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 なぜ生きないのでしょう?




 感性か何かがちがっているのでしょうか?
 
 もしそうだとして マ(間・間合い)がちがって来ているので 感性が違う働き方をするのではないか?
 環境や情況から このマを見失わされたというような経験が原因にあるのではないか?

 よく分かりませんので おしえてください。

A 回答 (54件中1~10件)

苦の消去の理由を意識が感性に求めているように思われます。


それは同時に、意識が感性を捨て去ろうとしている姿でもあるようです。
意志によって判断されるべきものを与える感性の働きを、意志そのものが捨て去ろうとするのは苦の認識によるものです。

休みなく苦の認識の基となる情報を送りつづける感性の働きを遮断することによって、外界を変化させること無く、苦の消去を計ろうとするものです。

意志が感性の働きを捨てようとする事は、肉体における諸感覚や、それらに付随した直観の働きも含めた全てを捨て去ろうとする事です。

苦の消去を肉体の消去によって計ろうとしても、中々実現しずらいのは、直観の働きを意志が消去できないところにあると思われます。
感覚を通さずにもたらされる情報が、意志による苦や肉体の消去を押し留めているようにも見えます。
いわゆる「葛藤」です。
意識における正解が、意識でないものに否定される、という人間らしさでもあります。
生を否定して、苦の消滅を計ろうとするのも人間らしさですし、それが中々出来ないのも人間らしさです。

感性が訴えかけてくるものは、意識へのSOSだけではなく、外界への変革の可能性も含めたものであるように思います。

以上から言えるのは、生に対する意識の関与には限界があり、意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事です。

苦の消去において意識のみが正解を持つという執着が、生きる事を妨げているように思われます。

以上思いつくままに書いてみました。
ご参考になさってください。
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この回答へのお礼

 おおーっ。とまづは雄たけびを挙げまして。

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 もっとも偏屈になってあるいは自己中心主義になって言うとすれば 質問者のかんたんに述べた趣旨と案外同じ軌道の上にあるご見解であるかと思いました。

 ○ 人とのあるいは漠然ととしては社会との間合いをどのように取るかで戸惑っている。
 
 ○ あるいはつまり その間合いをもはや取らないようにするのはいかにすべきか これを暗中模索している。

 ☆ このような七転八倒の姿を 心的現象として深く掘り下げて 片や感覚および意識 そして片やそれらに対するにむしろ意識や或る意味で意志をも超えたところにはたらく直観 これらの言わば絡み合って作用するところを明らかにしたご見解であると思います。

 ★ 意識における正解が、意識でないものに否定される、という人間らしさでもあります。
 ☆ 直観のほうがつよい。有効である。このあたりが 表現としてもいいですね。

 もしもっと大胆に質問者の特権(もしくは出しゃばり)において展開してしまうなら こうなりましょうか。

 ○ 生きないでいたいというのは感覚でありその意識でありおそらくそういう――マイナスのだが――意志でもあると考えられる。

 ○ それに対して これをどこからかひっくり返すところの力。これは――意識に上がったときには直観なのだと思われるが―― したがって意識を超えているばかりではなく 人間の意志をも超えてはたらく源泉としての意志のようなものである。

 ○ のであって この源泉としての力――意識しうる意志の・見えず意識し得ない裏打ちのような力―― これを直観するときには すでに消えていると言いますか すでに作用をし終えて 人を生きる道に乗せ戻している。

 ☆ このまとめは 次の結論を解釈して得たものです。
 ★ 以上から言えるのは、生に対する意識の関与には限界があり、意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事です。
 
 ☆ この
 ★ 意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事
 ☆ については わたしの文章では触れていませんので 是非その種の疑問質問に向かい合うときには 考えに入れて欲しいところだと 質問者ながら 思います。

 あるいは 《苦》の主題についても質問者は触れていませんので へたのすけさんのご文章に就いて検討されることを みなさんにおすすめしたいと思います。

 ★ 感性が訴えかけてくるものは、意識へのSOSだけではなく、外界への変革の可能性も含めたものであるように思います。
 ☆ ここは読み解きにくいように思いますが こうでしょうか?

