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 次のようなうたをうたい続けていたダヰ゛デが 何を思ったか 王となってからは 人妻に恋慕し 挙句の果ては その夫を戦争の最前線に送りやって死なせた。女を自分のものにした。何が起こったのか? おしえてください。たたき台は ありません。

 ▼ (詩編26:2) ~~~
 わがかみ

 わたしをしらべ
 わたしをこころみ

 わがはらわたと
 わがこころを
 火のなかに
 ためしてください。
 ~~~~~

 ☆ たとえば人妻強奪作戦に出たのは 神の指図であったかと言うと そんな運命論のような予定説には 興味がありません。思考停止となるか この世で良い目に会うためにのみ思考を勘考するだけとなる。

 ダヰ゛デとて 人の子。あわれむべき人間である。といった見方も おもしろくありません。どんな事例にもあてはまりそうな事由です。思考放棄になりかねません。

 果てさて ダヰ゛デにいったい何が起こったのでしょう?
 お考えがありましたら おしえてください。(質問者のたたき台はありません。上のふたつの場合の中間だとか そういう考えも起こりません)。

A 回答 (39件中21~30件)

こんにちは、bragelonneさん。




サムエル記II 12:01-12:06
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」
“ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」”

> では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。
 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。

 これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・



 ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・
 ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。






●”第二のアダムではない“

●《神のようにならないため》

ここふたつのkeyが気になってる




寛容ってなんだろう?


【イスラームにおける寛容ークルアーンと法学に基いてー】
http://www1.doshisha.ac.jp/~knakata/newpage1.html
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この回答へのお礼

 お早うございます りとうきすねえさん。ご回答をありがとうとございます。

 ★ ここふたつの key が気になってる
 ☆ 片仮名で書くとあまりにもだじゃれになるから・・・かも。

 き と言えば エデンの園の《生命の木》 そしてエワとアダムがその実を食べたという《善と悪の知識の木》。
 第二のアダムと言うからには 第一のアダムについて知らねばならない。

 いつも出すたとえは こうです。
 ○(エワとアダムが 木の実を食べたお話) ~~~
 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
 わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
 夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。
 そういう意味でも 表現は自由なのだ。
 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 善悪を知る木から採って食べたというじんるいの初めの物語――じんるいの物語の初め――です。《心にさからう》という事態について《神がそれを食べると必ず死んでしまうから食べないようにと禁じていた木の実を食べた》と表現されています。
 食べたあと――創世記の初め(3章)にしるされています―― アダムは 或る日の風の吹くころ 《アダムよ きみは どこにいるのか?》と問われた気がした。エワにも声が届いた。
 そうしてふたりは ウソ・イツワリが心を捻じ曲げるとそれに伴なって自分も相手も人間は信頼しがたい存在になったと気づく。この心の状態は あたかも死である。つまり いづれ死に行き着くとさとった。

 かようにして この第一のアダム〔とエワ〕は 善悪の知るようになり ウソをつくことができるようになり 人は死を死ぬという存在であると知った。
 そこで人びとは考えた。多くの人が長い時間をかけて思った。人間について。ウソと善悪と死という主題をめぐって。
 何千年 何万年(?)のあいだ。たぶんアブラハムという信仰の人が出てからは ニ千年くらい人びとはつねに思い考えつづけた。
 たとえばその中身は 次のようにまとめることが出来ると思われる。
 ▲ (浄福)=(No.16補足欄) ~~~
 ・・・
 それというのも彼(=幸福な人)は起こり得ないことは欲しないから。
 けれども このような(=欲することは起こり得るという)生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。
 もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。
 (アウグスティヌス:三位一体論 13:7)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つまりだから たとえば 
 ▼ (詩編26:2) ~~~
 わがかみ

 わたしをしらべ
 わたしをこころみ

 わがはらわたと
 わがこころを
 火のなかに
 ためしてください。
 ~~~~~
 ☆ とうたうダヰデが出た。
 
 そしてとうとう《不可死性》の権化とも言うべき人が 西暦一年から三十数年生きたと伝えられるイエスという人として現われた。

 その内容をいま端折ってしまえば かれがなぜ第二のアダムであるかと言えば こうです。
 第一のアダムがへそを曲げて木の実を食べると 人間にとっての死が死となった。そう明らかに知った。
 死だけならまだよかったかも知れないが ウソ・イツワリがついて来る。あるいはむしろ死の原因でもある。へそを曲げたことによって不信というあるいは無常という心の死がもたらされてもいる。
 この死を超える存在のあり方が――それは 非思考としてつまり 考えるによっては分かり得ないこととして―― イエスの磔の死によってもたらされた。と噂された。その噂は イエスをキリストと名づけて 第二のアダムと呼ぶ。

 ▼(パウロ:コリント前書15:54-55=新約聖書)~~~
 この朽ちるべきもの(=生身の人間)が朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

   死は勝利にのみ込まれた。
     (イザヤ書25:8の意訳)

