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 なぜ生きないのでしょう?




 感性か何かがちがっているのでしょうか?
 
 もしそうだとして マ(間・間合い)がちがって来ているので 感性が違う働き方をするのではないか?
 環境や情況から このマを見失わされたというような経験が原因にあるのではないか?

 よく分かりませんので おしえてください。

A 回答 (54件中51~54件)

ありがとうございます。


再度、わかりやすいURLまで。とてもためになります。

私ばかりがうっかり答えてしまい、申し訳なく、
知識はあまりのなさに愕然といたしますが、
あきらかに自分の日常に違いを感じます。

討論番組が威圧的に感じなくなった。
共に働く人の雑談においても、違う見方が出来るようになっている。
それぞれの現象の繋がりを考えられるようになった。

更に、今は責任を持つとはこういう事なんだな。と。
日本に格差が生まれはじめている理由がわかってきました。

自分でも、驚きですが、、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 そうですか。変化が出て来たんですか。正直 そこまでは考えていなかったですから 少しおどろきです。そういう方向を 一般的に言って 願ってはいました。

 おっと またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 というより――日から日へ変わるという言い方がありますが―― うかがうところによると 局面が大きく展開して来ているという印象ですよね。

 ★ それぞれの現象の繋がりを考えられるようになった。
 ☆ これなどは 一般的にも 大きな主題ですよね。《責任》も 大きな主題ですし。

 ○ ときが満ちる。
 ☆ こういう言い方もよく聞きます。おそらくそういったことではないでしょうか。ご自身の中でいろんな要素がすでに準備をととのえて来ていたのではないでしょうか?

 って あんまりいい加減なことは言えませんが いやあ それにしても すごいですね。
 ★ 日本に格差が生まれはじめている理由がわかってきました。
 ☆ ここなどは 鍋の中で大根や人参が煮立って来るのがわかるというように感覚的にも分かるというイメージがあります。わたしなどは だいたい結果を捉えて後づけであれこれ考えるわけですから。

 お互い なおまだ ぼちぼちまいりましょう。

お礼日時:2011/08/18 01:16

ふと、生きる事をやめたいと感じた時は、


自分では解決出来ない、元に戻せないと感じた時と
将来が今より良くなると想像が出来なくなった時です。

ご質問の内容を考える機会を持つ事こそ、
自殺防止に役立つと感じました。

人が答えるのではなく、自分に答えさせているので。

おっしゃる、間と、回答者様の内容が難しいですが、
想像する力が奪われた場合に起こるのでは?と感じました。
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この回答へのお礼

 そうなんですか。――またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――趣旨説明は 急ごしらえでしたので 少しのおどろきをもって ご回答を読みました。

 ○ マ(間。間合い) 
 ☆ は 《わたし》と世界とのかかわり(関係)そして交通(まじわり)と言います。
 《世界》には 自然環界。第二の自然とも呼べる社会。そして 身内から他人からさまざまな・そしてあらゆる人びと。これらが入ります。

 ですから この世界には いうなれば《わたし》にとっての《わたし》も入るという見方も出来るかも知れません。ただし 《わたしは わたしである》とヒラメキのごとく身も心もととのったときには 《わたしが わたししている》状態だと思われます。