 ○ 感性がうったえかけてくる場合 ふたつあると思われる。それらはどうやら筋が違ったところに起きるようだ。

 ○ ひとつにそのまま 感覚そのものの心的現象として辛さや苦しみがある。

 ○ もうひとつに上に直観として触れていたときの・源泉としての 意志以前の意志 これがはたらいて《外界への変革の可能性》を語るかのようにうったえる場合。

 ○ そしてこの場合には うったえた時点ですでにかまたは同時に むしろ自己を変革し終えていて外界との間合いの取り方を元に戻した恰好となっている。

 ☆ こう解釈しました。

 以上勇み足をおそれずに大胆に解釈しましたので 審査していただければさいわいです。
 あと 内面における葛藤といったコトについて触れそびれています。苦手です。

お礼日時:2011/08/14 23:12

挨拶が遅れました。


ブラジェロンヌさん、お元気でなによりです。
少し追加します。

「葛藤」までのことは先に述べました。
葛藤の果てに死を選ぶという過程の解明が大切だと思われます。
そこから自殺防止につながるヒントが得られるのではないかとも思われます。

私は友人を自殺によって失っています。
後日判明した、死の直前の行動内容は、死に向かって冷静に準備を整えるという驚くべきものでした。
なぜ?そうする事ができたのでしょうか。

苦の消滅を肉体の消滅によって計ることは正しい、という葛藤をまじえた認識の段階から
死は意識においての生である、という転換点を迎えてしまうように思われます。
死への過程を築くことは、新たなる生の目標の設定であり
具体的な実行を進めることが、意識的に生きることそのものである・・・というような段階へ移行していくように思われます。

ここにおいては、苦の消滅とは、もはや前提に過ぎない場合もあると思われます。
また、感性の働きは、意識による具体的実行の発令に従うという形で、その能動性を死への実行力として転化されてしまうもののようです。
しかし、感性の自由さを意識が完全に奪い去ることは出来ないものである、ことから、死へと進む状態を押し留められる可能性もあると思われます。

以上は、死に至る暗い過程への簡潔な推測です。
自殺を押し留めるためには、理屈や概念ではなく、感性に強く訴えるものが必要だと思われます。

私が友人に・・・
〇〇〇ちゃん、どうだ一杯楽しく飲みにいかないか?
と声をかけていたら変わっていたかもしれません・・・
・・・・・

暗いところから見えてくるものもありますが
自殺防止の方法の実際面においては、できるだけ簡単で感性に訴えるものが有効のように思われます。
すべての手立てが無くなった時においては、相手の心に直接働きかける方法といったものが残されているように思います。
それはブラジェロンヌさんもご承知でしょう。
非科学的とはいえ、私はその有効性を信じているものです。
それではご参考になさってください。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん 催促に応じていただきご回答をまことにありがとうございます。

 そうですね。
 たしかに実際問題としては 
 ★ 自殺防止につながるヒントが得られるのではないかとも思われます。
 ☆ ということも大事ですね。哲学も欲張ってよいはずです。

