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 次のようなうたをうたい続けていたダヰ゛デが 何を思ったか 王となってからは 人妻に恋慕し 挙句の果ては その夫を戦争の最前線に送りやって死なせた。女を自分のものにした。何が起こったのか? おしえてください。たたき台は ありません。

 ▼ (詩編26:2) ~~~
 わがかみ

 わたしをしらべ
 わたしをこころみ

 わがはらわたと
 わがこころを
 火のなかに
 ためしてください。
 ~~~~~

 ☆ たとえば人妻強奪作戦に出たのは 神の指図であったかと言うと そんな運命論のような予定説には 興味がありません。思考停止となるか この世で良い目に会うためにのみ思考を勘考するだけとなる。

 ダヰ゛デとて 人の子。あわれむべき人間である。といった見方も おもしろくありません。どんな事例にもあてはまりそうな事由です。思考放棄になりかねません。

 果てさて ダヰ゛デにいったい何が起こったのでしょう?
 お考えがありましたら おしえてください。(質問者のたたき台はありません。上のふたつの場合の中間だとか そういう考えも起こりません)。

A 回答 (39件中31~39件)

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> ★ 愚生にはとても難しい問題に察せられます。つきましては、新たな解釈等のご教示の程、よろしくお願い致します。

 ☆ いえいえ そういう意味ではありませんでした。《質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません》と言ったのは ちょっとした――ただし中身の破廉恥な――ヒラメキがまるっきり反故になるのでもないかなと思ったというそのこと〔のみ〕です。


 了解致しました。



> ★ 女性には”上書保存”が可能のようでございます(前の男は、自然と”delete"されてしまいます)。このため、その後の”愛ひとすじ”に生きられるのかもしれません。

 ☆ うっすらと そのように感じていましたが そうでしたか。ならば 双方における同時なる一目ぼれの仮説が とおるかも分かりません。


 これはあくまで、愚生の経験則と周囲の男(女)友達からの伝聞によるものでございます。女性批判とも捉えられるかもしれませんが、そのような意志は全くございませんでしたので、この旨ご了承いただければ、幸いでございます。因に男の場合は”別名で保存”とされております。


> そしていまは 正直に申して 次の事態の捉え方においてわたし自身は足踏みしています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 
 つまり、神が予めそれを知りながら、いや、むしろそれを望んで、” バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた”、としますならば、神が負うことになろうかと考えられます。
 また、その可能性は完全には否定できないのも事実でございます(後述しております *)。
 
 ですが、この事件はダビデに魔が差したものかと思われるのですが・・・
   
   * 6. 神はサウルを許していない
  
   21:01ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に

   託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を
  
   流したサウルとその家に責任がある。」

 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ダヰ゛デの側から見れば 《魔が差した》で済むかとも思いますが ウリヤから見れば では《魔が差した》ことの犠牲になっただけという解釈でしょうか?



 はい。そのように考えてはおります(非常に冷酷かと思われるかもしれませんが)。ただ、神の意志も存在していたかもしれない、という懸念もございます。


> ウリヤは ちょうど高等法院の祭司長たちに魔が差したことの犠牲になったイエスを・・・想わせる・・・でしょうか?
 
 いま思い浮かんだ考えです。イエスは ダヰ゛デやソロモンの血筋からのヨセフの子ですし。



 これは、全く思いつきませんでした。ただ、ダビデは神の恩恵を実際に得られた者でした。実際その恵に預かることもできました。この点におきまして、イエスを裁いた”高等法院の祭司長たち”とは異なるものと考えております。少なくとも、神のご意志は双方では異なっていたものと考えております。ですが、将来のイスラエルの民を心配した神の願いというものは同じであったかもしれません。



> あぁ いえ もう分かりません。
 この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。

 問題を複雑にしておりますのは、

・ダビデの不倫当時の夢遊状態(これは、概ね皆様方に受け入れられているかと思われます)、そして、
・ウリヤが犠牲となった際のバテシバの思い(目論み)、さらには、
・イスラエルの民を思った(もしくはサウルを許容易く許さなかった)神のご意志、

 の様々な問題を考慮しなくてはいけない、という点かと存じます。

> お礼欄の次の発言は またもや思わせぶりなかたちになってしまい申し訳ありません。

 ☆☆ ~~~

 あぁ いえ もう分かりません。

 この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。

 ~~~~~~


 この点につきましては、愚生の説明不足の問題もございますため、また愚生自身も自信をもっての回答できたという訳ではございませんため、当方にも非があるかと思われます。つきましては、こちらこそ、深くお詫び申し上げます。


> ☆ 何か具体的に先が見えて その中身によってここらへんで中断しようといったのではありません。 いちど ともかく中断し時間をおいてみたほうがよいと 自分自身のこととして勝手に思い そう言ってしまいました。その点 すみません。

> それにまた わたくしが飛躍をしてしまいそうな予感がしたそのゆえに 中断したほうがよいのではと思ったのでした。

 
 また何か、興味深い点等ございましたら、ご提示いただければ、とそう思ってございます。実を申しますと、こんなに難しい問題とは思わず、そのままざっくりと回答してしまった愚生もうかつでございました。誠に申し訳ございませんでした。



> 要するに 時間をください。考えてみます。という意味でした。よろしくどうぞ。

 了解致しました。
 愚生と致しましては、ご質問者様が、「もうそろそろ」とお思いになるまで、お付き合い致したく思っております。
 また何か、ございましたら、ご提示下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。



 誠に申し訳ございません。以下の欄をお借りすることをお許しくださいませ。


 今まで、女性ご回答者様の方々にも多くのご意見が示され、また愚生も多くのことを考えさせられました。
 また何か気づいた点等ございましたら、(ご質問者様の問題に関する)何かしらのアドヴァイス、ヒントとなりうるものをご提示いただければと願っております。もちろん、「ひどっち君それは違うんじゃない?」といったものでもご遠慮は全く要りません。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 お礼欄で 律法がいけないだのと またもやワケの分かりづらいことを言いましたので おぎないます。

 自然史過程とは どういうことか?
 人びとはそれなりにおのおの自由意志において生きています。ふつうに(善く)生きていれば それとして神のめぐみを享けて生活していましょうし ときに悪をおこなっているとすれば 暗く苦しくてもそれなりに自然史としてのごとく生活している。
 そのとき 中でも 大きな悪行を犯したりした場合 その場合においても これが大目に見られるということが起きます。それとして めぐみを享けるということかと考えられます。

 ですが 一般に信仰のもとにある人間の生活においては この自然史過程は 《成るように成る》という史観とは微妙に異なります。
 善とそれにさからう悪とは 一般にわきまえられていましょうし 悪行が赦されるというのも 何らかの神学あるいは哲学において説明が成されるものだと考えられます。これが 自然史過程であり そうではなく ケセラセラの史観によれば 善と悪とについては一応は区別するけれども けっきょくはどうでもよいと見なすのだと考えられます。違いがあります。

 でしたら もしダヰ゛デの悪行が大目に見られその罪が取り除かれるのだとすれば それは どういうわけであるのか? この説明が成されるのが ふつうではないかと思われるのです。
 その悪行の期間にあって 魔が憑いたように自分が自分でなくなっていたとしても そのあとで では何故そのような悪魔憑きに落ち入ったのかを説明するのが ふつうではないでしょうか? あるいは何故 かれは赦されたのでしょうか?