 つまり 《〈わたしは わたしである〉というわたしが わたししている》なら マはふつうの状態であり それはおそらく最高の状態だとも言えるのではないでしょうか。

 さらにこの《わたし》が 身近な人たちや周りの人びとと 間合いよくまじわりが出来ていれば 《間違い》は起こっていない。こう見ます。




 さて 質問者としてのわたしが よく分からないのは なぜ生きないかの理由ですね。
 いくつか挙げてもらいました。

 その前に
 ★ ~~~
 ご質問の内容を考える機会を持つ事こそ、
 自殺防止に役立つと感じました。

 人が答えるのではなく、自分に答えさせているので。
 ~~~~~
 ☆ という指摘をいただきました。これは 虚をつかれたようで考えていなかったことでした。ありがたいことだと思います。(じつのところは たぶんお気づきのように 《なぜ生きているのか》という質問があったので どうもその問い方には答えにくいと思ったところから 考えついた問いだったのですが)。何だか 怪我の功名のようです。

 さて 挙げられた事項は もう引きませんが 
 ○ けがれ〔=褻(け)‐離(か)れ〕
 ☆ という言葉を思い浮かべましたので そのことに触れたいと思います。その言葉の事情や背景に関することがらです。
 
 褻(け)を離れるというのですが 褻(け)とは 日常性と説明されます。

 ○ ヰキぺ:ハレとケ
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC% …

 ☆ ここから 概説が得られますが たぶん《褻(け)》とは ひ(日)のことだと考えられます。
 
 ○ ひと(一)‐ひ(日) / ふつ(二)‐か(日) / み(三)‐か(日)
 ○ こ(日)‐よみ(読み=数える):暦
 ○ よって推測として 

   ・・・ hi(日) hu(経) he(経) ・・・
    ka(日)・・・ ・・・  ke(褻) ko(暦の ko )

 ☆ このようにハ行とカ行とにまたがって《日》という言葉が出来ているのではないか。母音を交替させつつ いくつかのかたちを採っている。

 わたしとしましては こんなお話で――決しておろそかにするという意味ではなく――お茶を濁して お礼に代えたいと思います。いかがでしょう。(お答えを催促しているのではありませんが)。

お礼日時:2011/08/16 22:45

ありがとうございます。


僭越ながら、ご存じでしょう、と申し上げたことは二文字の言葉です。
それは時代や思想が変わっても、人間としての共生の意識が失われない限りはあり続けるものです。

以前にヒラメキという主題のところで
ヒラメキとは、全体と個の感応において生じるものである、という事を申し上げました。
そこからなのですが
個から全体を通して、別なる個に働きかけること、が可能であると思われます。
その働きかけとは「祈り」です。

これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
その程度は様々なものがあると思われますが、客観的な事象を伴うことも否定できない場合もあると思われます。
客観的な事象を伴うこと、とは一般的に「奇跡」と呼ばれているものです。
私は、奇跡というものは無く、奇跡のように見えるだけなのだと思っています。

この辺のところは、意識も含めた感性や直観の働きと事象面との関係が深く解明されない限りは、非科学的な扱いを受ける事から、哲学的主題としては成り立たないものです。
それでも、「祈り」における有効性といったものを信じることができるのは、個人における体験に基ずいた実証からです。
その内容は、個人的な信仰や宗教的な面に及ぶものですので割愛させていただきたく存じます。


翻ってみれば、共生意識における感性的伝達を享受している立場においては、自殺という行為は実行されないものだと思われます。

現実世界との一体感を喪失して死に赴く、という悲劇を回避するためには
普段から、たとえわずかでも、祈りや、それに近いものの感性的伝達が必要だと思われます。
小さな思いやりの言葉や親切が、知らず知らずのうちに、人を救っているのかもしれません。
自殺防止の方法については、以上の観点から見えてくるものがあるのではないでしょうか。

以上、ご参考になさってください。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですか。案外 と言ってはおかしいですが この主題についてお考えであり かつまた実践的でいらっしゃる。
 あまり というよりは ほとんどわたしは こういう主題もしくは切り口では考えたことはなかったです。

 たとえば
 ★ 祈り
 ☆ にしても そのあり方が――解釈としてでしょうか――微妙に違うと知りました。
 わたくしの思う祈りは その内容はけっきょくすでに神には知られているというものです。なら何故わざわざ祈るのか? それは このわたしが祈っているという姿です。わたしは ここにいますとうったえています。
 極端なことを言えば その祈りがなくても その望む内容は すでに神が知っていて それこそ《奇蹟》のごとく人間関係や行為関係を塩梅よく配剤するかたちで 実現へとみちびく。と思われるものです。
 奇蹟は たしかに
 ★ 私は、奇跡というものは無く、奇跡のように見えるだけなのだと思っています。
 ☆ という見方に 賛同します。確率の少ない仕合わせ・めぐりあわせとして結果したことと捉えます。

 あぁ そうですね。
 ★ ~~~~~
 個から全体を通して、別なる個に働きかけること、が可能であると思われます。
 その働きかけとは「祈り」です。

 これは思念の現実化というような、狭い意識の妄想ではなく
 感性や直観の世界を介在とした直接的な働きかけです。
 ~~~~~~
 ☆ つまりこれは いわゆる自力の見方としておこなわれる祈りのあり方のように思われます。感化と言いましょうか。それはそれとして起こり得ると考えます。《願い》という言葉で捉えるでしょうか わたしの場合。願いとその実践ということですね。
 それは ただそばにいてやることでも そうでしょうし あるいはそのときに バカ話であってもどんな話であってもつきあうというようなことも含まれるのではないでしょうか。(あとで出て来ましたが こんななまっちょろいことではなく 昔に言う《みたま(魂)振り》のことかと考えました)。
 