   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。
     ( ホセア書13:14)

 ~~~~~~~~
 ☆ ホセア書とイザヤ書とは 旧約聖書です。アブラハムからイエスまでの二千年間に人びとがアダムの咎(罪と言えば罪)とその結果をめぐって考えに考えつづけた成果の一環です。
 パウロは イエスの死のあとこれを書いています。イエスは ニ千年間の人びとの生活における観想と思索の成果だという見方もいくらかは出来ると思います。(それに神が応えてくれたという意味で)。

 ダヰデも イザヤやホセアと同じように やがて来るイエスのことを思っていたのでしょう。ただし自分はその《第二のアダム》なのではないということ。第二のアダムは じつは神であった。神(キリスト)であり人間(イエス)であった。という物語の内容です。

 何故かといえば イエスが去って行ったおかげで人びとはもう安易に人を信頼できないとは言えなくなった。やっぱり信用できんかったという場合にも たしかにあやまちは侵すが全然信用できんというのもおかしい。言い過ぎだ。互いの弱みを知りこれをおぎないあって信頼し合っていけばよいではないかというまでに 歴史時計の針を第一のアダムの時点にまであたかも戻した。
 わがはらわた わが心の奥底に 鉄鋼炉に火を入れるように 火をともしてくれてしまったからには 死んでも死ねなくなった。


 こんな人間なら ひとに対して寛容であるのは比較的たやすい。ただし 神ではないのだし すでに完全であるのでもなく あやまちうる人間です。(また わたくしの考えでは 寛容ゆえに けんかをふっかけることもあると思います。つまり 対話における批判のことですが)。



 ★ 【イスラームにおける寛容ークルアーンと法学に基いてー】
 ☆ いちど見たように思うけれど 忘れているようですから 見直してみますが あまりイスラームには期待していません。読み終わったあとでしるします。



 けっこう重い《ご思考中》でしたようで どこまでお応えしてまいるか分かりませんでしたが 一気に――尻切れとんぼみたいに――結論に到りました。
 それでは ご返事をお待ちしています。

お礼日時:2011/08/13 10:47

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> ▼ 参考:渡辺氏トップ、首相は2位・・・ 

 ☆ だったら いまのまま首相をつづければよいのに。とは行かないのですね。


 申し訳ございません。これは、昨年2010年の7月の調査結果でございました。このため、現在とは少々異なるところがございます。
 ですが、たかだか1年間で、こんなに評価が変わる(今では、菅氏は無能の代名詞とものっております)というのは、メディアの影響力が大きいのか、それとも、日本人の心移りが激しいのか、もしくは、(無能だと言うのでしたら)日本人にはリーダーなる人物を見る目がなかったのか等、いろんな理由が挙げられると思われます。


> ★ 学生さんたちを見ていますと、とても消極的な面が思い浮かびます(サンプルは理系の大学(院)生でございます。

 ☆ そうしますと 地道にまたは地味に生活し 非婚という情況(願望)にまでなりがちである。こうだとしますと 特別に褒めて欲しいとか甘えるということでもないようですね。


 はい。以外と世の中に対しましては”ドライな眼”を持っているように見受けられます。”自己責任論”の中で育って来た、というのもあるのかもしれません。


 
> ★ 市民はその地域コミュニティーの中で、自分たちの代表を作り育て、そして自らの選出者を国家に送り込んで、地域と国とのコミュニケーションを図っていく、さらには地元住民の意向をも反映させていく、というのが従来の考え方かと思われますす。おそらく、これで問題はないものと考えております。

 ☆ となりますと 《自分たちの代表をつくり育てる》という作業が 大事なように思います。あるいはつねにその代表に委託している政策などについて 見直しをもしつつ 地元住民と代表とが検討しあって行きつづけること。この工程をきちんと守っていることが 大事だと。


 はい、仰る通りでございます。選挙という方法を用いまして、代表者を国家に送り込んでいくこと これ以外には選択肢は余り残されていないようにも考えれます。
 そこでなのですが、地域住民は、代表者を育てていく必要は当然あろうかと考えております。現況は、「誰かに頼まれたから、”◯△候補”の名前を書いてくる」といった人情的な側面、もしくは、「この党は嫌いだから、この候補者には当選して欲しくない」といった消極的なものが多いと思われます。
 残念ながら、首長はじめ、その地域(選挙区)の党推薦者という人達も、元キャリア官僚で、その地域に僅かの期間出向した経験がある、という程度の方々である ということも親密感を失わしている一因なのかもしれません。


> そのような過程をつねにたどりつづけることを前提として その眼鏡にかなう代表をめぐって

> ★ “ガラガラポン”してしまうしか他に方法はないかもしれません(何時かは社会保障問題、年金問題等で問題が浮き彫りになってくると思われるのですが)。

 ☆ というように考えるのが せいぜいでした。いまの段階において。


 申し訳ございません。解決策となりますと、愚生のオツムでは浮かばないものでして・・・


> そう言えば 【Q:日本社会は 対話型か? なら話し合いを!】は 日本の社会と歴史の総点検をほんとうはした上で考えることでしょうし 総点検を遠くには想定しつつ進もうとする一歩ではあると思いました。自分ながら。


 はい。総点検することは、特にお二階様はいやがると思われます。もし、今そんなことをしてしまいますと、責任論もそうでございますし、バッシングには耐えられないと思えるからでございます。先の戦争の失敗すらも総括できなかった訳ですし(おそらく誰もが失敗と考えていると思うのですが)。
 ですが、一歩ずつ進めていくしか他に方法はないものと、少し憂鬱な気分になってしまいますが、そう考えてございます。
 なお、当ご質問におきましては、もはや愚生にはお答えすることも無くなってきてしまいました。つきましては、新たな【Q:日本社会は 対話型か? なら話し合いを!】に、ご回答させていただこうかと、勝手ながら思っております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 分かりました。いまは地道にいまの制度において最善をつくす。こうおっしゃっていると理解しました。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。時事にからめたことがあれば さらになおと思っていましたが あちらの質問においても大丈夫でしょうし。(でもここは 要望がありましたので まだ開いています)。

 行政担当者らは 総点検もいやがるわけですね。戦争の失敗についての総括は 天皇の責任を問わなければならなくなるので 進まなかったのではないかとは考えます。


 あたらしい世代が わるくても《自己責任論》の中で育って来ている側面のほうがつよい。ゆえに 甘えるという傾向は割り合い少ない。これも 分かりました。



 ダヰデについては 先入見も予見も持たずフリーハンドで捉えることが出来 案外落ち着くところに落ち着いたというように思います。よかったと思います。

 今回も たいへんお世話さまでした。ありがとうございます。それでは あちらで。

お礼日時:2011/08/12 00:33

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ○ イリ歴史知性なる人びとの社会
 ☆ 日本社会論 あるいは日本の歴史の総点検といった大きな課題につながってしまったのでしょうか。そういう思わくを持ったこともあったかに思いますが けっきょく研究者であるないにかかわらず 日本人としての《わたし》をおのおの内に返り見る仕事になるのでしょうか。

 基本的にはそう考えてございます。最終的にはそこにたどり着く、と考えてございます。ただ、他者からの意見・批判をもある程度受け入れられるような(透明化された)システムの構築も必要かと考えております(現実的路線でいかせていただきます)。
 昨今の原発事故での開発者・研究者に対する風当たりが強くございます。どこが間違っていたのか?、それとも根本的な瑕疵は、本当はなかったのか?、もし、間違いがあったとしますと、霞が関との“利権”関係も含めまして、何が問題だったのか?等、第三者を交えまして、透明性を保ちながら、検証しなおす必要があろうと考えております。
 ですが、ここで問題となりますのは、“責任問題”でございます。日本がなぜあの戦争の総括ができなかったかの理由につきましては、「責任問題が問われてしまうから(宮沢元首相談)」とも言われています。ここは、少なくとも民事訴訟のような責任問題は問わずに検証すべきかと思っております(ただし、その開発・研究者への無能呼ばわりは致し方ないものと思われます)。
 そして、これらの話合いの結果、反省すべき点等を改善させていけばいいものと考えております。
 ですが、最終的には、システム云々ではなく(“きっかけ”とはなりうるかもしれませんが)、“全国民が《わたし》をおのおの内に返り見る”ことが必要かと考えてはおります。

> これは 確かにやはり S 圏主導の S - A 連関形態としての民主制の問題になるかと考えます。アマテラス市民政府が 市民政府であるように振る舞うには どうすればよいか。

 “ガラガラポン”してしまうしか他に方法はないかもしれません(何時かは社会保障問題、年金問題等で問題が浮き彫りになってくると思われるのですが)。ただ、問題が表に出てきた場合、既に市民(日本国民)が、戦う気力も失ってしまい、お二階様のいいなり・奴隷状態となってしまっていれば、どうしようもございませんが・・・

> もしこの民主制にもとづく市民政府が 戦争も止む無しと決議すれば 相手や取り分け自国の人びとを死地に就けるという《交通遮断》を採ってよいのか? 民主制じたいが 自殺行為をおこなうことにならないか。あるいは けっきょく破れかぶれの行動に出ること これはやむを得ないことか。(国家という主権を前提として 破れかぶれではないと見なされているのでしょうか)。

 “破れかぶれの行動に出ること これはやむを得ないことか”と問われますと、市民が納得の上での戦争(こちらからの宣戦布告)でございましたら、それは致し方のないものと考えております。
 以前、湾岸戦争前にイラクからクウェートへの侵略がございましたが(パパブッシュの時代でございます)、昨今では非常に珍しい戦争だったとされています(クウェートの後ろには、米英仏さらにはロシアまでいたにも関わらず、”侵略”という形での侵攻でございましたため)。
 おそらく、現実的には、現在の同盟国であるアメリカが何らかの紛争に関わった場合、アメリカは日本にいろんなことを要求してこようかと推察されます。そのときに日本がどのような立場をとるのかが、現実的に問題となりうる話かと考えております。例えば、米・イランは敵対関係にございますが、日本・イランは歴史的にみましても良好な関係でございます。アメリカに要求された場合、日本がどのように振舞うのかが問われてくるものと考えております。
 ただし、他国からの侵略(他国からの宣戦布告)に対しましては、やはり、女子供・孫達を守るべく、戦わなくてはいけなくなるかもしれません。
 
> 人間――《 S - A 連関(つまり 身体‐精神の連関 および 市民‐公民の連関)》なる存在――は コミュニケーションの中断と その存在(現存在)の切断と どちらをその《死》と捉えるのか。コミュニケーションの継続のためには 一たん中断して 存在どうしの断絶を一定程度におこなって そのあとで話し合いをおこなうことの出来る人びとだけで 世界を運営して行こうと考えるのでしょうか。

 “コミュニケーションの中断”=市民が戦う気力もなく奴隷状態にある、とした場合ですと、もはやどうしようもないと思われます。おそらく、“死”そのものかと察せられます。
 “話し合いをおこなうことの出来る「人びとだけ」で 世界を運営して行こうと考える”、につきましては、元来、間接民主制の根幹をなすものと考えております。逆に申しますと、市民はその地域コミュニティーの中で、自分たちの代表を作り育て、そして自らの選出者を国家に送り込んで、地域と国とのコミュニケーションを図っていく、さらには地元住民の意向をも反映させていく、というのが従来の考え方かと思われますす。おそらく、これで問題はないものと考えております。

> ☆ 褒めて伸ばす あるいは 子どもであっても基本的には互いに人格を認め合ってまじわる。これは ふつうに常識であると思うのですが そのほかに何かあたらしいことが起こっているのでしょうか?
 ひと昔かそこら前に 新人類という言葉とともにその人たちの登場がありました。けっきょくむやみやたらに挨拶をすることはしない ただし用件があればそれについてきちんと話をする そういうふうに捉えましたが したがって特にそれほど変わったかたちなのでもないと思いました。
 現在さらに新しい世代において何か大きな変化は 起こっていましょうか。

 学生さんたちを見ていますと、とても消極的な面が思い浮かびます(サンプルは理系の大学(院)生でございます。「」内は学生さんの典型的な返答となっております)。
・車・バイクは? 「そんなのいらない」、
・趣味は? 「貯金することぐらいかな」、
・昼ごはんは? 「家で自分で作ってきたのがありますから」
・女の子は? 「金がかかるし・・・」
・だけど、いつかは結婚とかするんでしょ? 「別にしたくはありません」
と言った感じでございます。
 非常にまじめなのですが、面白みに欠けるところがございます。理由は分かりませんが、世間では競争社会といわれていますが、先輩たちの就職活動を見ますと、“実情はコネクション等によりスタート地点が全く異なる”こと、成功者として雑誌で取り上げられている人たちも、“現実は企業を志したものの0.1%程度”といったことを知っているからかもしれません。彼らからは、夢・希望が感じられない、というのが実感でございます。
 結婚願望が欠如しているのは、以下のサイトの理由が主流かと思われます(実際、そう話してくれた学生さんもおりました。メディアも「妻はセレブ、僕セルフ」なんてことを面白おかしく流すのも一因かもしれません)。
http://hikon.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.h …

> もっとも上の文章は そもそもわたくしの文章や人との交わり方に向けての批判なのですが だとすると ひとりぶらじゅろんぬ問題となるでしょうか。

 いえいえ。壮大な社会論になろうかと察せられます。

> オザワ首相の線がまた まだ 話題に上るということはあるのですね。

 はい、消去法的だとは思うのですが、事実かと思われます。一方、元K首相のご子息等もその名が挙がっているようでございますが。

参考:渡辺氏トップ、首相は2位=自民は小泉氏が上位-次期首相候補  2010/7/24 時事通信
http://soubiken.blog20.fc2.com/blog-entry-521.html

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ▼ 参考:渡辺氏トップ、首相は2位・・・ 
 ☆ だったら いまのまま首相をつづければよいのに。とは行かないのですね。

 ★ 学生さんたちを見ていますと、とても消極的な面が思い浮かびます(サンプルは理系の大学(院)生でございます。
 ☆ そうしますと 地道にまたは地味に生活し 非婚という情況(願望)にまでなりがちである。こうだとしますと 特別に褒めて欲しいとか甘えるということでもないようですね。
 

 政治の現実 あるいは 現実の共同自治には きびしいものがあると思われます。
 一人ひとりの内面においてその心を問うといった手続きから出発すると言っても その中間の代表としての議員たちの段階でことが決められるということもあるのでしょうね。 
 ★ 市民はその地域コミュニティーの中で、自分たちの代表を作り育て、そして自らの選出者を国家に送り込んで、地域と国とのコミュニケーションを図っていく、さらには地元住民の意向をも反映させていく、というのが従来の考え方かと思われますす。おそらく、これで問題はないものと考えております。
 ☆ となりますと 《自分たちの代表をつくり育てる》という作業が 大事なように思います。あるいはつねにその代表に委託している政策などについて 見直しをもしつつ 地元住民と代表とが検討しあって行きつづけること。この工程をきちんと守っていることが 大事だと。

 そのような過程をつねにたどりつづけることを前提として その眼鏡にかなう代表をめぐって
 ★ “ガラガラポン”してしまうしか他に方法はないかもしれません(何時かは社会保障問題、年金問題等で問題が浮き彫りになってくると思われるのですが)。
 ☆ というように考えるのが せいぜいでした。いまの段階において。

 そう言えば 【Q:日本社会は 対話型か? なら話し合いを!】は 日本の社会と歴史の総点検をほんとうはした上で考えることでしょうし 総点検を遠くには想定しつつ進もうとする一歩ではあると思いました。自分ながら。

 今回はこんなところとなりました。どうでしょう。

お礼日時:2011/08/11 00:14

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> 気ままな随想の旅におつき合いくださって ありがとうございます。

 こちらこそ、どうもありがとうございました。

> 人間という存在の中における《スサノヲ人間語〔の自由〕およびアマテラス人格語〔としての自由〕》が捉えられて そしてさらには
「この経験存在や経験世界を超えたところの言わば無根拠の自由・恩恵の自由 これらの按配をよく確かめつつ捉えていることが大事なのだ」なぁと。

 仰る通りかと存じます。

> KY ひとつを取っても 人びとには或る種の呪縛がかけられていると思われること。
 目に見えないながらも よくもこんなにうまく機能するナラワシとして築き上げたものと考えられます。

 ある意味、天才的かと思っております。

> おそらく日本では そのナラワシがあまりにも巧妙な方程式であるかに見えて その芸術品をこわすのも憚られ むしろその方程式をそのまま解く流れに(あるいは答えをいつまで経っても出さないかたちでいじくる過程の中に)いるほうが 居心地がよいと人びとは 思っているのかも知れません。

 よく言えば、保守的なのかもしれませんが、ただ問題を先延ばししているだけとも考えられます。
 保守を、つまり、日本人が古から重きをおいてきました、礼節、勤勉さ、さらには和の精神といったもの保持することと定義付けますと、保守的というよりも“臭いものには蓋をする”といった形で、楽な方にだけ進みたい、面倒なことは避けたい、とそう思っているのかもしれません。

> ○ イリ歴史知性なる人びとの社会
 ☆ について賛同いただきましたのでさらに明らかにしつつ顕揚していくことも考えられましょうか。

 はい。まずは、歴史的観点から見た、その功罪を列挙してみるのがよろしいかと思っております。ただこの場合、“責任問題”というものが関わってきますため、まずは、責任問題を棚上げした上で(これを持ち出しますと、隠蔽工作が企てられるためでございます)、反省・検証していくのがよろしいかと考えてございます。そして、これを反省材料ににしながら、日本人の英知を結集させれば、未来は見えてくるのでは、とそう思っております。

> ○ 養育係としての規範
 ☆ 子どもは かたちから入ることも決して悪くないということかも知れません。大人でも素人の場合 そうする場合があるかとも思われます。
 ▼ 経産相ら一斉辞任し、退陣迫るべし…鳩山前首相
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110806-00000 …
 ☆ ですとか。・・・

 あくまで、これは愚見でございますが、特例公債法案の成立は、問題なく通過するものと推察しております。ただ、その後の再生エネルギー特別措置法案さえもが可決したにも関わらず、居座り続けるというのでしたら、問題は大きいかと考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~
  > ○ イリ歴史知性なる人びとの社会
  ☆ について賛同いただきましたのでさらに明らかにしつつ顕揚していくことも考えられましょうか。

 はい。まずは、歴史的観点から見た、その功罪を列挙してみるのがよろしいかと思っております。ただこの場合、“責任問題”というものが関わってきますため、まずは、責任問題を棚上げした上で(これを持ち出しますと、隠蔽工作が企てられるためでございます)、反省・検証していくのがよろしいかと考えてございます。そして、これを反省材料ににしながら、日本人の英知を結集させれば、未来は見えてくるのでは、とそう思っております。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 日本社会論 あるいは日本の歴史の総点検といった大きな課題につながってしまったのでしょうか。――あっ まづは ご回答をありがとうございます。ひどっちさん お早うございます。――そういう思わくを持ったこともあったかに思いますが けっきょく研究者であるないにかかわらず 日本人としての《わたし》をおのおの内に返り見る仕事になるのでしょうか。

 たとえば明治以来の近現代史の研究も 進展の見られることと思います。さらに中でも交通の道を 暗殺であるとか戦争であるとかに求めてしまった――つまり前者の場合は 道を断ってしまったことですし 後者の場合は そのように道を断つことという・戦闘員どうしの殺し合いなる手段を容認してしまっていますが――そのような事態に到るということについての分析・検証。

 これは 確かにやはり S 圏主導の S - A 連関形態としての民主制の問題になるかと考えます。アマテラス市民政府が 市民政府であるように振る舞うには どうすればよいか。
 もしこの民主制にもとづく市民政府が 戦争も止む無しと決議すれば 相手や取り分け自国の人びとを死地に就けるという《交通遮断》を採ってよいのか? 民主制じたいが 自殺行為をおこなうことにならないか。あるいは けっきょく破れかぶれの行動に出ること これはやむを得ないことか。(国家という主権を前提として 破れかぶれではないと見なされているのでしょうか)。

 人間――《 S - A 連関(つまり 身体‐精神の連関 および 市民‐公民の連関)》なる存在――は コミュニケーションの中断と その存在(現存在)の切断と どちらをその《死》と捉えるのか。コミュニケーションの継続のためには 一たん中断して 存在どうしの断絶を一定程度におこなって そのあとで話し合いをおこなうことの出来る人びとだけで 世界を運営して行こうと考えるのでしょうか。


 いえいえ 思わずここまで筆が伸びましたが 何か考えたことがあるのではありません。

 若い人について こういう指摘をもらいました。
 ▼ ~~~~
 最近の子供達は、まづ、自分を認めて褒めてもらわなければ、
 話は聞きません。(意外に、大人も多いですよ。)

 まあ、今の子供は、自分の考えたいいところを褒められたいんでしょうね。
 人間は、いいところを褒めれば成長するらしいですから。(笑い)
 ~~~~~~
 ☆ 褒めて伸ばす あるいは 子どもであっても基本的には互いに人格を認め合ってまじわる。これは ふつうに常識であると思うのですが そのほかに何かあたらしいことが起こっているのでしょうか?
 ひと昔かそこら前に 新人類という言葉とともにその人たちの登場がありました。けっきょくむやみやたらに挨拶をすることはしない ただし用件があればそれについてきちんと話をする そういうふうに捉えましたが したがって特にそれほど変わったかたちなのでもないと思いました。
 現在さらに新しい世代において何か大きな変化は 起こっていましょうか。