 ★ ~~~~
 すべての手立てが無くなった時においては、相手の心に直接働きかける方法といったものが残されているように思います。
 それはブラジェロンヌさんもご承知でしょう。
 非科学的とはいえ、私はその有効性を信じているものです。
 ~~~~~~
 ☆ こちらから先に応答してまいりますが これは あらゆる可能性を考えて 相手に合った言わば虚構の世界をこしらえて それをこの現実世界との橋渡しとするといったことでしょうか。現実世界をしっかりと見させ自覚しうるように しかもそのために現実のことよりも それに代えて 物語の世界を相手に示す。
 しかも そこであとは――互いに登場人物としてのように―― 思いっきり何であっても自分がよいと思うせりふを投げかける。
 まぁ 虚構の世界をこしらえることは 無しで済ます場合もあるでしょうが。

 ★ 以上は、死に至る暗い過程への簡潔な推測です。
 ☆ なるほど。すべては方向が回れ右してしまっているかたちなのですね。しかも逆にその方向において自分の想像の世界をもこしらえて行く。その作業がむしろ意志や意識の力強い作用だと錯覚してしまおうとしている。

 途中ですが お友だちは残念でしたね。あとに残されてしまうというのは これも無念であり さぞつらい思いをされたことと思います。
 わたくしには 幸か不幸かそういう経験はないのです。
 それにしましても へたのすけさんには いろんな実体験がおありなのですね。ヒラメキ。蛇女房。

 もしわたしだったら どうするかと考えましたが どうでしょう まづは相手を引っぱたくか 胸倉をつかんで揺さぶるかするでしょうか。
 感性にうったえすぎましょうか。



 でも考えてみれば なぜ生きないか? この問いは むしろ答えがないかも知れません。ヒラメキが おそらく生きる側へ引き戻します。生きないという決断をしたという場合には この引き戻しの力にも逆らって――つまりは 意志のちからで つまりはタナトスだか何だか知らない・死への欲望によるのではなく―― 回れ右をもう一回しなさいと言ってやらねばならない回れ右をしてしまう。こういうことでしょうか。なぜか。
 そういう問いとしては 分からない。のでしょうかねぇ。
 
 分からないと言うと それこそタナトスという無意識の作用だと とんちんかんなことを言われそうですが 分かっていることは それははっきりとそれをえらぶということだと思います。意志によってそうするのだと。タナトス説は インチキだと考えます。
 この世界に身も心もゆだねたなら ヒラメキによってこの現実世界に戻って来ると思います。

 でもそういう話に対して マ(間合い)が違っていたとしたら むしろ聞く耳を持たないことになるかと思います。そういう問題があり むしろその方面において――つまり マの違いはいかにして起こるかについて―― 探究するのも ひとつの道であるかも知れません。


 そうとう口から出まかせで言っていますが 方向ないしわが主観の志向として そんなことを思います。
 へたのすけさん ありがとうございました。
 この種の主題については あまり長居しないがよいと思いまして。もう一日あけています。

お礼日時:2011/08/16 00:13

ありがとうございます。


僭越ながら、ご存じでしょう、と申し上げたことは二文字の言葉です。
それは時代や思想が変わっても、人間としての共生の意識が失われない限りはあり続けるものです。

以前にヒラメキという主題のところで
ヒラメキとは、全体と個の感応において生じるものである、という事を申し上げました。
そこからなのですが
個から全体を通して、別なる個に働きかけること、が可能であると思われます。
その働きかけとは「祈り」です。

これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
その程度は様々なものがあると思われますが、客観的な事象を伴うことも否定できない場合もあると思われます。
客観的な事象を伴うこと、とは一般的に「奇跡」と呼ばれているものです。
私は、奇跡というものは無く、奇跡のように見えるだけなのだと思っています。

この辺のところは、意識も含めた感性や直観の働きと事象面との関係が深く解明されない限りは、非科学的な扱いを受ける事から、哲学的主題としては成り立たないものです。
それでも、「祈り」における有効性といったものを信じることができるのは、個人における体験に基ずいた実証からです。
その内容は、個人的な信仰や宗教的な面に及ぶものですので割愛させていただきたく存じます。


翻ってみれば、共生意識における感性的伝達を享受している立場においては、自殺という行為は実行されないものだと思われます。

現実世界との一体感を喪失して死に赴く、という悲劇を回避するためには
普段から、たとえわずかでも、祈りや、それに近いものの感性的伝達が必要だと思われます。
小さな思いやりの言葉や親切が、知らず知らずのうちに、人を救っているのかもしれません。
自殺防止の方法については、以上の観点から見えてくるものがあるのではないでしょうか。

以上、ご参考になさってください。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですか。案外 と言ってはおかしいですが この主題についてお考えであり かつまた実践的でいらっしゃる。
 あまり というよりは ほとんどわたしは こういう主題もしくは切り口では考えたことはなかったです。

 たとえば
 ★ 祈り
 ☆ にしても そのあり方が――解釈としてでしょうか――微妙に違うと知りました。
 わたくしの思う祈りは その内容はけっきょくすでに神には知られているというものです。なら何故わざわざ祈るのか? それは このわたしが祈っているという姿です。わたしは ここにいますとうったえています。
 極端なことを言えば その祈りがなくても その望む内容は すでに神が知っていて それこそ《奇蹟》のごとく人間関係や行為関係を塩梅よく配剤するかたちで 実現へとみちびく。と思われるものです。
 奇蹟は たしかに
 ★ 私は、奇跡というものは無く、奇跡のように見えるだけなのだと思っています。
 ☆ という見方に 賛同します。確率の少ない仕合わせ・めぐりあわせとして結果したことと捉えます。

 あぁ そうですね。
 ★ ~~~~~
 個から全体を通して、別なる個に働きかけること、が可能であると思われます。
 その働きかけとは「祈り」です。

 これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
 感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
 ~~~~~~
 ☆ つまりこれは いわゆる自力の見方としておこなわれる祈りのあり方のように思われます。感化と言いましょうか。それはそれとして起こり得ると考えます。《願い》という言葉で捉えるでしょうか わたしの場合。願いとその実践ということですね。
 それは ただそばにいてやることでも そうでしょうし あるいはそのときに バカ話であってもどんな話であってもつきあうというようなことも含まれるのではないでしょうか。(あとで出て来ましたが こんななまっちょろいことではなく 昔に言う《みたま(魂)振り》のことかと考えました)。
 