 かれは我れに還って反省しましたし 罪を赦すのは神のわざとして捉えますから人びとは その神の赦しのもとに赦すというかたちを取る。(もしくは 人が人とその悪行を赦したり赦さなかったりする能力も資格もないと見て その裁きは神にゆだねる)。
 のですが――まったくにおいてこうなのですが―― もしこうであれば すでにそのとき 例のモーセの十戒なりそもそも律法という生活規範なりの効果を神は なくしてしまうべきであった。はっきりそう宣言しているべきであった。
 そのような律法の無効についての宣言とともに たとえばダヰ゛デのこの罪についても問われないのだと宣言する。
 つまりは 旧約の時代のいづれかのときにおいてすでに神は 律法は方便であり 時限立法でしかないのだよと明らかにしていてもよかった。
 
 それが ウリヤの死をあがなって〔たぶん〕余りある世界史の転換であったろうし 子の死をもってつぐなうかたちを取ったことの意義であろうし ダヰ゛デもバテシバも赦されてあることになったという・そのような全体としての自然史過程であるのではないか。

 つまりあるいは イエスの登場が遅かった。遅れた。
 とすると その遅れは どういうわけか? にもなるかとも思います。

 あるいはこれらすべての考えは 無効でしょうか?

補足日時:2011/07/31 13:43
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この回答へのお礼

 ひどっちさん ご回答・ご説明をありがとうございます。

 いまわたしにとって問題になっていることは ダヰ゛デにとってひとつの時期として魔が差しあたかも夢の中で行動していたという期間があったということが そのあとになってどう処理されたかです。
 処理としては けっきょくちょうど自然史過程としてのように ウリヤという人間およびダヰ゛デとバテシバとの間に生まれた子というふたりが死ぬというかたちで推移しましたので それを受け容れるしかないようなのですが だとすればあとは この《魔の期間》をどうとらえておくかになると思います。

 1. 魔が差した期間は 魔が差した期間として捉えるしかない。とする捉え方。
 ちなみに自然史過程というのは この場合――神がその責任を負うということともつながっていると思うのですが―― 早い話としては ものごとは言ったモン勝ちであり そう行動を起こしたモン勝ちだという意味になると考えます。
 
 1-1. たぶんこの解釈は 旧約の時代において しかもアブラハムの信仰のもとによりは モーセの律法のもとに生きるというかたち(現象)が起きていたこととかかわるように思います。そういう制約があったというようにです。

 2. もしウリヤも生まれた子も いまの自然史過程にゆだねたとすれば あとは バテシバあるいはかのじょとのあいだの第二子ソロモンの存在が どう捉えられるかにあると考えられます。

 2-1. その《魔の期間》についてみれば ダヰ゛デにとって このソロモンのことなどは むろん考えてもいなかった。けれども 例のナタンに臨んだ神の言葉には ダヰ゛デ家の将来ということが イスラエルのそれとつながって 大きな主題となっていたはずです。

 ▼(サムエル記下7:4-16) ~~~~~
 8: わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。
 ・・・
 11:わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。
 12:あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。
 13:この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。
 ~~~~~~~~~~~~

 2-2. このお告げは むろんバテシバ事件より前に起きています。このお告げをナタンから聞いたダヰ゛デは 次のように祈ったと言います。

 ▼(サムエル記下7:18-29) ~~~
 18:「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。
 19:主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。
 ・・・
 25:主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。
 ・・・
 ~~~~~~~~~

 3. けれども たしかにおっしゃるようにダヰ゛デは つねに神の声にしたがうかたちで行動しているとも思われます。
 つまりは たとえばこのバテシバとの第二子が ダヰ゛デ家の将来を継ぐ者であるかどうかについての思わくを たとえ持ったとしても 自分の思わくなどとしては どうでもよいと十分に考えていたろうと思われます。

 4. 言いかえると そうしますと こう考えられても来ますが どうでしょう?
 すなわち モーセの十戒をもものともせず 神の声に就いたのだと。
 いまは 夢の中の無思慮の行動として捉えていますが そのダヰ゛デの行動も たとえば《むさぼるなかれ。隣人の妻・・・を欲してはならない》といった戒律もものかは 夢見る人という状態で神の声に〔のみ〕従った。とも解されて来ましょうか?

 5. アブラハムの信仰が優先した。信仰が律法に先行する。
 でも ダヰ゛デの行動はまちがっていた。

 ▼(サムエル記下11:27) ~~~
 〔* バテシバとの第一子の〕喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。

 ▼(サムエル記下 12:13-14) ~~~
 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」

 ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
 ~~~~~~~~
 ☆ 記事と事実経過とは前後しているかも知れません。

 6. そうしますと――この推理の流れに従いますと―― けっきょくのところは 神がモーセらにこの律法を与えたことがわるい。こうなりませんか?
 アブラハムの信仰にのっとって律法を受けとめれば 上からの・あるいは必ずしも明確に心に受けとめられていなければ外からの命令としてなどとは 思わなかったということでしょうが いまもユダヤ人にとっては生活のことごとくを律するかたちの規則となってしまっています。その責任は 人間にもありましょうが 神のほうにもあると見られませんか?
 でも エジプトにおける奴隷としての生活状態からは抜け出させなくてはならなかったでしょうか? そのためには 戒律も必要となったのでしょうか。

   *

 ☆ 以上は
 ★ ~~~~
 問題を複雑にしておりますのは、

 ・ダビデの不倫当時の夢遊状態(これは、概ね皆様方に受け入れられているかと思われます)、そして、
 ・ウリヤが犠牲となった際のバテシバの思い(目論み)、さらには、
 ・イスラエルの民を思った(もしくはサウルを許容易く許さなかった)神のご意志、

 の様々な問題を考慮しなくてはいけない、という点かと存じます。
 ~~~~~~~~
 ☆ の三つ目の問題について 少し別の角度から問い求めようとしたものです。ひとつの結論も 思わぬ方向に行ってしまいました。直さずこのままをご報告します。

お礼日時:2011/07/31 09:24

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ○ ダヰ゛デはその長い生涯において 王に就いてからの或る日の午後 昼寝から覚めたと思ったら あとは 水浴びする女を見た覚えはあるが それからというもの 或る日 預言者ナタンによる叱責を耳にしてようやくほんとうに目を覚ますまで その一定の期間は 夢の中にあった。何が起きたか 分からないほど 偶発的なことであった。
☆ このひどっちさんのご見解は ひじょうに魅力的です。まづは そう考えます。


 誠に、光栄に存じます。


> まづやはり いちばんひっかかることは たとえ夢の中においてであったとしても ダヰ゛デはきちんと情況を受けとめ事を進めていると思われることです。確認しますが
(1) バテシバが子を宿したと分かったとき 夫のウリヤを戦線から呼び戻し 夫婦で床をともにさせようとしています。生まれて来る子は 自分たち夫婦の子であると思わせるよう その偽装のために。


 仰られますように、用意周到な策略を用いております。ダビデは自己の失態を隠そうとすべく、ウリヤに対して、妻バテシバと関係を持たせ、子供がウリヤ自身のものだと考えることを期待し、ウリヤを家に返そうともしています。
 ですが、夢の中とは、バテシバに夢中であったこと、さらに申しますと、自分はイスラエルの王である。(我を裁くものなどいない)絶対的存在である、とも思っていたのではないでしょうか?
 しかしその後、ナタンに諭され、反省し我に返るのですが・・・


> 片や すべて偶発的な事件に始まってあとはその――長い日にちを費やしたとしても―― まったくのこととして一睡の夢であったと見たとします。ところが片や その夢の中で 自分の子が生まれるという事実と人ひとりを死なせるという事実とが起きている。
 つまりは このように夢の中で振る舞ったことの中身について どう受けとめるのか? という課題が残っているのではないか?