 もっとも上の文章は そもそもわたくしの文章や人との交わり方に向けての批判なのですが だとすると ひとりぶらじゅろんぬ問題となるでしょうか。



 ★ ただ、その後の再生エネルギー特別措置法案さえもが可決したにも関わらず、居座り続けるというのでしたら、問題は大きいかと考えております。
 ☆ 菅直人については ひとことあるいは一度 認めるという言葉をかければ済むことではないかと思えて来ています。
 オザワ首相の線がまた まだ 話題に上るということはあるのですね。

お礼日時:2011/08/09 10:56

こんばんは、bragelonneさん。




● 一難去ってまた一難。(TT)ブヒィ。

ひとぎきのわるい、それもいうなら、アコースティック・ギター?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4444319.html

「ありがとう!」←アリス:チンペイ風

やがてリングと 拍手の渦が
ひとりの男を のみこんで行った
You’re king of kings
立ち上がれ もう一度その足で
立ち上がれ 命の火燃やせ

【QNo.340361ほにゃらか形而左右学 檻と機械】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3403691.html

【QNo.4338027現代芸術における表現形式は どうなんですか】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4338027.html

そやねん、別件、電気増幅云々をあたってます。
【鉄道・なぜなに教室】
http://www.tawatawa.com/denshanani/index.html
【安全性・信頼性向上のための鉄道信号
システムの設計手法に関する研究】
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/ …


昨日は、昨日で、朝もはよから電車乗って滋賀大のある彦根まで行ってきました。
頭煮詰まりそうになってましたから、お外の空気は新鮮。しかし、マジ歩いた。歩いた、歩いた。暑かった―!あんまり暑くて、ノド乾いて、一息いれにどっかで腰落ち着かそうとおもい辺りを見回しては見るもののお店屋さんらしきものはみあたらず、道行く土地の人に声をかけたずねた。「あの、この辺りで食事をとれるとこありますか?」「ああ、少し行けばキャッスルロードに出るから、そこ行けばお店屋さんが並んでるよ」「すぐそこだから」と、気軽い返事が返ってきた。「あ、どうも。ありがとうございます。」その言葉に従い、歩くのだけれど、いっこうにキャッスルロードに行き当たらない。
“すぐーそこ”と“すぐーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそこ”すぐそこって、どんだけ歩かなあかんねん。“すぐそこ”―――この距離感のちがい、どうよ。おそるべし、地元民。延々と歩き、やっとこさキャッスルロードに行き着いた。キャッスルロード沿いには両側にお店屋さんが並んでる、たしかに。とにかく、早く一息つきたかったから、人が混んでいなそうなメイン通り一本を入ったところのお店に入った。 “エルソン“って名のお店に。ここの、お昼のパスタランチあたり!!冷製パスタ+ピザ+サラダ+ドリンク+デザート3種類盛り←これヒットです。ボリュームがあって。極めつけが、デザート。チーズケーキ+シフォーンケーキ+チョコのアイス2つが1枚のお皿に乗って出てきた。完食。至福のひととき。午後からは、彦根城周辺を散策。散策してる中、井伊直弼大老の像が公園にいてはった。