 そうしますと わたくしの場合 祈りは その願いやその実践を人事を尽くすの人事と見て それを超えて何ものかのはたらきを祈りつつ俟つというような感じです。

 

 ○ なぜ生きないか?
 ☆ 少々きびしくまとめてみますと:
 1. 生きないと決めたあとの内面における意識や想像力のはたらきを分析していただきました。

 2. 特にそこには 生からの回れ右といった方向性があり そこにおいて意志は もういっぺん回れ右だというヒラメキをも受け取って 葛藤の生じるのをさらにおぼえるだろう。意識や想像がいろんな像を想い描くだろうと思われること。

 3. あるいはそこで 隣り合うこちらとしてどう対処するか。声をかける。感性にうったえる。

 4. ただし マ(間合い)が違っていたら けっこう厄介であろうと思われること。

 5. 祈る。――人事の範囲なる実践としての祈り。つまり 実際には《感性を介した直接的なはたらきかけ》でしょうか。むかし鎮魂には みたま鎮めと みたま振りがあったと言います。後者の奮い起こすといった感じの実践でしょうか。〔石上(いそのかみ)の布留(ふる=振る)の神社が 有名です〕。

 6. 祈る。――つまりあるいは そのような人事を超えてめぐりあわせの妙を願ってのごとく ともかく祈る。

 ☆ なのですが――こうなのですが―― どうもわれわれは 一方で存在としてはヒラメキを基にして言うのですが 生からの回れ右はしない またそうしたらさらに反対方向の回れ右をそのヒラメキが促すと思っており ただし他方で もし《何故生きないのか》と尋ねるなら それはその人の意志によると答えるものの なぜけっきょく回れ右をするのかは 分からない。かも知れない。
 おのれの心にも意志にも存在じたいにもさからうという意志を持ってしまうということだけしか いまのところ わたくしには分かりません。


 もう一日あけています。

お礼日時:2011/08/16 22:12

ふと、生きる事をやめたいと感じた時は、


自分では解決出来ない、元に戻せないと感じた時と
将来が今より良くなると想像が出来なくなった時です。

ご質問の内容を考える機会を持つ事こそ、
自殺防止に役立つと感じました。

人が答えるのではなく、自分に答えさせているので。

おっしゃる、間と、回答者様の内容が難しいですが、
想像する力が奪われた場合に起こるのでは?と感じました。
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この回答へのお礼

 そうなんですか。――またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――趣旨説明は 急ごしらえでしたので 少しのおどろきをもって ご回答を読みました。

 ○ マ(間。間合い) 
 ☆ は 《わたし》と世界とのかかわり(関係)そして交通(まじわり)と言います。
 《世界》には 自然環界。第二の自然とも呼べる社会。そして 身内から他人からさまざまな・そしてあらゆる人びと。これらが入ります。