 おそらく、絶対的存在に近い存在であるとの傲慢心があったものかと想像しております。



> メシア=キリストあるいはつまり神の独り子であり神である そういう存在では自分はないのだぞとダヰ゛デが 明らかにするためにという意図が〔夢の中における行動として〕はたらいたとしたなら そのために《一人の女を孕ませ その夫を戦死させなければならなかった》という・自分の心つもりにはまったくない事態が 伴なわれています。

 傲慢にも破廉恥にも そういう副作用がともなわれなければならなかった。

 その傲慢と破廉恥は もしダヰ゛デの罪が取り除かれたとしたら けっきょく神が負うことになり
 とどのつまりは 神が・神こそが バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた。ということになりましょうか? どうでしょうか?

 

 つまり、神が予めそれを知りながら、いや、むしろそれを望んで、” バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた”、としますならば、神が負うことになろうかと考えられます。
 また、その可能性は完全には否定できないのも事実でございます(後述しております)。
 ですが、この事件はダビデに魔が差したものかと思われるのですが・・・

> ちなみに りとるきすさんのご見解は――質問者が勝手に推し測るのですが―― ひとつに《一目ぼれ》という見方を ひどっち説と共有し もうひとつにこれを むしろ女の側から見ている。
 
「いまの《一目ぼれ》を 女が・つまり ダヰ゛デがどうかはいま別として 人妻であるバテシバのほうが体験してしまったのだという見方です。」
 
「そうして 長明の見解によれば 愛にしても決して仏道のさまたげになるのではなく ひとえに心をそそぎその愛という《ひとすぢにたのむ》ならば 往生すると言うのだそうです。」
 
バテシバは 夫ウリヤを裏切ることになるが その裏切りよりもさらにとうとい・言わば務めとしてのように 王ダヰ゛デに一目ぼれをして あとはその愛ひとすぢにたのみ ひとすぢに生きようとしたのだと。
 夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?
  

 まず、鴨長明のご説明を賜りまして、厚くお礼申し上げます。
 今度はバテシバが、ダビデに対してどのような情を抱いていたかと考えますと、愚生にはわかりません。ただ、ダビデは美青年であったといわれていますので、まんざらでもなかったのかもしれません。残念ながら愚生にはわかりませんが、女性には”上書保存”が可能のようでございます(前の男は、自然と”delete"されてしまいます)。このため、その後の”愛ひとすじ”に生きられるのかもしれません。

 また、”夫ウリヤの戦死よりもとうとい務め”というものがあるとしますと、以下のことが考えられます。

1. 神はひとに対しては主[あるじ]であり、無条件なる絶対者である。

2. ダビデ家が不安定になっていたこと。(当時の)王家の動乱は国民にも不足の事態をもたらすため、神はこれを回避したかった。
3. サウルとの娘との子供には王位を継がせたくはないという神のご意志。

 1につきましては、省略させていただきます。2につきましては、以下に記載しておりますように、ダビデ家の内情は不安定そのものでございました。その動乱の中、罪のない人も殺害されたものと推察されます。神にとりましても、これを防ぐのが目的であったのかもしれません(ダビデがもっとしっかりしていれば問題はなかったのかもしれませんが)。
 また、3につきましては、以下の”6. 神はサウルを許していない”をご参照くださいませ。

1. ダビデの子供達による強姦(近親相姦)
13:11-13:14
彼に食べさせようと近づくと、アムノン[ダビデの息子]はタマル[アムノンとは異母兄弟]を捕らえて言った。「妹よ、おいで。わたしと寝てくれ。」タマルは言った。「いけません、兄上。わたしを辱めないでください。イスラエルでは許されないことです。愚かなことをなさらないでください。わたしは、このような恥をどこへもって行けましょう。あなたも、イスラエルでは愚か者の一人になってしまいます。どうぞまず王にお話しください。王はあなたにわたしを与えるのを拒まれないでしょう。」アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで辱め、彼女と床を共にした。

2. 強姦された妹[タマル]の兄[アブサロム]による復讐
13:28
アブサロム[タマルの実兄]は自分の従者たちに命じて言った。「いいか。アムノンが酒に酔って上機嫌になったとき、わたしがアムノンを討てと命じたら、アムノンを殺せ。恐れるな。これはわたしが命令するのだ。勇気を持て。勇敢な者となれ。」

3. 復讐をした息子[アブサロム]をダビデが許す
14:33
ヨアブは王のもとに行って報告した。王はアブサロムを呼び寄せ、アブサロムは王の前に出て、ひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。

4. しかし、その許された息子[アブサロム]が勝手に王位に就こうとする
15:06-15:14
アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるまい、イスラエルの人々の心を盗み取った。<中略>イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」

謀反を企てた息子[アブサロム]がダビデの部下に殺害される
18:14「それなら、お前に期待はしない」とヨアブは言った。アブサロムは樫の木にひっかかったまま、まだ生きていた。ヨアブは棒を三本手に取り、アブサロムの心臓に突き刺した。 18:15ヨアブの武器を持つ従卒十人が取り囲んでアブサロムを打ち、とどめを刺した。

6. 神はサウルを許していない
21:01ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」

7. 息子[アドニヤ]が勝手に王位に就こうとする
列王記 01:05-01:07
ハギトの子アドニヤ[ダビデの最年長の息子]は思い上がって、「わたしが王になる」と言い、戦車と馬と五十人の護衛兵をそろえた。彼は父から、「なぜこのようなことをしたのか」ととがめられたことが、一度もなかった。彼の体格もまた堂々としており、アブサロムの次に生まれた子であった。アドニヤはツェルヤの子ヨアブと祭司アビアタルに話をもちかけ、この二人の支持を得た。

8. 神に愛されたソロモンが、バテシバの願いもあり、王位継承者となる
列王記 01:28-01:31


> けれども 王ダヰ゛デの罪を”神が取り除いたとするのなら” いったいことの全体をわたしたちは どう見ればよいでしょう? 