【所有と労働の循環】
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~yagi/nakano1.doc
【TPP(環太平洋戦略経済連携協定)(Trans-Pacific Partnership) 詳細解説】
http://eco.goo.ne.jp/word/issue/S00412_kaisetsu. …
【わが国の通商戦略に関する提言 別添】
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/ …
【QNo.5128328 日本はなぜ 産業革命】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5128328.html

●そして、藤津氏はハウルの城に集まった者はまさに他者・弱者
であり、ハウルの城は「開かれたアジール」になっているといっ
ているのです。「アジール」とは、法や権力の及ばない不可侵の
領域を意味しています。

A国のなかにB人とC人が暮らしていた。しかし、ことあるたびになにかとぶつかりあう。
で、あるときこの国に暮らすB人とC人は互いに[もうお前とはやっていけん]とばかりに
それぞれに国をつくった。B人ばかりが住むB国とC人ばかりが住むC国を。
さて、それぞれに国をつくりB人ばかり、C人ばかりとなったB国・C国の中では諍いはもうないかといえば、これがそうでもない。そこに住み暮らす者同士の間でこと何かあるたびに諍いは起きていた。A国に暮らしていたときはB人はC人がいるから諍いが起こると考え、またC人もB人がいるから諍いが起きると。自分と同じでないものを互いに排除することで諍いがなくなるとでも考えていたのだろうか。結果、B国とC国をつくったもののそれぞれの国の中で諍いは無くならない。
A国に住んでいたある人がB国とC国からさほど遠くないところに1軒の家を建てた。
諍いのない暮らしを求めて。
家は建ったが、その家を訪れる者はいない。
だれも訪れることのない家にいるのは家を建てた男一人。
いつ訪れてくるかもしれない人をただ一人待ち続ける。
幾日の年月が過ぎたころ、B国人同士の諍いに疲れB国から逃げ出してきたB人と、同じくC国人同士の諍いに疲れC国から逃げ出してきたC人がこの家にやってきた…
【記憶の彼方へ】
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20100709/

この回答への補足

 ▲ (浄福) ~~~~~
 ・・・テレンティウスが賢明にも

    汝の欲するもの起こり得ぬゆえに
    汝のなし能うものを欲せよ

 と語った・・・。この言葉の凱切なるを誰が疑い得ようか。しかし これは悲惨な人に いよいよ悲惨ならざらんため与えられた助言なのである。
 ところが すべての人がそうあることを欲する幸福な者には 汝の欲するものが起こり得ぬ と言うのは正当でもなく真実でもない。なぜなら もし彼が幸福であるなら 彼が欲することはみな起こり得るからである。

 それというのも彼は起こり得ないことは欲しないから。
 けれども このような生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。
 もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。
 (アウグスティヌス:三位一体論 13:7)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ これが目にとまった。

 あとは これこれに注目というふうに言ってくださったら 注意深く読んでみます。あしからず。


 ダヰ゛デの曾祖母のルツは ミレーの絵《落ち穂拾い》の人物です。まづしい暮らしでした。

補足日時:2011/08/08 23:21
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この回答へのお礼

 ガスト――ふつうのではなく お箸のガスト――でいまカレーとサラダのバイキングをやっている。ドリンクバーを加えると 飲みものも飲み放題。うまかったよ 二人前。デザートは別。

 何の話?
 
 ○ アジール
 ★ A 国のなかに B 人とC人が暮らしていた。・・・
 ☆ むつかしいなぁ。ソロモンも解けないかも。
 ★ 【記憶の彼方へ】
 ☆ これをちらっと読んでみたけれど むつかしい。それとも アジールとしての話そのままかしらん。

 あぁ 夕方に書き込んでくれたんだった。ほかの質問で応えていたら(4件) もうこんな時間。
 ご回答をありがとうございます。ギャル曽根ねえさん。

 もういっぺん出しておきます。
 【Q:「うつくしい」って何ですか?】と訊かれたなら あなたはどう答えますか?

 あぁ そうそう。ダヰ゛デの話。
 ▼ (ヰキぺ:ダビデ) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93% …

 § 曾祖母ルツ

  ユダヤ教原理主義者には無視されがちであるが、彼(ダビデ)はモアブ人の血を引いている。
  彼の曾祖母であるルツは、『ルツ記』の記述に従えばモアブ人である。

  当時のイスラエル人と周辺諸民族は共存、通婚していたことを示している。
  加えて、彼女がモアブ人としてのアイデンティティと宗教的慣習を放棄し、イスラエル人のナオミが信じていたヤハウェ神を受け入れて回心したことが、イスラエルに受容されたことの大きな理由となっていると考えられる(ルツ記1章16~17節を参照)。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ナオミは ルツの夫の母 つまり義母。ナオミも ルツも いづれも夫を早くに失くしている。それでも後継ぎをもうけることができた。その曾孫が ダヰ゛デ。
 モアブ人は 遠くユダヤ人と血はつながっているが よそ者に近い。
 あぁ これで
 ★ A 国のなかに B 人とC人が暮らしていた。しかし、ことあるたびになにかとぶつかりあう。・・・ 
 ☆ と少しはつながった。異民族や異者は たしかにその異なるところを認めあって おつきあいしましょう。イエスは ダヰ゛デの血筋です。つまり ルツねえさんの血筋です。


 あとは またあとで。
 こんばんはでした。

お礼日時:2011/08/07 23:43

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっちでございます。

> 規範というもの――例によってふるいなじみの言葉を持ち出せば アマテラス普遍語であり 科学語および人格語になりましょうか―― あるいはそれの帯びる《権威》 さらにあるいは社会形態として国家を成り立たせると アマテラス公民の《権力》という事態も生じて来ますが 律法の必要とされた時代情況のことをうかがうと これら大きく広く権力ということについて 思いをめぐらされます。


 規範、さらには、科学語・学術語および人格語は、愚生もアマテラス用語語(決して古くはないと思っております)、さらにはそこから派生する「権威」と、 アマテラス公民の(上からの)「権力」とは関連性があろうかと考えております。
 ただ、モーゼの十戒を見ますと、もちろん、上述のような要素も含んでいるかもしれませんが、元来「神から授かりし御言葉」であること、さらにまた、「殺人」、「窃盗」、「父母を敬うこと(愚生は失格者でございますが)」、「隣人の財産を貪ってはならないこと」等はほぼ自然法に近いこと、またモーゼが十戒を授かったときのイスラエルは弱小国(国というより、逃亡するのに必死であった一民族に近かったかもしれません)であったことから、幾分アマテラス普遍後とは異なるものと考えております。ただ、イスラエルの国が出来、そこから権力維持(特に祭司達の)がかようなアマテラス用語化していったものと考えております。


> 規範の権威が 人間化にとって広く養育係であったとも考えられるのでしょうか。


 例えば最近、”青少年健全育成条例(ほとんど淫行条例なのですが)”が厳しい方向に改正されておりますが、以外かもしれませんが、ご父兄の方々が賛成にまわったといわれております。その理由の一つとしましては、援交等(被害者なき犯罪)をする自分たちの子供を理屈でもって、これを阻止することが困難であったからとされています。この条例ができてしまえば、子供達に「そんなことをすれば、補導されるよ」の一言でほぼ阻止が可能だからでございます。
 これらを鑑みますと、養育係として認知されることは、やむを得ないところもあったのかもしれません。

 

> かの地では モーセに律法が与えられた。そのときには まだいわゆる市民とその上の階層に公民が二階建ての社会を住み分けるということではなかった。
 《〈わたしはある〉 それがわたしだ》という名乗りを聞いてモーセは そういう名のナゾの者が 自分たちをエジプトのくびきのもとにある生活から抜け出させるのだと人びとに説明して 《権威ないし権力》のようなかたちを演じた。そののち 王が 公民圏つまり第二階の権威かつ権力者に制度として立てられた。

 モーゼをかばってしまうように受けとられるかもしれませんが、目的の地に辿り着けることを神から許されませんでした。このことから、絶対的なまでの権力を演じたとは断定しにくいものかと思ってございます。



> 日本では 《和を以って貴しと為せ さからうこと無きを旨とせよ》という律法が敷かれるのは 《イリ歴史知性》の誕生のあとはるか(三百年近く)時を経て すでに《ヨセ(人びとを束ね寄せる)》なる超歴史知性が出現し これらはアマテラス公民として 社会の神棚にも比される雲の上の第二階に坐って 一般的に言ってアマテラス王制を樹立したあとのことであった。


 これは、策略家であり、かつ老獪なまでに強かであった太子の影響が強かったものと思っております。太子の姑息さには頭が下がってしまいます。


> 《むさぼるなと律法によって言われなかったなら わたしはむさぼりなることを知らなかった》というのは たしかにこの権威ある規範が 人間化にとっての養育係であったことを示しているかと思われます。


 ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。

> 《和を以って貴しと為せ》という普遍アマテラス語は 養育係であるのかどうか? 罪に国つ罪と天つ罪との二種類があるように 《和を乱す》という事態は 国ないし市民どうしのあいだでけんかをしてもそれは大した罪でもない。けれどもつまりは 《お上にさからう》という意味で和を以って貴しと為さなかったなら それは行き着くところは とどのつまりとしては 死刑である。すなわち 《天つ罪》は あたかも神の普遍性を権威としてまた権力として代理するかのごとくに 押し並べて否応なく当てはめられる。
 このたぐいの《和》の精神が 人間化への養育係であったのかどうか?