 ですから この世界には いうなれば《わたし》にとっての《わたし》も入るという見方も出来るかも知れません。ただし 《わたしは わたしである》とヒラメキのごとく身も心もととのったときには 《わたしが わたししている》状態だと思われます。

 つまり 《〈わたしは わたしである〉というわたしが わたししている》なら マはふつうの状態であり それはおそらく最高の状態だとも言えるのではないでしょうか。

 さらにこの《わたし》が 身近な人たちや周りの人びとと 間合いよくまじわりが出来ていれば 《間違い》は起こっていない。こう見ます。




 さて 質問者としてのわたしが よく分からないのは なぜ生きないかの理由ですね。
 いくつか挙げてもらいました。

 その前に
 ★ ~~~
 ご質問の内容を考える機会を持つ事こそ、
 自殺防止に役立つと感じました。

 人が答えるのではなく、自分に答えさせているので。
 ~~~~~
 ☆ という指摘をいただきました。これは 虚をつかれたようで考えていなかったことでした。ありがたいことだと思います。(じつのところは たぶんお気づきのように 《なぜ生きているのか》という質問があったので どうもその問い方には答えにくいと思ったところから 考えついた問いだったのですが)。何だか 怪我の功名のようです。

 さて 挙げられた事項は もう引きませんが 
 ○ けがれ〔=褻(け)‐離(か)れ〕
 ☆ という言葉を思い浮かべましたので そのことに触れたいと思います。その言葉の事情や背景に関することがらです。
 
 褻(け)を離れるというのですが 褻(け)とは 日常性と説明されます。

 ○ ヰキぺ:ハレとケ
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC% …

 ☆ ここから 概説が得られますが たぶん《褻(け)》とは ひ(日)のことだと考えられます。
 
 ○ ひと(一)‐ひ(日) / ふつ(二)‐か(日) / み(三)‐か(日)
 ○ こ(日)‐よみ(読み=数える):暦
 ○ よって推測として 

   ・・・ hi(日) hu(経) he(経) ・・・
    ka(日)・・・ ・・・  ke(褻) ko(暦の ko )

 ☆ このようにハ行とカ行とにまたがって《日》という言葉が出来ているのではないか。母音を交替させつつ いくつかのかたちを採っている。

 わたしとしましては こんなお話で――決しておろそかにするという意味ではなく――お茶を濁して お礼に代えたいと思います。いかがでしょう。(お答えを催促しているのではありませんが)。

お礼日時:2011/08/16 22:45

ありがとうございます。


再度、わかりやすいURLまで。とてもためになります。

私ばかりがうっかり答えてしまい、申し訳なく、
知識はあまりのなさに愕然といたしますが、
あきらかに自分の日常に違いを感じます。

討論番組が威圧的に感じなくなった。
共に働く人の雑談においても、違う見方が出来るようになっている。
それぞれの現象の繋がりを考えられるようになった。

更に、今は責任を持つとはこういう事なんだな。と。
日本に格差が生まれはじめている理由がわかってきました。

自分でも、驚きですが、、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 そうですか。変化が出て来たんですか。正直 そこまでは考えていなかったですから 少しおどろきです。そういう方向を 一般的に言って 願ってはいました。

 おっと またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 というより――日から日へ変わるという言い方がありますが―― うかがうところによると 局面が大きく展開して来ているという印象ですよね。