 上述しておりますが、全体を見渡すことが可能な神におかれましては、最悪の事態は避けたかった、と考えられます。



> 一日経って 質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません。まだ分かりませんが 赤裸々に―― frisk に blue にて――途中経過の考えを明らかにいたします。

 愚生にはとても難しい問題に察せられます。つきましては、新たな解釈等のご教示の程、よろしくお願い致します。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました

この回答への補足

 お礼欄の次の発言は またもや思わせぶりなかたちになってしまい申し訳ありません。
 ☆☆ ~~~
 あぁ いえ もう分かりません。
 この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。
 ~~~~~~

 ☆ 何か具体的に先が見えて その中身によってここらへんで中断しようといったのではありません。 いちど ともかく中断し時間をおいてみたほうがよいと 自分自身のこととして勝手に思い そう言ってしまいました。その点 すみません。

 それにまた わたくしが飛躍をしてしまいそうな予感がしたそのゆえに 中断したほうがよいのではと思ったのでした。
 衝動的に行動してしまい この点も すみません。

 要するに 時間をください。考えてみます。という意味でした。よろしくどうぞ。

補足日時:2011/07/30 23:24
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 愚生にはとても難しい問題に察せられます。つきましては、新たな解釈等のご教示の程、よろしくお願い致します。
 ☆ いえいえ そういう意味ではありませんでした。《質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません》と言ったのは ちょっとした――ただし中身の破廉恥な――ヒラメキがまるっきり反故になるのでもないかなと思ったというそのこと〔のみ〕です。

 あとは バテシバについて
 ☆☆  夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?
  
 ☆ と書いているそのことが――批判しなければならないことであるゆえに 批判する口調で述べているにもかかわらず―― いわば自然史過程としては 現実となった。わけでした。
 つまりはそのように人間とその社会にとっての現実というものは 推移することがあるのかなぁという思いです。
 この思いまでです。《いくらか光が差してくれたかも知れない》という表現をした事由はです。

 このバテシバのほうが ダヰ゛デに一目ぼれしたという場合の想定は ひどっち説におけるダヰ゛デによる一目ぼれの場合とを重ねたかたちにおいても成り立つと思われますので 話として捉えておく余地があると思います。
 ★ 女性には”上書保存”が可能のようでございます(前の男は、自然と”delete"されてしまいます)。このため、その後の”愛ひとすじ”に生きられるのかもしれません。
 ☆ うっすらと そのように感じていましたが そうでしたか。ならば 双方における同時なる一目ぼれの仮説が とおるかも分かりません。


 そしていまは 正直に申して 次の事態の捉え方においてわたし自身は足踏みしています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 つまり、神が予めそれを知りながら、いや、むしろそれを望んで、” バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた”、としますならば、神が負うことになろうかと考えられます。
 また、その可能性は完全には否定できないのも事実でございます(後述しております *)。
 ですが、この事件はダビデに魔が差したものかと思われるのですが・・・

   * 6. 神はサウルを許していない
    21:01ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に
     託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を
     流したサウルとその家に責任がある。」

 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ダヰ゛デの側から見れば 《魔が差した》で済むかとも思いますが ウリヤから見れば では《魔が差した》ことの犠牲になっただけという解釈でしょうか?








 ウリヤは ちょうど高等法院の祭司長たちに魔が差したことの犠牲になったイエスを・・・想わせる・・・でしょうか?
 いま思い浮かんだ考えです。イエスは ダヰ゛デやソロモンの血筋からのヨセフの子ですし。





 あぁ いえ もう分かりません。
 この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。


 どうなんでしょう。

お礼日時:2011/07/30 23:01

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ☆ ということは 次のように罪に気づき そのあとナタンの言葉をとおして罪に問われなくなることが分かって このアヤマチとそれに気づかなかったマチガイの一件は 基本的に落着したということでしょうか?

 はい。そのように考えております。その後のダビデの辞世の言葉を鑑みましても、そう思われます。

IIサムエル23:1-23:5
以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌。主の霊はわたしのうちに語り主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語りイスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者 神を畏れて治める者は太陽の輝き出る朝の光雲もない朝の光雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜るすべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びをすべて神は芽生えさせてくださる。

> ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・
 ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。

 はい、仰るとおりでございます。“メシアではない”、さらには“メシアにはなら(れ)ない”と推察しております。

> 1.ダヰ゛デが人妻バテシバと出会ったのは ただの偶然である。と言うには そのバテシバとのあいだの次子ソロモンが 王位を継ぐことになるといった事後的な見方をつけ加えるならば まだ早いかも知れない。

 ダビデには、自分の後継者がソロモンになろうことは、バテシバと出会ったときにはまだ、分からなかったものと思われます。
 もしかしますと、サウルの娘との子どもには後を継がせたくはなかったという神の意志があったかもしれませんが・・・

> 2.バテシバの夫ウリヤが 犠牲になるそのことの意味が分からない。――それとも (1)をも含めてすべては 基本的に偶然のなせるわざだったのでしょうか?

 はい、おそらく、ウリヤの死は偶発的なものであったと考えております。神には別のご意志があったのかもしれませんが・・・

> すなわち――これも にゅうとらるさんによる指摘ですが―― 次のようにまとめられるように このバテシバの一件は 一定の期間つづき人を巻き込み犠牲にまでならせたが すべては偶然であり気まぐれのなせるわざであったという見方に傾いたほうが よいでしょうか。
 ▼ (列王記上15:5) ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからである。

 神のご意志はわからない、という前提で話をすすめさせていただきますと、これらの一件は、偶然の産物であったと考えるのが妥当かと思われます。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ○ ダヰ゛デはその長い生涯において 王に就いてからの或る日の午後 昼寝から覚めたと思ったら あとは 水浴びする女を見た覚えはあるが それからというもの 或る日 預言者ナタンによる叱責を耳にしてようやくほんとうに目を覚ますまで その一定の期間は 夢の中にあった。何が起きたか 分からないほど 偶発的なことであった。

 ☆ このひどっちさんのご見解は ひじょうに魅力的です。まづは そう考えます。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 冒頭のような言い方で話しを始めるということは あとでどんでん返しを用意しているという含みがあるのがつねですが この場合も違いありません。

 どういうことか?

 まづやはり いちばんひっかかることは たとえ夢の中においてであったとしても ダヰ゛デはきちんと情況を受けとめ事を進めていると思われることです。確認しますが
 (1) バテシバが子を宿したと分かったとき 夫のウリヤを戦線から呼び戻し 夫婦で床をともにさせようとしています。生まれて来る子は 自分たち夫婦の子であると思わせるよう その偽装のために。

 ▼ (サムエル記下11:4-8) ~~~~
 4: ・・・女(バテシバ)は家に帰ったが、
 5: 子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
 6: ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。
 ・・・
 8: それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」
 ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。
 ~~~~~~~

 ☆ あとは
 (2) ウリヤが王宮の入口で家臣とともに眠りに就いたため バテシバに会う機会がなかったのを知って ダヰ゛デは ウリヤをいちばん困難な戦線に就かせるよう指揮官のヨアブに命令している。案の定 ウリヤは戦死した。

 すなわち こうです。つまり これらすべてが 美女を見て一目ぼれしたという偶発的な事件から始まって あとはすべて夢遊病者のごとくに振る舞ったのであって ナタンの叱責を聞いたところでやっと我れに還ったのであると見たとしても そう見たとしても (あ)女が子を宿したことと (い)その夫を自分の命令によって戦死させてしまったこととは 事実として残ります。とうぜんのごとく ダヰ゛デは 引き受けます。我れに還ったかれなら 引き受けます。

 ということは どういうことになるのか?
 片や すべて偶発的な事件に始まってあとはその――長い日にちを費やしたとしても―― まったくのこととして一睡の夢であったと見たとします。ところが片や その夢の中で 自分の子が生まれるという事実と人ひとりを死なせるという事実とが起きている。
 つまりは このように夢の中で振る舞ったことの中身について どう受けとめるのか? という課題が残っているのではないか?