 ”太子”の「和」の精神は、養育係と致しましては、これを否定いたしたく存じます。ただ、「神の普遍性を権威」でもって上から押さえつけるやり方も、おそらく、祭司達に多くいたかと思っておりますし、また現在のバチカンの中にもかような考えを持った人達もいようかと推察しております。


> ヨセなるスーパー歴史知性によるアマテラス普遍語律法は 何だったか?
 お役人言葉とは 何であるのか? 人びとが過剰に心配することなくパニックに落ち入らないようにという心遣いから 無難な表現を用いて 社会の秩序をも重んじる行き方を取る。
 どうも鳥籠の中に人びとを入れてしまっておきたいという権威としての意向が アマテラス語律法やその言葉づかいには 見え隠れしているのではないでしょうか?
 あるいは 鳥籠などといったものは 決して見えるようにかぶせられているのではないとしたら 鳥黐(とりもち)のようなねばねばした・目に見えない通行手形をつねに携行させられているかのような社会生活。


 もちろん、社会の乱れ・ひいては治安の悪化には、認めづらいところもございます。従いまして、ある程度のところまでは、愚生は認められるのですが、権力と関わってしまうと、非常に厄介な代物になろうかと考えております。おそらくお上からしますと、”籠の中におとなしくいてもらいたい”という意向はあるのだと思っております。ただ厄介なのは、”籠の外枠”が、内側からですと透明であり、その眼には見えない壁にぶつかって初めて壁らしきものが認識でき、その透明なる壁をつきやぶろうとするならば、それなりの報復を受けかねない、という現実があることでございます。
 


> こんな随想を思わずしたためましたが そんな現状ではないでしょうか 日本の社会は。

 残念ではございますが、事実と思っております。

> ただ 西暦300年ごろ 三輪山のふもとには イリ歴史知性として〔社会的に人間的に〕生まれた日本人の社会がすでにいちど成りました。


 ご質問者様からご教授いただきまして、またその後自分でも調べてみたのですが、史実のように思われました。

> イリびとは ヨセびとのおとなぶりを・つまりは権威と権力に巻かれる物分かりのよい馬鹿ぶりを もっとまねぶ必要があるかも知れません。ヨセびとは イリびとの真面目ぶりをもっとまなばねばならないでしょう。
 イリびとは その原点のにんげんという動態を 現象としてはちっとは芸人も顔負けとなるほどのボケをも演じる中に表現しきる。三枚目に徹して ヨセびとが自分たちのもとにかかえる芸人たちのお遊びをも凌駕するボケっぷりを見せることも ひとつの道筋であるかに思えて来ました。
 
 果てさて どうでしょう。


 以下の言葉のように、笑い・ユーモアは効果があろうかと推察してございます。

「人は、笑いながら自分を笑わせている相手を殴ることはできない。笑っていると人を攻撃するほど体の筋肉に力を入れることはできない。ユーモアを発する人間に対して好意的な印象を持つのがユーモアの効果である。異文化衝突の多い多民族社会では、ユーモアは頻繁に見られるコミュニケーションのツールとなっている。日常の会話にユーモアを織り込むことにより、衝突を回避したり、敵対心や緊張感を緩和させたりして、人間関係の距離を縮めコミュニケーションをスムーズにする効果がある」

(Wikipedia 異文化コミュニケーション ユーモアの効用 からでございます)

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 気ままな随想の旅におつき合いくださって ありがとうございます。

 二点 わたしの中で確認いたしました。

 人間という存在の中における《スサノヲ人間語〔の自由〕およびアマテラス人格語〔としての自由〕》が捉えられて そしてさらにはこの経験存在や経験世界を超えたところの言わば無根拠の自由・恩恵の自由 これらの按配をよく確かめつつ捉えていることが大事なのだなぁと。
 ★ ~~~~~~
 規範、さらには、科学語・学術語および人格語は、愚生もアマテラス用語語(決して古くはないと思っております)、さらにはそこから派生する「権威」と、 アマテラス公民の(上からの)「権力」とは関連性があろうかと考えております。

 ただ、モーゼの十戒を見ますと、もちろん、上述のような要素も含んでいるかもしれませんが、元来「神から授かりし御言葉」であること、さらにまた、「殺人」、「窃盗」、「父母を敬うこと(・・・)」、「隣人の財産を貪ってはならないこと」等はほぼ自然法に近いこと、
 またモーゼが十戒を授かったときのイスラエルは弱小国(国というより、逃亡するのに必死であった一民族に近かったかもしれません)であったことから、
 幾分アマテラス普遍語とは異なるものと考えております。

 ただ、イスラエルの国が出来、そこから権力維持(特に祭司達の)がかようなアマテラス用語化していったものと考えております。
 ~~~~~~~~


 KY ひとつを取っても 人びとには或る種の呪縛がかけられていると思われること。
 目に見えないながらも よくもこんなにうまく機能するナラワシとして築き上げたものと考えられます。
 たしかにこの KY も あるいはガミガミ役とアース役のコンビ情況も 権威やあるいは権力のもとに派生すると見れば 世界共通という部分も見られる現象であるかと思いますが おそらく日本では そのナラワシがあまりにも巧妙な方程式であるかに見えて その芸術品をこわすのも憚られ むしろその方程式をそのまま解く流れに(あるいは答えをいつまで経っても出さないかたちでいじくる過程の中に)いるほうが 居心地がよいと人びとは 思っているのかも知れません。
 ★ ~~~~
 ただ厄介なのは、”籠の外枠”が、内側からですと透明であり、その眼には見えない壁にぶつかって初めて壁らしきものが認識でき、その透明なる壁をつきやぶろうとするならば、それなりの報復を受けかねない、という現実があることでございます。
 
 ~~~~~~

 ○ イリ歴史知性なる人びとの社会
 ☆ について賛同いただきましたのでさらに明らかにしつつ顕揚していくことも考えられましょうか。

 ○ ボケっぷり 笑い 異文化コミュニケーション  ユーモアの効用
 ☆ 客席に坐って 言いたいことを言ってしまいました。でも 賛同いただきましたならば 少しは実践のほうも考えて行こうかと・・・いや 分かりません。得意な方々について行きたいと思います。

 ○ 養育係としての規範
 ☆ 子どもは かたちから入ることも決して悪くないということかも知れません。大人でも素人の場合 そうする場合があるかとも思われます。

 ▼ 経産相ら一斉辞任し、退陣迫るべし…鳩山前首相
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110806-00000 …
 ☆ ですとか。・・・
 
 
 

お礼日時:2011/08/07 07:03

こんばんは、bragelonneさん。




あー、夏休みですね。

でたでた、恒例の行事。

のりにハサミにセロテープ

カッターナイフにカッティングマット

工作、工作、工作

へっ、へぇー(*^^*)v

「どんだけ、こさえるねん!」と、愚痴をこぼすこともなく

今日も朝一から切り貼りチョキチョキ、ペッタ、ペッタと

工作に勤しんでおりました。←(お仕事、お仕事)

それとは別に、家でも急ぎの作り物しこたまあったので

そっち、かかりきり(TT)ブヒィ

お返事いただいてたようですが、手がはなせない、あぁぁ…

あっ、!?手がはなせない… はなれない…って

―――――アロンアルファが、あぁぁ… 

なにかと雑事におわれておりまする

息継ぎがわりに、参考URLをいれるのがやっと

すまん(^人^)

できれば、しばしここあけといてください。まだ、〆ちゃ、やーよ。



【ハウルとカルシファーの契約の中身とは(EJ第1513号)】
http://www.intecjapan.com/blog/2008/06/post_534. …
http://www.intecjapan.com/blog/cat37/
【歴史人物に学ぶ 男の「行き方」男の「磨き方」】
■秀吉にとって箔である利休が主客転倒した
http://www.geocities.jp/takesanwinds/book/doumon …
【3代将軍・家光側室 お楽の方】
http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo5 …
【大日本近世史料 細川家史料 十五】
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/31 …
【「蜷川家古文書」(蜷川系図)】
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/16_ninag …
【「命が大切」というのは―――――――】
http://www.toyokeizai.net/business/interview/det …


―――ただいま、思考中――――

この回答への補足

 りとるきすねえさん こんばんは。

 今回の参考 URL は 最初のものだけが長かった。
 次の主題のようなことがらは 少々出来過ぎなように感じますが 抜き出しておきます。

 ★ (ハウルの動く城) ~~~~~

 (2008年07月04日)
 ●映画のキーワードは『家族』である(EJ第1521号)

 ・・・
 藤津氏は難しいことをいっていますが、要するに戦争になると
国民はふるいにかけられ、他者・弱者は何らかのかたちで社会か
ら折り出されてしまう――その結果、それらの他者・弱者による
擬似家族的共同体が生まれて、これらの者を受け入れる「開かれ
たアジール」が必然的に構築されるといっているのです。

 そして、藤津氏はハウルの城に集まった者はまさに他者・弱者
であり、ハウルの城は「開かれたアジール」になっているといっ
ているのです。「アジール」とは、法や権力の及ばない不可侵の
領域を意味しています。

 宮崎アニメには、家族の象徴ともいうべき干している洗濯物が
登場するのですが、『ハウル』にもそれは出てきます。藤津氏は
この白い洗濯物こそ、国家から折出された他者・弱者に向けての
「ここはアジールである」との旗印であるというのです。