 ★ それぞれの現象の繋がりを考えられるようになった。
 ☆ これなどは 一般的にも 大きな主題ですよね。《責任》も 大きな主題ですし。

 ○ ときが満ちる。
 ☆ こういう言い方もよく聞きます。おそらくそういったことではないでしょうか。ご自身の中でいろんな要素がすでに準備をととのえて来ていたのではないでしょうか?

 って あんまりいい加減なことは言えませんが いやあ それにしても すごいですね。
 ★ 日本に格差が生まれはじめている理由がわかってきました。
 ☆ ここなどは 鍋の中で大根や人参が煮立って来るのがわかるというように感覚的にも分かるというイメージがあります。わたしなどは だいたい結果を捉えて後づけであれこれ考えるわけですから。

 お互い なおまだ ぼちぼちまいりましょう。

お礼日時:2011/08/18 01:16

回答の時間を下さりありがとうございます。


一通りと言いますか、ご質問に添った形での拙い私見を述べさせていただきました。
自殺防止という実践面に、私がこだわりを持つのも、実際に立ち会った経験があるからです。
以下、付け足しです。

感性的伝達といえば
ブラジェロンヌさんは、ぶんなぐってやる、と仰いましたね。
まったくそのようなものです。
私は、自殺した友人の遺体を目の前にして、バカヤローと思わず何度も言ってしまいました。
その時でしたが
友人の閉じた目が少し開いたのです。
薄目でしたが確かに開きました。
周りにいた人達も、その事は目撃して今も印象に残っている事です。
あの世から一瞬帰ってきたのかもしれません・・・
もっと早く、バカヤローと言ってやればよかったのかもしれません。
さみしいバカヤローになる前に、楽しいバカヤローを言ってやればよかったのかもしれません。

瀬戸内寂聴さんも同様の出来事を語られています。
このような人の死にまつわる不思議なことは、いくらでもあるのでしょう。

死んでからの奇跡などよりも、生きているうちの笑顔のほうがずっといいと思います。
その笑顔を見るためには、何かが必要だったような気がします。
必要なものとは、案外簡単なものだったのかもしれないのです。
それを与えてやる事ができなかったという思いは、周りの人達が皆持っていたように感じました。

死んだ人が戻ってこない以上、残された人は何が分かればいい?
という問いかけがあります。
答えは・・・
死んだ人が与えてくれたものが残り、与えてあげられなかった悔いが残る・・・というものです。

私は、与えるとは簡単なものでいいと思っています。
簡単なものであればこそ、誰もが与え合うことができるのではないでしょうか。
挨拶でも、言葉一つでもいいと思います。
普段の何気ないことの中に大切な意味が含まれていると思います。

>なぜ生きようとしないのか?
という問いかけは
自分が与えることを問うものでもあるように思います。
上記の答えを噛みしめる時が来る前に、なすべき事があるのではないかとも思います。

以上にて終りにしたいと思います。
一点だけ説明不足があります。
それは「祈り」を自力と解釈されてしまったことです。
宗教色の濃い内容であれば、あえて哲学的に無理に解釈はせず、自内証のままに、という個人的で自由な形で解釈されてもよいと思っています。
その辺をご了承ください。
それではブラジェロンヌさん、ありがとうございました、お元気で。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 一点だけ説明不足があります。
 それは「祈り」を自力と解釈されてしまったことです。
 ~~~~~
 ☆ どうも 考えてみたら いくらかの点で憶測を過度におよぼしているかも分かりません。