 ナタンの口にした言葉によれば その罪は取り除かれるとのこと。つまりそうだとしても 罪に問われないことと その罪にかかわる事態が その後も事実としてなお現在していることとは 別のことだと思われるからです。夢から覚めたダヰ゛デは どうこれを引き受けるか?





 じつは ダヰ゛デがどう考えどうするかとは微妙に違って 現代のわれわれがどう捉えるかという主題から行くと たとえば次のような見方が出されると思われます。 
 ★ ~~~~~
  ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。

 はい、仰るとおりでございます。“メシアではない”、さらには“メシアにはなら(れ)ない”と推察しております。
 ~~~~~~~
 ☆ 《メシア》は もともと王であれば油をそそがれるわけですから メシアの一人になるのですが ここでは キリストと翻訳されて復活を得たイエス――つまり《第二のアダム》――ではないということ。

 だとしたら――だとしたら です―― つまりこの《はじめにことばがあった》というときの《ことば》とも呼ばれたメシア=キリストあるいはつまり神の独り子であり神である そういう存在では自分はないのだぞとダヰ゛デが 明らかにするためにという意図が〔夢の中における行動として〕はたらいたとしたなら そのために《一人の女を孕ませ その夫を戦死させなければならなかった》という・自分の心つもりにはまったくない事態が 伴なわれています。
 傲慢にも破廉恥にも そういう副作用がともなわれなければならなかった。

 その傲慢と破廉恥は もしダヰ゛デの罪が取り除かれたとしたら けっきょく神が負うことになり とどのつまりは 神が・神こそが バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた。ということになりましょうか? どうでしょうか?



 ちなみに りとるきすさんのご見解は――質問者が勝手に推し測るのですが―― ひとつに《一目ぼれ》という見方を ひどっち説と共有し もうひとつにこれを むしろ女の側から見ている。
 『発心集』というのは鴨長明の手になるものだそうですが その当時の通念として《女は成仏するか》という問いがあって これに然り 女も往生するのだと答えていると言われます。この女人成仏いかんについては もう現代では問わなくてよいと考えますが そうすると問題は いまの《一目ぼれ》を 女が・つまり ダヰ゛デがどうかはいま別として 人妻であるバテシバのほうが体験してしまったのだという見方です。(質問者の勝手な推測です。りとるきすさん自身は どうであるか 分かりません)。

 そうして 長明の見解によれば 愛――この場合 男女両性のあいだの愛――にしても決して仏道のさまたげになるのではなく ひとえに心をそそぎその愛という《ひとすぢにたのむ》ならば 往生すると言うのだそうです。それは 衆生一般の思いを ブディズムの教義が実際にはどうであれ ブディズムのおしえとして織り込んでいるのであろうと。

 という見方に立つとするなら どういうことが言えるか?
 バテシバは 夫ウリヤを裏切ることになるが その裏切りよりもさらにとうとい・言わば務めとしてのように 王ダヰ゛デに一目ぼれをして あとはその愛ひとすぢにたのみ ひとすぢに生きようとしたのだと。
 夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?
 ここでも 傲慢そして破廉恥が横行しています。
 
 けれども 王ダヰ゛デの罪を神が取り除いたとするのなら いったいことの全体をわたしたちは どう見ればよいでしょう? 



 一日経って 質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません。まだ分かりませんが 赤裸々に―― frisk に blue にて――途中経過の考えを明らかにいたします。

お礼日時:2011/07/29 22:41

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち、でございます。

> ○ ウリヤの妻バテシバに一目ぼれ――クー・ドゥ・フードル〔 coup de foudre :語義は 神鳴りの一撃・稲妻の閃き → 不意打ち・青天の霹靂・一目ぼれ // ちなみに クーデタ( coup d'Etat :国家の一撃)〕―― そのとき我れを忘れた。
 ☆ こういうご回答でしょうか?

 はい、そうでございます。

> 難を言えば その一撃に打たれたあと ウリヤを戦争の最前線に送りやるといった謀りごとをしていますね。つまり 時間をかけているのですよね。

 はい、そのように考えられます。ですが、自分の過ちには気付いていなかったように見受けられます。 

サムエル記II 12:01-12:06
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」
“ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」”

> では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。
 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。

 これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・

> ○ 人びとは わたしダヰ゛デが これほど神のおぼえがめでたくてあって 人びとはわたしをうやまい あがめたてまつるほどである。そうではないということを 知らせねばならない。おお そうだ。ちょうど いい。ウリヤの妻バテシバに懸想しよう。マチガイを犯す人間であることを実地に示そう。・・・
 ☆ という筋書きです。
 ○ もし それでも 人びとによるうやまい過ぎがおさまらないとすれば なおその懸想の筋書きは 夫ウリヤの排除にまで及んだ。

 その後、ダビデが深く反省しているのを鑑みますと、ダビデ自身には別段思惑のようなものはなかったと思われます。

サムエル記II 12:15-12:17
ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

> ☆☆ 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。
これすらすんなりと解けたらといった蜀を望むすけべごころがあります。

 この頃のダビデは、戦争の最中にも関わらず、午睡から起きて王宮の屋上を散歩している有様でした。
11:02
ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。

 一方、ウリヤは信仰心を保ち、また主人想いでもありました。
11:10-11
ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」

 おそらく、この対比(信仰心を忘れかけていた者と、常に持合わせていた者)を示したかったのも知れません。

> いづれにしても その後もダヰ゛デは 神によって使われるというつとめがあったようです。めぐまれていたと思います。

 はい、非常に恵みを与えられていたかと思われます。モーゼが目的のカナン地に行くことが許されなかったのを考えますと(民数記20:12)、確かに、仰る通りかと存じます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ですが、〔* ダヰ゛デは〕自分の過ちには気付いていなかったように見受けられます。 
 ★ その後、ダビデが深く反省しているのを鑑みますと、ダビデ自身には別段思惑のようなものはなかったと思われます。
 ☆ ということは 次のように罪に気づき そのあとナタンの言葉をとおして罪に問われなくなることが分かって このアヤマチとそれに気づかなかったマチガイの一件は 基本的に落着したということでしょうか?

 ▼(サムエル記下12:13-15) ~~~~
 13: ダビデはナタンに言った。
  「わたしは主に罪を犯した。」
 ナタンはダビデに言った。
  「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
 14:しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、
   生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

 15:ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
 ~~~~~~~~~~~~~