 ・・・・・・

  鳥の姿になったハウルとソフィーが出会う。
  「逃げましょう。戦ってはダメ」というソフィーにハウルは
 答える。
  「なぜ?僕はもう十分逃げた。ようやく守らなければならな
 い者ができたんだ。君だ!」
 ~~~~~~~~~

 ★ 【ハウルとカルシファーの契約の中身とは(EJ第1513号)】
 ☆ その魔法をどのように解くかが 問われているようですが その展開については よく捉え得なかった。(書いてないよね)。

 あとは 特にコメントはありません。
 ★ 【3代将軍・家光側室 お楽の方】その他
 ☆ 春日局のことをお調べでしょうか。よくは知りませんし えらい細かい資料のようですし。

 ★ 【「命が大切」というのは―――――――】
 ☆ 飯館町――建設的な意見が出なくてごめん。

 ★ 【歴史人物に学ぶ 男の「行き方」男の「磨き方」】 / ■秀吉にとって箔である利休が主客転倒した
 ☆ 利休も 少しは用心してふるまえばよかったものを。(ちがうかな)。


 【Q:「うつくしい」って何ですか?】と訊かれたなら あなたはどう答えますか?

補足日時:2011/08/06 21:56
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この回答へのお礼

 テレングト・アイトルは 90ページやったで。
 一難去ってまた一難。(TT)ブヒィ。

 

 ゆっくり行きましょう。

 取り敢えず こんだけ。


 
 ご回答をありがとうございました。ぢゃわい。

お礼日時:2011/08/04 23:50

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち、でございます。

> 自然法
☆ という法もしくは法源 あるいはさらにその法源としての神の法(永久法)といった視野のもとに 旧約≒律法の時代とそこから抜け出て来るあたらしい契約(むしろ無契約というほどに 無根拠のもとに なにかがはたらく)の時代との照らし合わせをおこなっていただきました。

 ご参考としていただきまして、厚くお礼申し上げます。

> だとすると 自然法ないし自然本性とは 理性ではないでしょうね。ただ単に理性というのではないでしょうね。心というふうに広げておいたほうがよいでしょうし 境地と言って その現存在といった存在のあり方や動態を捉えてその平安や健全なる筋道のことを言ったほうがよいのかも知れません。
 その奥に むしろ無根拠としての神の場があるということでしょうか。

 おそらく、その大元となる根拠はわからない、というのが実情かと思われます。また、昔のそのひと時の権力者が作ったもの、と解することにも無理があろうかと思われます。その奥に、神の場があるのかにつきましては(愚生はそう信じておりますが)断じかねますが、少なくとも西欧文化圏につきましては、それなりの影響を受けていることは事実と考えております。

> 無根拠としてこそ いわゆる国際法も 自然法にもとづくというかたちになるのかも知れません。

 確かに、仰られるとおりかと存じます。

> ところで
 ▼ (レビ記20:10) ~~~~
 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は
 姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。そして 他方では――時代を隔てているでしょうが――

 以下にもございますが、レビ記が記述された時代というのは、動物と交わる等、かなり乱れていた時期かと推察されます。従いまして、かようなときには必要とされたのかもしれません。

20:14- 20:16
一人の女とその母とを共にめとる者は、恥ずべきことをしたのであり、三者共に焼き殺される。あなたたちの中に恥ずべきことがあってはならない。動物と交わった男は必ず死刑に処せられる。その動物も殺さねばならない。いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。

> ▼ ( イザヤ書 55:7) ~~~ 
 神に逆らう者はその道を離れ
 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
 わたしたちの神に立ち帰るならば
 豊かに赦してくださる。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ とも しるされています。

 理由はわからないのですが、キリスト・イエスをかなり意識した言葉かと思われます。単にモーゼの解説書のようなレビ記よりも、将来のメシア降臨を預言したイザヤの方が個人的には好き、というところございますが、預言を的中させているところを鑑みましても、

> ○ ダヰデもバテシバも 《立ち帰り》が成った。
 ☆ と受けとめることとします。その説明は むしろ無根拠のもとにあって 他人には分かりがたい。と。

 なぜ、ダビデがかような神からの(特別ともいえる)恩恵を受けたのか等、神のご意志に関わることですので、ひとには理解し難いものかと思っております。とにかく、“立ち帰り”が起こり、少なくともダビデとバテシバにつきましては、多少の困難には遭遇したかもしれませんが、充実した生涯であったと考えております。

> ちょっとあっさりし過ぎましたでしょうか。
 いえいえ。愚生と致しましては、緊張感のあるご質疑・応答であったかと思っております。

> しばらくのあいだ みなさんからも補遺やまとめを書きこんでいただくために 開けております。
 了解致しました。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 規範というもの――例によってふるいなじみの言葉を持ち出せば アマテラス普遍語であり 科学語および人格語になりましょうか―― あるいはそれの帯びる《権威》 さらにあるいは社会形態として国家を成り立たせると アマテラス公民の《権力》という事態も生じて来ますが 律法の必要とされた時代情況のことをうかがうと これら大きく広く権力ということについて 思いをめぐらされます。

 規範の権威が 人間化にとって広く養育係であったとも考えられるのでしょうか。
 ヨリ(憑り)なる原始心性が 《わたし》に目覚める――すなわち 《わたしたち》の存在やその仲間や社会を超えたところに何ものかを感じたときから そのナゾに対するきよらかなおそれのもとに 《ひとり》としてのわたしにも目覚めた――ところに 世界への《イリ(入り)》なる歴史知性が現われた。
 これが 人間化であったと捉えます。

 かの地では モーセに律法が与えられた。そのときには まだいわゆる市民とその上の階層に公民が二階建ての社会を住み分けるということではなかった。
 《〈わたしはある〉 それがわたしだ》という名乗りを聞いてモーセは そういう名のナゾの者が 自分たちをエジプトのくびきのもとにある生活から抜け出させるのだと人びとに説明して 《権威ないし権力》のようなかたちを演じた。そののち 王が 公民圏つまり第二階の権威かつ権力者に制度として立てられた。

 日本では 《和を以って貴しと為せ さからうこと無きを旨とせよ》という律法が敷かれるのは 《イリ歴史知性》の誕生のあとはるか(三百年近く)時を経て すでに《ヨセ(人びとを束ね寄せる)》なる超歴史知性が出現し これらはアマテラス公民として 社会の神棚にも比される雲の上の第二階に坐って 一般的に言ってアマテラス王制を樹立したあとのことであった。

 《むさぼるなと律法によって言われなかったなら わたしはむさぼりなることを知らなかった》というのは たしかにこの権威ある規範が 人間化にとっての養育係であったことを示しているかと思われます。
 《和を以って貴しと為せ》という普遍アマテラス語は 養育係であるのかどうか? 罪に国つ罪と天つ罪との二種類があるように 《和を乱す》という事態は 国ないし市民どうしのあいだでけんかをしてもそれは大した罪でもない。けれどもつまりは 《お上にさからう》という意味で和を以って貴しと為さなかったなら それは行き着くところは とどのつまりとしては 死刑である。すなわち 《天つ罪》は あたかも神の普遍性を権威としてまた権力として代理するかのごとくに 押し並べて否応なく当てはめられる。
 このたぐいの《和》の精神が 人間化への養育係であったのかどうか?

 と言っても すでに三百年も前に人間化は イリなる歴史知性の誕生において 理論的にだとしても 成った。《立ち帰る》べき原点(もし 信仰ではないとすれば 出発点)は 成っている。
 ヨセなるスーパー歴史知性によるアマテラス普遍語律法は 何だったか?
 お役人言葉とは 何であるのか? 人びとが過剰に心配することなくパニックに落ち入らないようにという心遣いから 無難な表現を用いて 社会の秩序をも重んじる行き方を取る。
 どうも鳥籠の中に人びとを入れてしまっておきたいという権威としての意向が アマテラス語律法やその言葉づかいには 見え隠れしているのではないでしょうか?
 あるいは 鳥籠などといったものは 決して見えるようにかぶせられているのではないとしたら 鳥黐(とりもち)のようなねばねばした・目に見えない通行手形をつねに携行させられているかのような社会生活。

 
 こんな随想を思わずしたためましたが そんな現状ではないでしょうか 日本の社会は。
 そこでは 人がおのれの原点に立ち帰るときには 立ち帰ってその真実を表明しようと思うときには むしろ世間のどこかから音も無く鳥黐のような雪が降って来て あんた 待ちなさい そんなほんとうの正気に成ってはいけませんや ちょっとはバカにならなきゃぁ それが日本人の大人ってものですとささやくようです。
 ただ 西暦300年ごろ 三輪山のふもとには イリ歴史知性として〔社会的に人間的に〕生まれた日本人の社会がすでにいちど成りました。
 イリびとは ヨセびとのおとなぶりを・つまりは権威と権力に巻かれる物分かりのよい馬鹿ぶりを もっとまねぶ必要があるかも知れません。ヨセびとは イリびとの真面目ぶりをもっとまなばねばならないでしょう。
 イリびとは その原点のにんげんという動態を 現象としてはちっとは芸人も顔負けとなるほどのボケをも演じる中に表現しきる。三枚目に徹して ヨセびとが自分たちのもとにかかえる芸人たちのお遊びをも凌駕するボケっぷりを見せることも ひとつの道筋であるかに思えて来ました。
 果てさて どうでしょう。

 筆のおもむくままにでした。失礼しました。

お礼日時:2011/08/04 23:42

こんばんは、bragelonneさん。




【QNo.4238782 自己のクオリア】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4238782.html

この回答への補足

 ★ 【QNo.4238782 自己のクオリア】
 ☆ これを出してくれたということは わたしの《七転八倒から右往左往》の状態を見るに見かねて自信を取り戻し元気を出したまえというお気づかいでしたか。
 ありがとうございます。





 凹み落ち込んだときも その状態を楽しんでいるところがあり しぶといおっさんです。
 正直を言えば あぁ なんだそのひどい顔は? どん底って顔をしてるぢゃないかと声をかけ はっはっはっと笑ってくだされば この上ない元気づけになります。


 ○ 詩についての見方として 霊感(インスピレーション)説か それとも 自然や社会関係の模倣(ミメーシス)説か。 
 ☆ これは どうも後者が 自然および社会つまりまとめて世界についてのその自然科学的なありのままの認識 つまりは合理思考の問題になるのかも知れません。
 つまり ヒラメキとコギト(我れ考える)との二つの視点のことだと。

 質問者は ヒラメキがコギトに先行するという見方に立ちます。時間的な後先というよりは 考え方として優先するであろうと見ます。
 となると 必ずしもその通念として見られるほどの《二律背反》が互いのあいだにあるとは 見ていません。霊感が先行しているというからには そうなります。

 ただし この質問におけるダヰ゛デが 一目ぼれのインスピレーションを受けたとき その行動については まちがっていたという結果をもたらしました。
 つまりたぶんたとえば バテシバ〔とその夫ウリヤ〕のその後を ひとまづ待つ。じっと見守る。といった振る舞い方も考えられるでしょう。
 ヒラメキは・そのちからは けっこう大きいと考えます。必ずしもどちらかひとつをえらばなければならないといった二律背反になるとは じつは 思いません。その点 どうでしょう?

補足日時:2011/08/03 09:39
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この回答へのお礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 自分の文章ですが その中のひとくだりがご回答に関係しているのかと取ったものですから 掲げてみます。つまり次の――長いですが――文章の中の最後のほうの(6)です。
 つまりは やはり《自発・自己表出・自己の内面における自然本性としての展開》の話として。いわゆる客観的な科学的な事実認識や情況把握を得る前にも あるいはそして みづからの行為形式や生活態度としての思想を――つまりこれを 《文体》と言っていますが――まだ確立する前にも 《自己表出と自己表現》は内から湧き起こり 行動に出る場合はあるのだと。

 ☆☆(【QNo.4238782 自己のクオリア】回答No.22) ~~~
 かつて 《文体》という視点ないし主題として 考えたことがあります。以下のようです。

 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。
 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。

 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。

 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。

 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.)

 文体の原則(命題):

 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。

 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。

 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。

 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。

 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 

 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。

 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。
 ~~~~~~~~~

