が動き出して 次の次の聖句と照らし合わせると 全体としてどう捉えることになるか。そんなことを考えます。

 すなわちまづは次の聖句をかかげて すくいとしての信じるという主題にかんしては同じ見方であろうと確認いたします。 

 ▲ (ヨハネによる福音1:13) ~~~~~~~~~
  この人びと(* 《〈ことば〉を受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血筋によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~
  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。
 実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そうして同じヨハネの福音からですが 次のくだりと照らし合わせるなら どういうことが 全体として捉えられるかです。

 ▲ (ヨハネによる福音1:1-18) ~~~~
 1:1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
 ・・・
 1:14  ことばは肉となって、わたしたちの間に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ・・・
 1:16 わたしたちは皆、この方(* =肉となったことば)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち考えたいと思うところというのは こうです。次の一節に注目します。
 ▲ (ヨハネ福音1:16) わたしたちは皆、この方(* =肉となったことば)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
 ☆ すなわち
 ▲ 恵みの上に、更に恵みを受けた。
 ☆ このふたつの《めぐみ》とは 何を言うのか? です。たとえば
 ▲ (ヨハネ福音20:31) ・・・イエスの御名によっていのちを得るためである。
 ☆ この《いのちを得る》ことを言うのか? です。もしくは 《いのちを得る》とは どういうことか? です。
 もしくは 《めぐみ》が なぜふたつあるのか? です。

 どうでしょう? もしよろしかったら お考えをお聞かせください。

お礼日時:2011/12/27 22:56

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!