 ☆ あとは 次のようなことがらが添えられ得るというところでしょうか。
 ★ おそらく、この〔* ダヰ゛デとウリヤというふたりの〕対比(信仰心を忘れかけていた者と、常に持合わせていた者)を示したかったのも知れません。
 ☆ この場合は では どうしてそのウリヤなる人物が犠牲にならなければならなかったかという問いが 出て来るかと思われます。

 ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・
 ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。



 いやぁ 分からなくなりました。お考えのそれぞれの要素としては すでにそのまま――つまり《一目ぼれ》などとしてということですが―― 受け容れていると思うのですが それをさらに腑に落ちさせるというところまでは行きません。正直なところです。
 というよりも この問いじたいが あまり何かの人間真実などの問い求めにふさわしいものではなかったかも知れません。No.1の方に言われたことが おそらくそのご見解とは別様にだと思うのですが 当たっていたかも分かりません。問い自体も 問いの立て方も その目指すことが全体の中にどう位置づけるものなのかが分かっていなかったというようにです。


 もし未練のような ただし考えるべき要素があると思われるかたちでの懸案があるとすれば それは 次のふたつあたりでしょうか。
 1. ダヰ゛デが人妻バテシバと出会ったのは ただの偶然である。と言うには そのバテシバとのあいだの次子ソロモンが 王位を継ぐことになるといった事後的な見方をつけ加えるならば まだ早いかも知れない。

 2. バテシバの夫ウリヤが 犠牲になるそのことの意味が分からない。――それとも (1)をも含めてすべては 基本的に偶然のなせるわざだったのでしょうか?

 すなわち――これも にゅうとらるさんによる指摘ですが―― 次のようにまとめられるように このバテシバの一件は 一定の期間つづき人を巻き込み犠牲にまでならせたが すべては偶然であり気まぐれのなせるわざであったという見方に傾いたほうが よいでしょうか。
 ▼ (列王記上15:5) ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからである。

 

お礼日時:2011/07/29 00:23

あ、宙ぶらりんです、追記です。



ひどっちさんへのお礼欄に書かれているように、
「神のようにならないため」かもしれません。

ウリヤは
「神は生きておられ・・・」ではなく、
「あなたは生きておられ、あなたの魂は生きています。」
と言っています。(サムエル第二 11:11)

この回答への補足

 にゅうとらるさん こんにちは。

 ひどっちさんの回答No.9への補足欄を書いたあと この欄にしたためます。
 つまり例の《立ち帰り》なる主題をめぐってです。
 ★★ ~~~~~
 今日はダビデがどうのとあれこれ考えつつ、
 何となく思い浮かんだのは結局この辺でした。
 ◇ エゼキエル書 18:23
 ◇ エゼキエル書 33:11
 ◇ イザヤ書 55:7
 ◇ 哀歌 3:33
 ◇ ルカ書 15:7

 立ち返り・悔い改め・悪は存在・・・・・の辺り。

 ダビデはナタンの声を聞いてすぐに立ち返り、
 バテシバを慰め、死にそうな子どものために断食をし、
 悔い改めた様子が伝わりますから。
 ~~~~~


 どうもおっしゃるように この主題――つまりふつうは《反省する》とかブディズム風には《懺悔する》とか言いますが ここでは《我れに還る》という意味を含む《立ち帰り》です――に帰着するかと思われて来ました。

 ◇ エゼキエル書 18:23 ~~~~~

 21:悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。

 22:彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。

 23:わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

 ◇ エゼキエル書 33:11 ~~~~~

 8:わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。

 9:しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

 10:人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

 11:彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 ◇ イザヤ書 55:7 ~~~~~

 6:主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。

 7:神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。

 ◇ 哀歌 3:33 ~~~~~

 30:打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。

 31:主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

 32:主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。

 33:人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

 ◇ ルカ書 15:7 ~~~~~

 3:そこで、イエスは次のたとえを話された。

 4:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

 5:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

 6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 7:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ No.9の補足欄では ひどっちさんの説に噛みついていますが どうも中身の問題は この《立ち帰り》にあったかと そのあと ふと思ったのでした。
 《神はなんで律法などをモーセに与えたのか? / 早くに律法はその規範性への依存というかたちに落ち入れば無効であると宣言して欲しかった。 / あるいは要するにもっと早くイエスに来て欲しかった》と噛みついていますが どうも問題は《立ち帰り》のほうにあるのかも知れないと。
 エゼキエル18:21-22では まだ規範の履行としての律法が引き合いに出されていますが 18:23では その規範性を超えているかにも採れます。そんな感じで ダヰ゛デについても見てみるとよいかも知れないのかぁと。



 どうもいろいろとお騒がせしました。とお蔭で言えるようになったと思うのですが どうでしょう。

補足日時:2011/07/31 14:01
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この回答へのお礼

 こちらから先にお応えしてまいります。

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 わたしの得た答えには いまのところみづからが反応をしかねています。

 ダヰ゛デが女に目をとめてから ほどなく子を宿したという事態がたしかにあるのですね。
 そのあと ダヰ゛デは 夫のウリヤを戦線から一たん引き上げさせ 家に帰らせようとしています。(サムエル記下11:1-8)。
 ウリヤは 妻のバテシバのいる家には帰らず王宮の入り口で眠りを取ったと言います。
 ▼ (サムエル記下11:6-13) ~~~~
 ダビデは〔指揮官の〕ヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。
 ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。
 それからダビデはウリヤに言った。
 「家に帰って足を洗うがよい。」
 ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。
 しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。

 ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。
 「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」

 11 ウリヤはダビデに答えた。
 「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。
 あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」

 ダビデはウリヤに言った。
 「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」
 ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。
 ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ この11:11の《あなたは確かに生きておられます》というところですね。そしてこれも なぞですね。戦線にいる上官や仲間の兵士たちのことを思うと 家に帰ってゆっくりすることは出来ないというところで ダヰ゛デに対して 
 ▼ あなたは確かに生きておられます。
 ☆ と言っているのですね。これも 分からないですね。
 ★ ~~~~~~
 「神は生きておられ・・・」ではなく、
 「あなたは生きておられ、あなたの魂は生きています。」
 と言っています。(サムエル第二 11:11)
 ~~~~~~~~~
 ☆ ですか。反論も賛同もなかなか踏み切れないでいます。

 さらに考えてみます。

お礼日時:2011/07/28 22:39

ぶらじゅろーぬさん。

こんにちわ。
言われてみれば不思議だなあいろいろ、
と思い、回答ではないのですが、少ししゃべります。


◇なぜ最初の間違いだけで終わらなかったのか。
マちがい1.人妻と性交し妊娠させた。
マちがい2.それを隠すためにウリヤとバテ・シバと性交させようとし、
      バテ・シバの子はウリヤの子、ということにしようとした。
マちがい3.うまく行かなかったので他人の手によってウリヤを殺した。

マちがい1.から、マちがい3.までの間に、
「マ」がなさすぎるような気がするんですが、なぜ?