 ☆ あとは その自己表出としての自己表現が たとえば倫理規範に違反するという場合 これをどう捉えたらよいか? ここに帰着する問題であるようです。
 ひょっとすると おのれの自然本性にしたがった自己表現の場合には 自分の人間としての原点に立ち帰ることが 変な言い方をすれば保証されている。といった見方にまでひろがりましょうか? (いえ まだよくは分かりませんが)。


 ★ 【概念としての文学─ 起源における東西詩学の伝統の相違をめぐって─】テレングト・アイトル
 ☆ は 90ページの内の66ページを読みましたが 注釈を除くとあと十数ページですので 一両日中には読み終え得ましょう。筆者は おおらかな文体ですすめているようです。ただしその旅の行く先が いまなおまだ見えていません。〔詩は 霊感(インスピレーション)によるものか それとも 自然や社会関係の模倣(ミメーシス)によって無難なかたちで成るものか。これをめぐって問い求めていましょうか? それにしては 議論はのどかです〕。

 ★ 【愛することと往生をとげること : 発心集第四九話成立の論理と背景】
 ☆ これは 読んだ結果をむしろ回答No.7のお礼欄で発表しました。


 取り敢えずにて。

お礼日時:2011/08/02 12:56

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。

ひどっち、でございます。

> 処理としては けっきょくちょうど自然史過程としてのように ウリヤという人間およびダヰ゛デとバテシバとの間に生まれた子というふたりが死ぬというかたちで推移しましたので それを受け容れるしかないようなのですが だとすればあとは この《魔の期間》をどうとらえておくかになると思います。

 了解致しました。

> 2. もしウリヤも生まれた子も いまの自然史過程にゆだねたとすれば あとは バテシバあるいはかのじょとのあいだの第二子ソロモンの存在が どう捉えられるかにあると考えられます。
> 2-1. その《魔の期間》についてみれば ダヰ゛デにとって このソロモンのことなどは むろん考えてもいなかった。けれども 例のナタンに臨んだ神の言葉には ダヰ゛デ家の将来ということが イスラエルのそれとつながって 大きな主題となっていたはずです。

 はい。以下にご教示いただいておりますように、ダビデの血を継ぐ多くの者達の中で偶然とも言えるソロモンが継承者となったこと。また彼が王位をつぐことにより、ダビデ家の内紛(さらにはイスラエル)は治まったこと等を鑑みますと、大きな主題となっているものかと思われます。
ですが、ダビデ自身が不倫相手の子(ソロモン)が神に愛されるとは、当初は考えても見なかったと思われます。

 ▼(サムエル記下7:4-16) ~~~~~
 8: わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。
 ~~~~~~~~~~~~

> 2-2. このお告げは むろんバテシバ事件より前に起きています。このお告げをナタンから聞いたダヰ゛デは 次のように祈ったと言います。
 ▼(サムエル記下7:18-29) ~~~
 25:主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。
  ~~~~~~~~~

 この神の御言葉を考えますと、バテシバとの関係以前に、既に神により、予め何かしらのものが決められていたように察せられます。

> 3.けれども たしかにおっしゃるようにダヰ゛デは つねに神の声にしたがうかたちで行動しているとも思われます。
 つまりは たとえばこのバテシバとの第二子が ダヰ゛デ家の将来を継ぐ者であるかどうかについての思わくを たとえ持ったとしても 自分の思わくなどとしては どうでもよいと十分に考えていたろうと思われます。

 おそらく、上記の御言葉を信じ続け、自らが選び出そうという気概はなかったものと思われます。
 また、バテシバの忠告(願い)を聞き入れ、ソロモンを王位に継がせた経緯を見ますと、ダビデ自身は自分自身が選び出すという気持ちはほとんどなかったものと解されます。

> 4.言いかえると そうしますと こう考えられても来ますが どうでしょう?
 すなわち モーセの十戒をもものともせず 神の声に就いたのだと。
 いまは 夢の中の無思慮の行動として捉えていますが そのダヰ゛デの行動も たとえば《むさぼるなかれ。隣人の妻・・・を欲してはならない》といった戒律もものかは 夢見る人という状態で神の声に〔のみ〕従った。とも解されて来ましょうか?

 非常に難しい問題かと思われます。つまり、神がお怒りになられたのは、“姦淫”によるものなのか、それとも“ウリヤを殺害してしまったこと”のどちらに、重きが置かれているのかを考慮する必要があるからでございます。ですが、以下の預言者の言葉からは、妻を奪ったこと、つまり“姦淫”の方を罰しているように察せられます。
 ですが、その後、ダビデは罰を受けることになります。従いまして、“夢見る人という状態で神の声に従った”とは断定しにくいかと思われます。 

12:09
なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

> 5.アブラハムの信仰が優先した。信仰が律法に先行する。
 でも ダヰ゛デの行動はまちがっていた。

 少なくとも、今回のダビデによる“姦淫”には、間違いが認められたと考えられます(この背景には、幾人もの妾をつくり、挙句の果ては“近親相姦”にまで及び、ダビデ王家が不安定化していたのも原因かと考えております)。

> 6.そうしますと けっきょくのところは 神がモーセらにこの律法を与えたことがわるい。こうなりませんか?
 アブラハムの信仰にのっとって律法を受けとめれば 上からの・あるいは必ずしも明確に心に受けとめられていなければ外からの命令としてなどとは 思わなかったということでしょうが いまもユダヤ人にとっては生活のことごとくを律するかたちの規則となってしまっています。その責任は 人間にもありましょうが 神のほうにもあると見られませんか?
 でも エジプトにおける奴隷としての生活状態からは抜け出させなくてはならなかったでしょうか? そのためには 戒律も必要となったのでしょうか。

 この件につきましては、後述しておりますが、止むを得なかったのではないかと考えております。
 
> 自然史過程とは どういうことか?
 そのとき 中でも 大きな悪行を犯したりした場合 その場合においても これが大目に見られるということが起きます。それとして めぐみを享けるということかと考えられます。

 理不尽と思われることもあろうかと存じますが、現実的にかようなことはあることも事実かと思われます。

> その悪行の期間にあって 魔が憑いたように自分が自分でなくなっていたとしても そのあとで では何故そのような悪魔憑きに落ち入ったのかを説明するのが ふつうではないでしょうか? 