 ★★(回答No.3) ~~~~
  ★ ~~~~~~~~
  個から全体を通して、別なる個に働きかけること、が可能であると思われます。
 その働きかけとは「祈り」です。

 これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
 感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ つまりこれは いわゆる自力の見方としておこなわれる祈りのあり方のように思われます。感化と言いましょうか。それはそれとして起こり得ると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ★ これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
 ☆ ここのところをしっかりと把握していなければ駄目でした。
 ★ 感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
 ☆ この《直接的な〔働きかけ〕》を努めて相手にはたらきかけていると取ってしまったようです。

 ★ ~~~~
 宗教色の濃い内容であれば、あえて哲学的に無理に解釈はせず、自内証のままに、という個人的で自由な形で解釈されてもよいと思っています。
 その辺をご了承ください。
 ~~~~~~
 ☆ おわびとともに 了承いたしました。

 何だかこの種の質問と言いますか主題については 苦手の感覚があります。あるいは 別の言い方をするなら このような主題については 面と向かって話をするのがよい。こう思ってしまうところがあるのだと思います。いちど行き着けるところまで行って はっきりさせておきたかったわけですが。

 でももし――いちおう区切りを打つとおっしゃっていますが―― 展開すべき見解や材料などがなおおありでしたら 開けていてもよいと思いますが どうでしょう? 少なくともお二人は参加しておられますから もうしばらく二三日あけていましょうか。

 * 前半で展開されたお話 要約したりするのは むつかしく 全部引用するのも 何ですから 受けとめましたとお伝えします。それだけになります。ほかのみなさんにとっても 読んで感じるところの文章だと思います。

お礼日時:2011/08/18 01:35

他の回答者様の回答で、


何故このような質問を対面して話したほうが良いと考えますか?

私は感情をぶつけられるのが苦手で、
あれこれ考えながら、文章を書く事で頭がまとまり、冷静に考えられますが。
直接このような話をすると、その場で答えを出さないといけないので、
一方的にいわれている感覚になるのですが。
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この回答へのお礼

 またたびさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 私は感情をぶつけられるのが苦手で、
 あれこれ考えながら、文章を書く事で頭がまとまり、冷静に考えられますが。
 ~~~~~
 ☆ あぁ えぇ なるほど。文章にして考えをつづりまとめて行くことは おっしゃるとおりだと思います。もしそれを否定しているとしたら まちがいでしょうね。

 とにもかくにも 《個人にとってはその生活の情況や育った環境が 一人ひとり違う》と思うので そのそれぞれの事情を把握していないと 話がうわずってしまうのではないか。こう思われたからです。
 人間ひとりの力に限界を感じ 将来への考えも想像も浮かばなくなるといった状態についても 人それぞれの個別具体的な事情があるのではないかと思ったからです。

 ですから ここ(この質疑応答の場)では あまりにもプライベートなことがらを述べるわけには行かず たとえ述べたとしても そのときの現在の情況を言っているに過ぎず けっきょく育ちや周りの人びとのことなどなど 相手の人となりを明かすことがらについて分からずじまいであろうと思うからです。

 いえ もっと端的には 顔の色あるいは目の表情が分かれば 話は早いだろうなと思うからです。
 それは ここでは 無理だと思います。(対面の場に移ろうという意味ではありません)。


 たとえば 次のようなコメントは かなり――憶測を交えて――踏み込んだ発言なのです わたしの中では。
 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
  ○ ときが満ちる。
  ☆ こういう言い方もよく聞きます。おそらくそういったことではないでしょうか。ご自身の中でいろんな要素がすでに準備をととのえて来ていたのではないでしょうか?

  って あんまりいい加減なことは言えませんが いやあ それにしても すごいですね。
 ~~~~~~~~~~~


 でも こういったことを前提としてでしたら あとは この場で話せる事柄を出し合って 考える時間をも――間合いとともに――じゅうぶんに取って 対話をすすめていけばよいとわたしも 考えます。それは 同じです。
 繰り返すなら この質問が主題とする事柄にかんしては 個人の個別の事情がからむでしょうから なかなか互いに話をすすめるには厄介なところがある。こう思っていて こういう意味でした。
 (いまの人は ワ゛-チュアルな場でのほうが 話しやすいでしょうか? わたしの若いときに パソコンもケイタイもむろんありませんでした)。

 ★ ~~~~
 直接このような話をすると、その場で答えを出さないといけないので、
 一方的にいわれている感覚になるのですが。
 ~~~~~
 ☆ 分かりました。時間はじゅうぶんありますので 今回も同じく ぼちぼちまいりましょう。

 この質問も 前言をひるがえしてこのあたりで閉めましょうかという段階になるまで 開けていることにします。

お礼日時:2011/08/18 11:18

凄いですね。


そういう風に感情的にならず、理論的に、親身に
的確に答えたいのですが。。

相手に対して、優しいなとも思いましたし。

そういう答え方が本当、難しい。

すみません、愚痴になりましたが。

日常でそういう風にきちんと私も答えたいです。

ご質問については再度考えます。
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この回答へのお礼

 もう閉めてもよいという――暗黙の内にでもの――合意が成るまで 開いています。

 どうぞ ごゆっくりと。

お礼日時:2011/08/19 00:51

何故生きないのか、


私自身は上昇思考が強いので、今以上の自分の知らない喜びの世界が人々がいると、
感じて生きている感覚です。
安定思考の方は家庭で、平凡に家族と暮らす事が生きている感覚なのかなと。
どちらにしても、人に受け入れられる。必要とされる事なのかと。