 そうしますと わたくしの場合 祈りは その願いやその実践を人事を尽くすの人事と見て それを超えて何ものかのはたらきを祈りつつ俟つというような感じです。

 

 ○ なぜ生きないか?
 ☆ 少々きびしくまとめてみますと:
 1. 生きないと決めたあとの内面における意識や想像力のはたらきを分析していただきました。

 2. 特にそこには 生からの回れ右といった方向性があり そこにおいて意志は もういっぺん回れ右だというヒラメキをも受け取って 葛藤の生じるのをさらにおぼえるだろう。意識や想像がいろんな像を想い描くだろうと思われること。

 3. あるいはそこで 隣り合うこちらとしてどう対処するか。声をかける。感性にうったえる。

 4. ただし マ(間合い)が違っていたら けっこう厄介であろうと思われること。

 5. 祈る。――人事の範囲なる実践としての祈り。つまり 実際には《感性を介した直接的なはたらきかけ》でしょうか。むかし鎮魂には みたま鎮めと みたま振りがあったと言います。後者の奮い起こすといった感じの実践でしょうか。〔石上(いそのかみ)の布留(ふる=振る)の神社が 有名です〕。

 6. 祈る。――つまりあるいは そのような人事を超えてめぐりあわせの妙を願ってのごとく ともかく祈る。

 ☆ なのですが――こうなのですが―― どうもわれわれは 一方で存在としてはヒラメキを基にして言うのですが 生からの回れ右はしない またそうしたらさらに反対方向の回れ右をそのヒラメキが促すと思っており ただし他方で もし《何故生きないのか》と尋ねるなら それはその人の意志によると答えるものの なぜけっきょく回れ右をするのかは 分からない。かも知れない。
 おのれの心にも意志にも存在じたいにもさからうという意志を持ってしまうということだけしか いまのところ わたくしには分かりません。


 もう一日あけています。

お礼日時:2011/08/16 22:12

挨拶が遅れました。


ブラジェロンヌさん、お元気でなによりです。
少し追加します。

「葛藤」までのことは先に述べました。
葛藤の果てに死を選ぶという過程の解明が大切だと思われます。
そこから自殺防止につながるヒントが得られるのではないかとも思われます。

私は友人を自殺によって失っています。
後日判明した、死の直前の行動内容は、死に向かって冷静に準備を整えるという驚くべきものでした。
なぜ?そうする事ができたのでしょうか。

苦の消滅を肉体の消滅によって計ることは正しい、という葛藤をまじえた認識の段階から
死は意識においての生である、という転換点を迎えてしまうように思われます。
死への過程を築くことは、新たなる生の目標の設定であり
具体的な実行を進めることが、意識的に生きることそのものである・・・というような段階へ移行していくように思われます。

ここにおいては、苦の消滅とは、もはや前提に過ぎない場合もあると思われます。
また、感性の働きは、意識による具体的実行の発令に従うという形で、その能動性を死への実行力として転化されてしまうもののようです。
しかし、感性の自由さを意識が完全に奪い去ることは出来ないものである、ことから、死へと進む状態を押し留められる可能性もあると思われます。