◇ダビデのこの悪行が、なぜわざわざ聖書に書かれているのか。
◇「ヒッタイト人ウリヤの事の他は、一生の間、
 神が彼に命じられたどんなことからもそれなかったからである。」
 (列王記第一15章)と、わざわざ書かれているのも気になる。
◇それから、なぜ次の王は、バト・シバの子ソロモン?

ひとことも回答を書かずにすみません(←削除対象?)。
他の方のさらなる回答を楽しみにして書きっぱなしで消えます。
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん No.7のひどっちさんのご回答へのわたくしの応答をごらんください。

 現段階でのわたくしの考えをしるしました。

 横着な返答になりますが よろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/07/29 22:44

こんばんは、bragelonneさん。




【自発 (文法)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%99%BA_ …
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/ …

【《古文》発心集の現代語訳】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

【愛することと往生をとげること : 発心集第四九話成立の論理と背景】
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstre …


二律背反


【概念としての文学─ 起源における東西詩学の伝統の相違をめぐって─】テレングト・アイトル
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/ …
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007554269

この回答への補足

 さすが われらがりとうきすねえさん。

 義を見てせざるは勇無きなり。

 男が いや 女が 泣くもんね。

 ゆっきんさんは デリケートさではあなたに負けていないほどと思いますので やり取りをたのしみにしています。

補足日時:2011/08/09 19:13
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この回答へのお礼

 お早うございます。りとるきすねえさん。ご回答をありがとうございます。

 このたびは いつになくまじめなりけり。
 ▼ (《古文》発心集) ~~~~
 ・・・
  「いとあはれなる者どもかな。
  さほどに楽にめでて、
  何事も忘るばかり思ふばかり思ふこそ、
  いとやむごとなけれ。