人に受け入れられない、必要とこれからもされないと感じた時に
生きないという選択になるのかなと。

ですが、たった2つの分類で、考えられるものではないなと。。
答えるために考えなかったら、気づかなかったですね。
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この回答へのお礼

 そうですね。――おっと まづはご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ○ 承認欲望
 ☆ これが人にはあると言われることがあります。
 ★ どちらにしても、人に受け入れられる。必要とされる事なのかと。
 ☆ ですね。たしかに まづは人と話が出来ているというところから 人は出発すると思われます。受け容れられていないとなると この出発することすらむつかしくなるかと考えます。

 この承認欲望を満たすために人は 一般に人びとを模倣するとも言います。同じように振る舞うようになるのだと。そしてさらには この欲望の満たし合いのような振る舞いが行き着くところは つねに承認されているという感覚を持ちたいためには 承認し合っているという状態を人為的にでも作り出す。
 ところが このとき相互の承認という状態を安定して保つためには 一人・つまりただ一人だけは その輪の中から排除するのだという見方をする理論があるようです。

 この《承認欲望←→排除の論理》が さらに行き着くところは? と言いますと ひとつにその例外と見なされる《ただひとり》を 周縁に追いやる。外に出してしまうまではしない。さりとて 仲間の輪の中に入れておくことはしない。境界に追いやり置いておく。《活かさず殺さず》。

 この排除される一人が それでもうるさく何のかんのと口を閉ざさずその言い分を言い続けるなら どうするか? 抹殺する。
 抹殺して そのあとには この《ひとり》を神聖なものとしてまつりあげる。そのためには 儀式をも定め 定期的にこれをおこなう。この世の屑として排除した者を その事後の処理としては 聖なる者として祀り上げる。これを儀式においても讃える。
 そのようにして 実際のところ《承認欲望を互いに充足し合うゲーム》は 安定して人びとの生活の安定をももたらす。と捉えられているようです。
 組織宗教としてのクリスチアニズム そこではいまも キリストが聖なるいけにえとしてあがめたてまつられる儀式が きちんとおこなわれいるようです。


 どうなっているのでしょう?

お礼日時:2011/08/19 23:44

それはあるでしょうね。



私も以前、自分達のした責任が取りきれないからと
退職に追い込まれた経験があります。

話そうとすると、ストーカーだと言われ、
承認されたいのであれば空気を読んで言う事を聞けと、
その人間心理を利用して、動かされた経験はあります。

それも、人間として仕方のない事なのでしょうか?
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この回答へのお礼

 そうですか。理論は 現実であるようですね。

 ご回答をありがとうございます。

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 話そうとすると、ストーカーだと言われ、
 承認されたいのであれば空気を読んで言う事を聞けと、
 その人間心理を利用して、動かされた経験はあります。
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 ☆ 集団あるいは組織というものは なかなか人間がひとりだけではどうにかしようにも その力が限られて来るようですね。
 どうも何はともあれその場や組織が全体としてともかくの秩序を見出したと見なせば その状態のほうが一人の人の表現の自由や存在じたいよりも守られるべきだと 感覚的に(つまりは あやまった感覚となったクセや習慣として)そこに落ち着いてしまうところがあるのでしょうか。

 ★ それも、人間として仕方のない事なのでしょうか?
 ☆ ここに哲学の出番があるのではないでしょうか。

 徳俵に足がかかるほど寄られたとしても そこから是非ともウッチャリをかけられるように 人びとが――三人寄れば文殊の知恵ですから――知恵を出し合って 日ごろから考え合って行くとよいと思います。
 へたのすけさんが 言わば一対一の場合の処方箋を出してくれましたが 今度は 二人以上の寄り合いにおいてどのように互いの自由や生活を守るか これを考え抜いて行かねばならないように感じました。

 ウッチャリなどと言わずに そして《和を以って貴しと為す》のは勝負ではないでしょうから 普段から話し合いを自由に密に推し進めていることが大事でしょうか。
 そしてその話し合いのためにこのカテと場があると考えますから 進めて行きたいと思います。
 クウキの問題も出ていますね。

お礼日時:2011/08/20 08:34
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