以上は、死に至る暗い過程への簡潔な推測です。
自殺を押し留めるためには、理屈や概念ではなく、感性に強く訴えるものが必要だと思われます。

私が友人に・・・
〇〇〇ちゃん、どうだ一杯楽しく飲みにいかないか?
と声をかけていたら変わっていたかもしれません・・・
・・・・・

暗いところから見えてくるものもありますが
自殺防止の方法の実際面においては、できるだけ簡単で感性に訴えるものが有効のように思われます。
すべての手立てが無くなった時においては、相手の心に直接働きかける方法といったものが残されているように思います。
それはブラジェロンヌさんもご承知でしょう。
非科学的とはいえ、私はその有効性を信じているものです。
それではご参考になさってください。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん 催促に応じていただきご回答をまことにありがとうございます。

 そうですね。
 たしかに実際問題としては 
 ★ 自殺防止につながるヒントが得られるのではないかとも思われます。
 ☆ ということも大事ですね。哲学も欲張ってよいはずです。

 ★ ~~~~
 すべての手立てが無くなった時においては、相手の心に直接働きかける方法といったものが残されているように思います。
 それはブラジェロンヌさんもご承知でしょう。
 非科学的とはいえ、私はその有効性を信じているものです。
 ~~~~~~
 ☆ こちらから先に応答してまいりますが これは あらゆる可能性を考えて 相手に合った言わば虚構の世界をこしらえて それをこの現実世界との橋渡しとするといったことでしょうか。現実世界をしっかりと見させ自覚しうるように しかもそのために現実のことよりも それに代えて 物語の世界を相手に示す。
 しかも そこであとは――互いに登場人物としてのように―― 思いっきり何であっても自分がよいと思うせりふを投げかける。
 まぁ 虚構の世界をこしらえることは 無しで済ます場合もあるでしょうが。

 ★ 以上は、死に至る暗い過程への簡潔な推測です。
 ☆ なるほど。すべては方向が回れ右してしまっているかたちなのですね。しかも逆にその方向において自分の想像の世界をもこしらえて行く。その作業がむしろ意志や意識の力強い作用だと錯覚してしまおうとしている。

 途中ですが お友だちは残念でしたね。あとに残されてしまうというのは これも無念であり さぞつらい思いをされたことと思います。
 わたくしには 幸か不幸かそういう経験はないのです。
 それにしましても へたのすけさんには いろんな実体験がおありなのですね。ヒラメキ。蛇女房。

 もしわたしだったら どうするかと考えましたが どうでしょう まづは相手を引っぱたくか 胸倉をつかんで揺さぶるかするでしょうか。
 感性にうったえすぎましょうか。



 でも考えてみれば なぜ生きないか? この問いは むしろ答えがないかも知れません。ヒラメキが おそらく生きる側へ引き戻します。生きないという決断をしたという場合には この引き戻しの力にも逆らって――つまりは 意志のちからで つまりはタナトスだか何だか知らない・死への欲望によるのではなく―― 回れ右をもう一回しなさいと言ってやらねばならない回れ右をしてしまう。こういうことでしょうか。なぜか。
 そういう問いとしては 分からない。のでしょうかねぇ。
 
 分からないと言うと それこそタナトスという無意識の作用だと とんちんかんなことを言われそうですが 分かっていることは それははっきりとそれをえらぶということだと思います。意志によってそうするのだと。タナトス説は インチキだと考えます。
 この世界に身も心もゆだねたなら ヒラメキによってこの現実世界に戻って来ると思います。

 でもそういう話に対して マ(間合い)が違っていたとしたら むしろ聞く耳を持たないことになるかと思います。そういう問題があり むしろその方面において――つまり マの違いはいかにして起こるかについて―― 探究するのも ひとつの道であるかも知れません。


 そうとう口から出まかせで言っていますが 方向ないしわが主観の志向として そんなことを思います。
 へたのすけさん ありがとうございました。
 この種の主題については あまり長居しないがよいと思いまして。もう一日あけています。

お礼日時:2011/08/16 00:13
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