 仰られる意味は愚生にもわかります。

> かれは我れに還って反省しましたし 罪を赦すのは神のわざとして捉えますから人びとは その神の赦しのもとに赦すというかたちを取る。
 のですが もしこうであれば すでにそのとき 例のモーセの十戒なりそもそも律法という生活規範なりの効果を神は なくしてしまうべきであった。はっきりそう宣言しているべきであった。

 仰られますように、一理あろうかと考えております。
“モーセの十戒”が、律法として定められた経緯と致しましては、例えばアブラハムのように、ひとりの人間に対してならば、そんなことは不要だったと思われます。また、モーゼ一個人に対しましても、おそらく不要だったかと考えております。ですが、エジプトから、多数のものを移動・救済するには、ある程度の“規律”が求められたものと考えております。ときとして、ひとは群集心理に晒されますと、一対一の付き合い・話合いであるならば、問題ないところでも、いろんな厄介事を起こすのが常かと存じます(思わぬところで、別の神・偶像を崇拝してしまう等でございます。そうなりますと、勝手に姦淫にふけったり致しますと、内紛状態となり、追っ手からの逃避は困難となってしまうものかと推察されます)。
このために、最低限度としての神と人との契約が要求されたものと考えております。

> そのような律法の無効についての宣言とともに たとえばダヰ゛デのこの罪についても問われないのだと宣言する。
 つまりは 旧約の時代のいづれかのときにおいてすでに神は 律法は方便であり 時限立法でしかないのだよと明らかにしていてもよかった。
 
 平時のときには、必要性はあまりなかったものと考えられます。つまり、“時限立法”だったと察せられます。ですが、ただ、「わたしのほかに神があってはならない」は絶対的かと思っております。

> それが ウリヤの死をあがなって〔たぶん〕余りある世界史の転換であったろうし 子の死をもってつぐなうかたちを取ったことの意義であろうし ダヰ゛デもバテシバも赦されてあることになったという・そのような全体としての自然史過程であるのではないか。
 つまりあるいは イエスの登場が遅かった。遅れた。
 とすると その遅れは どういうわけか? にもなるかとも思います。

 いわゆる、救世主、メシア(משיח)は、「(油を)塗られた者」、つまり、ダビデの末裔から生まれる、とそう考えらていたように記憶しております。確証はないのですが、このダビデの件を含め、神から遣わされたものと考えております。なぜ、そこまで遅れたのかにつきましては、残念ながら愚生にはわかりません(全国に広まる、という条件、つまり、最大帝国であったローマ帝国の頃を待っていたのかもしれませんが、小例受のことは残念ながら・・・)。

> あるいはこれらすべての考えは 無効でしょうか?

 いえいえ。モーゼとの契約(カナン契約)がその後、どういう過程において、ひとに必要とされたのか、もしくは無用の長物であったのか?
 とても興味深い問題かと考えております。従いまして、かような考察は考慮に入れるべきかと、そう考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 七転八倒から右往左往と言いましょうか あるいはむしろ逆にちょっぴり誇らしげに王道を歩いていると言ってもよいのでしょうか おかげさまで少し目の前が見えて来たように感じられます。

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 広く深い解説をいただきました。

 ★ ~~~~
  > あるいはこれらすべての考えは 無効でしょうか?

 いえいえ。モーゼとの契約(カナン契約)がその後、どういう過程において、ひとに必要とされたのか、もしくは無用の長物であったのか?
 とても興味深い問題かと考えております。従いまして、かような考察は考慮に入れるべきかと、そう考えております。
 ~~~~~~
 ☆ もしこのように視野を開くかたちに賛同いただけたのでしたら 話は――初っ端に述べましたように また わたくしにとっては―― 分かりやすくなって来ました。

 1. ことは 旧約の時代と新約以降の世界との違いにあるかと捉えます。

 2. 預言者ホセアの行動――自分を裏切った妻を取り戻し受け容れろという神の声にしたがった――については むしろ聖書記事がモーセの律法のもとにある社会の中での行動として描いているのに対して 現代のわれわれは――イエスの出現とその磔の死と復活のあとで―― どういう解釈を持ちみづからもどう行動するか。これについて考えました。(【Q:預言者ホセアの行動をどうとらえますか?】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6827810.html

 3. ところが このバテシバ事件におけるダヰ゛デの行動とその取り扱いに関しては むしろ逆である。旧約聖書の記事のほうが その罪を神が取り除いてやるというかたちにおいて まったくのごとくキリスト・イエスの愛のもとにある。そのようにしるされており 現代人もその記事のとおりでそのまま納得するかと思われます。その意味での自然史過程にある。

 4. では ただし なんぢ姦淫するなかれというモーセの戒律を犯したその罪を 神はどういうわけで――当時の人びとつまり旧約の時代にあっては――ゆるしたのか?

 5. アブラハムの信仰〔という原点〕が その思惟や行為の内容(つまりまた形式)についてわざわざ人間の言葉によって表現され その文章が規範とされ法律(つまり律法)として持たれるようになった。もしこの信仰〔による生活動態〕のための養育係としての律法が正式に与えられているのであれば その条文の違反を どのように取り扱うのか。どう扱えば 明らかな違法行為をいともかんたんにゆるすことが出来るのか?

 6. これは ゆるしてはいけないと言うためではなく 人びと一般がどう納得するかたちを取ったのか? これを知るために問い求めるものです。通俗に言えば ダヰ゛デひとりをそうたやすく赦すのであれば 社会生活として見れば しめしがつかないではないか? という問いです。

 7. もしイエスのあとの時代という観点に立てば おそらく――にゅうとらるさんが ほかの場で提起しその考えを述べたところに従って No.5の補足欄にわたくしも応答した見方になるのですが―― ひどっちさんも初めから触れておられたように 《我れに還る》という反省もしくは 旧約聖書の言葉で《立ち帰り》の問題だと考えます。
 アブラハムに起きた信仰の原点へのつねなる《立ち帰り》 これが ダヰ゛デの身と心において 成った。ゆえに ゆるされた。(あるいは ゆるされた・つまりめぐみを与えられたゆえに 立ち帰ることが出来た)。

 8. ダヰ゛デあるいは人びと一般にとってそのひとりの人の内面における主観としての《立ち帰り》――あるいは パウロの目のうろこ事件のような《回心》(つまり 身と心とを みづからが改めるというよりは 身と心とが回転させられもとの道へと戻される)――は けっきょく他者には分かりません。基本的に なぜ回心できたのか なぜそれが《立ち帰り》であると分かるのか つまり要するになぜゆるされたのか これは ひとに説得することが出来ないことであるかに思われます。つまり キリスト・イエスの時代としての愛の世界であり そういう自然史過程なのだと考えます。

 9. ダヰ゛デの時代の人びとは このバテシバ事件の結末を では どう捉えどう納得したのか? ダヰ゛デもバテシバも信仰の原点に立ち帰ったと捉えたのか?――だとすれば それは イエスの愛の神のしわざである。モーセの律法の神はしりぞけられている。

 10. それでよいと質問者は考えますが ただし それならそれで ひとこと神は すでに旧約の時代においてあたらしい契約の世界にも入っているのだよと言って欲しかった。
 言っているようなんですが 果たしてどうなんでしょう?
 ▼(エゼキエル書33:11) ~~~~
  彼らに言いなさい。

   わたしは生きている、

  と主なる神は言われる。

   わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
   むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
   立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
   イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 (そのほかの同趣の句は 回答No.5補足欄を参照)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 律法という養育係あるいは 規範とされたからには何らかの目隠しのような覆いを 社会としては正式に掲げつつ 人びとそれぞれの主観としての内実において後世のキリスト・イエスの愛をじわじわとにじませつつ しめそうとしていたでしょうか?

   *


 以上は 次の見方およびそれについてのご見解をわたくしなりに 旧約と新約との異同という論点として 説明したものです。
 ★ ~~~~~
  > 自然史過程とは どういうことか?
  そのとき 中でも 大きな悪行を犯したりした場合 その場合においても これが大目に見られるということが起きます。それとして めぐみを享けるということかと考えられます。

 理不尽と思われることもあろうかと存じますが、現実的にかようなことはあることも事実かと思われます。

 ★ ~~~~~~~
 “モーセの十戒”が、律法として定められた経緯と致しましては、例えばアブラハムのように、ひとりの人間に対してならば、そんなことは不要だったと思われます。また、モーゼ一個人に対しましても、おそらく不要だったかと考えております。

 ですが、エジプトから、多数のものを移動・救済するには、ある程度の“規律”が求められたものと考えております。ときとして、ひとは群集心理に晒されますと、一対一の付き合い・話合いであるならば、問題ないところでも、いろんな厄介事を起こすのが常かと存じます(思わぬところで、別の神・偶像を崇拝してしまう等でございます。そうなりますと、勝手に姦淫にふけったり致しますと、内紛状態となり、追っ手からの逃避は困難となってしまうものかと推察されます)。

 このために、最低限度としての神と人との契約が要求されたものと考えております。

 ★ ~~~~~~~
  平時のときには、必要性はあまりなかったものと考えられます。つまり、“時限立法”だったと察せられます。ですが、ただ、「わたしのほかに神があってはならない」は絶対的かと思っております。
 ~~~~~~~~~

 ☆ 絶対者は 人間の意志や計らいや意識を超えて 絶対であるとつけ添えるのは 揚げ足取りですが。


 バテシバあるいはその子ソロモンに対する〔ようになる〕ダヰ゛デの態度が 自分の思わくはなくまったくにおいて神の声に従うものであるということでは 一致した見方だと受け取りました。

 次の点について ダヰ゛デが終始 夢遊状態であったという見方は 修正したほうがよいようですね。
 ★ ですが、その後、ダビデは罰を受けることになります。従いまして、“夢見る人という状態で神の声に従った”とは断定しにくいかと思われます。 
 ★ 少なくとも、今回のダビデによる“姦淫”には、間違いが認められたと考えられます(この背景には、幾人もの妾をつくり、挙句の果ては“近親相姦”にまで及び、ダビデ王家が不安定化していたのも原因かと考えております)。
 ☆ おのれの自由意志による行為という部分も見られると。


 ★ ~~~~~
 いわゆる、救世主、メシア(משיח)〔* マッシーアハと発音するようです〕は、「(油を)塗られた者」、つまり、ダビデの末裔から生まれる、とそう考えらていたように記憶しております。確証はないのですが、このダビデの件を含め、神から遣わされたものと考えております。
 なぜ、そこまで遅れたのかにつきましては、残念ながら愚生にはわかりません(全国に広まる、という条件、つまり、最大帝国であったローマ帝国の頃を待っていたのかもしれませんが、それ以上のことは残念ながら・・・)。
 ~~~~~~~
 ☆ 里程標のひとつとして 掲げました。


 まとめに向かうことができましょうか。

お礼日時:2011/08/02 11:47

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