  王位は口惜しきものなりけり。
  行きてもえ聞かぬ事」

 とて涙ぐみ給へりければ、思ひの外になむありける。
 これらを思へば、この世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし。
 ~~~~~~~~~

 ☆ ということは 王位にあるダヰ゛デの場合は 
 ▼ 王位は口惜しきものなりけり。行きてもえ聞かぬ事」
 ☆ などともはや言っていないで そのわが置かれた情況を省みず 美女バテシバにのめり込んだ。――こういうご見解でしょうか?

 
 ★ 〔* 王の地位とその仕事に対するに おのれの一目ぼれなる恋心の湧き出る思いとの〕二律背反
 ☆ を一たんは自覚したが それもものかは 王位を打っ棄って突き進んだ。――とのご見解でしょうか?

 ▼ 数寄は〔* むしろ頼りになってはいけない場合にも つまり頼りにしてはならない場合にも 思わず または思いのほか〕ことにたよりとなりぬべし
 ☆ 《自発・自己生成・自己組織化・自己内面における内的展開》にさからえる人間は そうざらにはいない。――こうお考えでしょうか?

 と取り敢えずここまでをお応えして あとは――出された資料が地球を何周もまわるほどなので―― たんま。



 ★ テレングト・アイトル
 ☆ モンゴルの人ですか。


 ★ 【愛することと往生をとげること : 発心集第四九話成立の論理と背景】
 ☆ おとこまさりのねえさんにも 忘れられぬ世紀の初恋がお有りだ〔った〕ということでしょうか。

お礼日時:2011/07/28 08:53

 こんばんは、ひどっち、でございます。



 申し訳ございません。こちらの方が気になりまして、投稿させていただきました。

 数々の勝利および名誉を得たためか(下記”参考”ご参照くださいませ)、もしくは、 その妻を見たときの、そのひと時、“我を忘れていた”、“自分自身を見失っていた”と考えております。
 以下のサムエル記にもございますように、完全に見失っていたなら、おそらく預言者ナタンをも裁いていたかと思われます。ですが、ナタンの声を素直に聞き入れました。おそらく、この一時、“自分自身を見失っていた”と推察されます。


サムエル記下12:5-12:13 新共同訳
ダビデはその男に激怒し、[預言者]ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」[預言者]ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
<中略>
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。


参考 サムエル記下8:15-8:18 新共同訳
ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。ツェルヤの子ヨアブは軍の司令官(エドム人撃退に貢献)<中略>ダビデの息子たちは祭司となった。


 何かご参考になるところがございましたならば、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ○ ウリヤの妻バテシバに一目ぼれ――クー・ドゥ・フードル〔 coup de foudre :語義は 神鳴りの一撃・稲妻の閃き → 不意打ち・青天の霹靂・一目ぼれ // ちなみに クーデタ( coup d'Etat :国家の一撃)〕―― そのとき我れを忘れた。
 ☆ こういうご回答でしょうか?

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 難を言えば その一撃に打たれたあと ウリヤを戦争の最前線に送りやるといった謀りごとをしていますね。つまり 時間をかけているのですよね。
 
 目的を遂げるまでは 盲目であった。・・・かも知れません。
 つまり 一定の期間において
 ★ 以下のサムエル記にもございますように、完全に見失っていたなら、おそらく預言者ナタンをも裁いていたかと思われます。ですが、ナタンの声を素直に聞き入れました。おそらく、この一時、“自分自身を見失っていた”と推察されます。
 ☆ 《神のことば》とも言うべき――というのは 旧約の時代であるという条件においてだと考えますが――預言者ナータンの叱りの声を聞くゆとりは持ち続けていた。

 
 じつは 質問者には この質問を挙げたその明くる日に ちょっとした答えを得ました。解決としての答えではなく いくつかありうるというその可能性のひとつとしてですが それによると では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。
 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。

 
 わたくしの得たひとつの答えは きわめて破廉恥な内容をおびたものです。
 ○ 人びとは わたしダヰ゛デが これほど神のおぼえがめでたくてあって 人びとはわたしをうやまい あがめたてまつるほどである。そうではないということを 知らせねばならない。おお そうだ。ちょうど いい。ウリヤの妻バテシバに懸想しよう。マチガイを犯す人間であることを実地に示そう。・・・
 ☆ という筋書きです。
 ○ もし それでも 人びとによるうやまい過ぎがおさまらないとすれば なおその懸想の筋書きは 夫ウリヤの排除にまで及んだ。
 

 ☆ 傲慢きわまる しかも きわめて――書いているそばから 顔の火がおさまらず どうしてよいか分からなくなるほど――ハレンチ極まりない発想の答えが 思い浮かびました。
 だから どうなんでしょう? とも言えません。思い浮かんだものは いちどオモテに出しておくこととします。うっちゃってくださいませ。


 ☆☆ 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。
 ☆ これすらすんなりと解けたらといった蜀を望むすけべごころがあります。

 ありがとうございました。
 いづれにしても その後もダヰ゛デは 神によって使われるというつとめがあったようです。めぐまれていたと思います。

お礼日時:2011/07/27 21:38

注)質問文にある「ダヰ゛デ」とは誰を指すか分りませんが、古代イスラエルの英雄ダビデの事と推測して、以下書いております。



まずは、口語訳または文語訳の聖書で同じ箇所をお読みになることをお勧めいたします。
(ネットで検索可能です)
口語訳「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」
文語訳「ヱホバよわれを糺しまた試みたまへ わが腎とこころとを錬きよめたまへ」

アナタが引用している「火のなかに ためしてください」というのが、何訳かは存じませんが、いずれにせよ「火の中に試す」とは「精錬する」の意です。精錬するのですから、不純物を取り除きます。
故に口語訳では「練りきよめ」、文語訳では「錬きよめ」と訳しているのです。
こちらの訳であれば、不純物である罪を取り除いてください、と祈っていることが分ります。
神に対して後ろ暗いところが無い人に、何かが起きて悪事をした、という流れではなく、罪を自覚した人が神に罪を取り除いて欲しい、と祈っているのであれば違和感は無いと思われます。

ちなみに、英訳の聖書の幾つかは「火のなかに~」の箇所を「test me」と訳しております。
この場合のtestは、学生が四苦八苦するアレではなく、「精製する」の意味で用いています。
こちらも不純物を取り除く行為です。


イスラエルの王に即位して、得意になって権力を行使した。
その結果、悪事をしでかしてしまった。
それを預言者に指摘されて、ダビデは反省しています。(サムエル記下12章)
※くどいようですが、「ダヰ゛デ」がダビデであると推測して回答しておりますので、違う人物についてのご質問であれば、ご容赦ください。

故に、詩篇のこの箇所は聖人君子の歌としてではなく、罪を自覚した者の歌として読めば、疑問も生じないと思われます。

私はイエスを神の子であると信じているので、「この質疑応答が誰かの役に立つように」と
祈りつつ、回答を終えさせていただきます、イエス=キリストの御名によって、アーメン。




以下余談
とは言え、この答えを知ることで、アナタは幸せになるのですか?
異国の王が人妻を奪ったことで、困っているのですか、本当に?
ここでの質疑応答は、アナタの魂に悪影響を与えている気がしてなりません。

かつて洗礼について質問をしていたアナタとよく似た名を持った方は、救いを見出したのだろうか。
かの人は「文字は殺し、霊は生かす」という聖書の箇所を引用していたが、ネットには救いも
真の命への道も無いことを、早く悟って欲しいと祈るばかりです。
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この回答へのお礼

 なまなましいあをい愛さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ▼ 「文字は殺し、霊は生かす」
 ☆ をご存じであれば 多少の勇み足をおかしてでも心配せずに こちらもなまなましくあざやかに表現してまいります。



 ★ ネットには救いも / 真の命への道も無いことを、早く悟って欲しいと祈るばかりです。
 ☆ ほんとうにこんなことを思っておいでなのですか?
 それなら (あ) ひとつにこんなふうに投稿や参加などせずに 放っておけばよろしいのでは?

 (い) もしわたしのように参加している人たちのことを思って参加するということでしたら OKWave の運営じたいについてきちんと批判してみては どうですか? しかも直接その担当部署に言うのがよいでしょう。

 (う) それにしても あなたはどのようにして《ネットには救いも / 真の命への道も無いことを》お知りになったのですか?

 (え) 事情も事由も説明せずに何かを助言するものではありません。そんな場合の《文字は殺します》。

 (お) 道ならぬ道にある者にも 雨を降らせ日の光を浴びせるナゾのちからを もっともっと明らかにしてください。

 (か) すでにあたらしい時代と世界にあるときに 《救い》などと軽々しく言ってはなりません。すでにおしえる必要がなくなったところから わたしたちは出発しています。



 ★ アナタが引用している「火のなかに ためしてください」というのが、何訳かは存じませんが、いずれにせよ「火の中に試す」とは「精錬する」の意です。精錬するのですから、不純物を取り除きます。
 ☆ 《精錬する》のであれば 《火のなかに》です。
 たしかめておきます。
 《火のなかに ためす》と訳したその語です。

 ● צָרַף tsaraph  ~~~~~~
  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/Lexi …
  to smelt, refine, test

 ● πυρόω pyroō ~~~~~~
  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/Lexi …
 to burn with fire, to set on fire, kindle
 b) make to glow(melted by fire and purged of dross)
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 英訳の聖書の・・・場合の test は、学生が四苦八苦するアレではなく、「精製する」の意味で用いています。 / こちらも不純物を取り除く行為です。
 ☆ つまり《火》がつきものです。



 ★ 神に対して後ろ暗いところが無い人に、何かが起きて悪事をした、という流れではなく、罪を自覚した人が神に罪を取り除いて欲しい、と祈っているのであれば違和感は無いと思われます。
 ☆ こういう意味でしょうか?
 ○ この詩編のうたをうたったときのダヰ゛デが《完璧な人間ではなかった》のだから あとでよろしくない事をしでかしても 特別におどろくことはない。

 ☆ でも それはあまりにも《文字》にとらわれた見方ではないでしょうか。なぜなら 仮りにヨブのように
 ▼ (ヨブ記1:1) 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
 ☆ と言っても《完全な人間》だとは言えないからです。
 ★ 神に対して後ろ暗いところが無い人
 ☆ と言っても 同じことでしょう。

 つまり ダヰ゛デもヨブもみな この地上で初めから終わりまで《完全でない状態》にあると言わなければなりません。
 その上での問いになると考えます。



 ★ 故に、詩篇のこの箇所は聖人君子の歌としてではなく、罪を自覚した者の歌として読めば、疑問も生じないと思われます。
 ☆ 《聖人君子》などという規定は どこから来たのでしょう。意味がありません。

 ★ 罪を自覚した者
 ☆ であれば 王になったら悪事をはたらいても仕方がないという見方でしょうか? このうたをうたったときは 悪事をはたらくことは少なかった。王になってからは 大きな悪事をはたらいた。ただそれだけのことだ。こういう見方でありご回答でしょうか?



 ★ ~~~~~~~
 イスラエルの王に即位して、得意になって権力を行使した。
 その結果、悪事をしでかしてしまった。
 それを預言者に指摘されて、ダビデは反省しています。(サムエル記下12章)
 ~~~~~~~~~
 ☆ つまりあとで《反省してい》れば 問題なくことは済むのであり 疑問に思うことは何もない。こういうご回答でしょうか?

 このような見方をなさっているのであれば そのご見解は
 ★ アナタの魂に悪影響を与えている気がしてなりません。
 ☆ 老婆心ながら。つまり いわゆる世間の論理で お茶を濁しているのみだからです。




 このひとりのクリスチャンによるご回答内容によって キリスト・イエスのことで勘違いを起こす人のすくなからんことを祈りつつ。ぶらじゅろんぬ本人のこころにおいて。




 ふりすく_ぶるー_らう゛さんは なぜそんなにダヰ゛デをかばおうとされるのでしょう。神とてもわざわざわれわれ人間がかばったりする必要もないでしょう。あなたは 神の代理だとでもおっしゃるのでしょうか。
 この質問がダヰ゛デを持ち上げも貶めもしているとは思えませんが。
 われわれのそれぞれのたましいにたずねているだけですよ。

お礼日時:2011/07/27 10:58
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